第5話

堀川浩司ほりかわこうじはいるか?」

 放課後、教室入口から大声で呼ぶ声がする。声で女性だと分かったが、見るとそこにはキレイなお姉さんが立っていた。それまで明るく騒いでいた周りの女子生徒が瞬時に圧倒されてしまう「大人の女性」だ。もちろん先生なんだろうが、服装を地味に抑えていて、それでも目立つ大きな胸と、タイトスカートから伸びる長い脚に目が行ってしまう。しかもこの人の強い目線は、ただのキレイなお姉さんではない、何かネコ科の動物めいたモノがあり、そのためかウェーブのかかった髪が、まるでたてがみのような印象を見る人に与える。

 この先生は、たしか入学式で見た覚えがある。この学校に赴任したばかりで挨拶があったはずだ。

 俺は立ち上がって挙手した。入学式からまだ3日、先生から呼び出しをくらう理由なんて、えーと、いくつかあるな。

「きみか、ちょっとこれから時間もらえるかな?」

 そう言った先生の背後から、あの長い黒髪の化学部副部長、中之森さんが姿を現した。真っ直ぐこちらを見て、軽く頭を下げる。この人も先生とは別の意味で他の女生徒を圧倒する存在感がある。全体として印象が黒く硬質なのだ。周囲の温度が数度下がるような気もする。

「例の件でな、正式に本人から謝罪と説明をさせたいんだ。いや時間は取らせないから」

 そこへ勢いよくリョーコが突進してきた。俺の顔と中之森さんの姿を認めて足が止まる。中之森さんもリョーコに気づき、軽く頭を下げ、リョーコも慌てて頭を下げた。

「先生、こちらの方もご一緒にお連れしてよろしいでしょうか。あの時病院に付き添われた方ですので」

「ああそうなのか。きみも、時間があれば今から付き合ってくれるかな?」

「先日の件で話があるんだってさ。一緒に行くか?」

 わかった、とリョーコはうなずいた。

 女性3人と連れだって教室を出る俺を、メガネくんが羨ましそうに眺めていた。代わってやってもいいんだぜまったく。


 校舎1階の突き当たりで、先導役の先生と副部長は足を停めた。

 そこには大きな両開きの扉があり、脇に「化学室」と表記があった。ここが化学部の部室か、と思ったら、その手前、廊下の壁側にある小さな木製の扉を先生がノックした。見ると「化学準備室」と表記がある。

「失礼します」と言って先生が扉を開けた。という事は中にいるのは生徒じゃないのか?

 続いて中之森さんも「失礼します」と言って入っていった。どうすればいいのか躊躇していると、「きみたちも入りなさい」と中から先生の声がした。

 リョーコと2人で、同じように「失礼します」と言いながら、恐る恐る扉をくぐる。

 入って、正直呆気あっけにとられた。窓にはベルベット生地のカーテンがかかり、いくつもある木製の戸棚にはレースがかけられ、正面にある丸テーブルにもレースのテーブルクロスがかかっている。テーブル中央にはコーヒーのサイフォンが置かれ、アルコールランプの炎が揺らめいている。よく見ると壁際にくたびれた事務机と椅子が2組あり、そこだけは少女趣味が占拠できずにいた。他にも古い冷蔵庫があったが、コーヒーの香りに紛れてわずかに漂う薬品の臭気と事務机がなければ、ここが学校内である事を一瞬忘れてしまうところだった。

「あの、なんですかこの部屋?」

「驚いちゃいますよね。これでも一応は職員室なんですよ。化学の教師専用の職員室で、今は僕と、新しく来たこの太田先生しか使ってないんですね」

 殺風景な事務机がとても良く似合う、頭髪が寂しい年配の先生がそこにいた。老眼鏡をかけなおしながらこちらに向き直る。竹箒たけぼうき持たせれば用務員のおじさんと言われても納得してしまうような貧相な外見だ。ステテコにハラマキ姿も似合いそうだ。

「去年から、うちの部の部長と副部長の2人が、この部屋が殺風景だからって、掃除してくれたりいろいろ持ってきてくれて、気が付いたらこんなになっちゃいました。ね、文句言っちゃいけないんですけどね」

 それって、生徒に乗っ取られたってこと? たしかに外見からして人は良さそうだが押しに弱そうな感じだからな、十分に有り得る事だ。

「八木先生、そろそろ本題に入りませんと」

 宝塚の男役みたいな太田先生がうながした。

「そうですね、いやホントそうですね太田先生。えーと堀川くん、だったね。先日キミにはうちの部長が大変申し訳ない事をしてしまった。その事で本人に直接キミへ謝罪させるために、今回この場所を設けさせてもらったわけです。匂坂さきさかさん、出てきてくれるかな」

