8 椎椎
昼下がりの空は、雲の見本市のようだった。雄々しい残暑の雲に、柔らかそうな初秋の雲が混ざっている様子は壮観という他ない。雲の大旅団は、高い高い峰と峰の隙間を縫うように、北へと流れていく。そのうち、大きな一群のしばらく後から、一切れ小さな雲がふわふわと流れていくのを見て、思わず椎椎は布を干す手を止めた。
(はぐれてしまった雲かな……)
まるで私のようだ、と思って、ううん違う、と自分で打ち消す。
(私ははぐれたんじゃない……そんな考え方は甘えだ。私は自分で逃げたんだから……)
逃げ出したときは、冬の終わり頃だったように思う。
椎椎は、耐えられなかったのだ。自分の気持ちが、どんどん澱み、腐っていくことに。
恋をしていた相手も、家族も、一族の人間も、誰一人として生き残りの鉱人達の中にはいなかった。辛く、悲しく、やりきれなかった。その気持ちはすぐにウルバンに向かった。あの男。殺してしまいたい。
そして同じように、その黒い感情が、遠に向いていくことも、押さえられなかったのだ。遠は悪くない、遠は悪くない、と何度も考え、何度も口に出して呟いた。それでも感情は理性の籠をすり抜けて、遠がもっとうまく戦えば、そもそも遠が果神にならなければ、と泥のように椎椎を飲み込もうとする。
(いやだ、私はそんな風に考えたくない……)
だがミゼアやマイベリは、そもそも遠が悪いなどと欠片も思っていないように見え、彼女達との溝が増々椎椎を苛立たせた。ある時、椎椎は、もう駄目だ、と強く思ったのだ。このままここにいては私は負の感情に飲み込まれ、おかしくなってしまう、と。
それで彼女は、食糧配給車の下に張り付く役を志願し、外界に出た。本当は、こんなに長くミゼア達と離れるつもりはなかったのだ。少し外に出て、少し情報を手に入れ、少し自分の気持ちも整理して、そしたら戻ろう、と思っていた。
しかし、そんなに上手く事は運ばなかった。まず椎椎は、空中都市に登る機械の入り口のようなところでの検査にひっかかった。なぜ人間がいると分かったのかは椎椎には理解ができなかったが、とにかく警報が鳴り響く中、彼女は走りに走った。周りを見る余裕もなく走ったが、詳細まで見ずとも、今までに見たどんな街にも似ていないところに自分がいるということだけは確かだった。
道を走っていては追いつかれると思い、彼女はあえて道を外れて混沌とした猥雑な路地のようなところに飛び込んだ。すえた臭いが鼻につき、吐き気を必死に堪える。途中、工事の作業員用のジャケットとヘルメットのようなものが無造作に道の脇に置いてあるのを見かけ、申し訳ないと思いながらそれを拝借して纏い、今度はゆっくりと歩いてその場を離れた。
追っ手はそこで離れていったようだったが、結局彼女は空中都市には行けないまま、放置された古い街……まるで教科書に出てくるスラムのようなところに取り残されてしまったのである。顔に泥を塗ってあえて汚くすることで、椎椎は子供や男に無用に絡まれることを避けた。そしてひたすらに歩き続け、いつしか周りの建造物はその密度を薄くし、どうやら椎椎は街の終わりに辿り着いた。
その先にあるのは、荒野だった。土は貧しく、触ると砂と小石ばかりで、まばらに草が生えている。そんな風景が地の果てまで続いているように思えた。
しかしよく目を凝らすと、地の果てのさらに向こうに広がる空に、その水色にうっすらと溶け込んだ、淡い紫色の陰のようなものを目に留めて、椎椎は目を凝らした。
(……山?)
