第24話

「ところで先生」笑いながらリョーコが質問する。「元素記号ってどうしてあんなに覚えにくそうなんでしょうね?」

「俺もそう思います。白金のPtは解りますよ、プラチナですから。でも金のAuとか銀のAgとかはなんですか? まだ他にもありますけど、えーと……」

 太田先生は薄く笑って言った。

「例えば、タングステンなどは、みんなよく間違えるな」

 タングステン? それってTgかな? Tn?

 周期表の上に視線を走らせたが、タングステンがどこだか分からない。

 と、太田先生が手を伸ばしきて周期表の中央部に指をおいた。

「え? なんでW?」

「狼の意味よね、先生」

「さすがに匂坂は詳しいな。ではなぜ狼なんだ?」

「はーい先生、羊を食べちゃうからでーす」

「分かっているならもう少し詳しく回答しろ。後輩の教育のためだ」

「えと、タングステンが混じったすずは、使い物にならなくなるんでしたよね? それで羊を食べる狼にたとえられていた……先生あってる?」

「合格だな。ではタングステンの用途で何か思いつくものは?」

「砲弾!」

「まったく……フィラメントとか言えんのか……まあいい……タングステンは金属元素の中で最も融点が高いわけだ。反対にすずは人類が古くから加工して使用していた事からも分かるように、非常に融点が低い。だからタングステン鉱石がすず鉱石に混じると、融点の違いで錫の精錬せいれんが阻害されてしまう。それでドイツでは羊を食べる狼の土のたとえでウルフラムと呼ばれていたわけだ。ドイツ語だからウォルフラムかな? とにかく記号のWはそこから来ている」


 太田先生は、メモ用紙に「wolfram」とつづりながら話をすすめた。


「次に、さっき堀川が言った金と銀の記号なんだが、結論から言うとラテン語やギリシア語表記だな。金はオーラムで、銀はアルジェントゥム」


先生は続けて「Aurum」「Argentum」と書いた。


「ローマ神話のあけぼのの女神アウローラもAurumオーラムから派生した言葉だったはずだ。夜明けの空に差す金色の光という意味だな。その名はそのままオーロラとして残っている。あと銀のArgentumアルジェントゥムについては、アルゼンチンの名前がまさにそうだ」

「センセ、これこれ」

 匂坂部長が、目の前の洋菓子の包装紙を太田先生に手渡した。いぶかしげに見た先生が驚きの声を上げる。

「匂坂、よく気がついたな!」

 思いっきり白衣の胸を張って揺すってエヘンエヘン言ってる匂坂部長。なんだ? 何が書いてある?

「お前たち、これをよく見ろ」

 太田先生が差し出す包装紙を俺とリョーコが首を突き出して覗き込む。リョーコは白衣の襟元を気にして両手で抑えている。それは過剰包装だろと思ったが言わないでおく。

 えーとなになに? 原材料アラザン(銀)?

 なにこれ?

「えー! アラザンって本物の銀を使っているんですか?!」

 リョーコがでかい声で質問する。だからアラザンってなに?

 あ、わかった! このチョコの上の仁丹みたいな銀色のトッピングのことか!

「お菓子やお酒に金箔を使っているものがあるだろう。アラザンも同じで銀箔や銀粉を使っているのだろうな」

「アラザンはフランス語で銀を意味するのよ。つづりはこう」

 中之森先輩がメモ用紙に手を伸ばし、ARGENTと書いた。

「エージェント?」

「堀川、エージェントにRは無いぞ」

 太田先生の指摘してきで体が小さくなる。バカですみません。

「フランス語だとアラザン、英語だとアージェント。意味は両方とも銀よ。ラテン語表記を源流にする単語は英語にも結構多いの」

 中之森先輩の説明に、つい口をはさんでしまう俺。

「英語で銀はシルバーじゃないんですか?」

「ゴールドもシルバーも、ゲルマン系が語源の英語ね。英語はたしかにゲルマン系の言語だけど、ラテン語系単語も多いの」

 中之森先輩、語学にも詳しいのか。

 太田先生も続けて説明始める。

「日本語だって同じだぞ堀川。金銀銅は古来コガネ、シロガネ、アカガネと言われていたからな。他にもクロガネが鉄でアオガネがすずだ。現在の日本人が漢字で金や銀と表記したり、カタカナ使ってゴールドとかプラチナとか書くのと同じで、交流のある国の呼び方が元の呼び名の他に加わる事は、地域や時代に関係なく起きるものだ」

