第27話

 試験前の職員室は、生徒が簡単に入るわけにはいかない。作成中の試験問題などが机上にあるからである。太田先生に用件がある旨を伝えて呼び出してもらい、入口で待つ。

 出てきた太田先生は、表情こそ明るかったものの、疲労の色が全身に濃く現れており、胸が痛んだ。

 宝塚の男役のような美しく溌剌はつらつとした印象が強い太田先生が、こんなによどんだ空気をまとっているというのは、見ていてたまれない。それはリョーコも同じ感情を持ったようだ。

 俺たちの突然の訪問を迷惑がらずむしろ喜んでくれた先生は、ここでは話がしづらいからと校舎の屋上に移動した。

 屋上の出入口の脇、日陰になっている場所まできた。太田先生は屋上の手摺りに手をかけ、遠くを眺めている。時折心地よい風が吹き、先生のセミロングの髪が舞い上がる。

「お前たちが来たのは、宿題が出来たから、では無いよな」

 太田先生は、こちらを見ずに言った。風に乗って吹奏楽部の練習の音が聴こえてくる。

「お前たち、どこまで知ってる?」

「どこまでって、新聞に載った事くらいしか……」

「先生まさか、化学部無くなっちゃうんですか?」

 太田先生はゆっくりと振り向いた。先生の顔には、これまで一度も見せた事のない、力なく自嘲じちょうめいた笑みが張り付いていた。

「この学校が、スーパーサイエンスハイスクールに認定されているのは知っているな。だから化学を研究する学生の部活動が無くなるなんて事は無い」

 少しホッとしたが、続けて先生が語った内容は、俺たちがタダの世間知らずのガキだったと痛感させられる代物だった。

「スーパーサイエンスハイスクールになるという事は、国から数千万のカネが貰えるという事だ。だから妙な事件なぞ起こして、カネが貰えなくなる事態だけはなんとしても避けたい、と考える連中もいてくる。昨年から何かと問題起こしている化学部、これをなんとかしたい、なんとかするべきだ、そう考えた連中は、今回の騒動に乗じて、この学校の理系の部活動、生物部、物理部、地学部、化学部、この4つを1つにまとめて『科学部』として再出発させるべきと主張している。これが、現在の我が校の麗しき状況だ」

「……でも、でも先生、名称が変わっても、活動はできますよね?」リョーコが質問する。

「顧問も部長も変わるんだ、今まで通りという訳にはいくまい。いや、それが目的なんだよ」

「そんな……」

「それ変ですよ。だって、放射性物質を発見したのは俺たち化学部の功績ですよ。むしろめられていいくらい。責任を取るべきは薬品の管理体制が甘い学校の方で、なんで生徒が責任取らなきゃいけないんですか!」

 太田先生の眉間に深いしわが刻まれ、口元は皮肉の笑みにゆがんだ。

「そう、それが正論だ。だが正しい事が正しく通用する世の中では無いのだよ。責任者と呼ばれる立場の人間ほど責任を取りたがらないものだ。お前たち、よく覚えておけ」

 ショックだった。俺もリョーコも、何も言えず黙り込んだ。

「しかしな、堀川と同じ主張をする教師がいないわけではないぞ」

 太田先生は少し明るい表情で言った。手品を目撃した子供の目をしている。

「その急先鋒が八木先生だ。職員会議で並み居るお歴々を前にして、『責任は10年間化学部の顧問だった自分と歴代の学校長にあって、生徒に責任を取らせるなぞ教育の敗北だ』と堂々と主張してゆずらなかった。あれはお前たちに見せたかったな。人は見かけによらないぞ! 人の本質は、危機的状況に陥った時に出てくるものだな。ホントあれは痛快だった!」

 意外だった。何の役にも立たない爺さんと思っていた八木先生が、体を張って化学部をまもろうとしていたなんて。

「でも、心労がたたって、持病の胃潰瘍いかいようが悪化してしまったがな。治療は1ヵ月ほどかかるらしい」

「納得いかないんです! それって全部学校の都合じゃないですか。誰も疑問に思わないんですか? 誰かに迷惑かけたわけじゃないんですよ!」

「昨年は騒動だけで済んでいたからまだ良かったようだ。今年は外部の人間を負傷させてしまったのが、立場を悪くしてしまっていて……」

 俺とリョーコは顔を見合わせた! 外部の負傷者というのは、入学式の日の俺の事か!

「あ、お前たちが悪いわけではない。だからそんな顔をするな。それに、まだ何ひとつ決定ではないのだ。私もできるだけの事はする……何か……できるはずだ……」

 まだ仕事が残っているからと、太田先生は屋上出入口に向かう。疲労が先生の背中を丸くさせている。先生が自覚せず発したかすかなつぶやきが、風に乗って耳に届いた。


「ダメだな、私は……」

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