目が慣れて、その陰のような色調が不規則で鋭利な輪郭を持つことを確認し、椎椎はそれが山の峰、稜線なのであろうと推測した。
(なんて大きい……、すごい)
涼車でかろうじて見たことのある「山」は三角形だったし、標高せいぜい100メートル少しの、子供にすら馴染みやすい小山だった。しかし今遠くに見える山らしきものは、その両端は空に溶けて見えず、三角形というより長方形の広大な壁のような大きさだった。
椎椎は呆気にとられたまま、その連なる山陰が刻々と色を濃くし、薄紫から濃紫、そして藍へと変化していくのを眺めていたが、寒気を感じて我に帰った。
(前に進まないと。……五つの圏があるはずなんだから、この先にはきっと別の圏があると思うけれど……)
椎椎は、後ろを振り向いて、澱んだ空気の中の街をじっと見、次に自分の前にある荒野と山脈をじっと見た。そして結局、彼女は荒野の方を選んだ。
椎椎は、涼車の生まれだ。涼車は気候が冷涼で、冬は大変厳しい。圏のほとんどは草原で、街はちらほらとしか存在しなかった。人々の半分が街に住み、半分は遊牧民として生活していたのである。
椎椎も遊牧民の出身で、ある一族の頭領の第一子、つまり跡取り娘だった。子供の頃から、暇さえあれば馬に乗り、あるいは草原の絵を描くのが好きだった。草原は季節によって様々な表情を見せる。まるで緑の宝石が波打つように見えることもあれば、淋しげな風が吹き渡っていくこともあった。そのどの表情も、椎椎は好きだった。
彼女が荒野を選んだのにはそんな訳があった。街よりも、だだっ広いところの方が、例え荒れ地であろうとも馴染みがあったのである。荒野を抜け、山を越えれば新たな街があるかもしれないという期待もあった。
だがしかし、そこを進むのは容易ではなかった。何しろ食べ物がなかった。奇跡的に、あの盗んだ上着の中に数個の飴玉とパンのようなものが入っていて、椎椎はそれを頼りに歩いたが、どんなに小さな欠片にして食べようとも、すぐに尽きた。荒野にはえている草は噛んでも何の味もせず、ただ苦くて固いだけで、飲み込めそうにない。
それでも何か腹に入れないわけにはいかなくて、掘り出した貧弱な根を齧り、ほんの僅かな夜露を舐めて、椎椎は歩いた。昼は歩き、夜は手頃な岩を見つけて岩陰で休む。そんな生活が数日続き、しかし思っていたよりもすぐに、限界が訪れた。足の裏はとっくのとうに傷だらけになって血が滲み、それより頭が痛く、手足は疲れきって動かず、たまらず座り込めば意識は朦朧として、明らかに自分が危険な状態であることが分かった。そして、それらを解決する策が何も無い。
(……私は、もう駄目みたいだ……)
空中都市は遥か後ろになり、その分空が広い。いつの間にか、空の濁りが少し薄くなっているような気がした。
(父様、母様、ヨーイルさん、……さようなら。あっけないな……)
(私は自分の悪意に飲み込まれるばかりで、女神になる資格など欠片もなかった……)
(インファ、ミゼア、マイベリ、遠。頭領の娘で……無口で感じが悪いと嫌われ者だった私に、初めて居場所をくれて、ありがとう……)
死ぬのは、とても怖かった。だが、目を閉じて眠るように安らかに死ねるのであれば、幸せなのかもしれない、と思った。
椎椎は、目を閉じた。次は、涼車の草原に吹く風に生まれ変われたら、と願いながら。
椎椎が次に目を開いたとき、初めに目に入ったのは自分を覗き込む動物の顔だった。
「きゃっ」
思わず声をあげたが、それは故郷でもよく見慣れた羊だった。羊は椎椎に興味を失ったのか、べええ、と懐かしい声をあげながら去っていく。
(……)
椎椎は自分の手を見て、それを頬に当てた。
(……生きてる……)
上体を起こしたままぐるりと首を回すと、彼女は故郷で使っていたものによく似た、布張りのテントの中にいることが分かった。
(本当に、生きてる? 夢じゃなくて?)
