第11話

 白衣を受け取った翌週の金曜日の放課後、またもリョーコに引っ張られる形で化学部の部室へ向かう。太田先生に怒られたばかりなので、部活に出席というより気分は連行ではあったが。

 部室には、白衣姿の中之森先輩が1人でたたずんでいた。

「先輩、えーと、匂坂部長は?」

「さっき外から大きな音がしたから、もうすぐ来るわ」

 音? 何の? とたずねようとしたら、後ろから匂坂部長の上機嫌な声がした。

「実験材料、ゲットだぜ!」

 振り返ると、やたら汚れた白衣姿の部長さんがいた。手には、葉をいっぱいつけた木の枝を持っている。枝の切り口を見ると、力任せに折ってきたばかりだと想像できた。

 呆気あっけにとられている俺とリョーコの間を割って、胸と木の枝を揺らしながら部長が上機嫌で部室に入る。白衣の背中には土の汚れが付いている。木の枝折って背中から落ちたのか?


「えーと、それ、何です?」

 たずねずにはいられない。

くすのきよ」

 当然でしょ、という口ぶりで匂坂部長は答えた。楠木高校だから楠がある? いや、そもそも何で化学の実験で木の枝を使う? マジナイでもはじめるのか? 実験やるというので召集かかったはずだが。

 部長さんは気持ち良さそうにハミングしながら、折った木の枝から葉っぱをブチブチ千切りだした。わけがわからない。

 質問を変えてみた。

「その葉っぱで、何をするんです?」

「ショウノウを取り出すの」

 即座にスプラッタなイメージが浮かんできた。

「ショウノウって、あの虫除けのですか?」

 リョーコの台詞で合点がいった。なるほど、樟脳しょうのうか。


「水蒸気蒸留ね、あなたにしては考えたわね」

 中之森先輩が言った。聞きようによってはケンカ売ってるような台詞だ。

「まあね、1年生に器具の扱いを慣れさせるのが目的だから、薬品使わない実験が最適、でしょ?」

 匂坂部長、全然気にしてない。

「さーて、天気管てんきかん作れるくらい樟脳抽出しちゃうぞ!」

「本気で言ってるの? 枝1本じゃ足りないわよ」

「あ、やっぱり? まあ天気管は去年作ったからいいか」

「何ですか天気管って?」

 リョーコの質問に、匂坂部長は薬品戸棚をゴソゴソして

「これよ」

 と、試験管を突き出した。栓がされ何か透明な液体が閉じ込めてあり、中にうっすらと白い結晶が見える。

「これ、ダーウィンも使っていた天気予報器具よ。中は樟脳を溶かしたエタノールと、硝酸しょうさんカリウムに塩化アンモニウム、だったかな? 天気が悪くなると中の樟脳の結晶がどんどん大きくなってくるの。その変化を見て、天気予報してたわけね」

「そりゃスゴイですね。どんな原理で変化するんですか?」

「知らない」

 へ?

「気圧の変化で結晶化するとも思えないから、温度変化が原因だと思うんだけど、ホントにあまり良く解っていないのよね。今少し結晶化してるけど、こうやって温めていれば透明になるのかなと……」

 説明しながら白衣のボタンを外して、何するのかと見てたら胸の谷間に天気管を差し込んだ。


「匂坂!」

 呼ばれた部長が声の方に顔を向けた途端、飛んできた黒い物体が部長の額を直撃した!

 見ると、化学準備室の入口に、黒いゴムチューブをスリングショットの要領で左手に構えた太田先生の姿があった。俺は、部長さんの胸元を凝視ぎょうししつつあった視線を慌てて先生の方に向け、リョーコも俺のすねを蹴りつけようと浮かせた足を元に戻した。

「いや悪い悪い、手がすべった」

 思いっきり狙ってますよね。

「そのゴムせん、実験に使うだろ? このゴム管も」

 そう言いながら近づく先生。黒いゴムチューブを束ね、両手で左右に勢いつけて引っ張る度に、バチーンと音が響く。なんだが剣呑けんのんな雰囲気だ。

 そんな空気なぞ一切読まずに、ニッコリ笑って「ちょうだい」と右手を出す匂坂部長。

 太田先生の片頬が引きつった。次の瞬間、先生は部長さんの手にゴムチューブを引っ掛ける。その後、数秒とかからず部長さんは首と両手を背中側からゴムチューブでしばられて身動きとれなくなっていた。捕縛術ほばくじゅつ! 初めて見た!

