9 インファ

 目を覚ました場所がどこなのか考えて、すぐにあの無数にプロペラのついた、飛ぶ乗り物の中だと気付いた。乗り物の中は暗く、油のような金属のような臭いがする。

 ひどく殴られたのか、体の節々が痛い。手足を動かそうとして、自分が今、そのどちらも縛られて壁際に座らされていることに気付く。口も縛られていて、声が出せない。

(……)

 インファはそのまましばらく闇に目が慣れるのを待った。こういう時、焦ってはいけない。

 じきに、辺りの様子が見えてきた。どうやら、機械室か何かのようだ。インファにはそれが何なのかはよくわからなかったが、たくさんのボタンやメーターなどがついていたし、熱を持っている。

 しかしインファは、ふと自分の右脇を目をやり、そこに人が転がっていることに気付いて思わず叫びそうになった。

(誰!?)

 すぐに分かった。暗闇でも判別できる、赤い髪。名前を思い出せずに、少し記憶を辿る。――シナト、とかいう男。

 そうだ。自分は前科があるからシナトと一緒だと言われていた。だが……シナトは……そこでまた思い出すのに時間がかかった。

(塔から出すのに、何かを壊さないといけないって……そうだ!)

 戦闘の最後。全ての狼が殺され、シナトも囚われていた。全身から血を流してぐったりとしているシナトにウルバンの部下が何か小さな道具を向けると、シナトの体の中で何かが弾けるような音がして、彼は動物のような断末魔の呻き声をあげていた。その後あのハターイーとかいう男がシナトに駆け寄ったが、何か、ウルバンの部下は……そう、「仮の」なんとか、を発行する、と言って何かをシナトにピッと張った、ように見えた。その後、殴られ、縛られたインファのところにもウルバンが近寄ってきて、何かを自分に向け、やはりピッという音と共に何かが……何かが行われたところまで、思い出せる。

(……事情はよく分からないけど……)

 インファは、タイミングを見計らって逃げるつもりだった。いつ、どこかはまだ分からない。が、尭球とかいうところに着いたら、牢屋に入れられるようなことを言われていた気がする。

(だから、その前だ。乗り物を出て、牢屋に入れられるまでの間)

 その時に、このシナトという男はいた方がいいか、どうか。いつものインファだったら、一人で行動する方が圧倒的に楽だった。自分より無能な相手と組むことは、身内に敵を引き入れるようなものだとインファは知っている。

 だが、さすがのインファも、状況が分からなかった。見たことのない武器、見たことのない乗り物、見たことのない土地。もしシナトが自分よりも尭球とかいう土地の事情に明るいのであれば、利用する他無い。

(こいつは確かずっとあの塔にいるって言ってたけど……うーん、でも何か知ってそうな感じがするし……。まぁ、使えるところまで使うか)

 考えながら、インファは自分の手と足にかかっている縄を既に解きかけていた。乗り物の振動のせいで手が震えたが、これくらいは朝飯前だ。

 見回りなどが来なさそうなことを確かめ、インファはシナトに手をかけて揺すった。おい、と微かな声をかける。最初シナトはぴくりとも動かなかったが、しぶとく揺すっているうちに睫毛が僅かにしばたき、彼は目を開いた。

 すかさずインファは、髪の毛の中に隠していた針のように細く小さいナイフを静かにシナトの目の前に突きつけた。

「逃げようと思うの。あんた、あたしに協力する?」

「う、お、」

 だが、シナトは苦痛に顔を歪めた。哀れに思ったインファは白術をかけてやろうとして、自分の中から黒術も白術も消え去っていることを思い出した。黒術が消えても戦うことはできるが、白術無しに人を治すことは、インファにはできない。

「……喋れないなら無理しなくていーよ。答がイエスなら頷いて。ノーなら目を閉じて。後者の場合は安らかに死なせてあげる」

 シナトは目を見開いて、必死に頷いた。

「よし。とりあえず縄を解いてやる。だけど派手に動くなよ、あくまで動けないフリをし続ける」

 インファは手際良くシナトの枷を外した。シナトは大して嬉しそうにするでもなく、苦痛に満ちた表情をしたままだ。よほど痛いのだろう。

「いざとなったら、あたしがあんたを背負ったまま走ってやるから。そのかわり、役に立つ情報を言え」

「う……っえほっ……『牢獄島』は……入ったら……出るのは、かなり難し……だが……っうぅっ……俺ら……は、『空の都』には決して入れない……すぐ機械に探知さぇ……る……だから、『地の町』に逃げるしかねぇ……と……思う……」

