23 遠の覚悟

 ミゼア・マイベリと椎椎が再開した、その、ほんの少しだけ前の時刻。

 圏界連合本部東棟の地下の薄暗い空間の中で、遠は雪狼・タアンに、その手を差し出した。

「タアン、こんなことをお願いしてごめんな。あのね、わたしの手を噛んでほしいの」

『どういうことだ?』

「……たぶんじゃけど……。わたしらの黒術は、放つとフラクタル図形を描く……で、ここの、建物にも、この母艦達にも、それが。同じものが、刻み込まれている。それがなんで同じなのか……考えてて……」

 遠は自分でもまさか、と思いながら口に出す。「この母艦達は、もしかして、女神達なんじゃ……」

 それはあまりにも背筋がぞっとするような考えで、遠は自分で話しながら全身が粟立つような怖れ――怒りを感じ始めていた。

「女神は死ぬと石になると思ってた。でもたぶん、生きているか死んでいるかに関わらず、体を焼くと、石になるんじゃ。石と一言で言っても程度があって、最終段階が結晶なんじゃと思う。そして……石になっても変わらず天力を秘める」

 ハターイーが思わず「あ、つまり……」と恐れに満ちた顔で小さく呟いた。

「その石で再構成した、母艦、そしてこの建物達……だって感じるの。鉱球の塔でアーリアの声を聞いた時みたいな、気配。さっきからどんどん強くなって、やっぱりここが一番強い。たぶんこの石は、生きてる。だってまだ結晶になりきってないもの。生きたまま焼かれて中途半端な状態の石となり、ずっと使われているんじゃ。圏界連合は……圏界連合は、なんていうことを……!」

 怒りが遠の全身を貫く。ハターイーが、思わず一歩後ずさったほどに、遠の体から発されるエネルギーは凄まじかった。あまりの感情の発露に、天力が溢れ出て、髪と目、額の紋様の青が光を帯びる。

「……大丈夫。もう、怒りに我を失ったり、しない。……同じ『女神』なら、わたしたち、もっと違うコミュニケーションが取れるはずじゃ。わたしの表面は皮膚でできていて、この――この女神の先輩達の表面は石のようなものでできている、でも表皮を剥がしてしまえばきっと同じものが流れているはずなの、それが何かは分からないけれど……」

『ハターイー、いいのか。私の主は今はお前だ』

「……他に、選択肢がないのなら仕方が無い。本当はすごく嫌だよ? でも、遠、君の傷は必ず僕が治してあげられるから。僕は医者の資格があるからね」

「ハーちゃん、ごめんね。ありがとう。さぁ、一気に噛んで」

 遠が差し出した両の手に、タアンは躊躇無く噛み付いた。肉がにぶい音を立てて裂け、わずかな血の臭いが立ちのぼる。

 遠は、一言も声を漏らさず、笑って「タアン、ありがとう」と言った。

 遠は血の滴る両手を、目の前の母艦に押し付ける。

(ごめんね、最初だけちょっと痛くするね……)

 読み上げる呪文は、<大輪火>。血を流す手の平にすぐさま青い光が生まれ、そのまま母艦――石の塊にぶつかり、凄まじい音を立てた。激痛が手から全身に走り、さすがに遠は苦悶の表情を浮かべる。

 収まっていく青い光の向こうに透ける石の表面は、大きな音の割りには何も起きていないように見えた。だが。

「ハーちゃん、見て!」

 よく目を凝らせば、石に掘られた精緻なフラクタル図形の紋様を、静かに青い光と、遠の血が満たしていく。水の無かった川に、徐々に水が流れ込んでいくように――。そして全ての紋様の溝が青と赤に染まった時、それは、来た。

 (女神達……)

 再び遠は石に手を押し付けた。無数の女神達の意識が、一気に伝わってくる。

『ああ、久しぶりに起きたわ』『果神はてのかみね』『果神がいつか私たちのところに来ると、アーリア様は言ってくださった』『鉱球に連れ去られる前に、それだけは約束すると言って私達の体――母艦に細工をしたのよ』『あなたの天力だけが私達を、本当の穏やかな死に導いてくれるはずなの』『だから心を無くしても耐えてきたの、石として』『長い時間がたったのね?』『愛しい子……ここまで来るのは大変だったでしょう』『そして私達の意識はあと少ししかもたない……』『ぎりぎりだったのよ。後少しで完全な石になって、二度と心は取り戻せないの』『見ることができないのが残念だわ、強く、優しい子』