掛けられている毛布からごそごそと這い出て、そっとテントの布に触れた。きちんと、ごわっとした感触がある。
1本の木でテントを支えているところも、使われている布も本当にそっくりだ。椎椎は混乱しながら、テントの入り口の布を持ち上げた。
そこには、草原が広がっていた。
(草がある……!)
草は短く、冬の雪を押しのけて、今まさに顔を出し始めたばかりの様相だ。だが草原であることには違いない。思わず椎椎は這い出て、立ち上がった。その光景の美しさに、動悸がして、息が苦しい。
草原はなだらかに続き、だが急に起伏に富んで、その先は山へと続く。辺りを見渡せば、この地が険しい山と山に挟まれていることがすぐに分かった。左右に切り立つ黒々とした峰は、まだ雪を冠っている。
見上げれば、空は晴れ渡っていた。真っ青な青、一点の曇りも無い。
(……涼車……いや、涼車にこんなところはない。でも、こんなに美しい……やはり私は死んだのかな……)
何故か無性に涙が込み上げてきて、椎椎は顔を両手で押さえた。嬉しいのか、悲しいのか、自分では分からなかった。
その時、ちりん、ちりん、と微かな鈴の音が聞こえて来て、椎椎ははたと顔を上げた。斜面の下から、馬に乗った小さな人影が近づいてくる。
(馬がいる……!)
人より、馬がいることの方が嬉しかった。一頭いるということは、他にもいるのだろうか。そこまで考えて、しかしあの人影が自分にとって害を成す人間だったら、という危険にはたと気づき、椎椎は固まった。
(でも、たぶんあの人が私を助けてくれたんだ)
椎椎は腹を決め、人が近づいてくるのを待った。すぐにその人間は、背が高く、体格の良い男性だということが分かった。年の頃は40位だろうか。鳶色の髪は癖毛なのか縮れており、僅かに皺が刻まれ始めた日に焼けた肌はしかし若々しい張りがある。その眼光には鋭さと一緒に、温かさも同居しているように見えた。
「起きたか。具合はどうだ?」
男はさっと馬から飛び降りて、馬の首を軽く叩いた。重量感のある見た目とは逆に、まるで少年のように軽い身のこなしだった。馬は大人しくどこかに歩いていく。
「あ……良いと思います、ありがとうございます。あなたが助けてくださったのですか?」
「助けたというほどではない。君が行き倒れていたから、街に届けようか迷ったんだが……。……少し面倒かと思って、ひとまず俺のところに連れてきてしまった。すまん」
「いいんです、その方が良かったんです。あの……私、椎椎と言います。あなたは?」
「俺は、ジヘルという名だ」
「ジヘルさん。……ジヘルさんは、ここに住んでいるんですか?」
「ああ、そんなものだ。でも、ここにだけとは限らない。山脈地帯を移動して、色んなところに滞在している」
「……お一人で?」
「そうだ」
「……」
淋しくはないのですか、という言葉を椎椎は飲み込んだ。そのかわり、邪魔をしてしまったこと、迷惑をかけたことを詫びた。
「いい、気にするな。……中に入ろう。何か食べれるか?」
「水を……お腹も、すいています」
「そうか! それはいいことだ。じゃぁ腕を振るうかな。ちょっと待て、すぐに何か作る」
「すみません……」
椎椎は、水の注がれた椀を受け取り、寝床の横に座った。まだ、体力は万全とは言えないようだった。
ジヘルは手慣れた動きですぐにストーブに火を入れ、その上に鍋を載せた。何かの穀物と水を鍋に入れ、ぐつぐつという音がするのを待って、その中にチーズの塊を削り下ろし、ひとつまみの塩を振りかける。一連の動作を見つめている椎椎は、既にお腹が鳴り始めていた。
