5 遠、『塔』に登る
「えーやっぱ目の前で見るとでかいー!!」
「とりあえず一歩一歩、這いつくばってでも登っていくしかなさそうね……」
「ベリ、登れるかな……」
数日ぶりの再会を喜び合い、まるで遠足にでも赴くかのようなテンションの5人は、最上に引率されつつ丸一日分の距離を歩いて『塔』へと向かった。しかし、いざ『塔』を目の前にしてみれば、その大きさにしばし言葉を失った。まさに天を貫く棒のようである。普段生活している「穴」の中からはその姿はまったく見えなかったし、地上に出たら出たで、『塔』の胴体は霧に、頂は雲に隠れて認識すらできなかった。かつ、遠くから見ていたのと、1日分距離を縮めて見るのとでは、想像以上にその迫力は大違いだった。
最上は特に別れを惜しむでもなく、では頑張ってください、期待していますよとさらりとした言葉だけ残して、<青嵐>で飛んで帰っていった。きっと、授業の中で何もかも伝えつくした、ということなのだろう。
「最上先生、行っちゃったねー」
「……ちょっと淋しいね」
「厳しかったけど、優しかったわよね」
地表をさらっていく猛烈な風に、文字通り飛ばされそうになりながら、5人は進んだ。急勾配の、荒れた岩地が続く。剥き出しになっている、幾重にも重なり合った地層は鮮やかな赤や緑や茶色をしており、それぞれの表情全てが相まって毒々しい雰囲気を醸し出していた。まるで、荒廃した異世界に来たような光景だった。
「ねぇ、これ、<青嵐>とかで一気に頂上に飛んでいっちゃ駄目なの?」
「インファ、あなた最上先生の話を聞いてなかったでしょう。この塔の中は、天恩の力があまり使えないのよ。弱くなっちゃうの」
「えっ嘘、なんで!?」
「嘘ではないし、なんでだかは知らないわ……。信じられないなら、試してみるといいわよ。でも無駄に体力を消耗することはお勧めしないわ」
「むー……」
天力を使うことは諦め、少女達は必死に手足を動かした。少し進んだところで、遠の提案で、風に向かって垂直に列になり、順繰りに場所を変えて、ひっきりなしに吹く風の影響を均等に分散させることにした。
「……さすがにこれは厳しいな……」
「女神科の授業に岩登りを入れておいてくれれば良かったんじゃないかしら」
「ベリもう自信ない……」
「あたしはまだ平気よー。みんな頑張ってよ、遅いー」
最初は口を開く余裕のあった少女達だったが、数十分後には会話も消えた。とにかく、横っ面を殴りつけてくるような強風が堪えたのである。まるで、世界そのものが震えて呻いているような風の吹き方だった。あまりにも大きいその呻き声の中では、会話を成立させること自体一苦労だった。背中に背負った荷物が、重くのしかかる。だがその重さのほとんどは水と食糧で、捨てるわけにもいかなかった。
遠は、右手を伸ばして岩のとっかかりを掴み、左手でそれより高いところを探り、足をゆっくり順繰りに動かして、とやっているうちに、いつしか無心になっていたが、ふとマイベリの様子に目を留めた。マイベリは明らかに心が折れていて、彼女に風よけの役を任せるのは無理そうだった。
「わたし、替わるよ!」
風に負けないために、大声を張り上げる。
「……だ、大丈夫です! 遠様に迷惑かけたくない……」
「迷惑じゃないよ! わたしがやった方が、今はみんなが助かるじゃろう! ベリちゃんは少しでも休んでくれた方が、ありがたい!」
「……すみません……じゃぁ……」
大風を受けながら、岩棚を登る。1、2時間登って、ふと気づくと、手足をついている岩肌の色味と質感が少し変化を見せていた。
「みんな、岩登りはもう少しで終わるようじゃ! この先は……」
遠は言葉につまった。
「えーと、この先は、なんかもじゃもじゃした森……」
目線を上げたところには、荒れ果てた岩山ではなく、植物が見え始めていた。もちろん、人の手が入っているようなものではなく、好き放題に育っている、森。
「岩ゾーンと森ゾーンの丁度間のところに少し座れそうなところがある、みんなそこで少し休憩しよさ」
「助かったー! さすがにあたしも疲れたわー!」
「汗が目に入って……あと喉が渇くわね……」
体力の無いマイベリと椎椎は、言葉を発することもなく、座り込んだ。インファ以外は既に、疲労の色が濃い。遠ですら、本当にこのまま頂上まで登っていけるのだろうかと不安に襲われた。下を見ても、まだ『塔』のほんの土台の部分を登った程度であることが分かる。頂上まで数日かかるのは明らかだったし、それ以前にマイベリや椎椎は体力的な問題から、途中で脱落しかねなかった。
遠は少しだけ持ってきた水を飲み、すぐに立ち上がって、『もじゃもじゃした森』に近寄った。
(……岩、じゃない。鋼……? 層を形成している材と似ている気がするけど……)
森のようなものがまとわりついているのは、明らかに人工的な骨組みだった。遠はそれを触り、頑丈さを確かめるために叩いたり、蹴ったりしたが、ビクともしない。体重をかけても、まったく崩れる様子はなかった。
(今更気付くなんておかしいけれど、この塔は、自然にできた地形じゃない……人工物じゃ)
(ということは、この高さのものを作る、理由があったんじゃ。玉座のためだけに、こんな巨大なものを作ったんじゃろうか……違うな、なんじゃろう……)
「遠、休まなくていいのー? 暗くなったら進めないから、そろそろ出発しないとー!」
インファに声をかけられて、遠は後ろを振り向き、頷いた。
「わたしは大丈夫、行こうさ」
一行は森の中に足を踏み入れた。『塔』の内部に入ってしばらく手探りのまま歩くと、ある程度塔の構造が分かってきた。石ではなく、鋼のような材でできており、中心部分は空洞である。空洞を囲むように、上へ上へと螺旋を描く通路がある。ただし通路の床も、塔の外壁となっている通路の壁も、荒い編み目状になった太い鋼の梁でできているので、うっかり足を踏み外すと、胴体はぎりぎり通らないまでも、足はずぼっと下に突き出ることになりそうだった。
しかし、足場があるので岩を登っていたときよりはだいぶ進みやすかった。所狭しと梁にまとわりついている草木に足はとられたし、伸び放題のそれらであたりは暗く鬱蒼とし、視界すら遮られたりもしたが、少なくともゆっくりにでも「歩く」ことができたし、その草木の蔓や葉のおかげで風がかなり遮られているのだった。
「これは……さっきに比べたら全然楽だわ」
「……これなら結構さくさく進めるかも……」
「ベリ、岩山がずっと続いたらどうしようかと思ってたよぉ」
「夜、うまい具合に寝れるところがあるといいんじゃけどな。あっあの実、食べれそう、取っておこう」
「遠はこの期に及んでも食い物のこと考えてんのか、逆にすごいな……」
元気を取り戻した5人は、草を掻き分け、踏み分け、ゆるやかに登っていった。旅はすっかり順調と皆が思い始めたとき、先頭で進んでいたインファが突然立ち止まり、叫んだ。