「匂坂、お前ただでさえ要注意人物になっているんだぞ。今の部の状況を理解しているか?」

 首を少しだけ動かして「あうあう」と返事する匂坂部長。

「じっとしていろとは言わない。少なくとも下品な言動は自重しろ。どこで誰が見ているか判らんのだからな」

 そう言って太田先生は、部長さんの胸元から天気管を抜き取ってスーツのポケットに入れた。

「さて、私は化学室内の備品調査をしなくてはならん。匂坂の実験の監督は八木先生がされるそうだ。薬品も使わないし爆発の危険もないから、1年生2人は心配するな。あ、中之森はこっちを手伝ってくれ」

 捕縛ほばくする時と同じくらい素早くゴムチューブを解いて、やれやれといった感じで髪をかきあげながら、太田先生は中之森先輩の方へ向かった。しかし先生、いつ見てもカッコイイ。

「じゃ、1年生2人は、私の実験見ててね」

 しかし部長さん全然こたえてない。これからお料理はじめるかのように、上機嫌でフラスコなど実験器具を並べはじめる。

 そうか、「私の実験」か。手伝わせるとか教えるとか無いみたいだな。

 そんなわけで、とりあえず白衣は着てみたものの、手持ち無沙汰ぶさたの俺たち2人である。

 やはりヒマなリョーコは、太田先生が置いていったゴムチューブを手にして、仔犬のような目でこっちを見てる。なに、やってみたいの? しょうがないなあ。

 俺は右手をリョーコの方に差し出した。そう、まず右手首に巻きつけて背中に回して首にかけて引っ張って……。

 ニブイ衝突音と共に、俺とリョーコは頭を押さえうずくまる。このヘタクソ!

「ほら1年生、ふざけてるとケガしちゃうわよ」

 クソー、部長さんにだけは言われたくなかったセリフだなぁ。

「だってやる事ないんだもん。何か手伝う事ありませんか?」

 リョーコの問いかけに、しばし考える匂坂部長。

「じゃあさ、このガラス管を、このゴム管に差し込んでくれる?」

 そう言ってガラス管とゴムチューブを一組ずつ、俺とリョーコに渡す部長さん。

 まあこれくらいなら簡単に……あ、れ、入らない……。

「すいません、これどうすれば入るんです?」

 悪戦苦闘する俺たちに、ニッコリ笑って部長さんは説明をはじめた。

「あら、あなたたち経験無いのね。いきなり入れるなんて無理よ。はじめに入口をしっかりらしてあげるの。そしたらあとはもうズブズブと……」

 途端にニブイ衝突音がして、今度は部長さんが頭をおさえてうずくまった。

「下品な発言は自重しろと言っただろう! 匂坂!」

 背後に太田先生がいるのに気づかなかった部長さんが悪い。先生はかなり分厚いガラス製の鍋ブタのような物を手にしていた。あー、こいつは痛そうだ。

 戸棚の前で備品確認をしていた中之森先輩が、太田先生に意見した。

「先生、デシケーターのフタを乱暴に扱わないでください。昨年1つ割ってしまって、もうそれしか無いんですから」

「そうか、それは悪かった。で、誰が割ったんだ?」

「私ではありません」

「そうだろうな……」

 太田先生は溜息ためいきを1つついて言った。

「匂坂、中之森に実験やらせて、お前は私と備品確認するか?」

 途端に泣きそうな顔になる匂坂部長。そんなに嫌なのか? 俺なら迷わず太田先生と行動を共にする方を選ぶんだが。


「いやー、いやいやいや、遅くなって申し訳ない。いやー、打ち合わせが長引いちゃって、いやいやいや」

 先輩たちの心温まる会話をぶち壊すように、八木先生が薄い頭をハンカチで拭き拭き部室に入ってきた。

「先生! お待ちしてましたわ! さあさあこっち座って。これから実験始めますから監督お願いしますね。あ、コーヒー淹れましょうか?」

 八木先生を手際良く椅子に誘導ゆうどうする匂坂部長。なんか、見ようによっては、おじいちゃんの世話をする孫娘のようにも、テレビドラマでみたキャバクラの場面のようにも見える。

「あ、ありがとうございます匂坂さん。でもコーヒーね、職員室でいっぱい飲んできちゃったんですよ。ごめんなさいね気をつかっていただいて」

 八木先生の首を前に突き出すようにうなずく動作が、なんともおじいちゃんだなあ。

 匂坂部長は八木先生を椅子に座らせてから、肩までみ始めた。

「太田先生、こちらは私が見ますから、どうぞ備品確認の方を続けてください。いやー、すみませんね、太田先生にいきなりこんな仕事お願いしてしまって」

 太田先生は何か言いたそうだったが、「わかりました」とだけ告げて、中之森先輩の方へ向かった。

 匂坂部長は八木先生の肩を揉む手を休めて、太田先生にバイバイとにこやかに手を振る。その顔がニヤリと歪み、悪意ありありの笑みが浮かんだ。太字で「計画通り」と書かれた文字が見えたような気がしたが気のせいだろう。

「さあ、邪魔者がいないうちに実験はじめるわよ!」

 あの、心の声が出まくりなんですが……。

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