「さぁ、食べな。俺はいいんだ、さっき食ったばっかりだから」
「すみません……」
できあがった食べ物は湯気が立っていて、とんでもなくいい臭いがする。渡されたスプーンで一口掬ってそっと舌の上に乗せると、今まで食べた何よりも美味しい気がして、椎椎は目を見張った。しかし、美味しさと同時に込み上げて来たのは、激しい罪悪感だった。
(私……逃げたのに、みんなを置いて逃げたのに、こんなに美味しいものを私だけ……)
そう思った途端、二口目に手が伸びない。これを、遠に、ミゼアに、マイベリに、インファに。鉱人のみんなに。飢えている子供達に。届けたかった、心の底から。涙が出そうなのをこらえ、だがスプーンを持つ手は小刻みに震えた。
「……気にしないで、食え。ここで君が食べなかったところで、それが誰かの口に入るわけじゃない」
椎椎の様子をじっと眺めていたジヘルの言葉に、椎椎ははっと顔をあげた。ジヘルは微笑みを浮かべている。
「あの……なんで……」
「いいから。今は、食べるんだ」
「……はい……」
椎椎は二口目も口に運んだ。一口目と同じように、本当に美味しかった。我慢していたはずの涙が眦から零れていくのが分かる。泣きながら、食べた。すぐに楕円形の椀の中は空になった。
「ご、ごちそうさまでした。ありがとうございます」
「このチーズの乳は表にいる山羊のミミのものだ。ミミにも感謝するんだな」
「はい。後で、お礼を言いに行きます」
するとジヘルは初めてその険しい顔を崩し、ほんのりとした笑みを浮かべた。その笑みが、少し故郷の父を思い起こさせ、胸がちくりと痛む。
「真面目なお嬢さんだな。……少し、話ができるか」
「……はい」
椎椎は崩していた足を直し、姿勢を正した。
「君は、この星の人間じゃない。鉱球から連れて来られた。……この星の人間は、皆左肩に固有の番号が振られている。君には、それが無い。」
「はい」
「そしてその額の印は、君が女神になれる素質を持っていたことを示している」
「はい」
「星を滅ぼされた鉱人は、小さな地区に押し込められていると聞く。君は、そこから逃げてきた?」
「……はい」
「戻りたいか?」
「……。戻らない、には、どういう選択肢が、ありますか」
「そうだな。のたれ死ぬか、俺と放浪するか、だ」
「……ジヘルさんは……」
「俺は、名前以外、君に明かすことはできない」
椎椎は考え込んだ。ジヘルは見た目の無骨さとは裏腹に、いい人そうに思えたが、鉱球を滅ぼした尭人である。それに訳ありのような感じだし、悪いことを生業としているのかもしれない。そうも考えたが、まだとてもミゼア達のところに戻れるとは思えなかった。もう少し、時間が欲しい。それに、ここにいたい。この、故郷によく似た場所に。
「……ジヘルさんと、放浪します」
「……そうか。じゃぁ色々教えるから、働いてくれ」
あっけないジヘルの許諾と共に、椎椎の新生活が始まった。とは言っても、元々の涼車での生活に近いので、椎椎はすぐに色んなことを飲み込んだ。
日の出と共に起きて、山羊や羊に餌をやり、乳を絞る。乳を保存食に加工する。山の麓の湧き水を汲んできて、畑に水を撒く。衣服を洗濯したり、家畜を散歩させたり、簡素なご飯を作ったり。ジヘルはすぐに椎椎が涼車圏の出であることを見抜いた。なぜそんなに色んなことに詳しいのか、と聞きたかったが、きっと答は貰えないだろう、と思って我慢した。