「なんだ、その……?」

「あっちについたら……窓のそと……見ろ……」

 インファは窓を探したが、見当たらない。今はどのあたりなのかもよく分からなかった。そもそも『別の星があって、そこにも人間が住んでいて、そこに飛んでいける』ということがまるでインファには御伽話のように思えていて、いまだに現実のこととして捉えられていなかったのである。


 床の振動のリズムが変わったような気がして、インファはまどろみから覚醒した。

(近くなってきたかな。陸に降りようとしている気がする)

 ふと、どこかから細く光が射し込んできていることに気付いた。少し離れたところにある、扉の隙間だろうか。

 インファは十分に警戒しながら、壁に沿って静かに動き、扉の方へと移動した。近づくとそれは隙間ではなく、扉についている小さな円形の覗き窓であることが分かった。

(どれどれ……)

 その小さな窓の向こうに広がっているものを、最初インファはうまく認識できなかった。白い島?

 じっと見て、次第にそれが巨大な町だということが分かってきた。そして、それらが全て、空に浮いていることも。見間違いかと思って何度も目をこすったが、確かに町が、飛んでいる。まるで、ダカンや月糸の層がそのまま何十層も何百層も空に浮いているような……だが、その建物群は見たこともないほど巨大で壮麗だ。何度目を凝らしても、それが本当に存在しているとは、信じられないほどに。

 これが空の都か、とインファは合点がいった。そして、おそらくこの下に、地の町がある。そう冷静に判断する頭の裏で、何かが強く叫んでいた。

 これほどの繁栄を見せていて、なぜ鉱球の世界をむざむざ実験場などとして作ったのだ。なぜあれほどダカンは貧しく、そしてなぜ鉱球はまるごと焦土と化さなければいけなかったのか――。

 吠えて吐き出したいほどの怒り。恨み。失望。だが、それらの感情を全てぐっと、ぐっと腹の奥の方に押し込めて、インファは強く唇を噛んだ。まず、今やらなければいけないことから。

(さっ、いざ勝負と行きますか)

 インファはシナトを叩いて起こした。

「なぁ、ちょっとは生き返った?」

「って……うっ……や、さっきよりは、いいわ。……死なないで済んだのは、たぶんハターイーの力だな……クソッ借りができちまった」

「走れる?」

「えっ、無理……」

「じゃぁ置いてくしかねぇな」

「うそうそ! 走る、走るよ……」

「よし。じゃぁ、あの光の射し込んできている扉から飛び降りる」

「へっ?」

「もう少し陸に近づいたらね。いい、兵隊がこっちの腕を縛り上げてからじゃ遅いのよ。それでもあたしは逃げ出せる自信があるけど、あんたは無理でしょ」

「男のプライドってものをもうちょっと考えて物を言ってくんねぇかな……」

「この緊急事態にあんたのちんこのことなんか構ってらんないよ!」

「ち、ちんこ……」

「ねぇ、これどこに着くの? 地の町に行くんだったら、地の町に着いてくれた方がありがたいけど……」

「これ、おそらく圏界連合専用機だろうから、空の都の圏界連合本部専用波止場に着くんじゃないかな。牢獄島じゃないだけマシだが、セキュリティは同じくらい厳しい。波止場に入る前に脱出する方が無難だ」

「ふーん。で、波止場に入る前にここから飛び降りるとして、その後の行く当ては?」

「いや俺もさ、この星の様子って口伝で代々聞いているのと、ハターイーの怪しげな情報網から仕入れてるだけだからあんまり分かんねぇけど……ただ、地の町から空の都に入る関所はかなり厳しいけれど、その逆はそんなに厳しく無かったはず」

「ふんふん。それで、空の都の関所を抜けると、地の町にはどうやって行く訳? すべり台? それともこーゆー空飛ぶ乗り物にまた乗るの?」

「ちげーよ。飛兎とびうさぎに乗るんだよ」

「……は? 何?」

「ダカンにもいただろ、飛兎。あれは元々もっと大きいわけ。んー、羊と馬の間くらい。関所で旅券を見せて通行の許可が下りると、基本的には一人一台、関所に所属している飛兎が貸し出される。飛兎は兎制官から受けた合図でちゃんと行き先が分かるように、そんでちゃんと所属の関所に戻るようにしつけられてる。行き先……空から地っていうだけじゃなくて、空の都のある島から別の島へっていうパターンもあるからな」

