第33話

 外はすっかり暗くなっていた。

 俺は1人、帰宅するところだ。

 帰りの電車は家路に向かう学生やサラリーマンで混雑していた。


 胸の痛みを感じながら、2年前の出来事を思い出していた。

 あの日も、こんな風に混雑していた夏の夜だった。


 あの頃は、所属している空手の流派の大会に向けて、毎日稽古けいこに励んでいた。毎朝6時前に起きてはランニングと基本動作、それから朝食をって登校していた。それが別に大変だと感じた事もなく、完全に生活と一体化していた。同学年の人間よりも背が低いので、それを補うために人一倍努力した。努力は身を結び、大会では常に上位だった。先輩たちを目標にし、どれだけ高く蹴れるかを競い、キツイ股割りもこなした。

 拳ダコや握りダコが当たり前の手のひらになった。俺が先輩達を目標とするよう、自分も小学生たちの良き目標でありたいと本気で思った。道場の外での立ち居振る舞いにも気をつけた。自分の道場、自分の黒帯を裏切る事の無いよう、自分を律していた。

 そのつもりだった。


 あの日もリョーコと一緒だった。

 2人とも夏の大会を控え、都内の本部道場で稽古を受けた帰りだった。

 あの時、俺たちは中学2年生。2人とも幼児の頃から空手を学んでいて、空手歴は義務教育を受けた時間より長かった。遊びの延長で、親父から知らないうちに空手を学んでいたのだ。正式に道場に通ったのは、2人とも小学生になってからだ。

 昔から身長が俺より高いリョーコは、いつも生意気な口をきいていた。あの日も帰りの車内で、つまらない理由でケンカしてしまっていた。前日の夜にテレビで放送された映画の内容がケンカの原因だったと思うが、よく覚えていない。


 ケンカした俺たちは、意地になって口をきかず目も合わせない。お互い背を向けながら混雑した車内で立っていた。

 電車が駅に着くたび、乗客の数が増える。俺とリョーコは次第に車内の位置が離れていった。

 リョーコとのケンカはいつもの事だ。謝る気持ちなんか無かった。どうせ長くても数日で元に戻るから、リョーコの顔色をうかがうつもりも無かった。

 だから、夜の車内の窓ガラスに、リョーコの顔が映ったのを見ても、すぐに視線を逸らしてしまった。

 だいたいリョーコは生意気なんだ。半年ほど俺より誕生日が早いからって、何かとお姉さんぶった態度をとる。学年は同じでお互い一人っ子なのに理不尽極まりない。

 でも、視線をらした時、なんだかリョーコが泣きそうな顔をしていたような気がしたのが気になった。気の強いリョーコに限ってそんなはずはない。俺とのケンカだって、これまで限りなくやってきた。今回だってそんな深刻なケンカじゃないはずだ。

 それでも一瞬見た表情がどうしても気になった。直接リョーコの顔を見たくなかったので、窓ガラスに映るリョーコの姿を目で追った。


 信じられないことに、本当にリョーコは泣きそうな顔をしていた。今までそんなリョーコの顔を見た事など無かったから俺は驚いた。

 窓ガラスの中のリョーコと目が合った。リョーコはんだ唇を開いて、声を出さずに口を動かした。

「タ、ス、ケ、テ……」と。


 車両反対側の扉脇に立つリョーコの背後に、男がピタリと張り付いていた。大きな紙バックが男の手元を隠している。男の腕はリョーコの腰に延びていた。


「どけ!!」

 俺は怒鳴り声を上げて突進した。理屈もなく怒りが身体を動かした。事実を確認する必要などない。リョーコがあんな顔をするはずがない。していいわけがない。

 ただ、かすかに残った理性がつぶやいた。

(狭い……)


 猪突ちょとつする勢いは幾人もの乗客とぶつかりがれた。他の乗客が障害となり回し蹴りなどは使えない。しかし怒りで突進が止まらない。

 一瞬の判断で、俺は猿臂えんぴひじ)を男にぶち込んだ。男は俺に気づき振り向いたため、肘は男の左脇腹にめり込んだ。空手の技を一般人に使ったのは生まれて初めてだったが、躊躇ためらいも罪悪感も無かった。


 だが、男は倒れなかった。すぐ側にあった手摺てすりに背中がぶつかったためでもあるが、何より体格が違い過ぎた。男は俺より頭2つほど大きかった。怒りに目がくらんでいたため、体格の違いにそのときやっと気づいた。

「何すんだよおい!」

 男の右腕が伸び、俺の左肩口をつかんで押す。俺は自分が13歳の子供なんだと痛感した。膂力りょりょくの差がありすぎる。それに男が意図していないにせよ、男の長い腕で俺の身体を遠ざけたため俺の突き蹴りがボディに決まらない。

 だが俺は止まらなかった。怒りで暴走した俺は、男の脚を滅多蹴めったげりにした。危険なため試合では使えない膝関節への蹴りを集中して入れ続ける。男のビンタが俺の顔面に命中し、鼻の奥がきな臭くなった。頭がグラリと揺れ、脚元がふらついた。その時俺は理解した。この戦いには「参った」が存在しないのだ。その認識は恐怖だった。どちらかが完全に戦闘不能になるまで戦いに終わりが無いからだ。

 後悔が頭をよぎる。俺はこんな奴に負けるのか? こんな奴にやられるのか? それでいいのか?


