4 遠、仲間と共に戦う

 遠が養成所に入所してから、2週間ほどがすぎた。その間に、幾人かの生徒が女神科から脱落し、女神技官科に移っていった。一方で遠は脱落することなく、ミゼアとインファと椎椎――椎椎は白術では本当に突出した能力を発揮し、最上を驚かせた――と、時々マイベリとの毎日を楽しんでいた。授業で教わる新しい事柄も、今までになかった、世界が広がっていくような喜びを遠に与えた。

 遠は今まで、友達と呼べる存在をほとんど持っていなかった。基礎学校の級友と仲は良かったが、遠がいくら普通に接していても、十層の子供達は遠を「印持ち」として見たし、あるいは「神童」として見た。――最初は悪意を浴び、迫害された。それをものともせずに自力で跳ね返した後は恐れられつつ崇められ、笑顔で話しつつも、決して「仲間」にはなれなかった。級友達との間に、見えない壁があるのを、遠はよく分かっていた。だが、養成所で出会ったミゼア達は、遠を遠として扱ってくれた――くれているような、気がした。その淡い喜びと、「友達」への愛情を、遠は自分でも無意識のままに、日々心の片隅でひっそりと育てていたのだ。


 遠は、黒術のなかでは<浮雲>が一番好きだった。次に、<青嵐>。<浮雲>は、雲のようにふわふわと漂う黒術で、<青嵐>は疾風のごとく飛ぶ黒術だった。ある日の放課後、ミゼアが用事があって外出すると言うので、暇になった遠は久しぶりに一人で散歩に行こう、と思い立った。養成所に入る前、遠はよく六層まで走って登っていっては、南に広がる鬱蒼とした森を抜けたところにある、小さな、だが偶然にも上に視界を遮るものがなく、よく陽の当たる窪地に行ったものだった。遠はそれを一人ピクニックと呼んでいた。家から、よく焼いたオニギリをポケットに1つ2つ入れていくこともあれば、町でクレープや胡椒餅などの軽食を買っていくこともあった。いつも必ず持っていくのは青い水筒に、1、2冊の本。それを一人で、空を見上げながら寝転んで本を読み、暗くなればまた走って帰るのだった。

(あそこに行こう、わたしも外出許可取れるじゃろうか……)

 おそるおそる寮の事務室の窓を叩いたが、どうやら幸運にも誰もいないようだった。

(ラッキーじゃ。勝手に出てしまえ)

 一応辺りを見回しながら、こそりこそりと遠は養成所の敷地の外に出た。層間階段のところまで行って、慣れ親しんだ散歩とはやや違うことに気づく。

(あ、ここ三層だから、下るのか。そのかわり帰りが登りか。へへ、変な感じ! 楽しいな!)

一気に走って階段を下ると、深い月糸の穴が遠を迎え入れ、歓迎するかのように強い風を吹かせた。

(ワー!!!!)

 遠は完全にテンションが上がっていた。遠は月糸という土地が好きで、そして何より月糸を走り回り、その地形が生む風を体に受けることが好きだった。

(強い風が吹いていると、生きてるって感じがする!)

三層から六層までは、遠の足にかかれば数十分だった。息を切らしつつ町の道を歩けば、胡椒餅屋のおじさんから声をかけられ、クレープ屋の娘から声をかけられ、それらに手をふりふり、遠は再び走り出して南へと向かった。森は薄暗く、温かく、言葉はなくとも遠におかえり、と言っているようだ。柔らかな土を踏み抜けて進むと、次第に前方に明るい光が現れた。窪地は、変わらぬ風情で遠を待っていた。

 遠は柔らかい草の上に寝転がり、そのまま左右にごろごろと転がって、久しぶりの草の感触を楽しんだ。それから本を読み始めたが、ふと、昨日の出来事を思い出した。


 昨日の黒術の授業中、マイベリは最上に叱咤されていた。

「もっと集中しなさい。でないと、次はあなたを落とすわ」

「……ハイ……」

 最上の厳しい言葉にマイベリは肩を落としていた。だが最上が、悪意で厳しい言葉を投げているのではないことを、遠は分かっていた。だからそこでは何も言わなかった。だが。

「マイベリはどうせ向いてないんじゃない、女神には」「そうそう、私はかわいいでしょ、守ってあげたくなるでしょって顔してる。女神はもっと頼りがいのある女性でないと」「すぐに傷つきましたって顔するし、お嫁さんにでもなった方が幸せなんじゃないかしら」「胸も大きいしね」「最近は優秀な遠に取り入ってなんとか女神科に残ろうとしているみたいよ」

 同じ女神科の、残り数少ない少女たちのうちの、2人の声だった。マイベリにあえて聞こえるように話しているのか、当然マイベリはますます肩を落とし、いたたまれなくなったのか、後ろを向いて術場を出て行こうとした。

 ――遠は、怒った。そして、にこやかに少女達に話しかけた。

「ちょいちょい、お二人さんや。あんたら、何を思ってそんな醜い言葉を吐いてるのじゃ?」

 遠は可能な限り怒りを抑えて話していたが、その表情と、静かな声音が逆に周りの人間の恐怖を煽った。目だけが笑っていないのだ。

「ベリ、ちょっと。あなたもしゃんとしい! わたしが一緒にいるから」

 遠は状況に怯えて腰が引けているマイベリの手を掴み、背中を叩いた。

「ベリはそんな卑怯な子じゃない。わたしとベリは対等な友達じゃ。それを横から口を挟んで何をああだこうだ言うん? それに女神に向いてるだの向いてないだのって、……だめじゃ、言いたいことは山ほどあるが、絞らんと。いいか、わたしは怒ってる。大切な友達を傷つけられたからじゃ!」

 遠は、完全に泣きだしたマイベリの方に向き直って、こう言い放った。

「ベリはちゃんと前を向いて女神を目指していいんじゃ。ベリらしくやればいい。もしもベリが女神になったら、わたしが守ってあげる!」

 その後、最上の許可をとって、遠は泣いて泣いて授業どころではなくなったマイベリを寮まで送っていった。遠は、ミゼアが内心、

(うすうす気づいてたけど、この子、天然ボケの女たらしだわ……)

と遠に呆れ返っていたことは知らない。

 そして今日、授業に、遠が激怒した2人の生徒はいなかった。脱落した、と最上は告げた。

 わたしがあんなに怒ったせいかな、とやや気にした遠に、ミゼアは言った。

「正しい行為にだって、誰かを傷つけることはあるし、罪が宿ることさえあるのよ。そのことを覚悟して生きるべきよ」

 そして、もう一言付け加えた。

「それでもわたしは遠、素敵だったと思うわ」


 ミーちゃんはやさしいな、と、流れる雲を見上げながら遠は思った。

大切なものを守るための行動が、別の誰かを傷つけることは大いにあるのだ。そのことを覚悟しつつ、生きなければいけない。……そのことを、遠は知っていたような気がする。だが、明確な言葉にしてくれたのはミゼアが初めてだった。

(ミーちゃんは、きっと女神になるっていう覚悟と希望があるからあんなに綺麗なんじゃ。わたしは、覚悟も、希望もないな……分かってたことじゃけどな)

 流れる雲を見ていたら、なんだかもっとそこに近づきたくなって、遠はこっそり<浮雲>を使った。

『逆らうつもりはないのです 少し運んで貰うだけ あなたによく似た透明無色の子供達 乗せてほしいの <浮雲>』 

 足元に蒼白い光がやはり円形に近い幾何学紋様を描き、小さな空気の塊が生まれた。

(さ、行こう)

 遠の気持ちに答えるように、空気の塊は遠の体をぐんぐんと押し上げる。

(き、気持ちいいー!!)