「敵だ! 構えて!」
「て、てき?」
マイベリが情けない声を出したが、それでも全員が身構えた。こんなところに「敵」ってどういうこと、とか、そもそも「敵」って何、とか疑問は尽きなかったが、考える間もなく突然、衝撃波のようなものが襲ってきて、全員が後ろによろめいた。
そして衝撃波の向こうに、確かに「敵」らしきものの姿がある。それは、黒い影だった。人らしき形をした、真っ黒な数体の影が突然出現し、衝撃波を放ってきたのだった。インファは澱みなく動いて躊躇なく影に拳を打ち込んでいたが、それはあくまで「影」らしく、拳は完全にすり抜けた。
「ええーやばい、どうしたらいいの!」
「仕方ない、魔法を使いましょう! ……<大輪火>!」
早口で呪文を唱えたミゼアが、いつもよりは弱々しい紫色のエネルギー弾を放ったが、それも「影」をすり抜け、『塔』の草木の壁を派手に破壊した。生じた穴から強烈な風が舞い込み、一同は慌てて姿勢を低く取る。
(影なら……)
『吹き散らせ矢風 花も嵐もあなたのもの <疾風>』
遠が使ったのは、シンプルな、風を巻き起こす魔術だった。『塔』によって確かに天恩が制限されているのは感じるが、使えないほどではない。強い天力さえあれば、風は鋭利な刃物となって対象に襲いかかる。遠の目論んだ通り、風はとんでもない勢いで影に襲いかかり、すり抜けざまに影を霧散させた。
「よし!」
珍しく椎椎が力強い声をあげる。だが次の瞬間、霧散したはずの影は再びざわざわと集まって人の形を取り、衝撃波を放ってきた。
「いっ……!」
油断していたのか、衝撃波をもろに食らったマイベリが倒れ込む。
「マイベリ!」
椎椎がマイベリに駆け寄り、状態を見る。インファとミゼア、遠は、衝撃波をうまく避けながら影に向かって<疾風>を放ち続けたが、一度は消え去るものの、再び集まってきて攻撃してくるので、堂々巡りという他ない状況だった。そして普段よりも、魔術を使ったときの体力の消耗が激しいこともありありと分かった。簡単に息が上がる。
「えーこれどうしたらいいの! うざい!」
「きりがないわね……! そもそもこいつら、なんなのかしら……!」
「たぶんこれ自体に意志があるわけじゃなさそうだから、当然どこかに操ってる誰かがいるんじゃろうね!」
遠が発言したその後、影はぱたりと攻撃をやめ、空間に溶け込むようにして姿を消した。3人は緊張を保ったまましばらくあたりを警戒していたが、再び攻撃が始まる様子はない。
「あー! 疲れた! なんなのあれー!」
「遠の言った通り、誰かがやってることなんでしょうね……。でも、全く検討がつかないわ。わたくし達に、敵?」
「わたし達、月糸圏の女神候補じゃから、もしかして、他の圏からの邪魔とかかなぁ……」
マイベリの横に膝をついたまま、遠が呟いた。マイベリは、強いパンチを浴びたような打撲傷にはなっていたが、骨が折れている様子も、血が流れている様子もない。椎椎の白術のおかげで、打撲傷自体も大事には至っていなかった。
「どうかな……あの敵は、私達を殺そうとしているようには見えない。殺そうとするなら、もっと致命傷を与えるような戦い方ができるはずだ……」
椎椎が推測する。
「そうね……。考えても分からないわ。すっかり暗くなってしまったし、今日はこのあたりで休みましょうか」
「これ以上進めなさそうだもんねー」
「ごめんなさい、ベリのせいで、ベリが足引っ張っちゃってあんまり進めなくて……」
「誰もあんたのせいだって言ってないでしょ! うじうじしないでよ!」
「まぁまぁ、インファ……」
一行は塔の骨組みと骨組みの結合部分に座り込み、野営の準備をし始めた。木の太い根が張っていて、身を寄せ合えば5人が身を横たえられるスペースはありそうだった。夜露をしのぐために敷物を広げ、小さなランタンを木の枝にひっかける。
「ピクニックみたいじゃねぇ」
遠は無邪気に喜んだ。
「ねぇ、ご飯食べよう。おなかへっちゃった」
「あたしもー」
リュックサックの中から、日持ちがきくように焼きしめたパンと、野菜の酢漬け、干し肉などを取り出し、敷物の上に広げると、確かにそれはピクニックだった。
「わー! 楽しい!」
「遠はどうしてそんなにポジティブなの……」
「だってみんなと一緒にいるの、楽しいんじゃもの。ずっと続けばいいのに」
「……確かに、ちょっと楽しいな……」
椎椎がはにかんだような笑顔を遠に向けた。
「でも、女神を決めないと。……頂上まで全員が辿り着いたら、順繰りに玉座に座ればいいのかしら? そしたら玉座が適切な人を選ぶのかしら。その辺の話は最上先生、してくれなかったわね……」
「椅子が選ぶなんて、変な話じゃなぁ。椅子がどんだけ偉いんじゃろ」
遠の言葉に、一同は一瞬ぽかんとして、そして笑い出した。
「確かに、椅子が選ぶなんて、変ですね、遠様……!」
「遠はおもしろいこと言うよなー、確かに、椅子が選ぶって意味わかんないー」
「椅子、喋ったりして!」
「あははははは!」
「ちょっと、そんなこと言って本当に椅子が喋ったら笑っちゃうじゃないの、よしてよ!」
「ミーちゃん、もう笑ってるじゃん」
「だって……ふふ、あはは!」
一行はすっかりくだらないお喋りに夢中になって笑った。
「そうじゃ、ねぇ、外見てみよ? きっと綺麗じゃよ」
「あ、いいねー!」
5人は『塔』の外壁となっている草木を掻き分け、顔を出した。強い風に顔をしかめ、そしてしっかりを目をあける。
「「「「「わー!」」」」」
そこに広がるのは、まさに絶景だった。どこまでも続く夜の帳に、無数の星々が散りばめられた宝石のように広がっている。これほど広い夜空を、誰も見たことがなかった。
下を見下ろせば、群青色の大地の向こうに、橙色の光が煌々と輝いている円形の穴が見える。
「あれ……方向から言うと、」
「……ヨグナガルドだわ」
「そうそう、そうじゃね。じゃぁずっと右の方に少しだけ明るく見えるところが月糸かー! ヨグナガルドはさすがの明るさじゃねぇ!」
「ベリも見たいー。左の地平線の方に見えるがニューポートね!」
「すごいすごい! 綺麗ー!」
「天も地も、こんなに大きくて綺麗なんじゃね、世界って……」
しばらく初めて見る景色に興奮した後、冷たい風に根負けして、少女達は顔を引っ込め、眠ることにした。タオルを湿らせ、体を拭く。
「まーシャワーってわけにはいかないもんねー」
「今気づいたけど、わたくし結構疲れたわ、今日」
「……私もだ。疲労が今になってどっと……」
「ベリもー。おやすみなさぁい」
「みんなよく寝るんじゃよ」
「遠はお母さんみたいだな……」
夢を見た。
さっき見たこの広い世界を、もっともっと高いところから俯瞰している夢だった。
(塔の上から見てるんかな?)