 その時、遠はなぜだかふと、「お母さん」と思った。アーリア。わたしの、わたし達の母。あなたは、女神達に、わたしに、深い愛を注いだ――。

「女神達……わたしの大先輩の女神達、今、あなた達を解放するから……!」

 呪文は、無い。なくても、今はもう感情だけで力を注ぎ込むことができた。全ての母艦のフラクタル図形の溝に、遠の力が伝わっていく。暗く真っ黒だった意志の表面が美しい青で彩られていく。

『愛しい子、ありがとう。これでもう私達は母艦として在らなくて済む』『今度こそきちんと死んで、美しい結晶にさせて』『最後にあなたの願いを叶えましょう』

「いい、……いいの。もう、働かせたくないんじゃ……」

『そんなことでは駄目。大切な人を守りたいんでしょう?』『あなたのために何かできるなら喜んでするわ』『さぁ、速く。あなたがシステムを壊したから、意識と意識で繋がるしか方法はないのよ。そして私達の意識はあと少ししかもたない』『願いを言って!』

「……じゃぁ、じゃぁ。お願いです。落月門ゲートを、閉じないで。開けたままにして。全てのフネを通して!」

『なんだ、そんな簡単なこと』

 母艦の石碑の間をきらりきらりと僅かな光が流れる。

『ああ、もうすぐずっと待ち望んだ完全な死が訪れる』『あなたの名前は?』

「遠です、遠」

『いい名前……最後に会えてよかった』『あら、そこにアーリア様の結晶もいらっしゃるわね』『お願い、私達を二度と起こさないように、私達が結晶になったら全てあなたが持って帰って……』『あなたのために石の力を使うなら本望なの、お願い』『ここで使われたくないの』

 端の方から、黒い石碑が巨大な音を立てながら崩れはじめているのが見えた。崩れると同時に、幾何学模様を描いた光のようなものが空中に立ちのぼり、後には何の物質も残らない。それは美しい、としか言いようのない神秘的な光景だったが、同時にあまりにも哀しかった。

『私が、女神達の遺石をとってこよう』

 タアンが走っていく。

 あんなに強く感じられた女神達の存在感も、どんどん薄れていく。

『さようなら、遠』

「さようならじゃない、さようならじゃない! これからも、ずっと一緒にいるから……」

 最後に、目の前の母艦石が崩れ、遠は思わず床に膝をついた。床にキン、と小さな音を立てて転がった結晶は、透明で、儚くも強い煌めきを放っていた。握りしめ、ポケットに入れる。戻ってきたタアンが口を開けて、『ここに持っておくからな』と言った。口の中には無数の輝く結晶達が転がっていた。

「……よし。これで、ミーちゃん達のところに、行ける! ハーちゃん、ごめんね待たせて」

「いいんだよ。さ、タアンに乗って!」

 ハターイーは再び<葉隠れ>を唱え、タアンは風のように走り、地上を目指した。だが――。

 東棟の、入り口のドアは、厳重に封鎖されていた。

「ちっ……別の出口を探そう!」

『いや、ハターイー。私なら、突っ込めばなんとか通り抜けられるだろう』

 その一瞬の躊躇いの間に。今まで誰もいないように見えたロビー、がらんとした空間に、音もなく防衛部の一個師団が出現する。ドアの前に、横に。今しがた登ってきた階段に。

「こいつらも……黒術を! 遠、下がれ!」

「ははは……いや、お前らを簡単に殺しはしないさ……」

「ウルバン!」

 遠と、ハターイーの声が重なった。荘厳な白い階段の上、見上げた目線の先に、ウルバンが立っていた。そして、その後ろ、数歩下がったところには、項垂れたユドンが。

「足掻いでも無駄……もうあなたは負けたのじゃ。わたし達はここを去る」

「混乱だけもたらして、あとは逃げるのか。外では暴徒が騒ぎ、街の秩序は混沌に返った。お前の所業だ。出来損ないの作り物である、醜悪なお前の。性欲処理だけしていればよかったのだ、機械など!!」

 ウルバンはもう、統治者としてのいつもの仮面を被ってはいなかった。

「遠、耳を貸さなくていい。聞かなくていいよ」

「ハーちゃん、大丈夫。あの人の言葉は、わたしを傷つけない」

「遠……」

「あなたが、どんなことを言おうと。あなたの言葉はわたしには響かない。……わたしは、自分が機械だろうと人だろうと、よく分からないものだろうと、どうでもいい。他人に区切られる『形』の名前は不要じゃ」