 だが、最上は確か、<浮雲>には高さに制限があると言っていた。地上100メートル以上には登れないのだと。それだって相当な高さだった。何せ普段、地上に出ることは一切無い。彼女達の世界はあくまで穴の中である。地上は常にとても立っていられないほどの強い風が吹き渡っていて、そこにある建造物と言えば、『旅人の回廊』と呼ばれる、各圏を繋ぐチューブ状の物体しかなかった。

(でも行ってみよう、登れるところまで)

 なるべく目立たないように、こっそり上昇していく。遠は生まれて初めて、月糸という圏の全貌を見た。

 例えば第二層、玉宮。ひたすらに美しい緑の木々、草の中に、どうやら人工の小川が流れ、その広大な敷地の一部に、白亜に輝く美しい、四角い建物が点在しているのが見える。その上にあるのが、第一層、圏営農場。様々な緑色の布を繋ぎ合わせた、巨大なドーナツ型のタペストリーのようだった。

 玉宮も、農場も、あまりに美しくてずっと眺めていたかったが、地表に近くなるととんでもなく強い風が穴の中に雪崩れこむようにして吹くので、巻き込まれないように注意をしなければならなかった。遠は<青嵐>を使って一気に気流の層を抜けようとしたが、飛翔の黒術を使ってもなお、気流の強さは遠の想像を遥かに超え、彼女の体をやすやすと奪っていこうとした。遠はなんとか気流の切れ目を見つけ、そこから上に上昇したが、分厚い気流の層を抜けるとそこは既に地上数十メートルの高さで、なるほどこの星では地上で生活できない理由が身に滲みてよく分かった。

 (何もない……)

 遠の足元に広がるのは、背の低い褐色の植物だけが強い風に吹かれてなびいている、赤茶けて荒涼とした大地だった。その無骨な茶色と空の鮮やかな青が世界の全てで、この景色は世界の果てまで続くのだろうと思わせるほど、他には何もなかった。

(淋しい……はずなのに、力強い感じじゃ……。綺麗……)

 遠は何かもっと何かを見ようとしてさらに高く飛んだ。高く、もっと高く。『旅人の回廊』が続く遥か向こうに、月糸と同じように巨大な穴の口が見えてきた。そちらにも興味はあったが、そもそも月糸を出圏し、他圏に行くには旅券を発行してもらわなければいけないので、あくまで垂直に上へ上へと登った。

 ついに、五圏全ての形がなんとか確認できる高さまで到達した。それらの中心にはとんでもなく高く、太く、巨大な『塔』も、濃い霧に包まれてはいるもののうっすらと見える。

 しかし、あまりの空気の冷たさに、すぐに高度を下げざるを得なかった。遠は感動していた。これが世界。この円を描くようにして並ぶ5つの巨大な穴が五圏、そしてその中央には今自分がいる高さよりはるか高くそびえ立つ『塔』があって、そう、これが自分の住んでいる世界。この世界を、たった5人の女神が治めている……。

 遠の胸に去来したものは、そのほとんどが強い感動で、だが残りのほんの少しの欠片、彼女は何か言葉にできない違和感を感じていた。

(……なんだろう、これ……。んー……なんか……なんか、えーと忘れている? 違うな……)

 ふと、最上の言葉を思い出した。

(先生、100メートル以上には行けないって言ってた……そんなに天力はもたないって……でもわたし今とっくのとうに100メートルを越しているような……)

だが先ほど感じた違和感は、そのことではなかった。もっとぼんやりした違和感だったように思える。

 しばらくその場で「何か」を思い出そうとしたが、寒さに負けて、遠は帰ることを決心した。ちょうど、真っ赤な太陽が地平線の向こうに沈んでいく時間だった。遠は日没の強烈な赤色光に照らされながらゆっくりと下降した。帰りは気流の渦も往路よりはうまく読めて、風に運ばれるようにしてあの窪地に戻ってくることができた。

「疲れた気がする……」

思わず口に出して、既に暗くなった窪地にごろりと寝転がる。今日は、すごい、すごいものを見た。

(シェムにも見せたかったな……シェムを抱えても、<浮雲>で行けるじゃろうか……)

 瞼を閉じて、だが次の瞬間、遠は飛び起きた。

「しまった、早く帰らないと食堂がしまっちゃう……!」

 もう天力を使う気力もなく、遠は今度は三層までの道のりを必死に走ることになったのである。



 それから一週間ほど過ぎた、週に一度の休日のこと。

「遠、ミゼア、起きてるー?」

 部屋の扉を派手にノックする音がして、答える間もなくインファがずかずかと入ってきた。椎椎もいる。

「とっくに起きてるわよ」

「何してんのー?」

「知術の課題。あなたは終わった?」

「いや? 逆に聞くけど、あたしが終わらせてると思った?」

「……」

「ねぇ、そんなことよりさ! 第八層の東街第二路に、愛玉氷菓の店が新しくできたんだって! 行こうよ!」

「でも知術の課題が……」

「ああんいけず! そんなお固いこと言わずに! そんなの帰ってきてからでも終わるってーいこいこ! 遠! 遠は行くでしょ!」

「そうな、せっかくだし行こか。ミーちゃんも行こうよ!」

「インファも遠も、全く女神に向いていないことはここでの生活でよく分かったわ……」

「何よ、お固いことばっか言ってるとそのうち体まで固くなるわよ!」

「……分かったわよ。ところで愛玉氷菓って何かしら?」

「えっ知らないの!! 基礎学校のおやつで食べたりしなかった? ぷるんぷるんのゼリーと、しゃりしゃりのアイスクリンに、蜂蜜や果物を煮詰めたソースをかけたお菓子じゃよ、美味しいよ!」

「はいはい。今着替えるわ。遠もたまにはお洒落しなさいよ」

「わたし私服、タンクトップとショートパンツしか持ってない。あと、それはさっき洗っちゃった」

 遠は窓の外を指差した。そこには器用に張られた細い綱に、ひらひらと布切れが舞っていた。

「制服着ていくから大丈夫。わたし、ベリも呼んでくる!」

 ミゼアと椎椎は無表情だったが、インファはややむっとした顔をした。だがその時には既に遠は部屋の外だった。


 この日は、遠はマイベリを引っ張り出すことに成功した。彼女はおどおどしているか、「あれかわいい~! 遠様、見て見て!」と言うか大体どちらかだったが、遠は彼女の言葉につきあうこともあれば、完全に意に介さずどこかに走っていっては顔なじみらしい街の人々に挨拶をしたりしていた。

