6 遠、果神になる、そして……

 シナトの村を出発してから、1日と半。ますますまとわりつくように攻撃をしてくる影と戦いつつ、4人は必死に頂上を目指した。シナトの存在、そしてシナトの提供してくれた奇妙な場所について、謎が残るどころか何一つ解決はしていなかったが、今は足を前に進めることだけを考えることにしていた。

 インファと遠は、一晩ゆっくり寝たことで十分に力を蓄えていたが、ミゼアと椎椎は、リラックスしたことで逆に今までの疲労に雪崩のように襲われており、ほぼ全く口を開かなくなっていた。しかも、あれだけ稠密に絡み合っていた木の根や枝達が、今度は逆に少なくなっていって、斬りつけてくるような強風と寒さが彼女達を襲っていた。

(木のありがたみが分かる……これは辛い……)

 防寒具は持ってきていたが、最低限の命綱にしかなる程度の温かさで、寒いことには変わりない。インファでさえ寒さには弱いらしく、急速に元気を失っていった。

「みんな、あと少しじゃよ……!」

 時折、木の根に寄生するようにして咲いている、鮮やかな紅色の小さな花を見かける。遠はその美しい色を心の支えに、剥き出しの状態になりはじめた塔の骨組みをつたって移動した。あと少し、と言った言葉は嘘ではなく、実際に頭上には、明らかに今登っている構造物とは種類の異なる材質でできた何か……が見え始めていた。

(……硝子、なんじゃろか?)

 目標となるものができたことで、遠は体に力が漲ってくるのを感じた。

(分厚い、硝子のような石でできた、床かな……?)

 蔦のような植物で全ては見えないが、遠はその透明なものを床と考えた。きっと、あの上に例の椅子があるに違いない。遠は、どこからあの硝子の床の上に入り込めばいいのだろうかと困惑したが、外周を地道に辿っているうちに、前方に朽ちかけた梯子のようなものが見えてきた。

「あれじゃ、あれで登るんじゃ」

「……ほんとだ、」

 インファが小さな声で返事をした。後ろを確かめれば、ミゼアも椎椎も離れてはいるが、姿を確認することができ、遠は安堵した。だがそれと共に、急速に差し迫る現実と向き合わざるをえなかった。今までは、とにかく必死にみんなで頂上を目指してきた。過酷な環境の中で、自然と『皆で、辿り着く』ことが目標になっていた。だが、今からはそうではない。月糸の女神になる資格を得るのは一人だけだ。誰かが選ばれ、そして誰かが選ばれない。

 遠は考えが全くまとまらなかった。自分はどうしたいのか、……少なくとも、女神になりたい、という気持ちはまだ湧いてきていなかった。だがシェムに「みんなと一緒にいたいの、その後のことはその時に考えればいい」と言った、まさに「その時」がまさに今訪れようとしているのだ。

 焦りを感じたまま、追いついてきたミゼアと椎椎を待って、かじかむ手で梯子を登る。軍手はしていたが、その布地に隔たれてなお、梯子の素材が氷同然の温度であることが伝わってくる。

「よっこい、しょ……」

 最後の段に足をかけ、辿り着いたそこは、だだっ広い空間だった。球を半分に割ったような形のドームで、壁面と床はおそらく同じ硝子でできている。壁面の曲線は、何本かの骨組みによって支えられているようだった。中心には、塔の中心を貫く極太の柱とほぼ同化して見える樹がはえており、その枝はドームの天井にぶつかって少し広がったところで、止まっている。その樹にめり込むようにして、『椅子』らしきものがあった。

「……」

 時が止まったような、空間だった。分厚い硝子を通して、外の青い空、白い雲が見える。今まで耳の側を吹きすさんでいた風は硝子によって遮断され、そのせいでまるでまったく音が消えたようにすら思えた。

 4人はしばし沈黙したままだった。遠でさえ――遠は正直椅子に興味があってもっと間近でどうなっているのか見たかったのだが――遠でさえこれから自分がどういう行動をとるべきか混乱を抱えたままだったので、行動を自重気味だった。

「さぁ、どうしましょう?」

 静けさを破ったのはミゼアだった。

「インファは……見ててもらうとして、わたくしと、椎椎と、遠。3人も辿り着いてしまったなら、順繰りに椅子に座ればいいのかしら?」

 インファはにこりと笑って、ドームの壁際まで後ずさり、腕組みをしてもたれかかった。傍観してます、という意志表示のジェスチャーだった。残された、遠とミゼアと椎椎の視線が静かにぶつかり、そして融けた。

「……きっと、椅子が選んでくれるのよね。遠、椎椎、お先に、どうぞ」

「やや、ちょ、ちょっと待って……ミーちゃんが、先で、いいよ。それか、しーちゃん」

「……いや、私、最初は、ちょっと……」

「遠、どうしたの。……あんまり顔色がよくないわよ?」

 遠はここまで来てもまだ、迷っていたのだ。迷っているというよりは、答が出ない。もし、もし自分が女神になったら? 女神になりたいという意志を持たないものが女神になってしまったら、どうしたらいいのだろう。そしてここまで来てそんなことに悩んでいる自分が本当に不甲斐なく、情けなかった。大丈夫じゃよ、と答えた声は、まるで遠くで誰か他人が喋っている声のように聞こえた。

「……じゃぁ、ジャンケンで決めましょうか」

「……そうだな……」

 だがジャンケンは遠を救いはしなかった。見事に負けて、遠は一番最初に椅子に座ることになった。ミゼアに促され、遠はよたよたと椅子に向かって歩き出した。まるで死刑台に進むかのような気持ちだった。遠は、自分の意志や判断に誇りを持って生きてきたつもりだった。だが今初めて、わけがわからないままに何かを選択しようとしている。そんな自分を許せなかったが、ここまでの道程の険しさと、友達への思いと、シェムや故郷への気持ちが混沌として、感情も判断力もコントロールできなかったのである。

 ふらふらと椅子に近づいて、その肘掛け部分に手を触れようとした、その時。

「やぁやぁ、ちょっと待ってくれないかな、お嬢さん達」

 その場にいた全員がびくっとして、無意識に身構えた。梯子の後ろに、いつの間にか若い男が出現していた。……見たことのない、銀色の長い髪を後ろで結わえ上げた、美しい男。

(……あ、シナちゃんが言ってた……)

 遠だけは、僅かに心当たりがあった。シナトが気をつけろ、と言っていた男。確かにとてつもなく美しく、男性にしては細身なために、まるで女性のようにすら見えた。見るからに野性的だったシナトと違い、この男はどこか洗練された、高貴と言っても差し支えないような雰囲気を漂わせていた。

「ああ、ごめんね、でも僕、怪しいものじゃないから」

「いやいや怪しいだろ、てめぇ邪魔すんなよ! 誰だ!」

 突っかかったのはインファだった。椎椎が走りより、その手をそっと引いてなだめる。

「僕の名は、ハターイー。僕は……、そうだね、簡単に言おう。君達に、今、女神になって欲しくないんだ。この『塔』から帰ってくれるかな」

「何言ってんだてめぇ……」

 インファが唸り、他の3人もその到底承諾し難い言葉に眉を潜めた。

「……あなたが、わたくしたちをずっと邪魔していたのね? 影に襲わせたり、……悪夢を見させたり」

「おや、後半の方は僕ではないよ。影の方は潔く認めよう。許してほしい。本当に、君達が女神になると困るんだ。非常に厳しい事態に……いや、最悪の禍に、この五圏全体が陥る」

