第37話

「コーチン大丈夫?」

 悪寒おかんに震え、呼吸が浅い。足元もふらついでる。顔が真っ青なのが自分で分かる。

 女性たちの前、特に太田先生の前でこんな無様な姿をさらし、俺のもともと乏しい自尊心は残高ゼロに限りなく近くなっていた。

 すぐ横で匂坂部長が、先ほどまで乗っていたリムジンの感想を感激しながらしやべっていた。誰かと会話してるわけじゃなく盛大な独り言のようだが、あまり気にしていないだろう。

 リムジンだろうが救急車だろうが、俺にしてみたら車酔い製造機にすぎない。

 豪華リムジンによる30分以上の拷問に耐え、俺たちは中之森先輩の家に着いた。とりあえず第一関門は通過だ。

 そこは、俺が想像していた「お金持ちの家」が、ミジメに感じるほどの豪邸だった。通りから家が、いや邸宅というべきか、どちらでもいいが外から建物が見えないくらいに敷地が広い事から推し量って欲しい。こんな場所が俺の家と地続きの世界に存在してる事すら信じ難いのに、今からその中に足を踏み入れようというのだ。願わくば、これが俺の人生の頂点で無い事を。


「中之森、まずご両親に挨拶すべきと思うのだが……」

 建物に見下ろされる威圧感に抗いながら、太田先生は教師としての責務を果たそうとしたが、中之森先輩はいつもの調子でクールに言った。

「2人とも仕事よ。それにいつもこっちにはいないわ。気にしないで」

 先生は何事か言いかけて、黙り込んだ。気にしないでと先輩は言ったが俺もやはり気になる。ご両親と一緒に暮らしていないという事なのか? この広い屋敷で?


 部室からの荷物の持ち出しにも手伝ってくれた、もみあげの渋い運転手の人(丹波さんというそうだ)に案内され、屋敷の中に通された。靴のまま家に入るというのはなんとも落ち着かないが、ホテルだと思えばいいのかもしれない。匂坂部長はさっきから執事がいたメイドがいたと感激しっぱなしでやかましい。


 中之森先輩が、意外なほど地味な私服に着替えて現れた。

「ここよ、入って」

 通された部屋に1歩入って絶句する。広さは通常の6畳間を3倍くらい、いや教室の半分くらいと言うべきか。建物の外観、玄関や廊下の調度類から想像し得る内装が一切無い、そこは完全な実験室だった。正面の壁際には流し付きの広い実験卓が設置されており、卓上にはガスバーナーまである。左側の壁にはスチール製の薬品棚が並び、当たり前のように白色または茶褐色の薬品のビンが並んでいる。そして決定的なのが床だ。絨毯じゅうたんでもフローリングでもない。もちろん畳なわけがない。耐薬品仕様の合成樹脂だ。


「なにこれスゴイ! デシケーターもピペットも冷却管もある! こっちは乳鉢にゅうばち! 電子天秤でんしてんびんに、えっ? オシロスコープまであるじゃない! あ! 実験室から避難させたコーヒーサーバーとか全部ここにある!」

 匂坂部長がここでも感激して走り回っている。太田先生も驚いた表情で薬品棚に近づいていく。

 その反対側、入って右側の壁には、学習用の机と本棚があった。机上にはノートパソコンに電子辞書、そして学習参考書が並んでおり、そこだけは一般の高校生の学習机と同じだった。正直、少しほっとした。

「私の部屋よ。念のために言っておくけど、寝室は別にあるから」

 そう言いながら、中之森先輩は学習机へと向かう。

 薬品棚に気を取られている匂坂部長や先生は気づかなかったが、俺は見てしまった。机の上にある写真立てを。中之森先輩が参考書の間に隠す直前に視認できた。写真には長身の青年男子と並んで、中学生くらいの先輩が写っていた。両腕を後ろに組んで、幸せそうにニッコリと笑って……。


 見てはいけない物を見てしまった……理由は分からないが直感がそう警告する。俺はなるべく不自然にならないように体の向きを変え、みんなと同様に薬品棚をながめるフリをした。


 薬品棚の中を太田先生が凝視していた。薬品を大量保有している女子高生は珍しいだろうが、薬品そのものがそんなに珍しいわけでもないだろうに。ラベルに書かれている薬品名は俺でも知っている物が多数あった。

「コーチン、気づいた?」

 横からリョーコがささやく。何を気がつくというんだ?  次亜塩素酸ナトリウムとかエチルアルコールとか、学校でもあっただろ?