 よく晴れた日で、風も穏やかだ。八層東街には10代の少年少女が好みそうなお小遣い価格の露店や、卸問屋が無数に集まって、巨大な市場を形成している。

「まぁ、このネックレス素敵。これで120さんは良いお値段ね」

「わたしはこれがいいなー」

「遠……それはお酒よ?」

「わたし、お酒好きなんじゃ。特にトウキビ酒が好き、いくらでも飲める」

「……ますます女神になれそうもないわね……それに、口の端に胡椒餅の屑がついてるわよ……」

「ねぇ、あのさ、ちょっともう我慢できないから言うけど、マイベリはなんでそんな乳を強調する服を着てるわけ? 貧乳のあたしへの当てつけ?」

「えっあっそんなことないです……!」

「イーちゃん、落ち着いてったら。ほら、わたしもおっぱいないから一緒じゃ」

「そんなの何の慰めにもならんわ!」

「あ、そういえば、イーちゃんがいつも首にかけてるメダルも綺麗だよね」

「うっれしい、ありがとー遠、見る目ある! これ宝物なの!」

「やや、なんか由来があるの?」

「秘密よー秘密! でもね、大事な方にいただいたの!」

「そっかぁ、よく似合ってる。あ、しーちゃんは何見てるの?」

「……」

「彼への?」

 椎椎は色白の顔を赤く染めた。だが手にとった緑色の硝子玉を、覗き込むように眺めてから、彼女はそっと元の場所に戻した。遠は椎椎の心中を思いやり、かける言葉を見つけられなかった。

(女神になりたくて、好きな人もいて、どっちもは手に入らない。わたしだったら、どうするじゃろか……)

 どちらも、遠の知らない感情だった。

 椎椎は、遠に気を使わせたことを細やかに察知して、小さく微笑んだ。

「……彼へのじゃない。この緑、私の故郷の色に似ていたから。やっ!」

 椎椎は飛んできた羽虫を少女らしい仕草で避けた。

「しーちゃん、虫、苦手なの? あ、今の花節虫だよ。悪さをする虫じゃないよ」

「……虫は、ちょっと苦手……。遠は、苦手なものは無いの?」

「苦手、ねー……」

 遠は少し逡巡してから、無いよ、食べ物も嫌いなものないし、と答えた。椎椎はそうか、と答え、店の売り子と値段交渉をしているインファの方へと歩いていった。残された遠は、今交わした会話の中で、何かがひっかかってぼうっとしていたが、何がひっかかったのかは分からなかった。ミゼアが遠はまたぼーっとして! と腕を引っ張る。ごめんよ、と謝りながら、遠はまだぼーっと、今まで一つでも本当に欲しいものってあっただろうか、と考えていた。

 その時。

 どーん、というくぐもった、だがかなり大きな音が聞こえた。体にも振動を感じるほどの衝撃音だった。

「1つ上の層だわ。ここがほぼ真東だから、たぶん南東の方ね。何か事故かしら?」

「違う……」

 てきぱきと位置を推測したミゼアの言葉を即座に否定したのはインファだった。インファにしては険しい顔をしている。

「人の叫び声が聞こえる。爆発事故かもしれないけれど、ちょっと雰囲気が……ごめん、勘だけど、テロに似てる」

「テロ!?」

 マイベリが大きい声を出して、インファに睨まれる。

「行こう。事故にしろ事件にしろ、わたしらにも何かできることがあるかもしれない」

 遠の声に皆の視線が絡まって、そして頷いた。

「緊急事態よ。黒術も白術も、使えるなら使いましょう。とりあえず……」

「『星の息吹よ 命を運ぶ風よ もっと強く、激しく流れて その頃にはもう私がそこにいないように <青嵐>』」

 5人の女神候補生達の体のまわりに、輝く光の環が生まれ、彼女達は一斉に飛んだ。

「遠、あなたがたぶん道に一番詳しい! 先頭で飛んで!」

「やや、了解!」

 速く飛びやすい空間は限られる。最も飛びやすいのは各層の真ん中にぽかりと開いた穴の部分だが、今はそちらを通るより外周に出た方が速いと遠は判断した。<青嵐>はさすがに素晴らしい速さで彼女達の体を運び、すぐに七層に到達する。煙がひどい勢いで濛々と立ちのぼっていたので、現場はすぐ分かった。黒煙の中に橙色の火も見える。近くに寄ると想像以上の惨事であることが分かり、遠達は息を飲んだ。半壊……ほぼ全壊した商業施設は火と煙につつまれ、あたりには瓦礫と破片が飛び散り、そして、血を流して倒れ込んでいるたくさんの人々。うめき声と絶叫、血肉の臭い、何かの焼ける臭いが遠達を圧倒し、咄嗟の判断力を奪った。玉宮防衛神官がいれば、と5人はそれぞれに思ったが、その姿はない。現場は逃げ惑う人々でただただ騒然とし、地獄絵図のようだった。

「……覚悟を決めるのね」

 ミゼアがつぶやいた。

「そうね。防衛神官の皆さんが来るまであたし達でやるしかないわ!」

 インファが目に怒りを漲らせて言ったとき、どこからか最上の声が聞こえた。

『女神科の生徒達! そこにいるわね!?』

「<伝意テレパス>だわ! 先生、聞こえます!」

『ああ、えーっと、分かったわ、その5人ね。いい、狼狽えずに、よく聞きなさい。防衛神官も武装神官も近衛神官も今日は公務で出払っている。休暇中の聖癒神官に出動命令は出すが、時間が少しかかるはずだ、それまではあなた達が現場でできることをやりなさい! なお、現時点でテロとの情報が入っているから十分に気をつけて。まだ犯人が近くにいる可能性がありそうです』

「はい!」

 それまで黙っていた遠が唐突に口を開いた。

「みんな、役目を分けよう。人命救助班と、犯人追跡班。ミーちゃんと、しーちゃんは人命救助をお願い。2人は白術が特に得意だから。わたしとイーちゃん、ベリは犯人追跡の方。いい?」

遠の顔つきが、いつもとまるで違った。目に、何かが宿っているような。4人は気圧されて頷く。

「椎椎、行きましょう。互いの姿を見失わない範囲で看ていきましょう。離れると危険かもしれないわ」

「分かった」

 人名救助班が走り去るのを見送り、遠は続ける。

「イーちゃん、ベリちゃん。わたしが考えた案を説明するから聞いてくれる?」

 2人は頷いた。マイベリは先ほどから小さく震え続けていたが、その手を遠はしっかりと握った。

「わたしはここで<盾膜シールド>を張って、犯人の逃走範囲を狭める。2人はわたしが張った<盾膜>の内側で<浮雲>を使って上空を移動しつつ、<標定レーダー>を張って、犯人をエネルギーサーチする」