「兎が、人を乗せて飛ぶの?」

「そう言ってんだろ。あ、でもすげー金持ちとかは、自分の飛獣ペットを持っていることが多い」

「はぁ……。まぁいいや、じゃぁ、あたしたちはその兎をどっかから奪えばいいわけね」

「……それしかねぇかなぁ。飛獣を使わない方法だと、それこそ圏界連合の建物内部にあるエレベーターとかしかねぇし。飛兎は、関所の中の牧場で待機しているはずだから、そこからかっぱらうんだな」

 こうして方向性が決まり、じりじりとした緊張感の中、二人は潮時を待った。

 シナトの説明によれば、他の星との間の乗り物――それはフネというのだとインファは知った――の行き来は、全て『落月門らくげつもん』――通称ゲート、という関所のようなところを通って行われるらしい。そこを通り越したら、圏界連合本部専用波止場はすぐだと言う。

「……なんで『落月門らくげつもん』なんて名前なの?」

「さぁ……俺に聞かれてもな。ああ、でも尭球の色んなシステムや、特に女神関連のあれこれは全部アーリアの意向って聞いたぞ」

「あれこれって何よ。あとアーリア様を呼び捨てにすんな」

「こういうのはハターイーの奴が詳しいんだけど……呪文、とかさ。あと魔術の色とか光の形とか? なんでもアーリア……様が美的感覚に優れた方で、ただスイッチオン! 光ドーン! みたいなのじゃロマンが無いから、ちゃんと呪文の言葉も魔術のエネルギーも意味のある、美しいものにって整備したらしい」

「……へー……ロマン、ねぇ……」

 今まで知っていた、神話の中のアーリア様像、に、妙に人間らしい肉付きができて、インファは少しだけ戸惑った。だが、悪い感情ではない。

(もっと、アーリア様のことが知りたい。今回のことだって……アーリア様の与えてくださった試練に決まってる……)

 別れを告げることもできなかった、故郷の熱くて、忌々しい砂漠。ただ一人、インファが心から敬愛していたダカン今道女神アッサニー様は、死んだ。一人で戦って、文字通りボロボロになった遠の姿も、脳裏に過る。

 思い起こす内に、必ずやこの復讐をしなければと思った。必ず。

 だがその時、フネがどうやら旋回を始めたらしいことが分かり、インファとシナトは目配せした。

「そういや、あんたそのタンクトップ、血だらけで目立つよ。あたしの上着、やる」

「おお、ありがとよ」

 あたしがドアを蹴りでブチ開ける、と言うインファを、シナトは止めた。

「それじゃ音がして目立つだろ。お前のさっきの針みたいなナイフ、貸してくれ。一番細いやつ」

 シナトはそれを扉の鍵穴に突っ込んで色々といじり、そしてニヤッと笑って親指を立てた。

「開いた」

「よっ、犯罪者!」

「ひでぇかけ声だなおい……」

「そういえばあんた、何の罪を犯したの?」

 シナトはもう一度笑った。その笑いは不適そうでもあり、だがどこか淋しそうでもあった。

「俺じゃねぇ、俺の先祖の初代シナトだけどな。連続無差別大量殺人、テロリストだ。さ、行くぞ。波止場の草地を目指せ」


 すぐに追っ手はかかったが、シナトもインファも運動能力に関しては超人的である。特にインファは、先天的な能力に加え、ダカンという過酷な圏で生まれ、子供の頃から生きる為に戦い続けてきたという経験がある。多少訓練されただけの兵など、相手にならなかった。地の利は無かったが、シナトの僅かな知識と勘で、なんとか関所まで旋風のように駆け抜ける。関所はこの空中都市の北の断崖にあり、二人はこの断崖に向かって、最初は街の中の複雑な小路を走った。追っ手をある程度巻いてからは、島の外周に沿って存在している公園を、あえて悠々と恋人同士の振りをして歩いた。