だが自分の視点はどんどんどんどん地面から遠ざかる。ついには地表にある各圏の円は豆粒ほどになって、視界いっぱいに広がっているのは、真っ暗な宇宙と、そこにぽかりと浮かぶ星の姿だった。
(……この世界を、宇宙から見えると、こう見えるんじゃ……!)
息を飲むような光景だった。
今までは、月糸圏だけが遠の世界で、養成所に入ってから初めて『五圏』という世界を捕らえた。だが、今はその五圏でさえ、星という規模で考えればほんの陸地の一部でしかないことを、目の当たりにしているのだった。
(綺麗……この前、空からこの大地を見下ろしたときも綺麗じゃと思ったけど、でも本当にこの星はなんて綺麗なんじゃろう、青から赤へとちょうど球の真ん中らへんで色が変わっていってる……)
初めて見る「星の姿」に遠が見とれているとき、どこからか、声がした。
『……あなた、女神にはなれないわ』
知らない声と、その言葉の内容に、夢の中の遠は無意識に背筋を伸ばした。
(誰じゃ?)
『あなたは望まなさすぎるし、諦めすぎている。自分の生も、この世界も』
(……)
『今のあなたが湛えているのは諦念の思い、今のあなたが立つのは達観の境地。違う星からこの世界を見ているみたい。この世界で風に叫び、土に泣き、人を愛する気がないように見える』
(……)
『子供時代の辛い経験を経て、もう傷つかないように、他人に期待するのを諦めてしまった』
(……そうじゃね……よくご存知じゃ)
『あら、認めるのねこの子は』
(うん、そうな。ああ、でも1つだけ訂正じゃ。……愛する……大切なものは、できつつあるが)
『ミゼア達だって言うんでしょ? でも、本当に大切にできる? 彼女達があなたを裏切り、傷つけたとしても? 傷つけられてから、やっぱり大切なものじゃありませんでした、だから私は辛くない、って論理を作って、逃げ出すんじゃない?』
(……正しくて厳しいこと言うおねえさんじゃなぁ。……でもそう言われて、自分の弱さがよく分かったが。逃げ出さんし、諦めんよ。……女神になる、って自分のすごく奥にある何かと向き合わないといけないんじゃなぁ)
『あら、私ったら発破かけちゃったのかしら。そんなつもりじゃなかったのに』
(……おねえさんのおかげで、ちょびっとだけ、何か見えてきた気がする。ありがとう、じゃ。ところで、あなたは、誰?)
だが、声が答えることはなかった。いつのまにか目の前に見えていた星は消えて、暗闇だけが広がっている。無意識のうちに遠は夢から覚め、目を開いて、夜の闇を見ていたのだった。
(……今の、なんじゃったんだろう……)
遠はむくりと上体を起こした。周囲を見渡したが、複雑に絡まり合っている草木が僅かな風に吹かれてざわめいているだけで、異常は見つけられなかった。だが、ふと一緒に寝ている4人に目を留めた遠は、妙なことに気づいた。全員、どこかしら寝苦しそうな顔をしているのだ。インファは尋常ではない量の汗をかいているようにも見えた。
(……? 疲れかな。それか、もしかして今の声みたいなやつは、みんなにも語りかけてるんじゃろうか……)
(……あれは、悪夢? 人の弱さを、抉ろうとする何か……?)