「待って遠、<盾膜>はいい案だけど、そんなに広い範囲に張れなくない? あれは護身用のバリア、結界みたいなものなはずよ!」

「大丈夫。やってみる。2人が<浮雲>を使いながら<標定>かけるのも結構疲れるかもしれない」

「2つの術を同時にやるの、やったことないけど……」

「難しかったら、片方が<浮雲>をかけながらもう片方をぶらさげて、ぶらさがってる方が<標定>をかければ良い。でも、イーちゃんとベリちゃんなら大丈夫。できるよ。」

 遠は厳しかった顔をほころばせ、2人を安心させるように笑顔を見せた。

「分かった。行こう、マイベリ」

「あっ……はい!」

 2人が<浮雲>を発動するのとほぼ同時に、遠は<盾膜>の呪文詠唱に入った。

『守るということがどういうことなのか私は分かっていない ただ私は膜になって あなたを害する悪しきものの前に立ちふさがり あなたを抱きしめたい <盾膜>』

 遠は、その時少し「本気」を出した。それは、祈りに似ていた。

 普段は人が数人はいる程度の大きさの膜にしかならない、だが今はそれをバリアとしてではなく、犯人の障壁と転じて使いたかった。半径1キロ、いや1.5キロのところに、壁を、生じさせたい。できるかどうかは分からないけれど、「そうしたい」と強く思った。

 遠の周りに生まれた青い光は、とてつもなく大きな環を描いた。光の環は地面と水平を保ったまま、そのまま上空にあがっていき、さらにさらにとその直径を広げ、ついにその両端を目視できないほどになった。だが七層の人々はそれを目撃していた。光がある地点で止まって、輝きながら滝のようになだれ落ち、透明な膜のようなものに変質し、それが音もなく巨大なドームを形成するのを。玉宮神官の使う天恩の力を見慣れた人々でさえ、このあまりにも巨大な黒術の顕現に、あんぐりと口を開けて上空を眺めた。

(ごめんねみんな、迷惑だね……でも犯人確保のためだから、少しだけ許してね)

 そして遠は次に、<伝意>を唱えた。<伝意>は、発信側が常に天恩を消耗する。犯人追跡班は、この上<伝意>を使う余裕はないであろうから、遠の方から常に回線を繋げば良いと考えたのだ。

『インファ、マイベリ、<伝意>の回線を開きっぱなしにしておくから、何かあったらすぐ報告して!』

『え、遠、それ天恩使い過ぎじゃ……』

『大丈夫』

 遠は最上の言葉を思い返していた。そう、常に具体的なイメージを保ち続けること。

 そして遠は、そのままミゼアと椎椎が歩いていったのとは別の方向に走り、怪我人を探した。凄惨な光景に、吐き気が込み上げ、吐き気を覚える自分に嫌悪感を感じる。だが、走り回り、瓦礫を持ち上げては、探した。重病人のところでは、制服を破り、その辺に転がっている棒に結わえて、旗を立てた。今は、白術が使えない。黒術と白術は同じ天恩核から生じるものだが、放出されるまでの伝脈が異なる。黒脈と白脈を同時に使うと、互いに干渉し合って歪みが生じ、結果としてどちらも術としてきちんと完成しないのである。

(でも……)

 遠は考えた。

(白術じゃなくて黒術でも、救助はできる)

 次に見つけたかなり年輩の男性は瓦礫に足を挟まれており、遠はその瓦礫を<大輪火>で、安全な方向に吹き飛ばした。だが、足は見るも無惨なことになっており、遠は息を飲んだ。おそるおそる脈に触れる。息はあるものの、意識はない。

「ごめんね、今はまだここまでしかできないんじゃ、ごめんなさい……」

 服を破り、旗を立てる。制服を着ていて良かった、と遠は思った。普段の私服だったら、こんなに破るところがない。

 次の怪我人は若い女性で、比較的軽症だった。遠は転がっていた石に黒術<氷点アイシング>をかけ、凍らせる。その上からやはり破った服をまきつけ、それで患部を冷やすようにと言った。一緒にいた者の名前なのか、何かを叫びながらむせび泣く女性に、遠は何もできず、必ず助けるから、必ず助けるから、と言って抱きしめ、その場を離れた。

 (だめ、心が揺れすぎると<盾膜>と<伝意>を維持できない……)

 遠は、<伝意>を一時的に切ろうかと思った。だがその時。

『遠、聞こえる? 見つけた。あいつらで間違いない。遠の<盾膜>が役に立って、焦ってるみたい。2人組よ、奴ら、あたしの読みでは涼車の反女神派テロリストだわ。絶対に、絶対に許さない!!!』

『分かった。場所はどこ? 無理は絶対しないで、あと殺さないで、捕まえて。……殺さないで! インファ!』

 インファの返事は無く、遠はその声がきちんとインファに届いたのか、分からなかった。インファは明らかに激高していた。

(わたし、判断、間違った……?)

 遠は<伝意>を一度切り、<標定>をかけた。

(南西……クァン通り……)

 遠は一瞬、判断に迷った。インファ達の助力に行くか。このままここで微力な救助活動を続けるか。彼女は、後者を選んだ。<盾膜>の範囲を狭めつつ、今度は最上に<伝意>をかけた。

『はい、こちら最上』

『先生、遠です、犯人と、インファ達が、南西の、クァン通りに……』

だが、体の奥から突然耐え難い吐き気が込み上げ、そこまでしか<伝意>は保たなかった。地面に座り込み、口の中に溢れたものを吐き出す。咽びながらも、頭の中では<盾膜>のイメージを保ち続けていた。一瞬でも集中を途切れさせてはならない。遠の意識は、いつしか<盾膜>と同一化し、他のことを考えるリソースを無くした。


 その頃マイベリも、意識が遠のいていくのを感じていた。

(遠様、ベリ、頑張ったんだ……でももう駄目みたい……)

 だが、犯人が撃った弾はマイベリの腕を擦った。怪我自体は大したことはないはずだったが、そこに至るまでに<浮雲>と<標定>で天力を激しく消耗していたのと、悲惨な光景を目にしたことで、精神力も体力も天力も、限界に達していたのである。

 驚いたことに、マイベリが撃たれて血を噴き出した瞬間を見たインファは、完全に自制心を失った。それまでも、やや異様に感じるくらいインファは激高していたが、「キレた」インファの動きを見れば、今までは理性で何かを押さえ込んでいたことが明白だった。

 インファが武術の類い稀なる才能を持っていることは重々承知していたはずだが、今目の前で犯人に襲いかかるインファの動きは、熟練の殺し屋か、あるいは百獣の王かと見まごうばかりで、普段の授業で見せる姿など、インファにとっては半分以上手を抜いているものなのだと思い知る。彼女は黒術を一切使わず、拳と足とナイフだけで相手を無力化しにかかっていた。

 (インファさん、殺しちゃだめ……って遠さんが……!)