 当初は、関所の中の牧場から飛兎をかっぱらおうとしていたが、関所のかなり近くまで来て、シナトが良いものを見つけた。

「インファ、おい、あそこを見ろ」

 シナトはこの空に浮いている都市の、少しだけ下の方を指差した。空中には、青い空を背景に浮いているたくさんの都市島と、飛び交う飛兎達が見える。

「あの、あそこに飛んでいる飛兎。あれ、訓練中の奴だ。誰も乗せてねぇ」

「あ、ちょっと他のに比べて小さい、茶色いやつ?」

「それそれ。まだ子供だろう。……あれに乗ろう。二人ならくっつけばなんとか乗れるだろう」

「えー、エッチぃ」

「なんだそれ! そんなガラじゃねぇだろてめぇ! まぁいい、とにかくあいつをこっそりこの柵の近くまで呼ぼう」

「そんなことできんの?」

「動物のことなら任せろって」

 シナトは自信満々で、首にかけていたチェーンについている、銀色の円筒形のパーツに口を当てた。

「……あっ、あの茶色いやつ、様子がおかしいよ?」

「今こっちに呼んでんだよ」

「何も聞こえねぇけど……」

「生まれて間もない若い動物にだけ聞こえる音を吹いたんだ。お前はもう年増ってことさ」

「おいてめぇ喧嘩売ってんのか? あん?」

「まぁまぁ、ほら、かわいい茶色いのがこっちに来たぞ。今に兎制官とせいかんが追いかけてくる、すぐに柵を乗り越えて飛び乗るぞ。うまく乗れなきゃ真っ逆さまに墜落するだけだかんな」

「まかせろって。あんたが先に行く?」

「おっし」

 二人はさっさと透明なガラスの壁を登った。後ろで公園の通行人がざわめいたが、気にする余裕はない。

「おーい、かわい子ちゃん。おいで、こっちこっち」

 茶色い飛兎は首を傾げつつ寄って来た。耳羽の羽ばたきがまだ他の個体に比べると不慣れで、『一所懸命飛んでます』という感情が伝わってくるようだ。

 シナトが悠々と何も無い空間に足を踏み出し、飛兎の背中にぼふっと音を立てて腹と手で着地する。飛兎は驚いたのか、突然羽をばたばたしてこちらから離れていこうとした。

「インファ、速く!」

「はいよ!」

 躊躇うことなく空中へと身を投げ出したが、その瞬間、飛兎はやや位置を移動した。

「インファ!」

 シナトの両手が差し出され、インファはなんとかそれを掴んだ。

「うっ」

 シナトの顔が苦痛に歪む。

「だ、大丈夫か!」

 なんとか飛兎の背に引きずり上げられ、インファはシナトに謝った。

「ごめん、お前怪我……」

「お前のせいじゃねぇよ。それより急ぐぞ。こいつを地の町までなんとか行かせないといけない」


 結局、二人はなんとか飛兎をなだめながら、地の町へと向かわせた。着陸にも成功し、茶色い飛兎は二人にご褒美を要求するような仕草を見せたが、生憎何も持っていなかった。インファはこの可愛らしい生き物に愛着を持ってしまい、別れる時には大きな悲しみを感じた。

「元気でな。兎制官に怒られたらごめんな……元気でな!」

 兎は、耳をばたつかせてまた空へと消えていった。 

――こうして、二人は無事に、地の町へと足を踏み入れたのである。



 それが、半年前のことだ。

 地の町の、スラムの片隅の倉庫で、二人は息を潜めて暮らしていた。生きる糧は、盗みをして得た。

 地の町は、ほとんど廃墟と言ってよい状態だった。そしてそこに、空の都では暮らすことのできない、訳ありの人間が流れ着いて、生きている。その人々が形成しているのがスラムで、スラムの他には恐らく犯罪組織の根城のような建物や、怪しげな人間がうろつく封鎖区画のようなところもあった。

 犯罪組織の根城に入り込む以外に働き口は全く存在しない。ダカンでも下の層に行けばスラムはあったが、スラムの人々は上の層に行って清掃や簡単な工事の仕事をして日銭を稼ぐなり、物乞いをするなりしていた。だが、ここではそもそも富裕層は雲の上にいて、彼らの生活とは大きく断絶しているので、稼ぎようがない。

 唯一の希望は、空の都市から輩出されるゴミ処理場で、多くの人々はそこに行ってゴミを漁っていた。シナトとインファも時々そこに行った。シナトはそのあまりの腐臭にすぐに脱落したが、インファは歯を食いしばってゴミを漁った。こういうのには慣れている、とつぶやきながら。