「なぜ?」

「……それは、言えない。でも、本当なんだ。君達だって、女神を目指すからには、この世界を守りたいと思っているのだろう? だったら、引き返してもらうのが一番良い選択なんだ。そうだろう?」

「馬鹿にしないでくださる? 理由も聞かないで、素性もよく知らないあなたの言う絵空事を信じて帰るですって? そんなこと出来るはずがないでしょう!」

 憤るミゼアの横で椎椎も頷き、遠はひたすら考え込んでいた。男――ハターイーの表情は、柔和なものの、非常に切羽詰まっていることを感じさせた。嘘はついてない……でも、状況が理解できなさすぎる。

「僕は、この五圏のことなら大抵のことを知っているし、……全ての真実を知っているんだ。君達は、まだ何も知らない。この世界の、表層しか知らない。頼む、僕のことを信じてほしい」

 ミゼアと男の会話はまるで噛み合わなかった。

「……うん、わたしら、何もこの世界のこと、知らないんじゃ……」

 全く議論の解決の糸口ではないことを理解しつつ、遠は口を開いた。ハターイーが、遠を見る。

「ハーちゃん。全ての真実を知っているって言ったね? だったら、教えてほしいことがたくさんあるんじゃ」

 遠は堰を切ったように話しはじめた。

「なんで、この『塔』はあるの? なんで『椅子』が女神を決めるの? ううん、女神に関する仕組み全部、いつからあるん、どうしてこうなったん? アーリア様以前の世界はどうなっていたん? なぜわたし達はアーリア様以降の世界しか知らないん? アーリア様はなんで女神になったん? なんで、天恩のある<印持ち>と、普通の人がいるん?」 

 そこまで一気に言って、遠はひと呼吸置いた。

「このうち、1つでも良い。教えてください。そしたら、あなたのこと、少しは信じられるかもしれない」

 ハターイーは、目を細めて遠を眺めていた。

「……遠、君は、……いつその疑問を持ったんだい?」

「最近じゃろうか……でも、なんで今まで気付きもしなかったのか、不思議じゃ」

 ハターイーは、驚いたような、悲しいような、奇妙な表情をしていた。葛藤しているようにも、見えた。

「……僕は、あまり女性を悲しませるのは好きではないけれど、仕方ないね。君の質問に、答えよう」

 遠はその時、きっととんでもないことを知ってしまうのだろう、という奇妙な予感があった。だが、知ってしまったら今まで生きてきた世界がまるで変わってしまうようなことだとは、そんな覚悟はまだできていなかった。

「そうだね、何を話したって辛いことになるなら……最後の質問に、しようかな。端的に言うと、君達は、『人間』では無いのだよ」

 耳元の空気が、ざわざわと振動した気がする。……全身が、粟立つように小刻みに震えているような気がする。今、わたしは何を聞いた? 何も聞いていない。何も。遠の脳は無意識にショックを緩和しようとしたが、どこかに潜んでいた、遠の強い意志がそれを押しとどめた。

(……いいえ、わたしは聞いた……)

「天恩のような魔法の力なんて、本当に人間にあると思うかい? あるとしたら、その正体は高度に発達した科学技術だよ。……君達は、半分は人間だが、半分は科学技術の結晶だ。確かに生物ではあるが、造られた種だ。有機的人造人間バイオロイド、と呼ばれている」

「そ、そんなことできるわけない! そんな、体を改造するなんて! できるわけないわ……」

「嘘だ!!!」

 ミゼアとインファが叫んだ。

「そんなの嘘、だってちゃんとお母の股から生まれてきたし!!」

「うん。だから半分は人間だ。でも、一定の割合で、『天恩因子』を持つ者が生まれるような仕組みになっているんだ」

「……。だから、だからなんだって言うんだよ! 仕組みってなんだ、誰が仕組んだんだよ! ふざけんな!」

 インファの言葉は怒りのあまりに震えており、しかも彼女は硝子の壁を滅茶苦茶に蹴りつけていたが、少女達は誰もそれを気にかけ、彼女を労る余裕など無かった。気がつけば、椎椎は床にへたり込んで放心していたし、ミゼアは立ってはいたものの、目の焦点があっていなかった。

 信じられないような言葉、信じたくない言葉。だがなぜか、信じてしまっている。……どこかで、本能で、それが真実だと、感じてしまっている。

(……人じゃない……)

 無意識に、両手を見る。はめたままだった軍手を外そうとして、自分の指先が思い通りに動かないことに気付く。

(……)

 ゆっくりと外し、手のひらを眺めた。何も変わらない。人間じゃない、と言われたからといって、寒さで乾燥し、あかぎれがいくつかできた手のひらは紛れもなく自分のもので、皮膚の下には柔らかな赤い血が流れている。指先で唇に触れれば、温かい。生きている。

「お嬢さん達、本当にごめんね、悲しませてしまって。……さぁ、質問に答えたんだから、これで僕のことを信じてくれるだろう? 帰ってくれ、頼む。特別に、送っていってあげるから」

 ハターイーの声音は本当に悲しそうに響いた。遠は、椎椎とミゼアを見た。

「しーちゃん。ミーちゃん。……どうする? しーちゃんと、ミーちゃんは、月糸の女神に、なりたい?」

 二人は答えなかった。いつの間にかミゼアも座り込んでおり、少しだけ遠を見上げて、何かを言いたいような、言えないような表情をし、そして再び俯いて黙り込んだ。

「……ハーちゃん。わたし、ハーちゃんのこと、信じるよ。信じるけれど、帰れない」

 空気が薄くて、うまく呼吸ができない。心臓が壊れた鐘のように速く打って、うまく喋れない。考えがまだちゃんとまとまらなくて、自分が正しいことをしようとしているのか、わからない、でも。

「わたし、もっとこの世界のことを知りたい。なんでわたしたちが造られたのか、それに、『誰に』造られたのか……知って、それで、みんなが笑って生きていけるようにしたい。みんなが悲しんでいるのは、嫌なんじゃ。だからわたし、月糸の女神になる」

「……人間じゃなくても? もし、君達の種族の生い立ちが酷いものであっても、人類を恨まずに治められるかい?」

「……もしそうじゃとしても、そんなのは昔の話で、今生きている人たちには関係ないから恨んでも仕方ない。それに、わたしらだって過不足なく普通に生きているんじゃから、よく考えたら、人じゃろうと人じゃなかろうと大して変わらん」

「……困った子だね。賢くて、強い」

 ハターイーは眉を下げ、首を傾げて微笑んだ。遠にも分かるほど、その仕草は美しかった。

「遠は、仲間が大好きなんだね? インファ、椎椎、マイベリ、ミゼア。彼女達がいるから、女神になろうとしている。そうだね?」

 遠は頷いた。ミゼアがびくりと肩を震わせて顔をあげ、小さく呟いた。

「……あなた、まさか」

「ミーちゃん? ……ごめんね、わた……」

「違う、遠じゃない! ハターイー、まさか、お願い、やめて!」

「ミゼア、許してね。僕にはこうするしかない。君達を守る為にも、こうするしかないんだ。そうだろう?」

「いや! 言わないで……」

 ミゼアは手で顔を覆い、その細く白い指の間からぼろぼろと涙を零していた。ハターイーは体を屈め、ミゼアの肩をそっと抱こうとしたが、ミゼアは思い切りその手を振り払った。悲しそうな顔をしたままハターイーは立ち上がり、遠の方を向いた。