 叫びたかったが、声が出ない。犯人らしき男の、この世のものとは思えぬ絶叫が響く。

(遠さ……助けて……)

 今度こそマイベリは意識を失った。


 現場に急行した武装・防衛・聖癒・近衛神官群により、その後の現場の収拾は機動力を持って行われた。死者28名、重傷者52名を出したこの大規模な爆破事件は、インファの指摘通り、涼車の反女神派テロリストによるものと断定された。

「しかし、」

 既にその日の夜は更け、明け方近く。久々に玉宮に戻らざるを得なかった、元近衛神官長・最上を、数人の神官達が囲む。玉宮の最も広い会議室がテロ対策室となっていたが、隅の方には疲れ果てた神官達がぐったりと横になって仮眠をとっていた。

「あの養成所の女の子達がいなかったら、本当にどうなっていたかわからん」

「犯人は死んだけどねー。でもあの子は咎められない、正当防衛になるでしょ、相手は銃を持っていた訳だし、彼女は素手とナイフのみ。信じられないわー」

「あの子たちの異常な力はなんなの? あの武闘派の子は先天性の異常かと思ってしまうほどの力を持ってるし、隣で倒れてた子はまぁ普通としても、救助してた美少女2人組も白術が上手すぎる。あと……」

「中心でしきってた背の高い子ねー。あの子、術と意識が一体化してちょっとやばいことになってたけど大丈夫?」

「大丈夫なようだ。けどあの子の力が一番おかしいだろう、あの規模の<盾膜>なんて1人で作れるものじゃないぞ、しかも同時に<伝意>して、かつ<大輪火>やら<氷点>やら、って、黒術が同時に三重にかけられるなんて聞いたこともないぞ。それこそ異常だよ。」

「最上、どうなの?」「最上、どうなんだ?」

「……」

 椅子の背もたれにひっくり返って、天を仰いでいた最上はゆっくりと上体を起こした。

「あの子……遠って言うんですけど。黒術もさることながら、やはり頭の良さというか、あの凄惨な現場で統率を取れるのは……資質があると思いますね」

 一同は無言で頷いた。最上はこの中では歳若く、だが翠羊の厚い信頼を得て近衛神官長となった。彼女の言葉は重みがあった。

「……本当は1年かけるつもりでした。まだ教えていないことが山ほどあり、彼女達も未熟ですが……今の玉宮の状況を考えるに、やはり一刻も早く女神が必要だと思います。私は、最終関門の『塔』に、今女神科に残っている生徒達を挑ませようと思うのです。早いと思いますか……?」

「いや、最上。それで良いと思う。あとは玉宮で育てよう」

「多少未熟でも、女神がいた方がいいわ。そういう仕組みなのよ、私達。なんだか……ちゃんと能力が発揮できないの」

 最上は小さく頷いた。もう疲れて、体をぴくりとも動かす気力が起きない。

「賛同してくれてありがとう……。さぁ、皆、交替で少し休みましょう。引き続き、死者・重傷者・軽傷者それぞれとご家族のケア、涼車との情報交換、やることは山ほどある。……それにあの爆発地をきちんと片付けて、祈りを捧げなければ……」

 そこまで言って、最上は、もう、抑えられなかった。

「翠羊……さ、まが、いらっしゃれば……遺族も……あの地も……」

 涙とともに、その後に続ける言葉は流れていった。女神が、いれば。泣きつき、怒りをぶつけ、祈る対象であり、そして自分達のために祈ってくれる、女神。一方で、ただの少女である、女神。

 居なくなってなお、ただの少女の幻影に希望を押し付ける、自分の欲深さに、最上は、泣いた。



 翌日から3日間、養成所の授業は休みになった。最上の力がどうしても玉宮には必要とされていたし、また現場に居合わせた5人、特にインファ以外の4人の消耗は激しかったため、十分な休養が必要だと判断されたのである。

 3日の間、遠はずっと考えていた。自分の判断について、他に取れた選択肢について、傷ついた友達について。インファが人を殺してしまったということと、マイベリが怪我をしてしまったこと、そしてミゼアと椎椎が惨い現場で立ち回らなければならなかったこと……。

(だけど)

 遠は思った。

(できる反省はする。だけど、うじうじしたって仕方ない。起きたことじゃもの。どうやったらみんなが元気になれるか、考えよう。……あと、もう少し落ち着いたら、爆発地に行って、きちんと祈ろう)

 こうして、遠はこっそり寮を抜け出して、六層の北のモロロ通りにある冷果屋で月瓜の冷や餅を買って、4人にそれぞれ振る舞った。とは言っても、インファは不在で、椎椎とマイベリはぐっすり寝ており、ちゃんと渡せたのはミゼアだけだった。

「ちょっといつの間にかそんなところまで行ってたの……ありがとう」

 ミゼアはベッドから起き上がって、小さな口で冷や餅を齧った。食べ終わって、ミゼアは遠に言った。

「遠、あなた、自分を責めたりしなくていいのよ」

「やや、責めてないよ。大丈夫だよ」

「あの時、わたくし達はそれぞれが最大限にできることをやったと思う。女神候補生の名に恥じなかったと思うわ」

「……ミーちゃん、わたし、名に恥じるとか、恥じないとか、そんなことはどうでもいいんじゃ。ただ、みんなが……」

 遠は言葉に詰まった。自分の気持ちをどう表現していいのか、よく分からなかったのだった。

「ただ、わたし、ちゃんとみんなを大切にできたかな、って。みんなを大切にしたいの。そういう、判断……そういう、線の引き方をしたいの」

「遠、でも、わたくし達、女神になるのよ。女神は、何より圏民のことを大事にしなければいけない。自分の私情よりも」

 遠は再び、言葉に詰まり、そっかぁ、と言ってそこでこの話題は終わりになった。

 その夜、遠はなかなか寝付けなかった。ミゼアの言うことは、正しい気がした。でも、遠の大切に思う「みんな」だって圏民の1人なわけだから、「みんな」を大事にしても良いような気もした。

(わたしの考えは、屁理屈なんじゃろうか……)

(大切な人を大切にできないなら、それって女神になる意味あるんじゃろうか。ていうか、大切な人を大切にできない、女神って、女神なの?)

