3 遠、友情を育む


 翌日の午前中は、知術の授業が行われた。しかし、基礎学校の規定課目だった「算術」「論述」「理術」と「知術」の授業内容は大きく異なった。

 最初の質問はまだ楽に答えられた。

「この世界の成り立ちを述べよ。……そうね、ミゼア」

「はい。――大いなる初めての女神アーリアが星を身ごもった時、すべての男神は激怒し、女神アーリアを殺そうと追い立てた。女神アーリアは我らが穴を空から見染められ、身を隠すのに幸いと降りられた。その際、アーリアの守護者であった5人の女神を5つの穴に分封し、それぞれに生み、増やすように命じた。増えゆく命を満足に見届けたアーリアは、姿を消した。この星の土に溶けたとも、大気に溶けたとも言われている」

「よろしい。あまりにも易しい質問でしたね。では本題に」

そして始まった最上の質疑は、生徒達の度肝を抜いた。

「現在、ニューポート圏とヨグナガルド圏の間に横たわる問題を3つ述べよ」

「月糸の最下層にある香堆湖の水位の低下が問題になって久しい。ではこの問題が与えている具体的な影響を、全て述べよ。また、検討されている対策と、それぞれの利点・不利点を述べた上で、貴女が考える最も良い解決策を述べよ」

「月糸の民が住居を持つことができる階層は第五層から第十二層までである。では五層と十二層の住民の平均所得をそれぞれ述べ、またそれによって具体的にどのような問題が起きているのかを述べよ。また、貴女の意見を述べ、貴女の意見に基づいた政策を実行するのであれば、どのようなものを提案をするか述べよ」

「第7代女神統治時代、我が圏と隣圏・ヨグナガルドの間に起きた小規模な戦争において、終盤、我が圏が劣勢になった契機となった出来事を述べよ。また、それはどのような判断の過ちを元に起きたか、貴女が我が圏の軍事行動責任者であったらどのような指令を出したか」

――生徒達は、基礎学校における授業との違いに文字通り目を回しそうだった。こんな実践的な、まさに玉宮神官が取り組んでいるような問題について、まともに考えたことがある者など、いなかった。

 しかし、当てられたら、これらの質問に即座に答えなければいけない。答えることができようができまいが、最上はその問の解説を丁寧に行ってはくれたが、必ず「こんなことにも答えられないようでは、女神にはなれません」の一言も付け加えられるので、恐ろしいことこの上なかった。

 だが、この15歳かそこらの少女達にはなかなか厳しい授業に、全くたじろいでいないのが遠だった。遠は当てられた質問に澱みなく答えた。多少間違っていることも言ったが、最上の指摘を素直に聞き、また質問し返す余裕すらあった。武術でぶっちぎっていたのはインファだったが、知術でぶっちぎりだったのは間違いなく遠だった。

 ミゼアも遠に次ぐ優秀さを見せ、他の生徒達を唖然とさせたが、遠には及ばなかった。最上を始め、皆が驚愕した。ぼーっとしていてよく食べるボーイッシュな田舎者……というのが、皆の、遠を遠巻きに見たときの評価だったのだ。

「遠、ちょっとあなた、……頭がいいのね」

「それはたまに言われたことがある。でも、頭がいいんじゃないと思う。本を読むのが好きなだけじゃ。でもミーちゃんに誉められて、嬉しいな」

遠は普段と変わらぬ調子で答えた。

「……わたくしなんて……」

「え、なんて?」

「なんでもないですわよ」

ミゼアはまたしても、少しだけ落ち込んでいた。今までは才女、秀才、才色兼備ともてはやされていたのに、この妙なルームメイトは自分の上を行く。世界は広いのだ、とミゼアは思った。昨日の美術では最高評価を貰ったが、たいして嬉しくはなかった。

(ここでも、2位なのかしら……)

女神になることは簡単ではない、とミゼアは静かに思った。


 昼休みを挟み、いよいよ黒術の授業が始まった。一同は広い術場に移動する。万が一失敗があったとき、周囲への影響を最低限にするために、養成所は広大な面積の術場を備えているのだった。