 盗みをする相手は、犯罪組織が出している闇市で、インファが店の男の目を自分に向けさせている隙に、シナトが素早く果物をくすねる、という案配だった。

 そんな日々を送る中で、しかし二人の体力は衰えていった。

 空気が悪い。悪いという段階ではなく、毒だ。そのことに気付いてから、拾った布を洗ってマスクにしたが、全てを防げるものではなく、明らかに二人の体には異変が起き始めていた。

 ――生きることは、かくも辛いことか。

 インファは、体が動かず、横になって過ごす時間が多くなった。考えるのは、皆のことだ。

(遠は……遠はどうなったんだろう。ミゼア、椎椎、マイベリ、3人とも皆生きているのかな……)

 養成所で最初に皆に出会ったときは、甘っちょろく生きてきた、唾棄すべき奴らだと思っていた。だが、自分の感情は自分の思いどうりにならず、日々勝手に表情を変えていく。遠は、なんだかよく分からないが、すごい。ミゼアは、自分にはない気品とオーラがある。椎椎は甘い奴ではあったが、可愛らしくて、嫌いじゃなかった。マイベリのことは明確に最後まで嫌いだったが、今となっては懐かしい。

 インファは、月糸の次の女神を殺す為に月糸女神養成所に送り込まれた。女神を神として強く信仰する、ダカンの真祖女神派に属していたインファは、例え他の圏と言えども『女神』を手にかけることにはやや抵抗があったが、敬愛するアッサニー様の勅命とあらば、受け入れるしかなかった。

 ――あたしが一番強い。力も、心も。だから、殺れる。

 そう思っていた。力はもちろんのこと、心だって大抵のことじゃぴくりとも揺らがない。悲しい、辛い、そんな感情はあたしには無い。誰のことも信じないから傷つくこともない。そう、思っていた。

 だが、『塔』の最後で、遠と対峙して、それは間違いだったと気付いてしまった。

 (遠が、一番、強かった)

 悲しみながら、傷つきながら、裏切られながら、それでも相手を受け入れる。前を向く。その姿は、まるで、まるでお母さんのような、まるでアッサニー様、女神様のような――。

 だから、今、遠を助けたかった。なのに――。この、劣化した体が疎ましい。

 自分の体が不自由であることのもどかしさと苛立たしさから、不必要にシナトに当たってしまうことも増え、そんな自分にますます腹が立った。それで、ある日インファは、シナトに一緒に暮らすのをやめないか、と申し出た。

「あんただって、あたしに当たられてるの嫌でしょ」

「そりゃ嫌だけど、たいしたことねぇよ」

「嘘! あたしだって自分で嫌なんだから嫌に決まってる!」

「だから嫌だっつってんじゃん。でも慣れてんだよ。俺塔のあそこにいたときは、家族と一緒だったし。他の家族も一緒に住んでたから、誰かが苛々して喧嘩になるなんて日常茶飯事だったぜ?」

 その言葉を聞いて、インファは初めて、シナトの村のことを思い出した。そうだ、シナトはあそこで誰かと一緒に暮らしていた。それは家族や、他の近しい人々だったんだ……。そしておそらく、彼らは皆、助からなかった。

 それなのに、シナトはこの半年間、一言もそんなことを言わなかったし、辛がる素振りすら見せなかったのだ。

「……あ、あたし、気付かなくてごめん」

「は?」

「あたし、あんたの家族とかのこと、あんたも誰か大切な人を亡くしてるんだって全っ然気がついてなくて、ご、ごめん……」

「今更? いいんだよ、俺だってお前の家族のこととか気にしてねぇし」

「あ、あたしは、親も親族も皆とっくに死んでるし、ずっと一人だったから……」

 シナトは俯くインファのことをじっと見て、はっはっは、と笑った。白い息が立ちのぼる。

「お前、最初は腕っ節が強いだけの男みたいな奴だと思ってたけど、案外そうやって人の感情を思いやったり、気にしたりすんだな。女らしいとこあんじゃん」

「は!?」

「とにかくさ、まぁもし色々気にすんだったら一緒にいてくれよ。いきなり大家族から一人になるよりは誰かいた方がいいし」

「う、うん。じゃぁ仕方ない、淋しがりのシナト君のためにいてやるか!」

「だーれが淋しがりだ、調子に乗りやがって!」

 そう言いながらシナトは外へと出て行った。用を足しにでも行くのだろう。

 残されたインファは、嬉しいような、むず痒いような、なんとも不思議な気分になりながら、自分の寝床に入って毛布を被った。有り合わせの布で作った寝床はとても十分に温かいとは言えなかったが、それでも今はなんとなくいつもの冷たさが気にならなかった。