(テロ現場でわたしが見た、おじいちゃんや、おねえさん、どうなったかな……)

(シェムは、元気かなぁ……) 

 思考が頭のなかで乱反射を繰り返し、そのうち、遠の意識は深い深い眠りの井戸に落ちていった。


 数日後に授業が開始されたとき、女神科には、5人以外の生徒はいなくなっていた。テロ事件現場で活躍した彼女達のことはもはや武勇伝のように口の端から口の端へと語り継がれており、他の少女達は、勝算無しと判断して辞退したのである。

「……遠。冷や餅、ありがと。寝ていて気づかなくて、ごめんね……」

「ううん! そんなの全然いいんじゃ! しーちゃん、元気になった?」

「たくさん寝たから、すっかり回復した」

「遠さん! ベリも元気になりました、ありがとう! 冷や餅、おいしかったです!」

「そっかー、よかった。しーちゃんも、ベリちゃんも、……ありがとう」

「……遠、たぶん私達は、みんなそれぞれ少しずつ、自分の責任を感じている。それで、……いいと思う。私達は……あれが精一杯だった」

「うん、しーちゃん。ありがとうね。一緒にあそこに居続けてくれて、ありがとう。ベリも。もちろん、ミーちゃんもだよ」

「はいはい、あなたって本当に恥ずかしいこと言うんだから。恥ずかしいで賞をあげるわ」

「何それ……」

 ミゼアが赤くなったとき、教室に最上、そして後ろからインファが入ってきて、会話は中断された。最上は真っ先に、インファは女神になる資格を失ったが、本人のたっての希望で最後まで女神科には所属することとなった、ということを発表した。

「さて、皆さん。先日は、よく頑張りましたね。あなた達の力を、玉宮は高く評価しています」

 思いもかけない、労いの言葉だった。5人はやや驚いて最上を見た。

「せっかくですから、今日は皆さんに、女神について、もう少し詳しい話をしようと思います。この間のテロ事件は、涼車の反女神派の犯行だと断定されたことは知っていますね。では、反女神派とは、どういう意見を持った組織ですか? ミゼア、答えなさい」

「はい。女神の聖性を否定し、『印持ち』の中からではなく、広く全ての民から圏の統治者を決めるべきであるという組織です」

「その通り。ではなぜ彼らは女神の聖性を否定しているのですか? 椎椎、答えなさい」

「……女神が統治しても、生活が苦しい人は一定数いるし、病気が治らない人もいるし、……そういう不幸が耐えないから……です……」

「まぁまぁね。遠は何か補足できますか?」

「……矛盾しているから、ですか」

「きちんと言葉を尽くして説明なさい」

「女神は、戦いもするし、一方で傷ついた体や心を癒します。生を奪いもすれば、与えもする。矛盾しているように、思います」

「そうですね。女神は慈愛に満ちながらも、矛盾している。その様はまるで、人間のようです。さて、一方で女神を熱烈に支持する派閥もあります。有名なところを1つあげなさい、インファ」

「えっとー、ダカン……」

「ダカンの、真祖女神派ね。ダカンは、非常に厳しい暑さのせいで、人々の暮らしが困窮を極めています。そういう中で、女神に強い希望を託す人々は多いのです」

「あの、最上先生、質問して良いですか」

 声を上げたのは、遠だった。

「どうぞ」

「えーと、女神って、なんのためにいるのですか?」

 教室は、ひととき静寂に包まれた。窓の外、小鳥のさえずりだけが小さく聞こえてくる。

「やや、別に女神を否定しているつもりはないんです。ただ、女神否定派の言うように、全ての民の中からリーダーを選んでも、いいような気がします。でもそうはしなくて、わたし達、天印のある人間だけが圏を率いる、意味って、なんじゃろうなって……」

 最上は、じっと遠を見て、ふと、柔らかな表情を見せた。

「遠、実は私は、今あなたが言ったことについて翠羊様と話したことがあります。私達が、統治する意味。強いものが上に立つ、という弱肉強食論以外の意味を、誰しも見出したいのね。で、ここからは、本来は歴代の女神と各神官長しか知ってはいけない、口伝による話ですが……あなた達には話してもいいでしょう」

 遠以外の4人は緊張にやや身を固くした。

「……これは、玉宮に生きる、いくつかの伝説のうちの1つですが。あなた達、『果神』のことは知っている……わけないわね。『果神』とは、この五圏……現在も小規模な争いの絶えない五圏を統一し、この世界の完全な平和を成し遂げる女神、と言われています。……私達は、『果神』の出現を待っている、とも密かに言い伝えられているのです。もしかしたら、『果神』の後の世界では、『印持ち』でない人々の中から圏を統治する人を選ぶようになるのかもしれない。でも、それまでは女神が、しっかりとこの世界を見守る必要がある……そう、アーリア様に託された」

 最上はゆっくりと歩いて、窓枠に手をかけ、外を見つめながら話した。

「私が持っている答はこれだけです。私も、玉宮の一介の職員に過ぎない。まだまだ答を得るには未熟なのです」

「先生」

 声を上げたのは、遠と、ミゼアだった。2人は顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。

「先生、話してくれてありがとうございます」

「そう、わたしもミーちゃんと同じ。それが言いたかったのじゃ」

 その様子を見て、今度は最上が破顔し、そしてすぐに険しい顔に戻った。

「今日はもうあと2つ、あなた達に伝えることがあります。まず1つ。――最後の、黒術を。授けましょう。でも、使ってはなりません、決して」

 遠達は小首を傾げる。使ってはならない黒術とはなんであろうか。

「<はなればなれ> ……莫大な量の天恩を消費する黒術です。肉体と、魂とを分離します。もし気軽に仕えるものならば、そうですね、囚人となった場合に魂だけ離脱させて外の様子を見る――そういう使い方もできるかもしれませんが、この黒術の使用は、死と引き換えと考えてください」

「死と引き換え……」

 椎椎が小さな声で繰返し、最上は静かに頷いた。心無しか、最上の顔にまで緊張のようなものが浮かんでいる。

「天恩の急速な大量使用による死、あるいは、術を制御できずに魂が体に戻って来れなくなることによる死、そのどちらもが想定されます。絶対に使ってはなりませんが、万が一、万が一命に替えても使わなければいけないような状態が訪れるかもしれません。女神になるということは、そういう危険も責任も全て引き受けるということですから」

 張りつめた空気の中、最上は<はなればなれ>を発動する言葉を、黒板目一杯に記述していく。

「げっ、めっちゃ長い。あたし使うも何も覚えられないわ! ていうか女神にもうなれないから関係ないんだけどさ! ……あたし、これ知っちゃって良かったのかな」

「インファ静かにして、覚えられないわ……」

「……あなた達の人生で、この黒術を発動することがないよう、心から祈っていますよ。さぁ、覚えたかしら?」

 めいめいがなんとか頭の中に言葉を叩き込んだのを確認し、最上は次の話を始めた。

「次。さて、あなた達はまだまだ未熟ではありますが、それは伸びしろがある、とも言い換えられるでしょう。今、玉宮は一刻も早く女神を必要としています。早いですが、最終関門の『塔』にあなた達を送り出そうと思います」

「え、もう!?」「もう?」

 遠と椎椎の声が重なる。

「そう、もうです。『塔』は厳しいわよ。いいですか、あれは塔と言うよりは、そう、異様な地形の超高山だと言ったほうが正しいです。足元も厳しく、天候も悪く、謎のあやかしがあなた達を脅かすでしょう。充分な装備を持っていかないと……どんなに速くても頂上まで5日はかかるわ。でもきっとあなた達なら、皆戻って来れるでしょう。そして、誰かが女神になるのでしょうね」