「遠、君の守りたい4人は、仲間じゃない。月糸の民ではないんだ。ミゼアはヨグナガルド、マイベリはニューポート、椎椎は涼車、インファはダカン。他の圏の玉宮の差し金で、月糸を陥れようとして差し向けられたそれぞれの圏の女神候補生兼、スパイだ。皆、君を騙していたんだよ」

「……」

 えっみんな、全員!? とインファが叫ぶのが聞こえたような気がした。……それと同時に、自分の中の何かが、はらはらと崩れ、空間に融けていくような感覚があった。色とりどりの欠片が舞う、今まで見ていた世界が美しく解けていく……。

「違うの、遠、違うの!!」

 ミゼアと椎椎も叫んでいた。

「ううん、違わないの。でも、でもわたくしは……わたくしは、本当に……あなたと出会えて……」

「遠、私もだ、本当に謝る、でも……でも……」

 その声はまるでどこか、ドームの外、遠く遠く別の世界で響いているように聞こえた。

 遠は思い出していた。初めて出会ったときのミゼアは半裸で着替え中だったこと、『遠はぼーっとしない!』と言う優しい声、椎椎が告白してくれた恋物語、いつも遠を頼ってきたマイベリ、その底抜けの明るさでいつも場を盛り上げてくれたインファ、みんなで散策した八層東街。全てが大事な思い出で、そしてそれは今も何も変わらなかった。不思議なほど、4人への怒りも、咎める気持ちも湧いて来なかった。……悲しみは無いとは言えなかったが、この『塔』での毎晩の悪夢の様子を見れば、もしかしたら4人が葛藤し、苦しみながらその役目を務めていたことは想像できるような気がした。

(……ああ、ミーちゃんがあまり月糸の常識を知らなかったり、椎椎の話す故郷の様子は月糸のどこにも当てはまらなさそうだったり、……そっか、わたしったら鈍感じゃなぁ。もしかしたら、みんなは気付いてほしかったのかもしれないんに……)

(あの、夢の中で話しかけてくれた不思議な声も、『もしミゼア達に裏切られたら』って言ってくれてたっけ。あれはヒントだったんじゃ。あのおかげで、今、わたしは大丈夫。みんなのこと、大切なままだし、みんなのこと……信じてる)

 解れて所在無さげに舞っていた色とりどりの欠片が、再び自分の中に戻ってくる。より鮮明な色に、より強い存在になって。遠は、ハターイーの目をまっすぐに見た。

「……じゃったら、わたしはやっぱり女神になる。そして、みんなと友達になれたように、みんなの圏と友好関係を築けるように努めよう」

 ハターイーは絶句していた。その足元で、ミゼアに続いて椎椎も声をあげて泣き出した。

「ごめんね、遠……っ」

「……わたくしは遠にはかなわない……遠が好きなの。できることなら、ヨグナガルドの手先ではなく、本当に遠を側で支えたかった……」

 遠は跪いて、二人の肩をそっと抱いた。

「謝らないで。わたし、みんなのこと、大好きじゃ。行ってくるね」

「……行かせないよ」

 次の瞬間、壁際にいたはずのインファが、獣のような速さで遠の目の前にいた。何が起きるのか予測できないままに、遠は右横に横っ飛びした。耳元でヒュッという鋭い音がし、風がすりぬけていった。

「……イーちゃん、」

「ああ、さすが遠だね、あたしの拳を避けるのはあんたくらいよ」

 インファは右の拳の軽いジャブを左の掌で受け止めながら、遠に迫ってきた。眼差しに宿る意志の強さで、彼女の本気を遠は悟った。

「他のやつらがどういう命を受けたかは知らないけど、どうせ生っちょろい内容なんだろうね。……あたしはダカンの出よ。あんた達は甘い、本当に。飢えと貧困、あらゆる暴力にあらゆる腐敗の蔓延る圏で生き抜くためになんでもやってきた……女神が唯一の希望だった。そんな苦しさ、あんた達には分からないんだろうな!」

 再び疾風のように間を詰めてきたインファの拳を、紙一重で遠はかわした。とても武力で対抗できる相手ではないと最初から分かっていたし、黒術を使ったとしてもどう戦っていいか分からなかった。

(それに、甘いと言われても、イーちゃんを傷つけたくない!)

「あたしを地獄のような境遇から救ってくれたのが今道女神アッサニー様よ。アッサニー様の勅命を受けて、遠、あたしはあんたを殺す!」

 インファの猛烈な左足の蹴りが遠の頬をかすめ、遠はバランスを崩した。右手を床につき、そのまま右腕を重心として後ろに飛び退って瞬時に体勢を立て直す。インファも寒さで弱っているのか、いつもよりは動きが鈍いような気がしたが、それにしたってとんでもない速さで拳と蹴りが飛んでくるので、遠は何も考える余裕が無かった。

「あんた達なんて大嫌い!」

 重い拳が空を切る。

「嘘じゃ!」

 遠が後ろにのけぞり、そのまま床に両手をついてバク転しながら叫ぶ。

「わたしは、イーちゃん、好きじゃもの!」

「偽善者! 反吐が出る!」

「偽善じゃない! 好きじゃもの!」

「甘い甘い甘い!」

「甘いかもしれんけど、たぶんダカンより恵まれた環境で育ったんじゃし、ダカンのことよく知らんから、甘くて仕方ないが! でも、これから、知るから!」

 遠は初めて反撃の拳を繰り出した。それは全くインファには当たらなかったが、動揺したのか、インファの動きは少し崩れた。そのほんの一瞬の隙に、インファをがっちりと羽交い締めにしたのは、ハターイーだった。

「……っな!」

 足でハターイーの脛を狙おうとしたインファだったが、右足に椎椎が、左足にミゼアが、必死の形相をしながら全身で食らいついていた。

「おい何すんだ! 離せよ!」

「離さないよ」

 ずっと悲しげな表情のままのハターイーは、その細身の体のどこにそんなパワーがあるのかと思うほど、岩のようにインファの動きを殺していた。

「イーちゃん、……本当はもう、殺したくないんじゃろ? 夜ずっとうなされとったん、知ってるもの……」

 遠はまだ両手をなんとか暴れさせようとしているインファの、右手を握った。強く、強く。言葉では伝わらない気持ちが、皮膚を通じてインファに流れ込むように。

「わたし、本当にイーちゃんのこと大好きじゃ。だから約束する。わたしが月糸の女神になったら、イーちゃんの圏のためにも、力を尽くす。どんなに困難な問題があっても、諦めない。だから……それまで、友達でいて」

 遠はインファの手から、力が抜けていくのを感じた。その手を離さないまま、静かに体を寄せ、片手で抱きしめる。遠より小柄なインファの、体の温かさを感じながら、遠はまだ見ぬダカンに思いを馳せた。苛烈な暑さと貧困の中での生はまだうまく想像ができなかったが、インファの少女らしからぬ強さと逞しさを育んだその圏に、いつか必ず訪れたいと思った。

 いつの間にか、決心がついていた。月糸の女神に、なろう。きっとみんなは故郷に帰って、それぞれの圏の女神になるのだろうという想像をした。そうなって、みんなと協力してこの世界をもっと良いものにしていけたら、どんなにか良いだろう。