「まず、天恩を使うには、『印持ちホルダー』としての体と、『言葉スペル』が必要です。『言葉』を用いることには、2つの意味があります。1つは、特定の天恩を引き起こすパスワードとしての役目。もう1つは、イメージをより具体化し、強い術を使う為の助けとしての役目です。イメージが具体的であればあるほど、術は強くなります。魔術・聖術の『言葉』は全て『古ペルテ語』で、『新詩編ネオ・プサルミ』という文学から抜き出されているものです。『新詩編』を読んだことのある者は?」

静まり返った生徒の中、ミゼアだけが手を挙げた。

「古ペルテ語で書かれた原典は読んでいませんが、現代語訳されたものなら。……序章だけですが、読んだことがあります」

「結構です。では『新詩編』の主題は?」

「ええと……愛を謳った……」

「正確に。遠はどうかしら? ……遠!!」

「えっ、あっ……あっ? もう一度お願いします」

「まさかあなた今立ったまま寝ていたんじゃないでしょうね……『新詩編』の主題は何かと聞いています」

「『新詩編』って、あ、古ペルテ文学の! ええと、主題……古・旧約聖書の『詩編』を意識して書かれたもので、『詩編』が神を讃える内容であるのに対し、『新詩編』には神は出てこず、人間を讃えるのが主題だと、思いました」

「……よろしい。皆さん、聞きましたね。『新詩編』は、追々授業の中でもきちんと解釈をしていきます。我々が天恩を扱うための『言葉』を『新詩編』から引用し、設定したのは、初代女神アーリア様です。これもしっかりと心得ておくように。さて、……説明はこれくらいにして、早速簡単な術を使うことで、天恩を使う『感じ』に慣れましょう」

 黒術の中で比較的簡単なのは、単純にエネルギーを発散させるものだ、と最上は説明した。最初に教わったのは、<灯花ライティング>、簡単に言えば火を点ける魔法だった。いくつかのランタンが用意され、一人ひとり順々に黒術を使って火をつけていく。

『暗い夜にも 太陽の小さな滴を あなたの顔が見たいから あなたのことを暖めたいから 静かにそっと 留めて揺らがせよ <灯花>』

「呪文って、随分とロマンチックなんじゃな」

 遠が感心したように言う。横で椎椎がほんのり嬉しそうに、こくりと頷いた。

「ちょっと恥ずかしい感じもするけどなぁ。イメージが大事、かぁ……」

 遠の番が回ってきた。ランタンにかがみ込み、手をかざす。呪文を小声で詠唱しつつ、ごちゃごちゃした頭の中を少しずつ、無に近づけていく。頭の中の世界が無になったら、イメージを作り出す。

 暗い夜、太陽の小さな滴、あなたの顔が見たい、あなたのことを暖めたい、静かにそっと、留めて揺らがせる、灯りの花。

 かざした右手に熱を感じる。ポッ、とランタンに小さな灯火が点いた。

「遠さん、上手にできてます。安定した良い火だわ」

 最上が覗き込んでそう評し、遠はひとまず安心した。他の生徒の様子を見ると、中には苦戦する者もいるようだ。マイベリなどは何回か失敗を繰り返し、集中しなさい、と最上に怒られていた。遠はしょんぼりした様子のマイベリに近寄って声をかけた。

「マーちゃんは、あまり火とか使ったことないの?」

「あ、遠様……う、うん、なんていうか、もちろん身の回りにあるんだろうけど、気にしたことなかったの……」

「そっかー。あのね、わたしの家は十層じゃから、陽が落ちると同時にすっごく真っ暗になるの。上の層とは比べ物にならないくらいの、真っ黒な夜。で、その夜にね、ランタンに橙色の灯りを点けると、その周りだけぽうっと明るくなって、凄い綺麗なの。わたし、夜にランタン持って散歩するの、好きじゃったなぁ」

「……」

「ちょっと! 遠、次あなたの番よ、ぼーっとしないの!」

「やや、いかんいかん。ミーちゃんにまた言われちゃった。マーちゃん、またね」

 後に残されたマイベリは、遠の言葉を反芻した。真っ暗な夜。ランタンを持って歩く遠。その横に並んで歩く自分。遠はランタンを持ってきっと嬉しそうな顔をしている。二人を導く、大事な大事な、灯火。