その時、遠から一番離れたところにいたマイベリが「やだーっ!」と声を上げて跳ね起きた。
「ベリ、ベリ、どうしたんじゃ」
遠は小声で囁き、ミゼア達の体をそっと跨いで、呆然としているマイベリの横に腰掛けた。
「……嫌な夢、見たん?」
「遠様……」
マイベリは潤んだ瞳で遠を見上げ、そしてその顔を見る見るうちに歪ませ、涙をぼろぼろと零した。
「ごべんなざい……ベリ、いづもいづも足引っ張って、いづも心配じでもらっで、ごべんなざ……」
「いいから、いいから。みんな起きちゃうから、ほら、何も言わずに泣くといいさ」
遠はマイベリの体を引き寄せ、しっかりと抱きしめた。マイベリは安心したのか、声を殺して泣き始めた。遠の胸元はマイベリの涙であたたかく湿っていく。ひとしきり泣いて、マイベリは落ち着いたのか、そっと顔を上げ、頭を遠の肩にもたせかけた。
「……ベリね……ベリ、……養成所に来る前は、アイドルだったの。あ、遠様は知らないと思う、ご、ご当地アイドルみたいな感じだから……。ベリね、歌うのが好きで、それでアイドルやってたの」
マイベリの話に、遠は黙って相槌を打った。マイベリの体温が温かい。
「でも、みんなね、顔やおっぱいばかり見てるの。それしか見てないの。それでもみんなちやほやしてくれたから、ベリはかわいいお人形でいればよかったんだ。……でも、ここではベリ、全然力不足だし、誰も誉めてくれないし、どう行動すればいいのか分からなくて。顔やおっぱいばかり褒めそやされない状況を願っていたはずなのに、いざそうなったら、自分なんて全然価値がないように、感じる、よぅ……」
「遠様だけが、優しくて。あ、あと『塔』に行くときの集合時間のときに、椎椎ちゃんとも少し仲良くなったんだけど、でも、でも、ベリはたぶん頂上には行けないし、……本当は行けなくてもいいんだ……ベリの役目はそれじゃないから……」
マイベリの話は段々支離滅裂になってきたが、遠はただ「うん、うん」と言いながら、あやすようにマイベリの頭を撫でた。泣き疲れたのか、そのうちマイベリは遠にもたれかかったまま、規則正しい寝息をたてはじめた。そっと体を横たえ、毛布をかける。
(こんなのはずるいんじゃけど……)
遠は深い睡眠を目的とした白術を、そっとマイベリにかけた。
ミゼアは、悪夢から目覚めて、横たわったまま遠がマイベリをあやす様子を片耳で聞いていた。
夢の声は、否応無しにミゼアの心の弱いところを突いてきた。
(マイベリもそうだったのかしら……他の子も? あれは、昼間の黒い影のような「敵」の術なのかしら……)
ミゼアは、養成所に来る前の環境で、常に自分より秀でている少女・ヘリヤに次いでNo.2のポジションにいたが、決してそこから脱却できなかった。玉宮の要人であった母も、豪商として名高かった父も、優しかったが、言外にいつかNo.1になってくれることをミゼアに求めていた。だからせめてこの養成所ではNo.1たろうとミゼアは思っていたのだ。だが、遠がいた。遠はできないことはからっきしできなかったが、黒術と知術においては明らかにミゼアを上回っており、そしてそれは他の欠点を補ってあまりある力だった。いくら見た目や振る舞いが女神らしかろうとも、知性と天力で負けては意味がないのだ。
ミゼアは、ここでも自分より力が上の少女がいることを思い知ったのだった。ヘリヤを妬んでいたときのように嫉妬心が生まれそうになるのを、ミゼアは必死に我慢していた。他人と比べてもしょうがない。わたくしは、わたくしの出来ることをしなければ。
だが、自分でも驚くほどすぐに、生まれそうになった嫉妬心は消えた。恨みがましく思う前に、ミゼアは遠のことが好きになっていた。初めて会ったときに、自分の愛想笑いを愛想笑いだと見抜いた遠。変わり者ではあるが、まっすぐで、賢く、強く、優しく、そして何よりミゼアに率直な愛情と尊敬の念を向けてくる遠。ミゼアは初めて友達ができた、と感じていた。だが、それでは駄目なのだ。両親の期待に報いなければならない……。
(遠は、わたくしが女神になったら、それを支えたいと言ってくれた。でも、わたしの思いは逆に傾きはじめている。……もし遠が女神になるなら、わたくしはそれを支えたい。でも、それは、それは許されない道なのよ……)
太陽のあるうちは、しつこく現れる『影』と戦いながら『塔』を登り、夜は悪夢にうなされる、という一日が、その後3日間、続いた。
とは言っても、示し合わせたかのように、誰も悪夢のことは口に出さなかった。だが遠は、皆が毎晩寝苦しそうにしているのを知っていた。ベリのように素直に気持ちを吐露してくれる者は他にはいなかったが、遠はこっそり皆に白術をかけて回った。体内に大量にあるらしい天恩が幸いしたのか、黒術も白術も、天恩を抑えるという『塔』の干渉にあまり影響されなかったのである。それに、次の日の夜こそ再びあの意地悪い声を再び聞いたものの、そのさらに次の日の夜には声は聞こえなくなっていた。ただぽかりと浮かんだこの星を眺めるだけの夢を、遠は見続けた。
「だいぶ高いところまで来たねー!」
5日目の昼も過ぎた頃、インファが塔の外壁の草を掻き分けて、外の様子を眺めながら叫んだ。五圏は遥か足元に見えるが、高所恐怖症だという椎椎などはとっくのとうに、下を見下ろすことなどできなくなっている。
「やや、うっすらと白く見えるの、あれ、雲じゃよね? ……わたしら、雲の上にまで来たんか……!」
「わたくしはなんだか頭が痛いわ……最上先生のおっしゃっていた高山病とかいうやつかしら」
「ミゼアさん、大丈夫? ベリも気持ち悪くて……」
「えーもうみんなひ弱なんだから! 仕方ないね、ちょっと休むか!」
壁にもたれかかって、残り少なくなってきた水を舐める。遠は皆が寝不足なのを知っていたし、その状態で影と戦い、かつ「登山」をすることがそろそろ限界なことを分かっていた。しかも、上に行けば行くほど寒さが厳しくなってきていて、空気が薄い。遠もさすがに息が切れていた。汗をぬぐい、ふぅ、と息を吐く。その時、ふと、何かが降りたように、言葉が口をついて出た。
「……なんで、この『塔』ってあるんだろう?」
他の少女達が振り返って、遠を見た。
「え、何? 何か言った?」
「やや、なんで、この『塔』ってあるんだろう、って……」
「……なんでだろう……」
「そういえば、教わらなかったわね……」
椎椎とミゼアが小声で答える。マイベリは皆の顔色を順々に見ていた。
「あとね、あの、今気づいたんじゃけど、わたし色々なことがひっかかってるの」
遠は話し続けた。そう、気になっていた、ずっと。今はそれが、雲が晴れるように、頭の中で明確なイメージになっている。でもなぜ今まできちんと言葉にならなかったのだろう?