 遠はすっかり大人しくなって項垂れているインファからそっと離れた。椅子に向かう。ハターイーに止められるかと思ったが、彼の声はしなかった。彼の言葉は、恐らく女神になろうとする自分の心を折るべく放たれたものだったのだろう。だが、彼の目論見とは逆に、その言葉を聞いたからこそ、今、女神になろうという気持ちが沸いてきているのだった。

 樹にめり込んでいる椅子は2、3人は座れそうな大きさで、真っ白な石でできていた。躊躇せずによじ登って座り込むと、椅子の表面にはあまり見たことのない緻密な紋様が彫り込まれていることに気づき、遠はその技術に感心してそっと指でなぞった。

(……これで、どうしたらいいんじゃろ……)

 所在なく、何か押さなければいけないボタンでもあるのかと思って椅子の側面の内側をまさぐったりしたが、特にそういうものは無さそうだ。背もたれの後ろも見ようとして後ずさりし、椅子の背面に背中が触れた瞬間、何かに吸い込まれたように遠の体は椅子に密着した。頭の先から爪先まで、何かがかけぬけるような衝撃と痛みが走り、遠は思わず叫んだが、次の瞬間には目の前が真っ暗になり、強制的に世界から遮断されたように、意識を失っていた。

 

 遠が叫び声を上げた後にがくりと首を垂れたので、一部始終を見ている少女達は気が気で無かった。それは果神の誕生を強く懸念するハターイーも同じだった。

(僕は、本当は、本当に、止めなければいけなかったんだ……)

 だが、止められなかった。遠の雰囲気と言葉に気圧されたことを、ハターイーは自分の中で認めた。同じような言葉を他の人が言ったとしても、無知故の綺麗事と鼻で笑い飛ばしたかもしれない。だが、なぜか遠が発する何かは”本物”である気がしてしまったのだ。そしてだからこそ止めなければならないのに、圧倒されて彼女の進む道を眺めることしかできなかった。

 意識を失った遠を載せている椅子が、僅かに青色に発光しはじめて、ハターイーはそちらに意識をやった。椅子に彫られている緻密な紋様部分が光っているように見えたが、気のせいかもしれない。青い光はまるで生きている蔦のように動き、椅子からはみ出て、遠の体に乗り移っていくように見えた。遠の背中から額へ、上腕から指先へ、胴体から下半身へと光は伸び、体全体を覆い終わると、その動きは止まった。その次の瞬間、椅子は目映い青の光を放ち、ハターイーも、少女達も全員が目を背け、瞑った。

 ハターイーは、直感で、遠が女神に不適合とされることはないと確信していた。光の中で、少女は女神として生まれ変わっている。その一連の光がただの、人工的なシステムの動作……『母艦マザーシップ』との適性照合作業や、人体内部を改造することによるエネルギーの放出であったとしても、神々しさを感じずにはいられなかった。瞼の裏で、光が徐々に収束していったことを知り、ハターイーはそっと目を開ける。

「え、遠……」

 座り込んだままのミゼアと椎椎はいつの間にか両の手を握り合っている。二人は視線を合わせ、頷き合ってよろよろと立ち上がり、遠の側にかけよった。ハターイーは、ようやくそこで自分がインファを押さえ込んだままであることに気づき、そっと腕を放したが、インファはただただぼんやりと座り込み、身じろぎもしなかった。

「遠、遠、……大丈夫?」

 遠は目を開けなかった。その額に今まであった<天印>は変化し、より複雑な紋様になっている。

「遠、起きて……」

 ハターイーは、少し安堵していた。これだけで終わるなら、今まで見たことのある女神誕生の状況と、何ら変わりはない。つまり果神になることは、なさそうだ。普通の女神になるだけなら、全然かまわない、そう思った。


 視界いっぱいに、ミゼアと椎椎の不安そうな顔が並んでいた。二人とも、肌にくっきりと涙のあとが残り、瞼は真っ赤だ。綺麗だ、と遠は思った。二人とも、綺麗。

「遠、遠!? 分かる!? 大丈夫!?」

 大丈夫じゃよ、と言ったつもりだったが、うまく声が出ない。それで、あー、あー、と発声練習のようなものをして、遠は笑った。

「あー、大丈夫じゃよ。……ミーちゃん、しーちゃん。……イーちゃんも。ありがとうね」

 ミゼアと椎椎はまた泣き崩れた。インファが静かに下を向き、そしてくっと顔を上げ、こちらに近づいてきた。椅子に座ったままの遠を見下ろしたインファの表情は複雑で、内面に葛藤を抱えたままなことが見て取れた。乱れた栗色の髪が、彼女の顔に影を落としている。

「……あたしの考えは変わってないけど。でも、1つだけ撤回する。遠のことは認めてるよ。あんたは女神になるに相応しい」

 インファはまっすぐに遠の目を見た。

「許して、とは言わない。気に入らないこともたくさんある。でも遠と一緒に歩けるものなら、歩いてみても、いいかもしれない……」

 遠は微笑んだ。インファも綺麗だった。どうして皆こんなに愛おしいのじゃろう、と遠は思った。右手を伸ばし、インファの左手を掴む。その時だった。

「遠さあああああん!」

 どこかから聞こえてきた声。少しだけ懐かしいその声は、確かにマイベリのものだった。

「遠さああああん!」

 声はあっという間に近づき、息を切らしたマイベリ……と、マイベリを背中に乗せた小さな狼――と言ってもあの巨狼に比べたら、だが――が現れた。

「ベリ!」

 いつの間にか狼に乗るなどという芸当を身につけたのだろうか。泣き虫で、優柔不断で、一人でおろおろしてばかりだったマイベリの離れ業に、その場にいた全員が驚いた。

「はぁ、はぁ、あっ止まって、止まって、ねっ……」

 その子狼は素直にマイベリの言うことを聞いて、遠の近くで止まり、腰を降ろした。

「きゃぁっ」

 背中から滑り落ちたマイベリは、だが全く動じず、息を切らしながら遠に駆け寄った。

「よかった、遠様女神になったのね? そうよね? あのね、ベリやっぱり遠様が女神になる場にいたかったの。……あと、ベリ、実は、実は遠様やみんなに言わなきゃいけないことがあって……絶対言わなきゃって思って……っ」

 ここでマイベリの瞳に、見る見る間に大粒の涙が沸き上がり、ぼろぼろとこぼれ落ち始めた。

「……ベリ、聞いたよ。……ベリだけじゃなくて、ここにいるみんな、月糸じゃない、他の圏の女神候補生で、えーと、なんか月糸の邪魔をするために来たんじゃよね……?」

「えっ……ベリだけじゃなくて……みんな……?」

 マイベリは涙を流し続けたままあたりを見回して、だがぶるぶると首を振って遠を見た。

「でも、みんながどう、とかじゃなくて、これはベリが謝らないといけないことなの。ベリの口で言わないといけないの。……遠様、ごめんなさい。ベリの故郷はニューポートで、玉宮の命を受けて忍び込んでいました。こんなに何も出来ないベリに、遠様は死ぬほど優しくしてくれたのに、遠様を騙していました。本当にごめんなさいっ……ベリを嫌いにならないで……」 