ジヘルは普段の口数こそ少なかったが、基本的に何も椎椎の困るようなことはしなかった。だが明らかに椎椎との間に、さりげなく一枚壁を作っていた。これ以上踏み込んでくれるな……というひりひりとした強い願いのようなもの。
それでもジヘルは、自分のこと以外はきちんと話してくれた。毎晩毎晩、強い馬乳酒を飲みながら。主に、椎椎の知らない、世界のことについて。そういうときのジヘルはよく喋った。
「この宇宙には、たくさんの銀河がある。この尭球は、その中のとある銀河の中の、第五太陽と呼ばれる恒星の周りを回っている。鉱球は、尭球の衛星だ」
首を傾げる椎椎に、ジヘルは一つ一つの言葉の意味を懇切丁寧に教えてくれる。
「鉱球の……椎椎達の世界の5つの圏は、尭球の五圏の特徴を模式的になぞって作られた。例えば椎椎の故郷、涼車圏は寒くて、遊牧生活をする民がほとんどだったろう? そういう気候は、尭球の涼車圏を真似たものだ。大体……そうだな、君達の圏の人口は、尭球の圏の、1/1000程度かな」
「鉱圏は女神が統治していただろうが、尭圏の統治形態は圏によってまちまちだ。宗教団体が仕切っている圏もあれば、一企業が統治している圏もある。しかしその全ての上位組織が、圏界連合だ。『女神の庭計画』を立てたのは、300年程前の圏界連合だ」
椎椎は唇を噛む。憎しみは、忘れられない。だが今は冷静になって、この知識を飲み込まなければならない。そしていつか、ミゼア達のところに戻って、有用に活かしてもらう。
「そもそも、私達は、なぜ、作られたんですか」
椎椎は思い切って質問した。ジヘルの顔に僅かに、暗い影が過った。
「……人間は、科学技術の進化を押し進める生き物だ。どこかでストップをかけることはできない……」
そう吐き出して、ジヘルは首を振った。
「いや、きちんと知ってもらおう。君達の原型となるヒューマノイドは、それを作ることができてしまう科学技術の発達と、またその使い道を見つけてしまった圏界連合の人々の思惑の合致によって生み出された。最初は、……最初は、軍事的に……軍隊の、性処理要員として、作られたんだ」
椎椎はしばらくその意味を飲み込むのに時間がかかった。そもそも、あまり男女のそういう営みについて椎椎は詳しくなかったのだ。
「ええと……男性には性欲があって……それを受け入れてくれる女性が必要?」
「まぁ、そういうことだ。しかし軍隊にいるとどういう訳か、特に性的欲求が強くなる。肉体を鍛えることによるものなのか、精神的に極限に追い込まれるからなのか、禁欲的な環境が逆にそういう気を起こさせるのかは分からん。とにかくこの問題をちゃんと解決しないと、軍隊内でのレイプなどに繋がる。かといって本物の女性を連れてくるのは人道にもとる。そこで、人であって、人でない存在……の需要が発生した。同じように、軍隊以外でも、位の高い立場の人間の安全な遊び相手としての女性の需要があった」
そこまで話して、ジヘルは深く息を吐いた。
「何が人道にもとるだ……そのために生命を作り出すことの方がよっぽど人道にもとっている……」
そして椎椎を見て言った。
「自分は何も関係ないという顔をして今俺は君に話しているが、俺にもこんな事態の責任はあるんだ。君は、もっと俺を恨んでいい」
椎椎は、ジヘルの目をじっと見た。そのまなざしは、何かを深く憂いている。
「あの……ジヘルさん。私は……私は、そういうあまり大きな出来事や流れに、深く感情移入できないみたいなんです」
椎椎は、尭球に来てからずっと考えていたことを口にした。