 おお! なんか先生や先輩たちと会話してるだけで急に賢くなってきた気がする。たぶん気がするだけだろうが、ちょっと気分がいい。

 ついでだからもう少し質問しよう。

「だったら、周期表の中でカタカナじゃなくて漢字で書いてある元素は、古くから活用されていた物質ということですか?」

 太田先生と中之森先輩が、顔を見合わせる。

「ヒ素はともかく、酸素なんて18世紀のはずだな……」

 太田先生が、珍しく不安げな言い方をしている。

「そのころ日本はまだ江戸時代ですから、明治になってから翻訳されたのでしょうか……」

 中之森先輩も自信なげな感じだ。

「福沢諭吉は英語から大量に翻訳された新語を作ったが、その中に元素関連があったとは聞かないな。しかし工業化を進めた明治時代には化学用語はあったはずだ……」

 腕を組んで考え込む太田先生。

「先に中国語にあったという可能性もありますわね……」

 コーヒーカップに視線を落として中之森先輩も沈み込む。

 

「まったく何やってるのよ!」

 匂坂部長がいきなり大声を出した。顔を落としていた太田先生と中之森先輩が驚いて部長を見上げる。

「分からない時は調べるの! 今すぐ!」


 そこからは怒涛どとうのような数分間だった。

 太田先生は俺とリョーコにメモ用紙を渡し、読み上げた内容を書き留めるよう指示を出した。そのまま卓上のノートパソコンに向かう。

 匂坂部長と中之森先輩はスマホで検索を開始。

 そしてまたたく間にいろいろな事がわかった。


 まず、宇田川榕菴うだがわようあんという津山藩つやまはん(岡山県津山市)の蘭学者らんがくしゃが、化学系の用語を幕末のころに翻訳していた事がわかった。オランダ語の書物から日本語へと訳して造語を作ったそうで、日本語訳された元素は全てこの宇田川榕菴の業績らしい。

 次に宇田川榕菴の生没年を確認。1798年生まれで1846年没。

 1800年代半ばまでにヨーロッパで確認済みの元素を書き出す作業がそれに続いた。宇田川榕菴が知り得た元素を確認するためだ。

その結果、宇田川榕菴が生涯をかけて集め分類した科学知識は、当時の西洋の先端知識とさほど遅れが無い事が分かった。

 造語の中に臭素しゅうそ(1826年発見)や沃素(ヨウ素 1811年発見)があったからだ。

 では、造語した以外の元素はどうなのかと言えば、これが著書『舎密開宗せいみかいそう』には仮名読みで紹介してある。当時知り得る限りの50種類を超える元素が記載されていたのだ。

 猛スピードで調べまくった3人は、さすがに疲れたようで、少し放心状態だった。

 眉間に皺を寄せてため息をつく太田先生。目を閉じて考え込んでいるような中之森先輩。バターが融けたような状態で椅子の背もたれに体を預けている匂坂部長。

 書き取る以外何もしてなかった俺とリョーコが、みんなのコーヒーを新しく淹れなおす。


「しかし凄い人物だな……」

 軽く一礼してコーヒーカップを受け取った太田先生がつぶやく。

「なんで日本史の教科書での扱いが皆無に近いのか、理由がわからん」

「えと、元素の名前だけじゃなくって、『分析』とか『酸化』『還元』『細胞』とかの用語まで作っちゃってたんでしょ? あと電池に石鹸も造語だけじゃなく実際に作ってたんだから、平賀源内より扱い大きくすべきよね」

 匂坂部長は天井見上げて融けた姿勢のままだ。

「『珈琲』という漢字を考案したのも宇田川榕菴だそうよ」

 コーヒーカップを手にした中之森先輩がつぶやく。

「でも、いろいろな事が分かったわね。まずヨーロッパでは、1800年にボルタが電池を発明して、それからデービーが数多くの元素を電気分解で確認していくの。宇田川榕菴も電池を作ってたくらいだから、電気分解実験まで榕菴は実際に行っていたと考えられるわね」

「あと大事なのが」

 匂坂部長が、天井を見上げていた姿勢を戻し、卓上に顔を向けた。

「宇田川榕菴がまとめ上げたヨーロッパの化学知識が、メンデレーエフが周期表を発見する直前の最新情報だったことよね」


 その一言で全員の視線が卓上の周期表に集中した。

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