(……次は、ちゃんとできる……遠様の言葉を無駄に、しないもん)

目から何かが溢れそうになって、マイベリは慌てて上を向いた。


 次に教わったのは、<大輪火ファイア>で、これは簡単に言えば爆発を起こす魔術だった。術場に標的の的が並べられ、それを狙うように指示が出される。安全を期して、標的はかなり遠くに置かれ、生徒達は皆充分に標的からも、術を行う本人からも離れるように言われた。

『静かにはしていられない 熱が溢れだしてしまう そこに光が必要なの <大輪火>』

(これは呪文が短めなんじゃな)

 遠は立つ位置を決める、足元の白い石灰を右足でつついた。的に向かって手をかざす。

 ――小さい頃、十二層で隧道工事を見たことがあった。真っ暗な穴、必死に作業をする人々、響く鶴嘴の音。汗と土の臭い。そう、静かにはしていられない。熱が溢れる、そこに光を届けたいから……。

 その瞬間、遠を見守っていた最上は目を大きく見開いたが、止める暇も無かった。遠の手のひらの前に、巨大な青い円ができていた。いや、細かく見ればそれは正しくは円形ではないのだが、幾何学的な美しい環状の蒼白い光はみるみるその直径を大きくし、瞬く間に遠の体の数倍の大きさになり、そして、的に向かって一直線に走っていった。ドーナツ型から球形に収束して、完全な球体になったところで的を赤子の手をひねるかのように軽く粉砕し、それとともに轟音が術場に鳴り響いた。

 大多数の生徒達が「きゃぁぁ」と叫んでしゃがみ込み、最上がとっさに吹いた笛がピピーーーーッと鳴り響く。もうもうと煙が立ち込め、土臭い匂いがする中、遠はいつものぼうっとした顔で立ち尽くしていた。

「やや、わたしちょっと力入れ過ぎたの……かな……?」

 ぼうっとしているように見えても、遠は一応困惑していた。他の生徒達の<大輪火>はもう少し、穏やかだったのだ。

「ちょっと! 遠、大丈夫なの!? 怪我は!?」

 ミゼアが走ってきて、遠の体をぱたぱたと触る。

「大丈夫そうね……ああ、びっくりした……!」

「ごめん、ミーちゃん。なんか大きくなっちゃったみたい」

「……そう……」

 返す言葉もなくミゼアが絶句していると、生徒に怪我人などがいないことを確認し終えた最上が飛んできた。

「ちょっと、遠さん! あなた……!」

だが最上もその後に続く言葉を思いつくことができなかった。最上が知る限り、あんな規模の術を突然使える生徒などいるわけがないのだ。最上でさえ、あの規模の力を使えば体力を奪われ、体はふらつき、息を切らすだろう。だが遠はケロリとしていた。最上は、この生徒が莫大な天恩の核を持っているとのだろうという仮説しか思いつくことができなかった。

「……ええと。遠、あなたは大きな天恩を持っているようだわ。あるいは、天恩を使う能力に長けているみたい。だから、授業では少し控えめに使うようにしてみて。これだと設備が何回壊れても足りないわ」

もっと怒られるものかと思っていた遠は、やや明るい表情になった。

「ごめんなさい、最上先生。わざとじゃないんです。次はたぶんちゃんとやります」

最上は満足げに頷いた。この子は、女神候補のダークホースかもしれないと思ったのだ。だが最上の”本命”であるミゼアも、次の試技でとてつもない威力で、かつ美しい<大輪火>を放った。

(控えめに見繕っても、4人は、例年の女神候補より遥かに能力の高い生徒がいるわ……。本当に1年もせずに、女神の座にとりあえず座らせることができるかもしれない……玉宮の仲間にこの吉報を報告しなければ!)

