第29話

「先輩!」

 1階まで駆け降り、教務棟隣の図書館に飛び込んだ俺は、静寂せいじゃくを愛する館内の皆様からの非難の視線を一身に浴びる事になった。

 中でも中之森先輩の硬質の視線は別格で物理的な圧力すら感じたが、それよりも久しぶりに感じる「今まで通り」の有り難みの方がまさった。

「ちょっと! コーチンひどいじゃな……」

 少し遅れて飛び込んだリョーコも、俺と同様に無言の視線の集中砲火を浴びた。

 中之森先輩は軽く溜息をつき、読みかけの本を閉じて席を立つ。

「出ましょう。迷惑よ」


 校舎中庭を歩きながら、俺とリョーコは、太田先生から聞いた話と、先ほど匂坂部長のケータイに電話したが部長さんが出なかった件を中之森先輩に伝えた。救急車の事は、結局話さなかった。

「ありがとう、彩香あやかの事を心配してくれて」

 中之森先輩は部長さんを彩香と呼ぶのか。

「でも彩香なら大丈夫、心配要らない。彼女は強いから。私なんかよりずっと……」

「これから、どうなるんでしょう?」

 リョーコが漠然ばくぜんとした不安をそのまま口にした。

「『どうなる』というのは、化学部の事? それとも彩香? 私たち全員の事?」

「その全部です……」

「彩香の事は今言ったように心配する必要は無いわ。今日も学校来てたわよ。なんだかボーッとしてたけど。化学部に関しては、学校に取り上げられても仕方ないわね」

「そんな!」

「あなた方が化学部に対して、そんなにも愛着を持っていたとは思わなかったわ。でもね、守りたい物って何? 実験室や準備室を好き勝手に使えた権利? 物理的な場所そのもの? 実験は道具さえそろえば何処どこでだってできるわ。場所は3年間使用する権利があるだけ。薬品も器具も学校の物よ、勘違いしないで。それに野球部みたいに、何かの大会に出るためにどうしても部活動の存続が必要というなら分かるけど、私たち違うでしょ」

 意外だった。もともとクールな人だったが、クール過ぎて冷たい感じすら受ける。俺は中之森先輩に問いかけた。

「先輩は化学部を守りたいのかと思ってましたが、違うんですか? 匂坂部長にもっと自由に実験させてあげたいんじゃないかと思ってました。俺は化学部が好きでした。いや、正直言いますが、最初は好きでもなんでもなかった。リョーコに引っ張られて成り行きではじめました。でも、俺は匂坂部長や中之森先輩、リョーコに太田先生、みんな好きです。この前の雨に降られた後にみんなで過ごした時間、あれはとっても勉強になったし、何より楽しかった。俺にとって大切な記憶です。邪魔されたくなんかないんです。匂坂部長だってお父さんとの記憶を大事にしているから実験を楽しんでいるわけで。俺の言ってる事おかしいですか? 先輩はなんだかクール過ぎます。匂坂部長に対してももっと心配してあげたほうが……」

「バカにしないで!」

 ドライアイスが爆発した。

「私に、大切な記憶が無いとでも思ってるの! 彩香の事だって、私が誰よりも一番理解してるわ! ふざけないでよ!」

 地の底から、液体窒素のマグマが噴出したようだった。

 黒い瞳は更に硬度を増し、全ての物を拒否しているかに見える。触れてはいけないものを触れてしまった後悔におびえ身がすくむ。自分が数歩後ずさりしていたのを、植え込みの縁石を踏んではじめて気づく。

「みんな自己の保身ばかり考えているクセに。先生たちだってそう。あなたが実験室で流血した事だって、本来なら事故として報告すべき事案のはずよ。その後のストッキングの件だって、彩香の事をかばったんじゃなくて、問題を握りつぶしただけなんじゃなくて? 他人のためだなんて綺麗事よ。はっきり言ってウソね。」

「そんな事ないはずです。現に八木先生は化学部を守ろうと頑張って、その結果入院してしまったそうです。太田先生だって、きっと化学部の取り潰しの口実を与えないために、事故の報告をしなかったんだと思います。みんな自分のためなんかじゃなく……」

「……言い過ぎたわ。忘れて」

 そう言って、中之森先輩は背中を見せて歩きだした。内面はともかく、外見上は感情が消え失せたように見えた。

「私、帰るから」

 振り返る事なく、そのまま歩き去っていった。


 怖かった……。

 リョーコが大量に息を吐き出した。リョーコも怖かったみたいだ。

 俺は、生意気な事を言ってしまったんだろうか。間違っていたんだろうか。

 時刻は夕方だが、夏至げしを過ぎたばかりで空はまだ明るい。

 息が詰まる感じが消えなかった俺は、背伸びをして深呼吸をして……、息が止まった。

 校舎屋上の手すりに、1人の女子生徒の姿が見えた。遠くを見たままじっと動かないでいる。ウェーブのかかったセミロングの髪、間違いない。匂坂部長だ! まだ学校にいたんだ! では、ケータイ鳴らしても出なかったのは何故だ? 1人で屋上にいる理由は?


 ひとつの可能性に思い至り、体毛が逆立った! 俺は鞄を放り出し校舎に戻る。背後でリョーコが何か言ったが気にしていられない。

 靴を脱ぎとばし上履きにき替えず校内に突進した。ホコリで滑りそうになるのを懸命にこらえながら廊下を走り階段を屋上まで駆け上がる。間に合ってくれ!


 汗だくで屋上の入口にたどり着き、鉄扉を開けた。派手な音がしてヤバイと思ったが仕方ない。

 匂坂部長は先ほどと同じ姿勢で手すりを掴んでいた。今の大きな音にも振り向かない。俺は、額から流れる汗をそでぬぐい、呼吸を整えた。

「匂坂部長……」

 反応が無い。俺は、自分を落ち着かせるためにも静かに歩み寄り、もう一度声をかけた。

「部長……もう遅い時間ですから、帰りましょう……」

 匂坂部長の肩がピクリと動いた。

 ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、匂坂部長が振り返る。その長い睫毛まつげふちどられた瞳は、ここではない何処か別の何かを見ているかのようだ。

 背後の音でリョーコが追いついたのが分かった。そちらには振り返らず、俺は匂坂部長の目を見て、少しずつ匂坂部長へと手を伸ばした。

 匂坂部長の瞳の焦点が、少しずつ合いはじめる。夢見るような表情が徐々に変化し、大きな瞳に涙がにじみ出してきた。

「……どうして……どうしてなの……」

 いきなり匂坂部長が俺の胸に飛び込んできた。反射的に抱きしめる。力を入れれば折れてしまいそうな柔らかな身体と、不釣合いに大きな弾力の胸の感触を両腕の中に感じて少したじろぎながら、なぜか雛鳥ひなどりを包み込んでいるようなイメージがわいてきた。匂坂部長は腕の中から俺の目を見上げ大粒の涙をこぼしながら叫んだ。

「どうして全部持っていっちゃうのよ硫酸ウラニル! 見つけた人には1割くれるのが普通でしょ!」

 そっちかい! 全身の力が抜けた。見るとリョーコも床にへたり込んで口をあんぐりと開いていた。

 俺の胸に顔をうずめてワンワン泣いている部長を完全に持て余して、俺は少し途方に暮れた。どうしようこれ。

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