「嫌いになるわけ、ないよ」

 遠は空いている左手で、マイベリの柔らかい髪をそっと撫でた。

「……ねぇ、でも命令ってなんなの? イーちゃんは、わたしを、殺すこと?」

 インファは頷いた。

「月糸の次代女神を殺し、玉宮の疲弊を長引かせること」

「……私は、月糸の次代女神の弱みを握ること。……全然、握れなかったけれど」

 椎椎が微笑んだ。

「わたくしは、月糸の女神になること。……遠には、敵わないわ」

「ベリは……ベリは月糸の女神候補生達の人間関係を乱して次代女神の即位を遅らせること……」

「あんた、それ全然できてないじゃん!」

 インファが突っ込んで、5人は顔を見合わせて、笑った。大笑いだった。何がそんなにおかしいのか分からなかったが、5人全員がお腹を抱えて笑った。

「ベリ、誓ったの。この狼の子に乗って走りながら決めたの。……一生、遠様の側で、遠様を支えたいの。重いって言わないで! 本気なの!」

「私も、遠の力になりたい」

「わたくしも、もちろん」

「お前ら恥ずかしいなぁ! 甘いんだよ! ……でも、まぁ、お前がダカンをどうしてくれるのか、それは見ておきたいな」 

 遠は微笑んだ。だが、口元が微笑みを形作る前に、何か熱いものが体の中から込み上げてきて、それを押さえ込むのに必死で笑顔にはなれなかった。

「……みんな……ありがとう……」

 その時、全身につい今しがた経験したばかりの衝撃が再び襲い、遠は殴られたかのように咳き込んだ。

「しまった!! いけない!! 離れて!! 離れろおおおっ!!!!」

 ハターイーが叫んでいる気がするが、離れようにも、椅子に強く吸い付けられていてもうびくともできなかった。

(……? また何かあるんじゃろか?)

 意識がどんどん遠のいていくが、一度目のようにプツリと闇に落ちることはなく、思考は細々と保たれた。

(……あれ、またあの……夢で見た、景色じゃ)

 塔で見た悪夢の、真っ暗な宇宙にぽかりと浮かんだこの星の姿。

(あれ、なんで、どうして、こんなに悲しい気持ちになるんじゃろ……)

 初めて見たときは、ただただ美しさに息を飲んだだけだったように思える。だが今は何故か無性に辛く、悲しかった。全く理由が思い当たらない。

(誰か、いる? あの、声の、人……?)

 だがその瞬間、体の芯に再び強い衝撃が走った。痛みというよりは、体の中にある核のようなものの蓋がどんどん開いていくような、感覚……その熱は核から体全体へと広がった。自らの肉体の異変に耐えているうちに、遠の脳裏に1つの言葉が過った。

(……アーリア様? アーリア様、ですか?)

 返事は無かった。熱が徐々に引いていき、次に目を開けたとき、視界に入ってきたのはミゼアと椎椎、インファ、マイベリ、ハターイー、全員の顔だった。

「遠……大丈夫?」

「なんかまた<印>の形変わってんね。……リボン? 横にした砂時計が左右にずっと連なっているみたい……。」 

 みんなの声に呼ばれて帰ってきた、と遠は思った。自然と口をついて出た言葉は、「ただいま」だった。

「おかえりなさい」

 ミゼアに差し出された手を遠は掴んだ。冷たくて、柔らかい手の感触が、遠に「生きている」ことを強く実感させた。

(……人間じゃなくても、生きてるもの……)

 だが、ミゼアの後ろに、ハターイーの顔が見えて、遠の動きが止まった。ハターイーは、明らかに今までとは違う顔……苦渋に満ちた顔をしていた。

「ああ……アーリア様と同じ紋様だ……」ハターイーは両手で顔を覆った。

「遠、君は果神になってしまったんだよ……」

 ハターイーの言葉は、よく理解できなかった。果神? そういえば、どこかで聞いたことが、あるような。

「たぶん、各圏の次代女神と目される人物全員が君を心から信じた、からだ……五圏の完全なる平和状態を達成するピースが揃った……それが果神誕生の鍵だったんだ。ああ、もう、この星はおしまいだ……」

「そうなの? えっと……」

 そんな実感はなかった。女神になった実感もなかったが、ましてや果神など、最上の言葉を思い出しはしたものの、あまりにも遠い存在で、全く現実味が無かった。ハターイーの勘違いじゃないん、と言おうとした遠だったが、その時、体に何か違和感を感じて、言葉を飲み込んだ。

「揺れてる?」

 遠の違和感を的確に表現したのは椎椎だった。確かに、床が揺れている。

「……塔が……」

 ミゼアの言う通りだった。床だけではない、塔が小刻みに振動している。塔を構成している材が軋む嫌な音もし始めた。それと同時に、突然あたりが暗くなりはじめた。一連の騒ぎで時間のことなど忘れていたが、まだ夜には早いはずで、例え夜が来たのだとしてもこの暗くなり方は尋常では無かった。まるで、何かに覆われるような……。

 徐々に強くなる振動と共に、どこからか、また異なる音がし始めていることに遠は気付いた。揺れによるものではなく、もっと遠くから聞こえてくる。聞いたことのない音……しいて言うならば巨大な蜂の羽音を大量に集めたような。音は、どんどん大きくなってくる。

「地鳴りかしら?」

 少女達は自然と寄り添って、互いの体を支え合った。全員が必死に不安と恐怖を押さえ込もうとしていることが互いの表情から分かった。

 突然、何かをガラガラと巻き上げるようなという大きな機械音がし始め、同時に冷たい突風が吹いてきて、マイベリがきゃぁ、と叫んだ。全員が咄嗟に体をすくめる。

「え、あ、壁が……」

 今まであった硝子の壁が、徐々に上に持ち上がり、どこかに格納されていく。足元の床が残っているのが幸いだったが、その床もいつ揺れによってすっぽ抜けるのか分かったものではない。

(……何が起きてるんじゃろ、これ。臭いが……風の臭いが、変じゃ)

 遠も怖いことには変わりなかったが、好奇心が恐怖に勝った。なんとか立ち上がり、ちょっと、と制止しようとするミゼアの手を振り切って、壁があった方に向かって四つん這いで進んだ。外で何が起きているのか、見たかったのだ。強風に抗いながら、四つん這いのまま外を見、上を見て、――遠は、自分が何を見たのかさっぱり理解できなかった。

 巨大な、――月糸にある最も大きい建物と同じか、それ以上に巨大な――何かが、宙に浮いていた。巨大な直方体のゴツゴツした黒ずんだ外観、上部には巨大なプロペラが無数についており、下部には大きな車輪のようなものも回っていた。その巨大なもの――遠は仮に「プロペラ・トロッコ」と名づけた――の内のいくつかは、よく目をこらせば徐々に下に向かって移動している。さらに凝視していると、窓のようなものがあり、中に人がいることも見て取れた。

(!? なんじゃこれ……空を飛ぶ……乗り物? でも、こんな大きなものがどうやって浮くんじゃろか……いやそんなことは後回しじゃ!)