「この世界って、……女神が統治する世界って、どうしてこうなったの? 誰がこの仕組みを作ったの、いつからあるんじゃろう?」
「大いなる初めての女神アーリア様が……」
インファが口を開きかけたが、遠は珍しくそれを遮った。
「アーリア様が、5人の女神を5つの穴に分け、産み、増やして、統治させた。でも女神だけでは、子供を産めないじゃん? 男の人がいたのかな? ……ということは、アーリア様が来る前から、この世界はあったんじゃ。でも、その世界の歴史を、わたしらは知らない。アーリア様以後しか、知らない。……ね、アーリア様の前に、誰がこの世界を作ったんじゃろ? アーリア様はどうして『女神になった』の? それに、天恩のある『天印持ち』と、そうではない人がいるのはなぜ?」
重い、沈黙が訪れた。誰も口を開くことができない。遠の疑問はもっともなことで、だからこそ少女達はそれぞれ大きな衝撃を受けた。こんな当たり前のことを、なぜ今まで誰も思いつきもしなかったのだろう。
「……最上先生に聞いたら、教えてもらえるだろうか……」
椎椎が小さな声で呟いた。
「……いいえ。きっと最上先生も、そんなこと思いついたこと、無いんだわ。わたくしはそんな気がする」
ミゼアが険しい表情のまま答える。インファも頷き、そしてふと顔を明るくした。
「きっと、女神になったら分かるんじゃない? 女神だけがその、世界の仕組みを知るのよ。かーっくいい!」
「わぁ、それなら素敵! ベリも知りたーい!」
「……そうなら、いいけど……でも、もし女神しか知らないのだとしたら、なぜ他の人は知ってはいけないのかしら……」
ミゼアの問いに、遠は頷いた。
「わたし、知らないことがあると気になってしまうんじゃ。ここで考えても仕方ないが、『塔』から降りたら出来る限り調べてみるが」
「まぁそうね、ここであーだーこーだ言ったって仕方ないね。そろそろ先に進もうか」
「……そうだな……」
「やや、なんかごめんね、変なこと言い出しちゃって……なんで突然、こんなこと考えたんじゃろう」
一行は再び道なき道を登り始めた。なぜか上に登れば登るほど恐ろしい量の木の根が『塔』を支配していて、梁の上を歩くような容易い状況ではなくなっていた。どうやったら上に登れるのかも分からず、さぐりさぐり木の根に沿って上に登る。一歩ずつ、片足を持ち上げては木の根にひっかけ、ぐっと腕に力をこめて体を持ち上げ、また足をかける。
「おーい、みんな、もうちょっと登ったら平らな洞があるから頑張れ!」
上から叫んだのはインファだ。とにかく彼女の体力は無尽蔵だったので、いつの間にか先頭は常にインファ、しんがりは次に体力のある遠が務めていた。インファに遅れること数分、5人全員が木の根に囲まれた空洞のようなスペースに出た。
「はぁ、駄目……ベリすぐ疲れちゃう……」
「……私もだ……がんばろう……」
椎椎がマイベリを励ます。その時、どこからか、何かが近づいてくる音がした。風による葉擦れではなく、明確に何か質量を持ったものがこちらに進んでくる音――。
今まで出会ってきた『影』は、影であるがゆえに、決して音を立てることはなかった。全員が無言のまま、背中合わせに円を描いて構える。各々が口の中で呪文詠唱の準備をした。音は近づいてきて、そしてミゼアの目の前の草木が大きく動き、現れたのは、巨大な犬……狼だった。ミゼアが声にならない声をあげ、彼女の放つはずだった黒術の呪文は途切れた。
犬は月糸圏では一般的な動物だが、狼は「土狼」と呼ばれる小型の品種がいるのみで、それも十二層以下の暗い、じめじめした洞窟地帯にしか生息しない。だが目の前にいる狼は、その大きさ、最も背が高いミゼアの背丈をゆうに超えている。白灰色の毛並みが美しい。
ミゼアに変わってインファが何かの術を打ち込もうとしたが、その時「ま、まって!」といつになく大きな声をあげたのは、椎椎だった。
「……見て、あれ……」
椎椎の白い細指が、一点を指していた。巨狼の、額。そこに、彼女達『印持ち』と、全く同じ『天印』があった。一同は息をのんだ。
「どういうこと……?」
「分からないけど、攻撃してはだめじゃ……わたしが、話してみる」
遠は今にも狼に素手で殴り掛かりそうなインファをそっと抑え、前に出た。インファが「いやあんた、話すってこれ動物だよ!」と言うのが耳に入ったが、気にしなかった。椎椎が、「狼は神聖な動物だからくれぐれも丁寧に……!」と遠に囁く。頷いて、遠が口を開こうとした時、思いがけないことが起きた。先に「喋った」のは狼の方だったのである。
『小さい者よ』
(……<伝意>だ!)
狼は口を開けてはいない。頭の中に、直に言葉が流れ込んできた。
『はじめまして、大きな狼さん。わたし達は、女神候補生として、この塔を登っている者です。あなたに危害を加えるつもりはありません。上に、行かせてもらえますか?』
遠も<伝意>で伝えた。椎椎のアドバイス通り、可能な限り丁寧に。だが狼は遠の問いには答えなかった。
『なぜ、女神になる?』
『……あ、』
『なぜ、女神になるのだ。お前達は、どうして女神になろうとするのだ。何が欲しい。何を求めている』
遠は沈黙した。その答は、まだ持っていなかった。
『全ての人を幸せにするためよ』
代わって答えたのはミゼアだった。
『そうやって今まで数々の女神が生まれ、そして決して”全ての人が幸せ”などという状態は実現しなかった。お前は何をもって人の”幸せ”をはかるのか?』
『……』
ミゼアは口を閉じた。
『狼さん。あの、さっきのなぜ女神になるか、ていう答なんじゃけど』
遠があとを引き継ぐ。知らず知らずのうちに、いつもの言葉遣いに戻っていた。
『正直に言うと、わたし、まだ分からないんじゃ。ごめんなさい。でも、今は、知りたい、と思ってるんです。この世界のこと、本当は何も知らないって気づいたから』
今度は狼が、しばし沈黙した。
『……ここで、待て』
一言だけ発して、巨狼は現れたときと同じように木の根が絡み合う中に戻っていった。灰色の、立派な尾の毛先が茂みのなかにすっかり消えるのを見届けて、一行はやっと息をはいた。
「ふわぁぁぁ、怖かったよぉ……」
マイベリがその場に座り込む。彼女は椎椎に捕まってずっと震えていたのだった。
「なぁに、あれ? どうして印があるの? 敵? 味方? わかんないよーぉ」
