第6話

 形も大きさも、そしておそらく値段もバラバラのカップが六個、黒い液体を注がれテーブルの上で芳香を放っている。新たに豆をき、サイフォンでれ直したコーヒーだ。香りが素晴らしい。うちの親父もインスタントコーヒーは飲まないが、豆を挽くまではやらない。この先生かなりのこだわりだな。

 カップに負けず劣らず、椅子の方もバラバラだ。丸椅子にパイプ椅子、回転椅子は肘掛付き。木製の四角い椅子まである。

 俺たちは、丸テーブルを中心に椅子に腰掛け、先生2人が運んできたコーヒーを前に座っている。

「ささ、遠慮えんりょなさらずに飲んでください。砂糖もミルクもありますよ」

砂糖はやはり茶色のコーヒーシュガーだった。ミルクは小型の牛乳パックが冷蔵庫から出てきた。

 俺はコーヒーシュガーをスプーン一杯だけ入れてかき混ぜた。どうにも先に口をつけないといけない気がしたので、「いただきます」と口にして一口飲んだ。ほっとする美味うまさだ。

 八木先生もカップを右手で持ち口元へ運んだが、口をつけず、カップを左手で扇ぐ動作をした。そうやって香りをいでいるらしい。変な動作だなと思ってつい見ていたら、視線に気づいた八木先生が、それまであおいでいた左手を薄い頭におきながら照れ笑いをはじめた。ちっともかわいくない。

「いやー、これね、薬品をぐときのやり方なんですけどね。クセになってて、ついやっちゃうんですよ」

「先生、お茶うけにお菓子もあります。チョコレートでよろしければ」

 それまで沈黙していた副部長の中之森さんが、そう言ってチョコレートの箱を持ってきてテーブルの上に置いた。

「え! それゴディバですよね?」

 リョーコが素っ頓狂すっとんきょうな声出してきいた。それに対し中之森さんは表情一つ変えずに「そうよ」とだけ答えた。ゴディバ、結構高いチョコレートだったよな、食べた事無いけど。


「あの、ちょっといいですか?」

 先ほどから「放課後ティータイム」という単語が頭の中で点滅している俺は、たまらず質問した。

「みなさん普段ここで何をしてるんですか? この部屋もそうですが、なんだかよく分からない事だらけで……」

「では、私が説明しますね」

 お人形さんのような外見の匂坂さきさかさんが楽しげに言った。

「ここは化学準備室。授業で使う薬品や実験器具とか、資料となる本や書類などの保管場所でもあるし、化学の先生たち専用の職員室でもあるわね。そしてそこの扉の向こう、外の廊下の突き当たりにあるのが化学室。化学の授業で実験を行う時に使われる教室ね。放課後は私たち化学部の活動のための部室になりますけど」

「で、その活動っていったい……」

「活動内要はね、そんなに大した事してないんですのよ。基本的には1つのテーマを決めて実験して、その記録と結果を文化祭で発表したりとかですけど。もちろんそれだけじゃなくて、その時々に応じて調査とか研究したり実験して確認したりとかしますけどね」

「実験は、やっぱりお好きなんですか?」

「ええ、それはもう! 派手に変化が出るのって見てて楽しいじゃないですか! たとえば液体窒素ちっそなんて、机の上にこぼすと玉みたいになって転がるし、中にゴムボール入れたらすぐ凍っちゃってバリバリって壊れるんですよ。でも液体窒素の中に先輩たちの手を入れたら、みんな部活めちゃったんですよね」


 沈黙が訪れた。


 中之森さんの冷ややかな声が沈黙を破った。

「液体窒素は沸点ふってんマイナス196、蒸発熱じょうはつねつは47.6cal/g。36度の人間の体温だと液体窒素はすぐに気化きかするわ。気化した窒素が手の周りに気体のまくを作るから、結果として手を入れても凍らないの。化学部の先輩ならそれくらい常識として知っておいて欲しかったわね。でも、みんないなくなった決定打は、あなたが紅茶にまぜた塩酸よ」

「それこそ常識よ! 胃酸は塩酸なんだから、飲み込んだところで問題無いじゃない」

 そうか? それみんな常識なのか? 心臓がドキドキしてきた。何か話題を変えよう。

「あの、だったらこのマンガの化学反応、わかります? 俺読んでもよくわからなかったんですよ」

 俺はポケットからスマホを取り出して、電子化されたマンガをビュワーアプリで開いた。親父が一昨日の夜に取り込んだマンガだ。昨日はずっと自宅待機で暇だったので、暇つぶしに読んでみたらえらく面白かった。だが、一部よく分からないシーンがあったのだ。

 そこには硫酸が銅を溶かす反応を、チョコレートを入れて妨げる描写があり、次のようなセリフが書かれている。

『H2SO4+C12H22O11ですよ……メーラード応対、カラメル化反応、フラバノール・糖縮合反応……チョコの成分なら、硫酸を固化できます』


 スマホの画面を匂坂さんと中之森さんの2人がのぞき込んだ。しばらく覗き込んだあとで

「こーれーはー確認しなきゃイケナイわねぇ!」

 え? 今の誰の声? 匂坂さん?