 巨大な何かは、1つだけではなかった。数えきれないほど空に浮いていて、それが陽を遮ってあたりが暗くなったのだった。その光景は、夏の前触れとして大量に飛来する飛桜海老とびさくらえびの群れと、それらを食べる為に現れる飛緑鮫とびみどりざめの巨体を思わせたが、それらの動物の持つ美しさは微塵も無かった。

(……あれに乗ってるのは、どこの誰じゃろう)

 そう思った時、足元から、重い、嫌な金属音が響いてきて、遠は再び身をすくめた。きゃっと叫んだマイベリの方を思わず振り返るが、彼女達は無事だ。遠は何もわからないなりに、何となく事態を推測した。

(あの、プロペラ・トロッコのうちいくつかが、塔にぶつかった? やや、違う……たぶん、塔に『着いた』んじゃ)

 遠は、シナトの村の壁の中にめりこんでいた計器のようなものを思い出していた。あそこに、停車したんだ。

(行こう。きっと、人が降りてくる。……そうじゃ、もう、わたしは女神なんじゃから、みんなを守らんと)

 上空に浮かぶ無数のプロペラ・トロッコのせいで、相変わらずあたりは真っ暗だった。ミゼアが地鳴りと表現したそれらの稼働音も全く鳴り止まず、氷のような風は吹き荒れ、足元は小刻みに揺れている。五感がうまく働かない中で、遠はなんとか立ち上がり、塔の下に降りる梯子に向かおうとした。

 だが、客人達がこちらに駆け上がってくる方が速かった。ダダダダっと重い足音がして、突如、梯子から大量の人間が現れた。彼らの顔にも衣服にも全く見覚えがなかったが、手の中にあり、こちらに向けているものには見覚えがあった。銃だ。

「みんな、動かんで!」

 みんな、とは言ったものの、それは主にインファに向けて言った言葉だった。インファは離れていても分かるほどに殺気を放ち出し、今にも襲いかかろうと臨戦態勢だった。

「これはこれは、あなたが果神ですか」

 銃を構え、真っ黒な服を着ている人々の後ろから、一人だけ異なる雰囲気の男がゆらりと現れた。黒く短い髪に、白い肌、細い目。月糸でも神官の正装とされるトーガに酷似した白い服を着て、黒の帯を首からかけ、腰にも絞めている。明らかに、この男がこの人々の司令塔のようだった。

「あまり時間もないので簡単に言いましょう。私はここ『鉱球こうきゅう』の本星である『尭球ぎょうきゅう』の、最高決定機関・尭球圏界連合ぎょうきゅうけんかいれんごうの副事務局長、ウルバン。この世界は、役目を終えたのです。果神――遠という名なのかな――、あなたは本星尭球に帰り、失力することのない永遠の女神として、私の側で尭球を治めるのです」

 遠は、ウルバンと名乗った男の言っていることがさっぱり理解できなかった。何か違う言語を話しているのだろうか。それとも自分の頭が、どこかおかしくなったのだろうか。

 助けを求めるようにミゼアの方を見た。ミゼアも遠を見たが、その美しい顔には衰弱と、困惑の表情が浮かんでいた。遠は次にハターイーを見た。ハターイーは、それと分かるほどに震えていた。ぎゅっと腕を組み、両肘を掴んで、頭を垂れていた。銀色の髪の毛がその顔を隠して、表情は見えなかった。

 遠は再びウルバンに視線を投げた。

「あの……ごめんなさい、よく分からなかったので、もう一度言ってもらえますか?」

 だが、ウルバンが再び口を開こうとしたとき、彼の後方にずらりと控えていた黒い人垣が悲鳴と共に突然崩れた。白と灰色の激しく動くもの、パアンという乾いた音、赤い血飛沫、続く絶叫。

「狼たちじゃ!」

 遠は思わず叫んだ。そしてその白と灰色の中にちらりと見えた赤い毛は、間違いなくシナトだ。だがそこから先は……もう、体が動かなかった。獣と人が入り乱れる中に飛び込むことはできなかったし、飛び込んだところで何をどうすれば良いのか判断ができなかった。おそらく、シナトと狼達が今来たばかりの余所者に襲いかかっているのだろうとは予測できたが、その前に聞いたウルバンの言葉が頭の中でガンガン響いて、混乱するばかりだったのである。それは遠以外の少女達も同じだったようで、誰もがまるで棒か石かのように、動くことができなかった。マイベリはやめて、やめてよう、と泣き叫んでいたが、その声は当事者達には届かない。みんなに何かあっては嫌だ、と、遠は4人とハターイーがかたまっているところに近づいていき、彼女達を守るように立った。

「遠、」

 ハターイーが顔をあげた。宝石のようにきらめく瞳のまわりは赤く染まり、声は震えていた。

「……遠、よく、よく聞いて。この星は、君達の世界のある小さな星の名は、鉱球と言う。本星は、尭球だ。尭球にも資源はあったが、すぐに足りなくなって、それでこの無人だった星から資源を採掘したんだ……。でも、それもすぐに採り尽くした。その跡地が、今君達が住んでいる『圏』、あの巨大な穴だよ。あれは、あの穴は、鉱山跡なんだ」

 話している内に、声の震えが少しずつ収まっていった。だが、遠はハターイーの手を握った。彼が怯え、悲しんでいることが今となってははっきりと分かった。ハターイーは小さくびくっとし、だが決意を固めたかのように、話し続けた。

「資源を採り尽くした300余年前、そしてたぶん今も、尭球は苦しんでいる。尭球にも五圏がある……その五圏の争いは尽きず、資源は不足し価格は高騰し、社会不安から争乱が頻発し、環境の変化により水が濁り、空気が濁っている。貧富の差は激しく……そう、とにかくひどい状況で……それで、尭球の小さなコピーを、用無しになった鉱球に作った。それが、君達の世界だ。尭球の五圏と似たような条件の五圏を作って、『女神システム』を導入する。それでもしそこから果神……平和を成し遂げることのできるバイオロイド……が生まれたら……女神システムと、そこから生み出された果神は、尭球世界も平和へと導けるかもしれない、という社会実験が、この世界なんだ……」

 言葉が、出なかった。言葉になる前の、感情がまるで凍ってしまったようだった。あるいは、あまりの怒りに、焼き尽くされてしまったのかもしれない。

 だが、遠の思考回路だけは急速に回転し始めていた。分からないことがたくさんある。聞きたいことがたくさんある。次から次へと知りたいことが溢れ出してくる。

「僕は、僕は実は……」

 いつの間にか遠の手を握り返してきていたハターイーが、何かを告げようとしたが、それは敵わなかった。

「遠!」

 シナトの声が争乱の中から聞こえてきて、遠ははっとそちらを見た。ハターイーの話の間、目の前で繰り広げられている惨劇にまるで目がいっていなかった。

「お前何してんだ! 速く、速く玉宮に知らせろ! 俺はこの『塔』を出れねぇ呪いをかけられてんだ! お前らしかいねぇ! こいつら、お前らの世界を全部滅ぼす気なんだぞ!」

 まさか、と遠は思った。まさか、そんな滅ぼすだなんて。こんなに人がいるのに。みんな生きているのに。そんな非人道的なことをするわけない。ありえない。

 だが、まさに非人道的な理由で作られた世界で自分は生まれたし、非人道的な方法で自分の命は「作られた」のだ。

「わたしらが作られていたとしても、<印持ち>以外の人たちはちゃんと人間じゃものね?」

 遠は自分の頭の中だけでそれを言ったつもりだったが、無意識のうちに口に出していたようで、ハターイーがそれに答えた。

「うん、だけど、……鉱球に移植された人間は、……犯罪者と、主に鉱夫だった失業者達。……尭球には居場所がなく、厄介者扱いされていた人々……」

 それがなんじゃ、と遠は思った。なんじゃろうと生きてる人間じゃろうが! だが、今その思いをハターイーにぶつけるより、やらなければいけないことがあるのだ。シナトに言われた通り、玉宮に至急このことを伝えなければ。