 上機嫌の最上はその後いくつかの術を教え、日が暮れた頃になって授業はようやく幕を閉じた。


 なぜか味をしめたらしいインファと椎椎がその晩もミゼアと遠の部屋に遊びにきた。

「ちょっとミーちゃんが具合悪そうなの」

 ベッドの上に寝ているミゼアに目をやりながら、遠が悲しそうな顔をして言う。

「ミーちゃん、やっぱり食べなさすぎなんじゃ……」

「違うわよ、今までだってなんともなかったんだから」

「じゃぁ黒術の授業がきつかったのかなぁ」

「それも違うわ、今ま……いえ、とにかくそういう感じじゃないのよ。胃腸が重いっていうか」

「ちょっと……見せて……」

 小さな声をあげたのは、椎椎だった。

「体に触っても、良いか?」

「いいけど……あなたはお医者か何かなの?」

 やや冷たいミゼアの物言いを、椎椎は気にすること無く、色白の両手をそっとミゼアの背中のあちこちに当てた。

「……少し、ストレスを体が感じているみたい。ちょっと目を閉じて、深呼吸してみて」

 椎椎は、横たわったミゼアの呼吸がきちんと深くなっていることを確認し、両手をかざしながら小さく口の中で呪文を唱えた。

「えっちょっ……」

 インファが大声をあげそうになり、慌てて遠がインファの口を手で塞ぐ。

 椎椎の手のひらからは、水色とも紫色ともつかぬ淡い光が漏れ、同時に何かすっきりしたハーブのような香りが部屋のなかに漂った。

「はい、終わり。どう」

「……あ……少し、楽、かも……椎椎、あなたもしかして、それ」

「白術と医術を混ぜて使った。私の一族には、白術と医術に長ける血が流れている。養成所に入る前から、どちらも身近なものだった」

 椎椎は控えめな声で言った。

「そうなの……わたくし、さっき、失礼なことを言ったわね。ごめんなさい。ありがとう」

 ミゼアは微笑んだ。

「なんか、いい匂いがする。すごいんじゃね、しーちゃんは。ミーちゃんを治してくれてありがとう!」

「……遠もすごい。今日の授業の、あんなに大きな<大輪火>はなかなかできない。それに、遠は頭も良い」

「そうそうそれそれ! びっくりしたー、あったし遠もてっきりあたし側の仲間かと思ってたのに、ぼーっとしてるように見えるから!」

「うーん。勉強はね、本を読むのが好きだから。でも黒術は……すごいって言われても、ちょっとなんて言っていいかわからない。自分で努力して得たものでもないし、困ったな」

「困ることは何もないわ。使えるものは使わないと。甘いことを言っていてはすぐに脱落するわよ」

「そうじゃね……」

「正直、わたくしはあなたに及ばないところがたくさんあって、少し悔しいわ。でも自分に足りないところを見つけられてよかった。知らないままだったら直せないけれど、知ったから、その穴を塞ごうと努力することができるもの。遠も卑屈なことを言ってないで、胸を張って努力なさい」

「うん……」

とは言ったものの、遠は、やはり自分は女神になりたいなどという希望を一切持っていないことを思い知っていた。そして、周りの少女達は、彼女達なりにちゃんと女神を目指しているんだということも。それはとても尊く、素敵なことだと遠は思った。

(わたしの望みは、なんじゃろう……)