「た、助かったのかな? あーあ、あたし狼とちょっと戦ってみたかったなー!」
「インファ、勘弁してよ……わたくしも緊張したわ、答えられなかったら食べられてしまうのかと思ったもの」
「ミーちゃん助け舟だしてくれて助かったよ、ありがとう」
「そうよ、もう、あんなのオーソドックスな問いでしょ、ちょっとくらい本心じゃなくていいから、答くらい用意しておきなさいよ!」
「そうじゃね、また『塔』のてっぺんの椅子で聞かれるかもだし……」
ふふ、とミゼアが笑い、それが全員に伝染して、皆顔を見合わせて、あはは、と笑った。だがその時、あらぬところから声がした。
「あのー。お取り込み中悪いんだけど……」
少女達は目にも止まらぬ速さで再び背後を向き、身構えた。だが声の主の姿は見えない。
「上だよ、上。あ、黒術使うなよ、俺、すげー普通の人間だから、お前らなんかに対抗できねぇから。あ、何、5人もいんのか!」
そして、彼女達の頭上の茂みから、足がにょきっと生えてきて、器用に木の根にぶら下がって現れたのは、一人の若い男だった。無造作に伸びた長い髪が、燃えるように赤い。同じように赤いタンクトップを着て、短いズボンをはいている。格好だけなら遠に似ていたが、男は遠よりは遥かに野性的な体つきをしていた。
少女達は狼狽えた。そもそも若い男性と話すことが久しぶりだったし、今の自分達は汗と土埃と樹液にまみれて、まるで女性らしくない。一人、そんなことを一切気にしていない遠だけがまるで物怖じせずに男に話しかけた。
「やや、こんにちは。あなたは、どなたじゃね?」
男はきょとんとして、そして、腹をかかえて笑い出した。
「あははははははは、わ、悪い、すげぇなまってるから、あははは、俺こんな女神候補見たことねぇ……あははははは!」
「……何か、失礼なことを言われた気がするが」
珍しく憮然とした遠に、ミゼアが、「思い切り怒っていいところよ」とアドバイスした。
「まぁ、いいや。わたしは、遠。ここにいるみんなは月糸圏の女神候補生じゃ。あなたは?」
ようやく笑いがおさまってきたらしい男は、それでもまだ顔の筋肉をぷるぷるさせながら答えた。
「俺はシナト。さっきの狼――正確には雪狼ね――は俺の友達。お前達、疲れただろ、俺んとこ泊まって休んでけよ」
「え、泊めてくれるの?」
顔を輝かせた遠に、後ろからインファが掴みかかった。
「遠、だめだっつの! こんな怪しいやつのところに泊まるなんて、襲われるかもしれないんだぞ!」
シナト、と名乗った目つきの悪い男は再び大声で笑い出した。
「襲うかよ、自意識過剰だ! しかもお前、その筋肉じゃ相当鍛えてんだろ、『襲われちゃった、きゃぁ!』っていうタマかよ!」
「こ、この……!」
「インファ駄目、怒るところだけど駄目よ!」
今度はミゼアがインファに後ろから抱きついて止めた。
「あなた、失礼よ。ちゃんと説明してくださらない? あなたが誰で、なんでこの『塔』の中にいるのか」
「おーおーお姉ちゃん、綺麗なんだから怖い顔しないでよ。あとで話すから」
シナトはどうどう、とミゼアをおさめるような仕草をしたが、それはますますミゼアを苛立たせた。
「ホントに今はどうこうする気なんてねぇんだよ、お前らここまで登ってきたってことは相当体力消耗してんだろ? 休んでけって。水も食べものもあるから。あと体も洗えるぞ」
「食べもの!?」
再び遠が顔を輝かせた。遠だけではなく、他の4人もこの魅力的な申し出を受けようという気になってきた。特にマイベリと椎椎の体力は、限界に近づいていた。5人は顔を見合わせ、頷きあった。もし何か妙な動きをこの男が見せたら、5人でかかればどうにかなるはずだ。
「じゃぁ……ついていくわ。変な真似したら、どうなるかわかっているでしょうね」
ミゼアが冷たい態度を崩さないまま言った。シナトははいはいわーってますって、とちゃらけた様子で答え、片手でついてこい、と合図をし、先ほど狼が消えた木の根を持ち上げた。
シナトが木の根をくぐる後を、インファ、ミゼア、マイベリ、椎椎、遠、と続く。身を思い切りかがめないととても通れないほどの隙間で、巨狼がどうやってこの中に消えていったのか、全く分からなかった。だが確かに狼の臭いは強く残っていて、獣道ってこういうことかぁ、と遠は妙に納得した。
どれくらい進んだだろうか、数分進んだところで、突然視界が開けた。先ほどと同じように、平らな洞のような空間が広がっていたが、かなり広く、また明らかに人の手が加わっている気配があった。一同は腰をさすりながら無言でその空間を見上げたり、眺め回したりした。聞きたいことは色々あったが、口にする元気も失われていた。
「お前らを入れられるのは、ここまでだ。ここから奥は、俺らの居住空間だから。まぁ、座れよ。そこに石と木の根と苔で作ったソファがある。今、布とかを持ってきてやるから。……お、と言ってる間に向こうから来たな」
空間に作られた大きな木の扉がギシギシと軋んだ音を立てて開き、あの巨狼らしき動物がくわえてきた籠をそっと降ろし、鼻先で押し込むのが見えた。シナトは籠の中から何枚かの厚手の布を出し、手際良く広げて「苔のソファ」に敷いた。
「この籠の中に入ってるもんはなんでも使っていい。あと、そこの小さな扉、大きくない方のやつ、を開けると簡易便所と風呂がある。風呂は薪を焼べて、横にあるマッチを使って火をつけりゃぁすぐに炊けるから。……何つったってんだ、座れよ」
そう言ってシナトは、地べたに座り込んだ。遠達もめいめいに座った。弱り切っているマイベリと椎椎、ミゼアにソファを譲り、遠とインファは床に座り込んだ。ソファと同じく、地面にもほぼ全面に苔がはえていて心地が良い。
「ここは俺の基地の前庭だ。で、俺はこの基地の……じゃねぇな、この『塔』の番人のようなもんだ」
「……なぜ番人、になったのだ?」
椎椎が口を開いた。
「それは話すと長いからパス」
「嘘つき、さっき話すって言ったじゃん!」
「うっせぇ、『番人』て言ったろ。他に言えることがねぇんだよ」
「じゃぁ、いつから『番人』なの?」
ミゼアの質問に、シナトは少し考える素振りを見せた。
「うーん、『この世界ができたとき』から、かな。」
「ずっと生きてるの? 300年くらい前から?」
「んなわけねーだろ! 代替わりしてんだよ。はいはいーこれ以上は言えねぇな。俺、母屋に戻るから。なんかあったら、その扉の横にある紐引っ張って。そしたらこっちで鈴が鳴るようになってっから。もうちょっとしたら晩飯持ってくるよ」
