第9話

 この学校に入学してから、化学室に入るのはこれが始めてだった。中は8人掛けの実験用の卓が六つあり、かなり広い。この教室は校舎廊下の突き当たりに位置するため、通常の教室よりも廊下の分だけ面積が余計にある。4人だけで使うには広すぎる。

 各卓には実験器具を洗浄せんじょうするための流しも付随ふずいし、卓上に突き出したガスの元栓からガスホースが伸びて小さなガスバーナーに繋がっている。

 入口側が教室正面となり、入口左手に黒板と教卓がある。黒板は上下2段のスライド式。教卓にも流しとガスバーナーが付随しているのが、いかにも実験用教室といった感じだ。

 教室奥には薬品類が入った木製の棚が並んでいる。棚は相当古そうだ。なんというか、古い映画の中でしか見かけないような、細身だけど重厚な作りだ。この学校は確かに長い歴史があるんだなと妙な所で実感した。


 その薬品棚の前の卓の上で、コーヒーサイフォンが火をつけられるのを待っていた。


「今日はお2人の歓迎も兼ねて、いつもよりお菓子いっぱい用意してあるのよ。遠慮しないでね」

 匂坂部長は、語尾にハートマークが付きそうな声で言いながら、コーヒーサイフォンのアルコールランプにライターで火を着けた。

 アルコールランプは赤々と燃え上がる。って、あれ? 本当に赤い色だよ。

 こちらの表情で気づいたか、匂坂部長が説明してくれた。

「これね、リチウム混ぜて色を赤くしてるの。炎色反応って知ってる? そのうち試験に出るから覚えておくといいわよ。混ぜる金属の種類によって色が変わるのよね。花火はその性質を利用してるの……」

へー、さすが化学部だな。

「実験だと普通は白金線につけて確認するんだけど、それだけじゃ面白くないからアルコールランプに混ぜてみたの。でも実験は白金線じゃないとダメなのよ。白金は性質が安定してるから確認したい元素の燃焼だけ確認できるからね……」

 匂坂部長はどんどん身振り手振りが大きくなり、胸の揺れが大きくなり頬も紅潮していった。

「反応あるのはだいたい周期表の1列目と2列目が重要で、他には銅とかあるけど、それは少ないからすぐ覚えられるから。で、試験に出るのは元素と色の関連で、暗記の仕方はね……」

「そのくらいにしてあげなさいよ。2人ともビックリしてるから。コーヒーできてるわよ」

 内容を理解できぬまま話を聞かされて、俺とリョーコの頭は完全に飽和状態だった。さぞや間抜けな顔をしていたと思う。見かねて中之森先輩が止めに入らなければ、まだまだ延々と話が続いていただろう。

 俺はメガネくん改め芝原くんの事を考えた。外見はともかくこの2人の中身は近いのかもしれない。


 まちまちのカップ4つに、コーヒーが注がれた。お菓子もお皿に並んでいる。

 少女趣味に侵略された準備室と違って、授業で使う化学室は普通に教室のままで殺風景な気もしたが、それは準備室と比べるからであって、このシンプルな卓と椅子との光景こそが校内として正常なわけだ。

「さあ、遠慮なく召し上がって。このパイとか美味しいんだから」

 春の陽光のような笑顔で匂坂先輩が勧めてくれた。お菓子を前にしてリョーコの眼は真夏の日差しのようにギラギラしている。中之森先輩は相変わらずクールなままだ。

 さて、それでは遠慮なくいただきますか。

 リョーコは速攻でストロベリーパイに手を伸ばした。中之森先輩は静かにコーヒーカップを口に運ぶ。匂坂部長は、あれ? 何やってるんだ?

 部長さんはお菓子の包装紙見ながらスマホをいじり始めた。なんだか楽しそうだ。

「あの、すみません、部長さん、何されてます?」

「あ、これ? 添加物調べてるの。いろんなのあって面白いのよ! 例えばね、お昼に食べたサンドイッチなんて、乳化剤にアルギン酸エステル、リン酸塩にコチニール色素と、それは賑やかだったの」

 うえー、結構なご趣味ですね。

「認可された物を正しく表記しているんだから、信用していいのよ。正直に申告しているわけだから」

 そうなのかな? 確かにそうかも知れないが。

「匂坂部長、こっちのパイの包みにも『コチニール色素』ってありますけど、これって何です?食べても大丈夫ですか?」リョーコが質問する。

「もちろん大丈夫よ。それは化学由来じゃなくて、天然の色素なの。ヨーロッパではルネサンス期から使われているのよ」

 リョーコは安心した顔でストロベリーパイを口いっぱいに頬張る。

「南米原産のサボテンに寄生する虫を煮詰めて抽出した天然色素で当然無害よ。あ、写真これね」

 リョーコが盛大に口から噴き出した!

「キッタネー! 噴き出す時にこっち向くか? 信じらんないな」

「あらビックリした? 大丈夫よ、ちゃんと衛生管理された環境で抽出してるから」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

 リョーコは涙目で何か言おうとしていたが、言葉が出なかった。そういえば、あいつは可愛いモノが好きな反面、虫の類が苦手なんだった。

 少しだけ同情しながら、俺もお菓子を手に取った。パイでは無く抹茶のチョコを取ったのは、断じて虫に怖気づいたからじゃないぞ。うん、ちゃんと抹茶の味がする。でも念のため包装紙をチェックしてみよう。無視したら添加物が怖いのかとあらぬ誤解を招くからな。

 えー、なになに? あれ? どこにも抹茶って書いて無い?

 俺の困惑の表情に中之森先輩が反応した。細い指先を伸ばして俺の手から包装紙を取り上げて、表記された添加物に目を通す。

「これね、蚕沙さんしゃという添加物が抹茶の代わりなのよ」

「それって……何です?」

 嫌な予感がしたが、尋ねずにはいられなかった。

「漢方薬の一種ね」

 正直、安心した。安心して残りを全部口に入れる。

「原材料は蚕の糞だけど」

 !!!

「ちょっと! 何でこっち向いて噴き出すわけ! 信じらんない!」

「うぶへー! お前にだけは言われたくないわ!」


「原材料が分かるとそんなにイヤ? そんな人はお肉を食べちゃいけません!」

匂坂先輩の言葉に、俺とリョーコは互いに顔を見合わせた。互いの瞳の奥に「納得」の文字を確認して、同時に頷いた。

 全く動ぜずにコーヒーを飲んでいた中之森先輩が、ストロベリーパイを手に取って口を開いた。

「お2人の白衣届いてるわよ。お菓子食べ終わったら着てみてもらえる?」

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