「みんな、行こう。よかった、みんなが五圏のそれぞれの出身で。それぞれの玉宮に飛ぼう、わたしもこの状況をどう説明していいかわからんけど、とにかくどこかにみんなを避難させないと……!」

 少女達は頷いた。とにかく、報せよう。全員が急いで<青嵐>の呪文を唱えた。だが、――何も起きなかった。黒術を使う時には、呪文詠唱と共に体から光が放たれ、その光が次第に集まって、複雑な幾何学模様の魔法陣が形成される。だが、遠以外の少女達の周りには、光も何も生まれなかった。遠だけが、強い青い光をまとっていた。

「君たち、妙なことを考えても無駄ですよ」

 ウルバンの声が響く。

「君達の天恩因子には、尭球の『母艦』から干渉することができるんですよ。今は君達の因子が力を発揮しないように抑制しているから、黒術も白術も仕えないはずだ。――果神だけは、さすがですね。干渉をものともしない――やはり君は特別な存在です」

 固まっているミゼア達に、遠は目をやった。

(ごめん、みんな。わたしだけでも、この場を、離れる)

 遠はウルバンを無視して、黒術に集中した。確かに、何かに抑えられている感覚がある。頭の中で、見たことのないはずのイメージが広がる。弁で塞がれている管のようなもの。そうじゃ、あの弁を開ければ良いんじゃ……。

 体の中に、更なる力が満ちてくるのを感じた。空洞だった管の中に勢い良く湧き水が流れてきて、潤っていくような感覚。もう一度、<青嵐>を唱える。

『星の息吹よ 命を運ぶ風よ もっと強く、激しく流れて その頃にはもう私がそこにいないように <青嵐>』

 遠の体は勢い良く宙に浮き、だが次の瞬間、左足に激痛が走って、遠は絶叫しながら床に崩れ落ちた。発泡された弾が命中したのだった。

「ああ、部下が失礼なことをしましたね……でも私達は君のような力がありませんからね、飛び道具くらい許してもらいましょう」

 マイベリが悲鳴をあげ、遠に駆け寄ろうとして椎椎に止められているのが視界の端に映った。

(……最上先生、養成所のみんな、おやつ屋のおじちゃん、……シェム。そうだ、シェム!)

 遠はウルバンから死角になっている左手でショートパンツのポケットを弄った。シェムに貰った、小型の通信機が、確かにそこにあった。体を曲げ、自らの血に濡れた通信機を口元に近づける。

「シェム、シェム聞こえる? あのね、とにかく逃げて……いますぐ、この世界を滅ぼそうとしている人たちが来たん、みんなを連れて、圏の外に逃げて……どこでもいいから……わたしのこと、信じて、逃げて!」

 その時、再び体のどこかに弾が当たり、さらに激しい痛みに遠は叫び、仰け反って叫んだ。体のどこかが焼けるように熱い。のたうち回り、呻いた。

「君、いくら危機管理とは言えやりすぎはよくないですよ」ウルバンが部下に、さほど悪いとも思っていなさそうな顔で声をかける。「ああ、でもよかった。ちゃんと生きていますね。生きているならなんでもいいのです。所詮、人ではないのですからね」

 遠の口から出るのは呻き声だけで、言葉にならなかった。痛かったのだ。ミゼアやシナト達がどうなったのか確認したかったが、もう目線を動かす力すらなかった。

「……ウルバン様、恐れながら……」

 遠の代わりに言葉を発したのはハターイーだった。

「このままでは、果神が死んでしまいます。手当をすることをお許しいただけませんか?」

「お前は何代目のハターイーですか?」

「十五代目です」

尭巾ぎょうきんがそこまで続いたとは、たいしたものですね。手当? 道具もないのに?」

「……初代ハターイーは、尭球の支配階級の人間でした。僅かですが天恩をが引き継いでいます」

「――ああ、そうでしたね。あの頃は女神達と好色に耽るために支配階級が違法に自らの肉体改造をしていたんでしたね。おぞましいことです。手当、許しましょう。死んでは、元も子もないですから」

 体の側にハターイーが近寄って来たのが分かった。ハターイーの手がかざされ、何かの術を使ってくれているのが分かる。

「ハーちゃん」

 遠は声を出そうとしたが、それは音にならず、かすれて空気に融けた。

「遠、喋っては駄目だ。君を助けるよ……絶対に助けるからね」

 ハターイーのおかげで、少しずつ痛みが消えていく。それと同時に、少しずつ、強い力が再び自分の中に漲ってくるのを遠は感じた。

(ハーちゃん、僅かどころじゃない……この天力は……?)

 だが今はそれどころでは無かった。痛みから回復し、意識が確かになるにつれ、遠は自分がしなければならないことをはっきりと認識した。

「う……ウルバンさん」

「遠、まだ駄目だよ」

「ウルバンさん、お願い、お願いがあるんじゃ」

 遠はハターイーの制止を振り切って立ち上がった。よろめきながら立ち上がってふと、自分の体が血まみれであることに気がついたが、それを気にかけている余裕はなかった。極度の興奮のせいか、あまりにも残酷な予感のせいか、耳の中で雨を伴う大嵐のような雑音がずっとしている。

「わたしが必要なら、わたしをその……尭球とかいうところに連れて行ってかまわんから……お願いします、この世界を滅ぼさないでください。……綺麗な世界なんじゃ、ひどいことや辛いこともたくさんあるけれど、それもひっくるめてとても綺麗な世界なんじゃ……みんな生きているんです。この世界を、このまま、そっとしておいてください」

 ウルバンは、本当に残念そうな顔をした。

「私だって、そうしてあげたいと思いましたよ。ですからさっきこの星の五圏の玉宮にそう打診したのです。条件の一つは、君と……あとそこの、前科者以外の3人を尭球に引き渡すこと。もう一つは、女神や玉宮神官をはじめとする全ての<天印持ち>の天恩因子の無力化。それと引き換えに、この世界をそのままにしておこうと提案したのですよ。我ながら素晴らしく譲歩した提案だと思いましたが、五圏の玉宮全てが拒んできました。女神と言えども、権力を手放すのは怖いと見える。……だから、仕方ないのです。本当に辛いけれども、他に選択肢はないのですよ。バイオロイドの王国など、実験目的以外で放置しておく価値も、意味も、微塵たりともないですから。恨むなら、愚かな選択をした玉宮神官を恨むことです。――さぁ」

 遠ははっと顔をあげ、まなじりが切れるかというほど目を見開いた。 

「やめて!!!!」

 遠の叫びを掻き消すように、凄まじい轟音と共に『塔』が揺れた。遠は思わず床に伏せて耳を押さえたが、遅かった。巨大な音に耐えられず、耳は金属音のような悲鳴をあげている。遠は耳を押さえながら、顔をゆっくりそのまま外に向けた。彼女は、もうもうと立ちのぼる巨大な雲を見た。ひどく気持ち悪い形の……灰色の雲を。

 瞼も、喉も、凍りついた。 

 体も固まって、動かない。

 だが、遠は手を支えにし、なんとか立ち上がった。硝子の床の淵までよろけながら足を動かして、そして、

「いやああああああああああああああああああ」

 遠の横で叫んだのは、同じようにしてなんとか走ってきた、ミゼアだった。

 雲は、ヨグナガルドがあった場所から立ちのぼっていた。立ちのぼる、というより、覆い尽くしている。ヨグナガルドの直径より、雲の直径の方が遥かに大きいのではという程の大きさだった。その下で、何が起きているかは、見えない。橙色の火が見えたような気がするが、……。