「ご飯! やったー!」
「本当になんなんだお前は……」
シナトは立ち上がり、部屋の隅に置いてあったいくつかのランタンに火をつけ、暗くなってきたから適当に使えよ、と言い捨てて去っていった。扉が閉まったタイミングを見計らって、5人は顔を見合わせた。
「えー、どう思うあいつ? 怪しくない?」
インファが口火を切る。
「怪しいも何も、怪しすぎるわよ……おかしいでしょう、こんな『塔』の高い部分にずっと住んでるなんて。本当なのかしら。しかも他にも人がいるみたいよ」
「……それは本当だと思うが、怪しいことには間違いないな……」
「怪しくはないと思うよ、いい人そうじゃ。でも、番人て言ってたけど、なんの『番』をしてるんじゃろ?」
遠の言葉に、皆がはっとする。文脈から自然と『塔』の番をしているのかと思っていたが、そうだとしても「何から」守っているのかが分からない。だが、マイベリがひどく咳き込んで、一度この話題は中断した。籠の中をあさって、入っていた水筒から水を飲ませる。
遠はマイベリの様子を見守りつつ立ち上がり、この『前庭』の木の根でできた壁面に沿うようにして歩いた。
(……ここは、今まで登ってきた塔の内部とは、明らかに元々構造が違う……)
木の根の絡まり方が違うのだ。おそらく、根の中に、本物の壁があるのではないかと遠は考えた。
(あ……)
じっくり木の根を触り、見て回っていた遠は、その根の奥に、何か鈍く光るものを見つけた。目をこらす。銀色の、朽ちた、機械のようなもの。
(……針がある? ……計器、じゃろか。でも、何のかは分からんし、何でかも分からんなぁ)
「遠ー、籠の中に布団っぽいものあったから、敷いちゃおうと思うんだけどー! あたし以外みんな辛そうだからー!」
インファに呼ばれ、遠はごめん、手伝う、と答えながら慌てて壁らしきものから離れた。
(へー、そこに気づくんだ。そこそこ賢い子なのかな? だけどこの場所が『波止場』だったとは流石に気づかねぇだろうな)
火の番をしながら前庭の様子をのぞいていたシナトは少しだけ感心した。
「シナト兄さま、これ、できました」
シナトの背後の母屋の台所から、子供達が数人、手に手に温かな湯気の立つ皿を持って走りよってきた。うち、シナトの従兄弟にあたる15歳のロダと13歳のダキアが口々にシナトにせがむ。
「兄さま、僕たちがこれをあの人達のところに運んでいきたい。ね、いいでしょ」
「駄目に決まってんだろ。いいか、俺らは外界のやつらと接触しちゃいけないの」
「でも兄さまはいいんでしょ、ずるいよ!」
「まぁずるいよなぁ、でも俺『シナト』だから仕方ねぇんだよ、そういう役目なの。その代わり他にも色々背負ってんだから許せよ」
「……兄さま、あの人たちの中からお嫁さんを選ぶの?」
「……一応まぁ、その予定だけど。でもなー、攫うのはあんまり気が進まねぇなー。でも子供は作らなきゃいけないし……」
「ふーん。ねー、お嫁さんにするなら誰が良い? 僕はあの栗色の髪の子がいいな!」
「あーうっせぇ! そんなこと人に言うか! 大体何もまだ決めてねぇよ!」
シナトは納得いかない表情の子供達から、いい匂いをさせている皿を奪い取り、大きなトレーの上に移し替え、器用に足でドアを開けつつ前庭にそれを運んだ。今日の晩ご飯は根菜と豆のスープだった。
(嫁ねぇ、5人もいて逆に選びづれぇな。みんなかわいいしどれでもいいんだけど……消去法で考えるか……えーとまずあの強そうな女は無し、金……紫の髪の美人ちゃんもプライド高そうだし無し、巨乳ちゃんとちびちゃんは弱っちすぎるし無し、田舎者の男っぽい子も無し……うっ誰も残らねぇ……)
ぼーっとそんなことを考えながら歩いていると皿の中のスープが零れて、うおおあちい! とシナトは叫んだ。
「おい、食いもんだぞー」
「わー、ありがとう!」
パッと立ち上がって走り寄ってきたのはシナトの頭のなかで「田舎者」と分類された短髪の少女だった。少女は皿のうえを覗き込んで目を輝かせて叫んだ。
「わ、根菜がいっぱい入っとる、おいしそー!! みんな、あったかいご飯じゃよー!」

「お前食い気はってんなぁ。……そういや、名前なんつーの?」
今にも涎を垂らしそうな顔をしていた少女は、せわしなく皿を仲間のところに運びながら答えた。
「わたしは遠。これ……この子がミゼアで、この子がマイベリ、この子が椎椎で、今お風呂に行ってていないのがインファ」
「ふーん」
名前を聞いたはいいが、特に何か感想が浮かぶわけでもなし、シナトは突っ立ったまま少女達を眺めた。シナトだって、こんなにたくさんの若い女性を見るのは初めてだったから、どう交流していいものかよく分からなかったのである。
巨乳ちゃん―マイベリと呼ばれていた少女だけは、咳がひどくてろくに食べれておらず、遠が付きっきりでスプーンで口に食べ物を運んでいたが、ミゼアと椎椎はおいしいね、と言い合っており、この村を誉められたようで、どことなく誇らしい気持ちになった。
だが、ふとその時、シナトの脳裏を何かが過った。
(……)
その『気配』が何かは、すぐに分かった。
(ハターイーだ。この子達の空気に、あいつの臭いがする。……つけてるのか、趣味の悪ぃやつ)
シナトは臭いを払うように鼻をすんすんと鳴らした後、少し考えてから、地面に座り込んでガツガツと麦飯をかき込んでいる遠を手招きした。
「えっと、……シーちゃん? だと椎椎と混じっちゃうから、シナちゃん、ご飯すっごく美味しかった、ありがとう。こんなところで食物を育てるのは大変だろうに、わたしらに分けてくれて本当にありがとう」
走りよってきた遠は、シナトを抱きしめんばかりの勢いで話したが、口の中にまだ何か残っているのか、やたらもごもごとしていて、シナトは途中から笑い出してしまった。
「お前反則だよ、なんなのその……面白さ。まぁいいや、とにかくさ、お前らちょっと気をつけろよ」
「? 何に?」
「……えーと、変な若い男」
「シナちゃんじゃなくて?」
「ばっかやろう、俺のどこが変なんだ。あとそのちゃんづけで呼ぶのやめてくんない……」
「いやじゃ、シナちゃん」
「……ああもう、調子狂うなぁ! お前絶対女神になるタイプじゃないだろ! とにかく、変な、銀色の髪の男がお前らのことをつけてんだよ」