「故郷にいるとき、私は何も考えずに生きていました。ただ毎日、生きて、馬に乗って、絵を描いていただけで。……すごく好きな人ができて、ようやく自分はこんなに強い感情を持つことがあるんだ、と気づいたくらいです。それは、……こんな風に、自分が人間じゃないとか、尭球なんていう世界があるとか、色んなことを知っても……もちろん驚いたりするけれど、他の人より、深く関心を持てないみたいで……。ただ、私は、私は、好きだった父様や母様、片思いをしていたヨーイルさんのことばかり考えているんです。皆を殺した……ウルバンという人だけは許せないし、……遠やミゼアのことすら恨みそうになってしまう……愛にしろ憎しみにしろ、身近な人にだけ身勝手な感情をぶつけて、全体のことは考えられないんです……」
ジヘルは眉を下げて微笑んだ。
「その歳で、そこまで自分のことが分かっていれば十分じゃないか」
「でも……」
「……俺は……うまく言えないが。きっと君の仲間たちだって、君のそんなところが好きだったんじゃないか」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
ジヘルの言葉は嬉しかったが、それで「そうだ、自分はこれでいいんだ」と割り切れるようになれたわけではなかった。だが、その晩はなぜか「しーちゃん!」と呼ぶ遠の声と笑顔を思い出して、無性に胸が苦しかった。
あっという間に半年の月日は流れ、椎椎は今こうして、夏の終わりの空を眺めている。
不思議なことに、鉱人達と暮らしていた頃の苦痛……悲しみや恨みは、少しずつ和らいでいった気がする。何がきっかけという訳ではなく、少しずつ少しずつ、夜は眠れるようになったし、昼は暮らしのための作業に追われ、あまり故人のことばかり考えている余裕がなくなった。
(動物や植物、空が私を浄化してくれる……)
そんなことをぼーっと考えていたとき、ふと、椎椎は何かを感じた。
(? 誰かいる……?)
馬や羊かと思ったが、ジヘルの家畜たちの気配はもう後ろを向いていても誰だか判別できる。それとはもっと異質な何か。
テントの脇にある畑にいるジヘルの方を見ると、ジヘルも屈めていたはずの腰を伸ばし、あたりを見回している。その視線の先は、山脈の麓、いつも湧水を汲んでいるあたりで止まった。
(……? 白い、人?)
ジヘルが「椎椎、こっちに来なさい」と大きな声を出した。椎椎は慌てて立ち上がり、ジヘルの方に駆け上がる。
「何か、いますね?」
「椎椎、見えるのか? 俺は、とにかくものすごく強いエネルギーしか感じない。だから何か危ないものかと……」
「……エネルギー」
その言葉はゆっくりと形を変え、椎椎の頭の中で「天力」と変換された。その瞬間、椎椎の目に、はっきりと白い塊が像を結んだ。
「遠!!」
椎椎はジヘルの静止も聞かず、転がり落ちるようにして斜面を下り、草を蹴って走った。
「遠!!」
近くに寄る。――髪は長くはなっているが、確かに、それは遠だ。でも、遠ではない。
「遠……」
彼女の体は、透けている。透けていたり、光っていたり、ムラがある。その目は開いてはいるが、これだけ叫んでいるのに、これだけ近くにいるのに、椎椎を見ていない。
最初椎椎は自分がおかしくなったのかと思ったが、そもそも遠がこんな場所にふらりと現れるわけがない、そう思った時、初めて全身の毛が泡立つような恐怖を感じた。
――『はなればなれ』。肉体から、魂だけを一瞬分離することができるという。だがそれは女神にしか許されないほど、多量の天力を消費し、一瞬でも死の危険を伴うものではなかったか。
遠はゆっくりと椎椎の方に歩いてきた。
(……あ、熱い……!)