「ママ!!!!!! パパ!!!!!!!! ママーーーーー!!!!!! いや、いや、」

 ミゼアのその悲鳴を最後に、遠の世界から、すぅっと音が引いていった。音が引き、次に色も、臭いも、触覚も。モノクロの、音の無い空間で、遠は、おそらく怒っていた。

 ……本当は、ずっと、ずっとものすごく怒っていたのだが、それを必死に理性で抑えていたのだ。だが、その理性も霧散した。

「遠駄目だ! 戻ってきて! 遠!! 我を忘れては――駄目だ!!」

 ハターイーの声は、遠には届かない。

 静かな世界に、遠の微かなつぶやきだけが流れた。

『守るということがどういうことなのか私は分かっていない ただ私は膜になって あなたを害する悪しきものの前に立ちふさがり あなたを抱きしめたい <盾膜>』

 体の中も、外も熱かった。熱くて熱くて、自分が焼けているのかと思うほどに。……焼けても、よかった。天力を使い果たしても。

 月糸、涼車、ニューポート、ダカン。4つの圏の上に、巨大な青い光の膜が出現した。だがその膜に向かって、上空の乗り物達が何かを落とすのを遠は確かに見た。膜の上で無数の爆発が起きる。

 無意識に<青嵐>を唱えて、遠はふらっと硝子の床から、何もない空間へと飛び降りた。あの、黒いプロペラ・トロッコ達から繰り広げられる攻撃を止められる位置、地表の近くへと。

『吹き散らせ矢風 花も嵐もあなたのもの <疾風>』

『静かにはしていられない 熱が溢れだしてしまう そこに光が必要なの <大輪火>』 

『雪の女王が訪れる その指先で何もかもを永遠の安らかな眠りに その冷たさは愛 <氷点>』

 遠が全方位に向かって放った渾身の術は、空に浮かぶ大量のプロペラ・トロッコ達を、あるいはそこから落とされる何かを、激しく攻撃した。まるで術自体が意志を持っているかのように、術自体が何らかの感情そのものであるかのように。青い光が、見渡す限りの地表を覆い尽くし、燃え盛る火のように躍り上がる。

 遠は、もう、自分がどこに向かって何をしているか、分かっていなかった。いつの間にか怒りも悲しみも暴走し、そして、天力も遠の制御下から溢れ出た。

 盾膜を貫いて落ちてくる爆弾には、圏の建物を爆発させることで対抗した。手当たり次第、使えるエネルギー全てで戦った。誰かが遠を止めようと抱きしめてくれていたような気もするが、遠はもう何も感じていなかった。

 

「遠、遠、」

 誰かに、名前を呼ばれている。でも、呼んでほしくなかった。もう、誰にも会いたくない。会う資格もない。煙のように、消えてしまいたい。……あるいは、五圏のみんなと同じような死に方で、死にたい。

 力を暴走させている最中のことは、――覚えていない、と思いたかった。自分が何をしていたか分からない、覚えていない、と。それはある意味、嘘ではない。その時は、本当に、理性も意識も失われていた。

 だが、遠が無意識の内にその五感が得た情報は、なぜか遠が力を使い尽くして尭人達に捕らえられた後から蘇ってきた。

 一瞬にして燃え上がり、捻れ、溶け、歪み、その形を無惨なばかりに失っていく建物、木、動物、――人。

 世界が遠の目の前で崩れていった。あまりにも簡単に、あまりにもあっけなく、だが、断末魔の苦しみの、叫びを上げながら。

 自分の力は、誰も救わなかった。数人を地獄の窯の中から地上に引っ張り上げたような気がするが、――それよりも遥かに多くの人間が、遠の目の前で、後ろで、上で、下で、命の形を失っていった。

 地獄の映像は延々と遠の頭の中で繰り返し、繰り返し再生される。抜け出すことは、できない。

「遠、起きるんだ」

「ハターイー、起こさなくていいですよ。あとはもう尭球に連れていくだけなんですから。……ああ、その子が怒って滅茶苦茶に戦ってくれたおかげで、逆にこの世界を滅ぼし尽くす労力が省けましたね。……今道女神は全員抹消しましたね? 玉宮にいる者、<天印持ち>は、躊躇わず消すのです。まぁ、ほとんど残っていないでしょうがね」

 ウルバンの言葉が、遠を静かに殺していく。

「五圏で生き延びている人々は尭球に連れて行ってこちらの管理下に置きます。下手に反乱でも起こされたら困りますからね。ああ、反抗する者は消していいですよ」

「ウルバン様……その、」

「そのバイオロイドには、尭球を救ってもらわなければいけないのです。『女神の庭計画』はそのための一大事業だったのだから、大事に扱うように」

「ウルバン様、つまり尭球に女神システムを導入するわけですね?」

「――いいえ。導入するのは、果神だけです。女神システム――バイオロイドに統治させるなど、とんでもない」

「しかし! 当初の目的はシステムごと移植することに意味があるはずだったのでは! 果神一人だけで一体何ができると言うのです!?」

「ハターイー、君はもう300余年も尭球から離れているのです。こちらの事情など分からぬからそのような戯れ言を言うのでしょう。無知のこと故、今の非礼な態度は許してあげますよ。……ああ、なるほど、君はこの、果神の仲間の女神候補生達の命を心配しているのですね。殺しはしませんよ。……ああ、そこの君。女神候補生達も輸送機に入れておきなさい。前科のある者だけはもちろん監獄行きですよ。シナトと一緒に特別輸送機に放り込んでおいてください。シナトはこの『塔』から出すには体内のチップを破壊しなければいけないはずでしたね」

「ウルバン様、……恐れながら、なぜシナトまで無理矢理尭球に連行を? この地で放置すればよろしいのでは?」

「先ほども言ったように、残してうっかり抵抗勢力にでもなっては困ります。それにシナトなどは悪名高いテロリストの末裔なのだから、拘束しておけば政治的なカードとして使えるでしょう。なに、チップを破壊すると言っても、内臓の1つや2つが吹き飛ぶくらいで済むでしょう。もちろん私も心は痛みますが、仕方がないことですからねぇ」

「……」

 ウルバンとハターイーの会話は、まるで遠くから聞こえてくるように思えた。頭が、動かない。それに、もう何も考えたくなく、何も感じたくなかった。だが、なんとか唇を動かす。

「ひ……つのせか……を、ほろ……ぼ、してしま……のに……もう……ひとつ、べつ……せ……か……いを、すくえ……?」

 こんなに可笑しいことはない。遠の閉じた瞳から、涙が一筋、零れた。

(もう……終わりにさせて……)

ウルバンが数人の部下に何か指示をしている間、ハターイーはそっと遠に耳打ちをした。

「遠、起きているね。僕はこのままだとうまく動けない。君や鉱球のみんなの力になるために、一度消える。だけど信じて、必ず君を助ける……」

ハターイーの気配は一瞬にして消えた。

――それと同時に、遠が口の中で続けていた呪文詠唱も終わった。

「……<はなればなれ>」

そして遠の意識は再び深淵に沈み、その後長く、浮上することは無かった――。


 

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