 戸棚の向こうから、1人の女子生徒がおずおずと姿を現した。途端に部屋の明度が増したような錯覚さっかくを覚えた。軽く息をのむ音が聞こえたが、それは自分の喉から出たものなのか。リョーコが出したものだったかもしれない。それほど美しい顔立ちをした、文字通りの美少女がそこにはいた。

 軽くウェーブのかかった栗色の髪は肩より少し長く、少し伏し目がちだが大きな瞳に、物凄く長い睫毛まつげがよく目立つ。化粧っ気があるようには見えないから、これはマスカラなんかじゃないと思う。上目づかいでこちらを見てから少し恥ずかしそうに、ほっそりとした両手の指をあわせ、軽く頭を下げた。俺もリョーコもあわてて頭を下げる。

 この人が部長? マッドサイエンティストとか言われる問題児? 火炎放射器とか作った人? 人の噂は当てに出来ないというのは本当だ。

「あの……この度は本当にゴメンナサイ!」

 そう言って匂坂さんはまた思いっきり頭を下げた。白いほおが紅潮している。

「爆発の実験で、装置が失敗したみたいで、設置する前に全部爆発しちゃって、周りに人いないと思ってたんですけど……ホントにゴメンナサイ!」

 あ、いや、そんなに謝らなくても……

 どうしよう……。俺は思わず隣にいるリョーコを見たが、リョーコは助けを求めるような顔をしてこっちを見ていた。たぶん俺も同じような表情してたと思う。

「もちろん、これは顧問である僕の責任なんです。監督不行き届きというやつですね。危険物管理としても当然責任者は僕ですから。キミたちには晴れの入学式の日だというのに、早々ケガまでさせて大変失礼してしまいましたですね。本当に申し訳ないです」

 八木先生も薄い頭を深々と下げて謝罪してきた。うう、日頃は存在感希薄だった良心のカケラが、まるで虫歯のように胸の奥でズキズキと痛み出し、自己主張を開始している。

「あの、そんなに頭下げないでください。先生も匂坂さきさかさんも。俺、じゃない、自分は結局ケガしてませんでしたし、えと、病院で検査しても異常なかったですし、なんともないですから、その……」

「そうそうなんとも無かったんですよこの人。頑丈なんです。だからそんな頭下げるような必要なんて無いんですから」

 お前の方こそ頭下げる必要あるだろう! とは言いたくても言えない。クソー、今後お前の意向は絶対に無視してやる!

「ええもう全然大丈夫。だからあの、そんなに謝られるとこっちも困る、あ、言葉悪いですね。えーと、とにかくお気になさらないでください。そちらが思っているようなダメージは、まったくありませんでしたし、過ぎてしまえばこれも入学式のいい思い出かなぁ、なんて」

「では、許してくださるんですか!」

「許すもなにも」

 俺が倒れた原因はそちら様とは関係ありませんし。

「いやぁ、そうですか許していただけますか! いや、ありがとうございます!」

 八木先生は両手で俺の手を掴んでそう言った。わかりましたからそんなに顔近付けないでください。

「ありがとうございます。許していただけるんですね? よかったあ」

 入れ替わりに匂坂さきさかさんが、ほっそりした両手で俺の手を包み込みながらそう言った。ニッコリ笑うとこちらもつられて笑顔になってしまう。はい、もっと近づいてくださってもいいですよ。

 と、リョーコが横からタックルかまして割り込んできた。呼吸が止まり涙が出そうになる。あの野郎タックルにまぎれて腎臓じんぞうに突き入れやがった!

「あ、あの! さっきから気になっているんですが、その胸のペンに付いてるストラップ、何なんですかそれ? すごくカワイイんですけど」

「これですか? エタノールの分子模型なんですよ」

「やだこれ、すごいカワイイ! ワンちゃんみたい!」

「そうですよね、形が犬みたいですよね。よろしければ差し上げますわ」

「え? それは悪いですよいくらなんでも」

「わたし他にも似たようなの持ってますから、いいですよ差し上げます」

「えー、いいんですかぁ。なんだか悪いなぁ」

 途端に顔がだらしなくなってるぞ。こいつ昔からカワイイ物が好きなんだよな。気性の荒さとは裏腹なのはどういうわけだ。

「ところでみなさん」

 八木先生が割って入った。

「コーヒーはいかがですか? 僕コーヒーが好きでしてね、ちゃんと豆から挽いてあるんですよ」

 この部屋が乗っ取られた遠因はこれかもしれないなと、俺は思った。

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