 疑問を口にするヒマもなく、匂坂さんはガバッと制服のブレザーを左右に開いた。ブラウスが破れるような勢いで飛び出る胸。ボン!という擬音が聞こえてくるようだ。

 一瞬胸に釘付けになった俺の視線が、すぐに制服の裏側に移動した。制服の裏地になぜか小さな容器がビッシリ仕込まれている!

「えーと硫酸は、これね!」

 仕込んである容器を一本引き抜くや否や、その中身の液体を目の前のチョコに振り掛けた!

「ちょっと、あの、匂坂さん、薬品をかけるならちゃんと実験の準備をしたうえで……」

 八木先生がオロオロと両手を振って、抗議にならない抗議をする。終始無表情だった中之森さんがうっすらと笑ったように見えた。

「ごめんなさい。つい興奮して先走ってぶっかけちゃった」

 わざとなのか判断に苦しむセリフとともに、速攻で部屋を出た匂坂さんは、これまた速攻で白衣をまとって戻ってきた。

「これで文句ないわよね!」

言うや否や、白衣のポケットから取り出した分厚い眼鏡をかける匂坂さん。俺とリョーコは同時に顔を見合わせた。そうだ、この人だ! 爆発現場で倒れていたのは間違いなくこの分厚い眼鏡と白衣の生徒だ!


 匂坂さんは間髪入れずに木製の戸棚から薬品のびんを取り出してビーカーへと注いだ。先ほどまでコーヒーの香りが占拠していた部屋に、一気に薬品の臭気が漂いはじめる。そしてビーカーの液体をガラス棒で勢いよくかき混ぜると、何の気負いもなく、ゴディバをいくつもビーカーの中に放り込んだ! リョーコの目が「もったいない!」と叫んでいる。

「オラオラオラ! とっとと反応するですよ!」

 さっきまでのおっとりとした雰囲気がすっかり消え去り、匂坂さんは顔つきも口調も荒っぽくなった。ビーカーの中にゴディバをぶちこんで、ガラス棒で思いっきり突いたりかき回したりする動作には殺気すら感じられ、正直ちょっと怖くなった。だが肝心なビーカーの中身の方は、目立った変化は出ない様子だ。

希硫酸きりゅうさんじゃダメかなぁ?」

 そう言うなり、ビンからまた薬品をビーカーにドボドボ注ぎ込んだ。どうも硫酸らしい。

 再度ガラス棒でかき混ぜはじめる匂坂さん。ビーカーを覗き込みながら百面相を始める。ビーカーにかかる髪が鬱陶うっとうしくなったらしく、髪を大雑把おおざっぱに左右に分けてゴムでめた。そうだ、写真に写っていたのはこの姿だった。

 匂坂さんが懸命にかき混ぜても、目立った変化は出てこない。苛立つ匂坂さんに、俺のスマホの画面を見ながら中之森さんが指摘した。

「メーラード応対となっているのはメーラード反応の間違いとしても、C12H22O11って、チョコレートの成分というより糖そのものよね。糖と硫酸の反応だから、砂糖に硫酸加えてみたら?」

 うなずく匂坂さん。硫酸まみれのゴディバの入ったビーカーを無造作にテーブルの上に置く。無残に変わり果てた姿のゴディバを見つめるリョーコの顔に「もっと早く言ってよ!」という文字が太文字で書かれている。お前絶対ポーカーとかやらないほうがいいぞ。いいカモにされるから。

 匂坂さんは即座に別のビーカーを持ってきた。テーブルのコーヒーシュガーを数杯入れて、硫酸を直接注ぐ。なんか化学実験というよりもお料理教室を見てるような気がするのは、行動に迷いとか慎重さが全く感じられないからだと思う。

 ビーカーのコーヒーシュガーをまたガラス棒でかき混ぜはじめる。コーヒーシュガーがシャリシャリ音をたてる。ビーカーを睨みつける匂坂さん。平然とコーヒーカップを口に運ぶ中之森さん。表情が少し険しくなったような太田先生。老眼鏡をかけなおしながらオロオロする八木先生。リョーコは残ったゴディバの早食いを開始したようだが、俺は見なかった事にした。


 変化は急速に現れた。


 コーヒーシュガーがドロリと粘性ねんせいを帯び、その後どんどん体積を増してきた。熱を帯び煙を吐き出しモクモクと黒く膨張し出す。え? これヤバイんじゃないか? なんか変な魔物を召喚しょうかんしてしまったようなヤバさだぞこれ! 爆発でもするんじゃないか? 成長を続ける黒いモコモコは、煙を吐き出しながら勢いよくビーカーから溢れ出そうとしていた!