 いい訳無いだろ!


 俺は意味不明の雄叫びをあげ、一切の防御を捨てた。両手の握りを中指の第2関節が突き出す中高一本拳なかだかいっぽんけんにして、男の下腹部に突きを連打した。手摺りが男の背後にあるため、男には逃げ場が無い。男も何事か叫びなぐってきた。奥歯がきしむ音がする。口の中に鉄の味が広がる。クソ負けるか!

 蹴りと突きの連打が効いたか、ついに男の膝が折れた。よしこれで次は顔面だ!

 いきなり左上腕に、鈍い痛覚が走った。続いて生温かい感覚が左腕を流れる。何が起きたのか分からなかった。

 誰かの短い悲鳴が聞こえた。何かが左膝の上にポタポタと滴れてくる。

 いつ手にしていたのか、目の前の男の震える右手にはカッターナイフが握られていた。刃先には血がわずかに付着している。

 俺の左腕からしたたり落ちた血が、足下にプールを作っていくのを、俺は信じられない気持ちでながめていた。なぜ俺は、相手が素手だと思い込んでいたのだろう。

「お前が、お前が悪いんだぞ!」

 醜く顔を歪めながら目の前の男がわめいている。カッターナイフを突き出してきた。

 俺は死ぬのか?

 死ぬのか?

 死ぬ?


 イヤダ!


 お前が死ね!死ね!死ね!死ね!

 死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!

 死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!

 死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!

 死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!

 死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!



 両方の拳の先から、鈍い痛みが交互に脳に届く。


 ガツン、ガツン、ガツン、ガツン


 痛みを感じているならまだ大丈夫だ。

 大丈夫? 何が大丈夫なんだ?


 何かが両腕の動きを邪魔している。動きを止めると俺は死んでしまうんだ。邪魔しないでくれ。


 俺の左頬が濡れている。

 汗?

 それとも、血?


 声が聞こえてくる。よく知ってる声だ。


 ……テ…………メテ…………ヤメテ…………


「もうやめて!」


 我にかえった。

 俺は、あの男に馬乗りになり、男の血まみれの顔面を殴り続けていた。

 リョーコは泣きながら俺の背後から抱きつき、腕に手をまわして、動きを止めようとしていた。

 電車は停車していた。ドアが開き、駅員たちが俺を囲んでいた。


 その夜、俺たちは警察署で、迎えにきた俺の親父とリョーコの親父さんに引き取られた。

 俺が殴った男は全治3カ月の重傷だった。だが、男が所持していたデジカメとケータイから、警察が追っていた過去の小中学生の女の子に対する事件の証拠がいくつも出てきたため、俺の傷害は事件として扱う事なくオトガメナシとなった。俺が未成年者である事も理由の1つらしい。リョーコの親父さんは俺に何度も頭を下げていた。


 数日後、俺は、道場をめた。

 自分の中にいる制御できない自分、いつ暴走するか分からない化け物がいる事が、怖くなったからだ。

 いや、それだけじゃない。

 俺はあの時、はっきりと「死ね」と思った。殺意があった。相手が死ななかったのは、単に俺の力が弱かったからだ。

 俺の身体が大きくなってまた制御不能になったら?

 俺と同じくらいの大きさの相手と戦って暴走したら?

 自分が怖かった。

 今まで通りに、自分と相手を信頼して、突き蹴りの攻防をする自信が完全に無くなっていた。

 道場で稽古する資格が無くなった、そう感じていた。


「恐怖を感じた、それはいい事ですよ」

 師範は俺にそう言った。

「実戦を経験した後、自分の力に酔ってしまう人が一番危険なんです。酔ってしまうと、相手の力量を見誤る事に繋がり、戦いに敗れます。実戦の敗北は死に直結します。あなたはもう、解っているでしょう」

「……押忍」

「あなたが自分の心に納得したら、またいつでも帰ってきてください。ここはあなたの家なんですから」

「押忍!」

 涙が止まらなかった。

「あなたは友人の尊厳を戦って守り抜いたんだ。あなたは私の誇りです。では神前に礼をしましょう。あなたの稽古は終わりです!」


 あの日を境に、俺の空手漬けの生活は終わった。それまで生活の全てを空手に関連付けていたため、生活内容を変えるのは容易な事では無かった。だが、変えざるを得なかった。空手を思い出す事が辛かった。空手を忘れたかった。

 俺は受験勉強に逃避した。勉強で頭をいっぱいにする事で空手を忘れようとした。

 空手に関する事を考えても苦しみを感じなくなるまでに、それから1年かかった。リョーコが道場を辞めたのを知ったのも、その辺りだ。


 苦い記憶を、深呼吸と共に吐き出した。

 自宅に帰り着いた俺は、2階の親父の部屋のドアを叩いた。

 応じる声がした。ドアを開けると、親父は自室のパソコンの前で、これからスキャンするのであろう古いB5判のアニメ雑誌を読んでいた。

 俺は親父に言った。


「教えて欲しい事がある」

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