 そりゃこっちの方が容器が新しいし、同じ製薬会社の容器ばかり並んでいるけど、それがどうし……あッ!

 全て中之森製薬工業とラベルに記載されている! 中之森……そういう事か。この広い屋敷、学校設備と同等の薬品と機材の所有、いろいろと納得した。


 扉がノックされる音がした。全員が振り返る。

「丹波です。コーヒーをお持ちいたしました」

「入って」

 扉が開くと、コーヒーカップを載せたトレイを手にしているメイドさんと、椅子を人数分用意してくれた丹波さんと執事さんがいた。よかった、座る場所なかったんだこの部屋。

「サオリン、このカップあなたが選んだものじゃないわね?」

 実験卓の上に置かれたコーヒーカップに、即座に匂坂部長が断言する。見るからに高価そうな装飾を施された陶器のカップなのだが。

「そうよ、どうして?」

「だって陶器は薄いし開口部は広いし、これじゃ放熱させるためのデザインだもの。サオリンならもっと合理的に選ぶはずよ」

「匂坂! 少しは自重しろ!」

 丹波さんが「ほぉ」という顔をして匂坂部長を見直す。

「お嬢様の事をよくご理解していただき、ありがとうございます」

「うん、気にしないで。あと私、食べ物に好き嫌いないから」

「匂坂!」

 匂坂部長のセリフに、丹波さんがたまらず喉の奥でクククと笑う。

「お食事はいかがなさいますか? ご入用であれば食堂に用意いたしますが」

「いえ、ご好意はありがたいのですが、私どもは打ち合わせが終わり次第帰りますので、お気遣い無用です」

「よろしいのですか? お嬢様のお客様にはきちんとおもてなしするようにと、旦那様からも指示が出ておりますので、何らお気になさらなくとも構いませんが」

「ねーねー、何があるの?」

「一通りお出しできます」

「やめんか匂坂!」

「食べていって……」

 え? と思い、声の主を皆が見る。

「食べていって……お願い……」

 中之森先輩だった。この人からお願いされるとは考えた事もなかった。

 太田先生は暫く考えた後、丹波さんにこう伝えた。

「沙織さんの申し出に従い、食事をいただきたく思います。ただ、私どもも打ち合わせで参りました関係上、食事に時間を多く割くわけにはいきません。ですので話をしながら食べられる、サンドイッチのような食事をお願いしたいのですが」

 太田先生のすぐ横で、表情だけで「え~!」と無音で抗議した匂坂部長は、先生に後頭部をパーンと叩かれてうずくまった。

「それと、今から30分間ほど、この部屋に誰も入らないようお願いできますか?」

「承知しました」


 丹波さんやメイドさんたちが一礼して部屋を退出していってから、太田先生は深呼吸を1つして宣言した。

「これから説明する内要は、爆発物などよりはるかに危険だ。これが表に出たら間違いなく化学部はつぶされる。お前たち、これから説明する事、他言無用をちかえるか?」

 意味が判らないまま、うなずく先輩2人。

「堀川、説明、できるか?」

 さあ第二関門だ。これは自分で説明しなくてはならない。先生にさせるわけにはいかない。

 なんだけど、心臓がバクバクいってる。落ち着け俺。今のところ予定通りなんだから。

 俺は目の前のコーヒーをガブッと1口飲んだ。苦みと酸味が口いっぱいに広がる。砂糖無しのブラック。気合い入れるには丁度いい。

 俺は席を立った。かばんの中から出したモノを意を決して卓の上に置く。

 匂坂部長が両目と口をまん丸にして驚く。

 大抵の事に動じないはずの中之森先輩が、かすかな悲鳴に似た音を立てて息をのんだ。

「これが、弾着の仕掛けに必要不可欠な材料です」

 全員の視線が、卓上に置かれた生理用ナプキンとコンドームに釘付けにされていた。


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