「何の為に?」
「話すと長いから、パス。まぁ、殺されやしないだろうけど、殺すより悪趣味なことをしかねないやつだから、気をつけろよ。見た目はすんげぇ綺麗なんだけど、騙されるなよ」
「うん、よく分かんないけど、美形な人には気をつけるよ。ありがとう。ところで、……お願いがあるんじゃけど」
遠はシナトをまっすぐに見た。随分強い目をしている子だ、とシナトは一瞬息を飲んだ。
「ベリ……マイベリを、この村で、しばらく預かってもらえないじゃろうか」
「……脱落?」
「うん。さっき自分から、もう無理です、って。体力が限界のようじゃ……わたしらがてっぺんの椅子のところまで行って、降りる帰り道に必ず迎えにくるから、それまでの間ここでマイベリを看てほしいの……虫のいいことを言ってるのは重々承知してるんじゃけど、そうするしかなくて……」
「いいよ、分かったよ」
「本当!?」
「別にかまわん、母屋にはもっと人数いるんだし、一人前庭で面倒見るくらいたいしたこと無い。あの、ちびちゃんは大丈夫なのか?」
「しーちゃんのこと? しーちゃんもかなり辛そうなんだけど、てっぺんまで行くって言って聞かないの」
「ふーん。まぁ、とにかくあの巨乳ちゃんのことは任せろ」
「変なことはなしじゃよ?」
「しねぇよ! ったく、マセガキめ。ほら、戻って残りの飯でも食ってろ」
「マセガキって言ってももう16じゃし多少はマセてないと……」
遠がぶつぶつ言いながらご飯のところに戻り、風呂から出てきたインファと笑顔で話すのを尻目に、シナトは母屋に戻った。
夜が深まり、草木も寝静まり、星々の瞬きが冴え渡る時刻。なぜか目が覚めたシナトは、ついでだから、と前庭の様子を見に母屋を出た。前庭の扉をそっとあけ、布団のふくらみから覗く頭を数えれば5人ちゃんといて、皆ぐっすり寝ているようだった。
(……)
彼女達を見ていると、とても、とても言葉では言い表せないような気持ちになる。自分の祖先、つまり初代のシナトが、彼女達の祖先に行った、残虐な行為。愛ゆえのことだったが、だがやはり初代の考えは正しくなかった、という結論に今のシナトは辿り着いている。
(俺は、こいつらを影から見守ってやらんと……。あー、でも、でも誰か嫁に選ばんと、俺ももう20歳だし……)
「俺は、この子達を守ってあげないと……とか、考えてる?」
突然後ろから妙に色っぽい男の声が聞こえて、シナトは飛び上がらんばかりに驚いた。
「てめっ、いつからそこにいた! 気色悪ぃ!」
背後に立っていたのは、ハターイーだった。銀色に輝く豊かな髪は、今日は細かい草花模様の入った布で、高く束ねられている。
「シーッ。レディ達が起きちゃうよ。ほら、もう少し彼女達から遠いところに行こう」
「な、何がレディだ、気持ち悪っ……」
だがハターイーは有無を言わさずシナトの手首を掴み、母屋と前庭の間に広がるセイタカヒルガオの茂みの方に引っ張っていった。
「やれやれ、君はいつも無神経なんだから」
「手ぇ放せって! ったくお前は何なんだよ、あいつらのことも後つけて色々してただろ、ほっといてやれよ」
「そういうわけにはいかない」
ハターイーは突然真顔になった。
「シナト、君は気づいてないのかい?」
「……何にだよ」
「……僕が君に良くしてあげる理由は一つもないけれど……仕方ない、教えてあげるよ」
「いやいや、俺だっててめぇに恩を着せられたくはねーよ。帰れ」
「そう言わずに聞いておきなよ。……あの子達の中から、果神が誕生する可能性が、ある」
「はっ!?」
思わず大きな声を出したシナトは、慌てて口を閉じた。
「何言ってんだてめぇ、まだ女神にすらなってねぇんだぞ。寝ぼけてんのか。」
ハターイーは小さく微笑んで、目線をあげた。
「あの子達は、逸材だよ。みんな凄いけど、遠とミゼア……特に、遠。……彼女達の歴史が始まって以来の、天恩の持ち主だ。しかも他の力も非常にバランスが良い」
「あの田舎っぽい、男の子みたいな子?」
「失礼だよ、シナト。君の目は相変わらず節穴なんだね。遠ちゃん、綺麗じゃないか。本当に凄いんだよ。一度彼女の術を見てみれば分かるさ」
「ふーん……でも実感湧かねぇな。女神になるだけじゃなくて、なんで力が強いだけで、果神になるわけ?」
ハターイーはシナトより背が高く、見下ろされる格好になったシナトは苛々したが、話に興味を持ってしまった時点で負けだった。
「詳しいことは話せないけれど、予兆があるんだ……僕は、焦っている。果神が誕生してはならない……。絶対に」
「いや、俺はそれを待ってるんだよ」
「知ってるよ。でも、君が『彼ら』に対抗できるわけがないんだ」
「できる。俺はやる。……帰れよ。てめぇと俺は馬が合わない。てめぇの祖先と俺の祖先がそうだったように、永遠に俺らは理解しあえないって分かってんだよ」
「……残念だよ」
本当に残念そうに微笑んで、ハターイーの姿は一瞬にして消えた。
「……くそ、ちゃらちゃらしやがって……」
シナトは小さく呟いたが、元々犬猿の仲のハターイーがわざわざシナトに「果神が誕生するかもしれない」と言いに来たのは、ただごとではないとは理解していた。こうなると、嫁探しどころではない。彼女達の行く場所についていって、何が起きるのか、見届けなければならない。
(いつでも、俺はやれる。……この時を待っていた。
物心がついてからずっと待ち望んでいた。待って、待って、長い時間が過ぎた。その時が、来るのかもしれないのだ。高ぶる心を抑えられず、シナトは大きく息を吸い込み、そして吐いた。
(……寝よう)
次の朝、シナトが起きたときには、女神候補生はマイベリしか残っていなかった。マイベリは目を真っ赤にして泣きはらしており、泣いている女性がひどく苦手だということに今まさに気づいたシナトは、しばらく彼女を放っておくことにした。食べものは籠の中にたっぷりあるし、大丈夫だろう。
(俺も、行こう)
雪狼達に餌をたっぷりと食べさせ、念のために、まだ子供の1頭だけを残して、他全ての狼を彼らの住処から引き出した。
「……最初で最後の、戦いかもしれないんだ。頼むよ、相棒」
カアン、と名づけられた最も巨大な雪狼の額と喉をしっかりと撫でると、彼は嬉しそうにぐるるるる、と低い声で鳴いた。
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