 最上は、少しだけ痛む心を隠し、微笑んだ。女神が一刻も早く欲しい、この子達の中から女神が生まれてほしい。そう願う気持ちそのものに、最近では少しだけ罪悪感を覚えるのだった。だが、後ろめたさを覚えつつ、確信を持って彼女達に伝えられることが1つだけあった。

「でも、これだけは覚えておいてほしい。例え女神になれなくとも、この科に最後まで残ったということは、ゆくゆくは女神側近として十分に女神のために尽力することを望まれる。そのことをよく自覚なさい。女神は、神ではない。一人では立てないのよ」



 『塔』に旅立つ前に、各々実家に帰って準備をする期間が3日間与えられた。3日後に再び女神養成所に集合し、『塔』の根元までは最上が引率していくのだ。

 一番最初に寮を出たのはインファで、また明々後日ねー! と元気に手を振って去っていった。続いてミゼアが、そしてマイベリ、次に椎椎が寮を去った。

 遠は、それから1日半、一人で寮にいた。女神養成所の図書館にある本を読んだり、養成所内をふらふらと散歩したりしているうちに、さすがに見兼ねたのか、最上が寮の部屋に訪れた。入っていい? と聞いて部屋に入ってきた最上は髪を下ろしているせいか、どことなく教壇に立っていたときよりも距離の近い存在に思えた。

「遠、あなたはいつ帰るのですか?」

「あ、先生、わたし……帰らんのです。必要な物資は明日買いに行きます」

「帰らないって……どうして? ご家族と折り合いでも悪いの?」

「……うーん、うーん、そんなものじゃろうか。……いいんです、女神養成所に入る時に、もう家には帰らないって、決めているので」

「……何か事情があるのね。なら、無理強いはしないわ。……ところで、どうかしら、その……養成所は、あなたにとって良い場所だった?」

「やや、もちろんじゃ! ……もちろんです。色々勉強できたし、大切に思える人もできたし、生きるのも悪くないなって」

「……ええと、生きるのも悪くないって……前は、生きるのは嫌だって思ってたということ?」

「嫌だとまでは思わんけど、どうでもいいというか、いつ死んでも別にいいというか……あっでも別に死にたいとかじゃないので、心配しないでくださいな」

 最上は驚いて、しばし言葉を失った。遠の表情は明るく、思い詰めた様子も、暗い影のようなものも感じられない。その朗らかな笑顔に「いつ死んでも別にいい」という言葉はあまりにもそぐわなかった。

(……能天気でお馬鹿に見えても、深い知性と優しさ、強さを兼ね備えている、この子は女神の本命に近いと思っていた。でも、さらに違う顔を持っているというのかしら……こんなに希望に溢れていそうなのに、こんなに生を諦めているって、どういうことなの?)

 だがその疑問をそのまま口に出すことはできなかった。「そう、そうなのね」という何の感情も表さぬ相槌がその場を取り繕い、あとは他愛ない、短い会話だけして、最上は部屋を去り、そしてその数時間後には、遠も部屋を後にした。



 「シェームー」「シェーム!」

 小声で呼びかけ続けて数分間、ようやく教室の中のシェムと目があった。シェムはびくっとした顔をして何かを言おうとしたが、口をぱくぱくさせただけで何も発さずに閉じ、「俺、帰るわ」とだけ宣言して教室を出て行った。遠もその場を離れ、玄関口にまわる。

「あ、シェム! ごめんな、今日放課後の掃除当番だったとは知らんくて」

「ごめんじゃねぇが……掃除中云々より、お前あそこ4階だぞ! 4階の窓から顔出すなんて、他の奴らが見たら腰抜かすじゃろうが!」

「ごめんな……」

「いや、別に本気で怒ってるわけじゃねぇが……。ご、ごめん、言い過ぎたが。ちょっと、ここは目立つから、離れようさ……」

「掃除、いいん?」

「まぁ、いいじゃろ。……カニ山のあたり行こう」

「いいね、久しぶりじゃ」

 カニ山は、基礎学校の裏にある小さな野原のことだった。全く山ではないのだが、小さい子供達は何故かカニ山と呼んで、よくそこで木登りやかけっこをして遊ぶのだった。

 高い空から差し込む光が徐々に力強さを失う中、学校裏から伸びている細いあぜ道を歩く。石畳ではない、土塊た道の感触が懐かしい。

「……それ、養成所の制服? か、か、き、」

「なに、か、か、き、って……」

「な、なんでもねぇが! ……それより、何の用じゃ。養成所、休みなん?」

「シェムが淋しがってるかと思って」

「馬鹿、誰が淋しがるか、阿呆!」

「あはは、冗談じゃ。あのね、あのね、わたし『塔』に行くことになった。明日、出発するが」

 半歩先を歩いていたシェムは、一瞬身を固くして、だが振り返らずに返事をした。

「なんで?」

「話すと長いんじゃけどね、翠羊様の次の女神が早く必要なんだって。それで、女神として選ばれるためにはあの『塔』の頂上まで行かないと行けないんだって」

「うん。短くまとめたな」

「だから行くん」

「一人で?」

「ううん! わたし、友達ができたんだ。女神科の子達なんだけど……最後に残ったその子達と一緒に登るの。」

「……何人?」

「ん、友達? ミゼアと、インファと、椎椎と、マイベリじゃよ。4人?」

「それって、遠は、1/5の確率で女神になるってこと?」

「イーちゃんは、んーと、色々あって女神にはなれないから、1/4かな」

「……」

「どうしたん」

「いや、……驚いて。遠、本当にそんなに女神の座に近いところにいるのか……ちょっと……信じ難い」

「わたしも信じられんけど、よく分からんうちにこのようなことになってしまったんじゃ」

「よく分からんうちにはまずくないか……大丈夫なんかお前……」

「大丈夫……うーん……大丈夫じゃない……かも」

 シェムの心配は最もだと遠は思った。とにかく、女神になるつもりは全くなかったのだ。途中で脱落する、と確信していたのに、楽しく毎日を過ごしているうちにいつの間にか有力候補になっていた。女神になる心構えなんて、全くできていない。

 踏みつぶした草から、青い臭いがして、遠は思い切りその空気を胸に吸い込みながら足を進めた。段々、道は道らしき形を失い、徐々にゆるやかな上り坂になっていく。その先にある小さな草地が、カニ山だった。夕暮れに近づいたからか、小さな子供達の姿は見えない。二人は、いつも座る小さな丘のてっぺんに腰掛けた。

「遠、女神になりたいん?」

「それがさ。正直に言って、分からないんじゃ。分からないまま女神なんて目指すのは失礼だって、あり得ないって分かってるんじゃけど……。でも、もしミーちゃんやしーちゃん、ベリが女神になるなら、側で支えたいなっていう気持ちはあるんじゃけど」

