第4章 分裂

第26話

 6月も後半となり、陽射しも日増しに強くなってきた。校舎壁際に設けられた緑のカーテンでは、ゴーヤとヘチマが競ってつるを伸ばしている。

 学生にとっては、楽しい夏休み前の苦い苦いお薬である期末試験が目の前に迫っていた。教室では教師たちが、魔法の呪文「ここ出るからな」を使って、日頃散漫な生徒たちの集中力を短期的に復活させている。


 この数日間、俺は入学以来はじめての静かな学校生活を過ごしていた。少なくとも、俺個人の周りは無風状態だった。

 だからといって試験勉強がはかどるかというと、それはまた別問題。


「コーチン、話聞いてる?」

「ああ」

「期末試験近いんだから、ちょっと気合い入れないとマズイよ」

 放課後の教室、リョーコが押しかけてきてなし崩し的に始めた試験勉強である。なかなか気合いが入るものではない。

「じゃいくよ、645年」

「大化の改新」

「672年」

「壬申の乱」

「701年」

「えーと、なんだっけ?

「大宝律令でしょ! じゃ710年は?」

「平城京かな」

「752年は?」

「わからん」

「大仏開眼じゃないの! 743年は?」

「忘れた」

「………じゃあ796年、宇宙暦の」

「え、え、え? えーと、アスターテ会戦!」

「バーラトの和約は?」

「799年!」

「鳴くよ(794)ウグイス」

「第6次イゼルローン攻略戦!」

「……気合い入ったみたいね」

 かなわないなまったく。

「気になるよね、化学部」

 お見通しらしい。

「あれから2週間経つもんね。部室の閉鎖っていつまで続くんだろ?」

「部室と言っても一般の教室と職員室だから、いつまでも閉鎖というわけにはいかないと思うぞ」

「でも太田先生の指示通りに、荷物運び出しておいて正解だったよ。こんなに長く部室使えなくなるなんて思わなかったもん」

「まさかあんなものがあるなんてなあ……」

 化学準備室の薬品棚の中にあったのは、放射性の硫酸ウラニルという薬品だった。製造年は50年近い昔で、確認できる限りだが30年以上学内での使用記録無し。昔は普通に購入できた薬品らしい。

 これらは後日新聞で知った情報で、つまりあの後、休日返上で校長や教育委員会の面々、警察に消防、そして新聞などのマスコミまでやってくる大事になっていた。

 それを見越して太田先生は、ヤバい実験マニュアルやコーヒーセットなどの私物を化学室から移動させるよう俺たち4人に指示したのだ。

 中之森先輩の運転手(以前病院の入口で見かけた人だ)にも協力してもらい、運び出した荷物を高そうな車のトランクに詰め込み、一時的に中之森先輩の家に避難させてもらった。

 備品のノートパソコンからも、ヤバそうな実験データやブックマークをUSBメモリーに移し、検索履歴なども念の為に破棄した。そこまでする必要があるのか疑問だったが、匂坂部長は実に手際良く作業を終わらせた。

 次の日から、化学室と化学準備室は使用禁止措置とされた。当然入室も禁止。太田先生の判断が正しかったわけだ。

 化学部もついでに活動禁止となったのだが、もともと期末試験前の活動中止期間に入る時期だったので、あまり長期活動停止の実感がない。

 それよりあの部屋で、みんなと仲良くコーヒー飲みながらおしゃべりできない事の方が残念だった。俺もすっかり馴染んでしまっていたようだ。


「ところでコーチン、太田先生からの宿題できた?」

 リョーコはエタノール分子模型のストラップをくるくる回している。匂坂部長からもらったものだが、よほど気に入ったらしく、酸素原子の部分に子犬っぽく顔まで書き足していた。

「全然」

 あの日の帰り際、太田先生は俺たち2人に宿題を出していた。パソコンで印刷した周期表を、先生がハサミで切り取り接着テープでつないで立体化したもの、立体周期表と言うらしいが、それを俺たちに手渡し、「なぜ周期表がこのような形になるのか、次の活動日まで説明できるように」と宿題を出したのだ。

 その周期表は今もカバンの中にある。もう既にぺったんこになってしまったが、受け取った当初は高中低の3つのループがくっついた形をしているオブジェだった。高のループの側面から中と低のループが生えている感じだった。

 周期表の端と端をつなぎ、ヘリウムの次にナトリウムがくるように段もズラしてつないである。また中央部のベリリウムとホウ素、マグネシウムとアルミニウムもつないでいる。また別枠扱いになっていた2列もループ状にして貼り付けてある。


 なぜこの形になるのか解らないなら、太田先生が説明してくれるそうだ。だが、それもいつになることやら。


「しかし、肝心な時に八木先生、頼りにならないよな」

 八木先生は、騒ぎが起きて数日したら入院してしまったのだ。

「しょうがないよ、結構な歳なんだもん。もうすぐ定年でしょ?」

「居ても大したことできそうにないし、太田先生に全部任せておいた方が安心か」

「でも太田先生、最近なんか疲れてる感じだよ」

「リョーコもそう感じた? 俺も思っていた!」

 八木先生がダウンしたため、担当する授業のコマ数も増えているし、作成する試験問題も増えているはずだ。疲れてきているのも当然だろう。

「コーチンあれから挨拶とか行った?」

「いや、先生忙しそうだったし、全然……」

「よし、今から行こうか!」

「今から?」

「校内で生徒が先生に会うのにためらう必要なんて無いでしょ?」

 そりゃごもっとも。あの騒動以来、なんか心理的な障壁が知らないうちにできていたみたいだ。


 俺とリョーコは、鞄を持って職員室に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る