 俺もリョーコもヤバイと腰を浮かした時、太田先生が素早くビーカーをつかみ、流しへ運んで蛇口をひねり窓を開けた。匂坂さんはニンマリと満足気な笑みを浮かべ、中之森さんは何事も無かったような静かな顔をしていた。


「八木先生、この子たちはもう帰らせてよろしいですね?」

 太田先生の問いかけに、半ば放心状態になっていた八木先生は慌てて薄い頭を上下に振った。大丈夫かこの人? コーヒーが好きなわりに胃が弱そうだ。

「これ、忘れないでね」

 硬質の瞳をこちらに向けて中之森さんが言った。俺のスマホを手にしている。

「あなたたち、面白いわね。よかったらいつでもコーヒー飲みに来て構わないわよ。」

 全力で遠慮えんりょさせていただきます。つか、このコーヒーあなたがたのですか?

 俺とリョーコは、太田先生から半ば追い出されるように部屋を出た。


 放課後の人気のない廊下を歩きながら、太田先生はため息混じりに話し始めた。

「キチンと謝罪させようと思ったのだが、かえって申し訳なかったな」

「それはいいんですが……あの……匂坂さきさかさんって、ひょっとして……」

「多重人格か? というのだろう? そんな大層なものでは無いよ。あれは単に、実験を行おうとすると興奮して性格の地の部分が出てくるだけらしい。お上品にふるまう事もできるが、長くは続かないようだな。まあ私も赴任ふにんしてきたばかりなので詳しい事は分からんのだが」

「興奮して、ですか?」

「そう、どうも実験に対する思い入れというか執着しゅうちゃくが、人並み外れて強いらしい。勉強が好きなのは歓迎すべきなのだが、あれは実験ジャンキーとでも言うべきレベルだな」

「ところでさっきのビーカーの、黒いシューシューモコモコ、あれ何だったんですか?」

 リョーコが太田先生に質問した。うん、あれは俺も知りたい。なんだったんだ?

 太田先生は軽い笑みをうかべて、たてがみのような髪を左手ですきながら答えてくれた。

「あれはな、硫酸の脱水作用で砂糖から水素と酸素が奪われて、炭素の固まりが出来上がったんだ」

 そんな事を話しているうちに、下駄箱までたどり着いた。俺とリョーコは靴を履き替え、あらためて太田先生へ向き合い、礼をして帰ろうとしたが、太田先生に呼び止められた。

「あ、彼女、すまない、名前は何といったかな」

「ワタシですか? 平山です。平山涼子ひらやまりょうこ。」

「平山さんか。彼氏と仲がいいのは構わないが、急所を打つのは感心しないな」

 リョーコが電気に触れたように直立して、勢いよく頭を下げた。

「はい! 以後気を付けます!」

「では暗いから注意して帰りなさい」

「はい! 失礼します!」


 外はすっかり暗くなっていた。街灯に照らされた駅までの道は、商店街への買い物客であふれていた。

「なんか、疲れたな……」

「ちょっとビックリだったもんね、いろんな意味で……」

「あの先生にも驚いたな。気づくとは思わなかった」

「私達が付き合っていること?」

「事実誤認は後日訂正してもらうとして、お前さんのドサクサ紛れの腎臓打ちに気づくとは思わなかったよ。これではっきりした。あの先生空手やってるね」

「え? なんで?」

「あの黒いモコモコが出てきたビーカーを先生が素手で掴んだから、火傷とかしたんじゃないかと思って手の平を注意して見てたんだ。そしたら握りダコみたいなのがあった。拳ダコは無かったからちょっと疑問だったんだが、間違いない、空手だね」

「よく見てるねー。ハイこれあげる」

 さっきのゴディバだった。いつの間にガメてたんだ?

「まだあるよ、ほら」

「お前そーゆーの恥ずかしいから止めろよ」

「いーじゃないの、硫酸かけられるくらいならワタシが食べる方が絶対にいいって!」

 まぁ、そりゃそうだな。

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