 シェムは黙って頷きながら遠の話を聞いていた。

「あと……困ったことに、わたし、天恩が大きいというか、強いみたいなんじゃ。みんなに比べても強くて、それで最後まで残っちゃった」

「うん。……それはな、なんか俺そんな気がしてた」

「えっ!? わたしはそんな気は全くしてなかったんじゃけど……」

 シェムは普段から、あまり感情を顔に出さない。だが、今のシェムはどことなく、不安げに見えた。

「……遠、ちゃんと『塔』から帰ってくるよな?」

「なんじゃ。そんなこと心配してたんか。もちろん、帰ってくるよ。足腰は強いし、まぁなんとかなるじゃろ」

「……そんなこと、じゃねぇよ……」

「ん?」

「なんでもない……なぁ、それでもし、もし女神になって帰ってきたら……」

「わたし、万が一女神になっても、一番にシェムのところに帰ってくるよ。あのね、こんなこと言うのは恥ずかしいんじゃけどね、女神か、女神を支える人になったら、シェムが喜んでくれるかなってちょっと思ったんだ。シェムが誇りに思ってくれたら嬉しいなって」

「……そうか」

 シェムは、膝に顔を埋めた。恥ずかしがっているのか、泣いているのか、遠には分からなかったが、遠も少し照れくさかったので、それ以上は何も言わなかった。沈黙を覆うように少しずつ夕闇が降りてきて、遠い遠い空に、一番星が煌めいているのが見えた。

「そうじゃ。シェムに黒術を見せたかったんじゃ。見て?」

 遠は<灯花>を小声で唱えた。

『暗い夜にも 太陽の小さな滴を あなたの顔が見たいから あなたのことを暖めたいから 静かにそっと 留めて揺らがせよ <灯花>』

 優しい橙色の光が生まれ、膝から顔をあげたシェムの表情を照らした。

「……綺麗。これ、どういう仕組みなん?」

「分からん。天恩の因子から、言葉で、その言葉に応じた効果を引き出しているようじゃけど」

「ふーん。今さ、一瞬光が円形になったじゃん? あれ、もっかい見せて」

「いいよ」

 遠は再び<灯花>を唱えた。もう1つ、灯りが生まれる。

「あ、やっぱり。術になる前に、天力の環が現れるじゃん? あれ、円に見えるけど、よく見るとフラクタル図形になってるが」

「やや、ほんと? 全然気づかんかった。でも、なんのために?」

「さぁ……。俺、それもっと詳しく解析したいが」

「さすがシェムじゃ。そういえば、シェムの学校はどんな感じ?」

「専門的な勉強が増えてきて、楽しい。俺、基礎学校卒業した後、普通学校の工科に行こうと思ってるんじゃ」

「シェムは、工科じゃと思ってたよ。器用で、なんでも作れるもんなぁ。……ね、シェムは、なりたいもの、あるん?」

「あー。玉宮付きの専工技術士かな、今んところ」

「なんで?」

「……かっこいいから。世界のあちこちを、技術士が支えてるじゃん」

「そうなぁ、本当に。そうじゃなぁ……」

「遠は女神になるの、悩んでるんか」

「悩んでるっていうか……将来への希望とか、覚悟って、どうやったら生まれるんかなって。ミーちゃんなんて、もう既に女神みたいに、ちゃんと覚悟を持ってるの。でも、わたし覚悟どころか、将来の目標みたいなもの自体無いってことに気づいたんじゃ。別に、いつ死んでもいいと思ってたから……わたし、空っぽみたい」

「……空っぽてことは無いが」

 シェムは再び膝に顔を埋めた。

「お前は……なんつーか……器みたいな感じ……」

「そっかー。あはは、よく分かんないや! でもいいの、今はね、みんなと一緒にいたいの。それで『塔』に行くの。その後のことはまた考えるしかないかなって」

「それでいいんじゃない。遠らしくて」

「ありがと、シェム。やっぱりシェムと話すと、落ち着くー」

「……や、しかし遠が女神になったら笑っちゃうがな、食いしん坊の女神なんて聞いたことねぇもん」

「笑わないで、わたしが一番笑っちゃいそうなんじゃから」

 そして二人は顔を見合わせて、同時に笑い出した。

「遠、そろそろ養成所に帰らなくていいん」

「うん、そうだね……。そろそろ行かないと、かな」

「あ、遠、待って。帰りにもう一度、学校寄らせて」

「もちろんいいが。あー! ありがとう、シェムに会えて本当にほっとしたんじゃよ」

「うん。……行こうか」

 既に夜の帳は降りて、あたりは暗い。頭上の星はいつの間にか増え、煌めく無数の小さな点が二人を見守っている。風が吹いては、木々と草がどうっと音を立てた。他には、何の音も無い。

「遠、あれ、やって。さっきのあれ」

「<灯花>? いいよ」

 遠の手の中に、再び橙色の優しい灯りが生まれ、道案内をするように漂う。

 その後を追うようにしてシェムと二人、風を顔に受けて静かに歩きながら、遠は故郷――十層の風景を思い出していた。

 険しい岩壁にへばりつくようにして作られた石と泥の家々、だが夜になると、その窓から漏れる橙色の灯りがまるで群れて固まる夜光虫のように見えるのが好きだった。

 朝靄の中、くぐもった声で七頭鳥が鳴き、長い尾を引いて悠々と小さな空を渡っていくのを見るのも好きだった。

(なんで、今こんなこと思いだしたんじゃろう……)

(……なんで、こんな、幸せなような、淋しいような気持ちになるんじゃろう……)

「遠、ちょっと待ってて、俺教室から荷物取ってくるから」

 そう言ったシェムの声も、あまり遠の耳には入っていなかった。息を切らして戻ってきたシェムに大丈夫か、と背を叩かれて、ようやくはっと気付いたのだった。

「本当に大丈夫か、こんなにぼーっとしてる女神なんて見たことも聞いたこともねぇが……」

「ごめん、ごめんな。行こうか」

「待って。俺、……これ、ちょっと工作して、作ってみたが。試作機じゃけど、遠にやる、何かあったらこれで知らせろ」

「何、これ?」

「通信機のようなものじゃ。小さなマイクが中に入っとる、そのボタンを押しながら喋ると、俺の手元にある母機が遠の声を拾うように、色々細工をしてあるんじゃ。だけどまだアンテナが少ないから、ちゃんと動くか少し不安じゃが……」

 遠にはその仕組みはさっぱり分からなかったが、黒術で言う<伝意>を、『印持ち』だけでなく誰でも行える、画期的な道具だということは理解した。ひとしきりその小さな機械を眺めてすごいすごいとシェムを賛美し、そしてそれを大事そうに制服のポケットにしまった。

「シェム、ありがとう。『塔』を降りたら、絶対、シェムのところに帰ってくる。いってきます」


 こうして、遠は『塔』に旅立った。新緑が美しく、爽やかな風の吹く、季節のことだった。

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