(家族の、代わりか……)

 インファはシナトの言葉の意味を反芻する。

(誰かいた方がいい、ってことは、誰でもいいってことかな……)

 そう考えると、先ほどまでの淡い温かさは、逆に刺のような痛みになった。

(ずっと、代わり、なのかな……)

(いや、でもあたしだってあいつのことまだ全然信じてないんだから、代わりで丁度いいんだ)

 気持ちはあちらこちらを揺らいで忙しい。そのうち、インファは眠りに落ちた。



 最初はこんな街に潜んでいてもすぐに追っ手はかかるのではないか、と不安に思っていたシナトだったが、全くその気配はなく、半年がたって、ようやくシナトは安心して睡眠を取れるようになった。

 それと時期を同じくして、シナトはインファが寝ている夜の間は犯罪組織に出入りするようになった。好んで選んだ方法ではなかったが、自分とインファが生きるためには仕方がない。――そして、遠を助け出し、尭球圏界連合を滅ぼすためには。

 その組織のメインの生業は、尭球の各所で使役されている獣達――例えばシナトとインファの出会った飛兎のような――の違法生育・販売だった。これらの獣の正式な生育・販売権は圏界連合にしかなく、よってその価格は高騰している。違法に手に入れた種によって獣を育成し、違法に販売した収入が、組織の重要な資金源となっていた。

 そして、そこで、シナトは出会ったのだ。

「……カアン!?」

 生まれてからずっと連れ添ってきた、相棒――のはずは無かった。カアンは死んだのだ。鉱球の、あの塔の上で。

 だが、組織が根城としている廃倉庫には、確かに数匹の狼達がいたのだ。白灰色の毛並み、額の『天印』はまさにカアンを筆頭とする雪狼の一族と同じだった。

 組織の人間によれば、この雪狼達は売り物ではなく、もう長いことこの組織で番犬として飼われているのだと言う。

(番犬として飼う? こんなに知性の高い生き物を? 宝の持ち腐れじゃねぇか!)

(今はまだ話しかけてくれねぇけど、絶対、意思伝達できるようになる)

(……俺が……俺が、カアンとできなかったこと、今やりたいこと、……こいつらとなら、できるかも、しれねぇ……)

 シナトの、成し遂げたいこと。それは――。


 シナトの祖先である、尭球のテロリストだった初代シナトには、テロを行う明確な目的があった。

――「人工生命体『女神』の製造を止めること」。

 それは生命への冒涜だ、と言うのが初代シナトの意志だった。生まれさせられた女神達が可哀想だ、という犯行声明と共に、『女神』を生み出した研究所ごと吹っ飛ばした初代シナトは捉えられた。そして、丁度『女神の庭計画』として鉱球に植民しようとしていた尭球圏界連合によって、鉱球に強制的に送られた上、『塔』に封じられた。封じられたはずが、今の今まで代替わりしつつ続いている理由は、歴代シナトが、『塔』に登る歴代女神候補をさらい、妻としてきたからである。

 数代前のシナトまでは、「人工生命体『女神』の存在は生命への冒涜」という考え方が受け継がれていたが、その思想はいつの間にか変容していき、今のシナトはそんな信条は持っていなかった。

(どんな形で産まれようと、あいつら普通に生きてるもんな)

 例え彼女達の体を構成する要素が、本来の人間を構成する要素と大きく違ったとしても、彼女達は確かに生きていた。存在が生命への冒涜、と言われても、存在している彼女達には一片の罪もない。 

 今のシナトの目的は、自分の祖先を『塔』に封じ、あまつさえ鉱球世界を滅ぼした尭球圏界連合への復讐が第一。それと、遠を助けること、その2点のみだった。

(俺がもっとうまくやれりゃぁ、遠はあんなに無茶な力の使い方をしなくてすんだし、あの世界を自分が滅ぼしただなんて思うような、罪悪感を背負わなくてすんだんだ)

 シナトは、珍しくひどく後悔していた。

(かわいそうにあいつら、みんな幸せにしてやりてぇなぁ)

 もちろん、インファのことも。

(みんなみんな、300年も前の軛に縛られすぎだ。……俺で終わらせる。雪狼達と、俺で)

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