遠の体は、明らかに熱を発していた。遠は椎椎に一瞥もくれずにその横を通り過ぎる。長い髪が風に吹かれるように泳いでいた。
「え、遠……ま、待って!」
だがもちろん、遠は止まらなかった。椎椎は、混乱したまま遠を二、三歩追いかけて、その手を掴もうとした。――だが。
当然のごとく、椎椎の手は遠の体をすり抜けた。遠が何かに気付く様子もない。
「……」
椎椎は自分の手を見た。熱が残っただけで、何も触れなかった、手。
「い、いやだ」
無意識に声が出た。
「いやだ、遠、こんなのいやだよ。こんな……こんな、体と心が切り離されるほど、痛がって、苦しんでいる遠なんていやだよ!!! 笑ってて!!! ねぇ!!! 笑っててよ!!!!」
椎椎は泣きながら遠に追いすがった。背後から遠を抱きしめては熱い、何もない空間をすり抜けて転び、また足を掴もうとしてその手は宙を切った。また立ち上がって、遠の肩に触れようとして、虚空を掴む。
「遠ーーー!!!」
こんなに大きな声で泣き叫んだのは、生まれ落ちた時以来かもしれない、というくらい椎椎は泣いた。どこか、神経が麻痺したかのように泣き、転び、泣き、転んだ。そのうちに声も掠れ、喉は何の音も出さなくなり、涙も枯れた。
椎椎はついに地面に座り込み、放心状態で両手を草についた。
(……)
(……辛いに決まってるじゃない……遠だって、ものすごく苦しいに違いないじゃない……)
そんなことには気付いているつもりだった。何となく想像していたつもりだった。だが実際に、遠の半身の状態……静かな熱で自らを燃やし尽くすような……を見れば、いかに自分が遠のことを考えていなかったかが分かった。
(それに……私はさっき……笑っててと? 苦しんでいる遠なんて嫌だ、と?)
光のように、鉱球での最後の遠の言葉が思い浮かぶ。
――一つの世界を滅ぼしたのに、もう一つ別の世界を救えって?
(私は、何を遠に要求してしまったんだ……)
何もかも、遠に押し付けていた。遠はいつも飄々と笑っていたから、悩みも、辛いことも無さそうだったから。
「遠……ごめん……ごめんなさい……」
ふと、温かいものが椎椎の肩にかけられた。毛布。
「冷えてきたぞ」
ジヘルだった。
「椎椎、顔を上げてみろ」
そう言われて、ゆっくり顔を上げて後ろを向く。ジヘルは笑った。
「俺を見てほしいんじゃない。前だよ。前」
夜を迎え始めた草原は、既に仄暗い。その闇の中に、こちらの方に向いている遠が、いた。遠は、いつの間にか歩くのをやめていた。その顔には何ら表情は浮かんでいない。だが、確かに何らかの意志を持って、この場に留まっているように見えた。
「……声が、少し届いたんじゃないか」
「そんな……」
私は、ひどいことを叫んだのに。
遠は、なぜかその場にゆっくりとした動作で、座り込んだ。
「……何しているんだろう……」
「何だろうな。椎椎の声が聞こえたから、この場所が気に入ったのかもな……」
朗らかにいうジヘルに、また椎椎の涙からは目が零れそうになった。椎椎は遠にそっと歩み寄り、その肩をそっと抱いた。抱いているのは感触のない熱気だけで、形はなくとも、心を込めて抱きしめた。
「遠、ずっと、ここにいて。また明日の朝も来る。昼も一緒にいよう。必ず、来るから……」
次の日も、その次の日も、遠は草原が気に入ったのか、ずっとそこにいた。時々歩いたり、座ったりと動きはしていたが、ジヘルと椎椎のテントから見えなくなる程遠くまで行くことは無かった。
椎椎の日課に、遠と話すこと、が加わった。もちろん遠は口を聞かず、表情も変えないので、椎椎の一方的なお喋りになったが、それでも椎椎は色々なことを話した。今までのこと、ここでの暮らし、自分の気持ち……。
いつの間にか、それは椎椎にとって、動物達との触れ合いのように、心に平安をもたらす時間になった。少し前まで遠を恨んでいたのに、静かに負の感情は消えていった。
今は、ただ遠を見守りたかった。吹く風は、日々秋めいて、冷たくなっていく。
(遠がこの場所からいなくなったら、私もミゼア達とのところに戻ろう……)
いつしか椎椎は、そう決意していた。
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