考え込んだところに、部屋の扉がひかえめにコンコン、と鳴った。

「やや、しまった。今日もベリちゃんのこと忘れてた!」

扉に突進すると、果たしてそこにはマイベリがいた。

「ごめん、忘れてた……」

「いえいえ、ベリこそ……き、きっと遠さん、舞踏の練習するより、皆さんとお喋りするほうが楽しいですもんね」

 マイベリはやや伏し目がちに言った。

「いやぁ、まぁ、うーん。そうかも。マーちゃんのことは好きなんだけど……あっ、マーちゃんもおいでよ、みんなで遊ぼう?」

 だがマイベリは困ったような、怯えたような表情を浮かべ、数秒かたまったあとに、首を振った。

「だ、大丈夫です……」

「やや、何が? 何が大丈夫なん?」

「あ、あの……ごめんなさい、また今度! あっあと、マーちゃんじゃなくてベリって呼び捨てにしてください!」

「う、うん、分かった。じゃぁベリも遠様はやめて……」

「いやです」

「……」

「絶対いや。遠様は遠様だもの、王子様なんだから」

「……お、おうじさま……なの? そっか、いやなんじゃ、仕方ない、かな?」

「そうです。仕方ないんです。……そ、それじゃ、また!」

 そう言ってマイベリは踵を返して走っていってしまった。唖然とした遠は、部屋の中に戻って座り込んだ。

「遠、どうしたのあの子、なんだって?」

「えーと……大丈夫って言ってた」

「は?」

「一緒に話そうって言ったんだけど、大丈夫、って断られちゃったみたい。わたし、何か変なこと言ってしまったんかな」

「えー、遠は変じゃないよ。あの巨乳ちゃん、なんかおどおどしてるよね。人見知りなのかもよー」

「大勢の人の中に入るのが苦手なのじゃないかしら。遠は気にしなくていいわよ」

「……うん、そうじゃね、気にしないことにするが」

 インファとミゼアに慰められて多少気が晴れると同時に、遠はこの時、いつかマイベリとみんなで、話せるようになれるといいなぁ、と思った。

(わたしの望みは、小ちゃいことじゃな……)

 遠は窓の外に目をやった。暗い夜、だが十層の夜はもっともっと深く、黒かった。窓硝子にうつる他の3人の笑顔を見て、遠はそっと微笑んだ。


 女神養成所からの吉報――候補生何れも優秀、うち数名は歴代女神の候補生時代の実力を遥かに凌ぐ――を受けた月糸玉宮だったが、その喜びに沸いている余裕は一切なかった。ヨグナガルド、ニューポート、ダカン、涼車それぞれから、続々と政治的要求が入ってきて、大混乱だったのである。

ヨグナガルドは、女神不在の月糸に、代行統治を提案してきた。

ニューポートは、女神不在の月糸に、かねてからの懸案事項であった移民受け入れを迫ってきた。また、ヨグナガルドには注意した方が良いと警告を行った。

ダカンは、女神不在の月糸に、技術と資金の無償援助の増加を要請してきた。

涼車は、女神不在の月糸に、表面上は何もしていなかったが、不穏な動きがあるとの情報が入っていた。

 翠羊崩玉から、その事実の公開までの間に、仮の指揮系統は作った。だがやはり女神不在の影響はあまりにも大きく、普段ならばこなせていたはずのこともうまく処理できないのである。

「あれ、どうしてこの書類の数値こんなに大きいの? おかしくない?」

「灌漑機械についてダカンと話し合ったときの資料が見当たらないよー!」

「十一層東壁村の事故の保障の件、話進んでるの?」

「八層で火事だって、武装神官早く出動して!」

こんな具合だった。

誰も最上の報告に気は払えなかったが、ほぼ全員が、次の女神の誕生を心待ちにしていた。それはそれで式典等、たくさんの特需が発生すると分かりつつも、心の拠り所が不在なまま圏を動かしていくのは、誰にとっても辛いことだったのである。



「へぇ。次の月糸の女神は優秀そうだね。……候補が複数いるのか。さぁ、誰が女神の『玉座』につくんだろう」

 風がゴォっと音を立てながら吹き過ぎていく。長い髪の毛が翻弄され、はためいた。

「『果神はてのかみ』が誕生するなんてことは、きっと無いだろう。……ああ、きっと無い。だが、用心に越したことはないからね、そうだろう?」

 男は風に問うた。もちろん答えは返って来ない。

「女神は健気で美しい……僕は好きだよ、彼女達のことが。少し憧れていることだって、認めよう。ねぇ、でもあの子達は、生命に対する冒涜でもあるでしょう」

「だから僕は中立する。果神の誕生は防ぐ……でもそれだけだ。それくらいしかこの世界にしてやれることはない。それに僕は誇り高い尭人ぎょうじんの末裔、人類全体のために糧を成すもの、だからあくまで、この世界には少ししか干渉しないよ……」

暗闇と風が、男の独白を掻き消した。再び吹いた強い風と共に、男の姿は消えた。

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