「何を……何を小生意気なことを!」

「わたしが望むのは、この心身の王はわたしであること。魂の在り方は自分で決める、ということ。……あなたは、自分の魂の在り方を自分で決めていない。だから、怖くない」

「何を……!!!」

 ウルバンが腰の銃を抜き、遠に向けた、その瞬間。ドアの前に人垣を作っていた防衛部の内の一人が、脱兎のごとく走り出た。それはあまりにも一瞬のことで、誰も動けなかった。ヘルメットが取れ、流れ出た、赤い、赤い髪が風になびく。銃口がウルバンを向き、迷わず発射されたその弾が、ウルバンを――ウルバンと、ウルバンの前に躍り出たユドンの体を、容赦なく貫いた。それとほぼ同時に、本物の防衛部員達の撃った銃弾が――シナトの背に降り注ぐ。

「待って!! 撃たないで!!!!」

 その前に走り出たのは遠だった。

「お願い!」

 女神の願いに、思わず防衛部員達は銃を下げる。ウルバン様、と声が上がって数人が階段上に駆け上った。

「シナちゃん!! ああ、ユーちゃんも……! いやだ!!!! シナちゃん! シナト!!」

「シナト!! しっかりするんだ!!」

「遠……ハターイー……。遠、……お前は機械じゃない……定義なんてどうだっていいんだ……」

 そこまで言ってシナトはひどい音を立てて血の塊を吐いた。遠の服と身体がその血に染まる。

「お前らは……命だ……。ハターイー、お前は、お前の好きな女を、守れ……。あと、俺の、俺の首の橙の石を……持って行ってくれ……インファだ……」

「いやだ、シナト。受け取れないよ」

「違うんだ……こいつは故郷に帰りたがってる……こいつに、懐かしくて、新しい、世界、見せ……ってくれ……遠の、側に、いさせて……ってくれ……」

「分かった……分かったからシナト、諦めるな!! シナト!!」

 だが、それがシナトの最後の言葉だった。彼は、引き止める間もなく、静かに息を引き取った。その亡骸をハターイーが抱きしめる。遠は、そっとシナトの瞼に手をやり、目を閉じさせた。

「ごめんね……連れていけなくて……ごめんね……自由な世界を見せたかった……シナトと、イーちゃんと、作りたかった……! ……なんで! なんで!!!」

 ハターイーが、シナトの首から橙色の石を、外す。受け取り、それを首にかける遠の手は、震えていた。そして遠の視線は、階段上に向かう。

「ああ、ユーちゃん……なんで……!!!!」

 遠は立ち上がり、ユドンの亡骸に駆け寄ろうとした。

 だがその時、ドアを封鎖していたバリケードを、轟音を立てながら破壊してくる者があった。一瞬のうちにその場に登場したのは、スピンドルに似た小型の乗り物のようなもので、そのドアから飛び降りて走ってきたのは、あまりにも見慣れ、そして見慣れない姿――シェムだった。

「遠!」

「シェム……!」

 遠の時間が、一瞬止まった。走ってくる、浅黒い肌の少年――青年。金色の髪が、獅子のように。

「ハターイーも、来い! まだ間に合う! ……その狼もだ!」

「でも……シナちゃんと、それに、ユーちゃんが、ユーちゃんが……! 置いて行けない! ビーちゃんも! ユーちゃんもわたしを守ってくれたのに!! 嫌だ!!」

「馬鹿! お前が来なければ全ての意味がなくなるんだ! 来い! ハターイーあんたもだ、乗れ!」

 背後で、ウルバン様の治療を速く、という声が聞こえる。彼だけ、生き残ったのだ。――ユドンは、死んだのに。愛する人を守って。

 いつの間にか、泣いていた。

 シェムの言う通り、だと思った。たぶんその通りなのだろう、と。

(……また、選ばないといけない……)

 大切なものに、順位をつけて決めていかなければいけない。線を引いて、救えるものと、救えないものとを分けなければいけない。一人一人を、大事にしたいのに、時にはそれができない。その、覚悟。

(それがわたしの道……)

 苦しいな、と思った。硝子のうえを歩くように。

(でも……でも、一人じゃない。みんながいる。流した涙を、血を、受け止めてくれるって信じられる人ができたから。……ミーちゃん、しーちゃん、ベリちゃん、……インファ)

 遠は、微笑んだ。無意識に。手の甲で涙を拭く。

(帰ろう。皆のところに)

(大事なひとを、どんどん亡くしていく。でも、……だからこそこれからは亡くさないように。戦うことを諦めるわけにはいかん……!)

「分かった、シェム。帰る」

 だが、納得していない人間が一人いた。

「……僕は、残るよ。……さようなら、遠……」

「ハーちゃん何言ってるん! 駄目、一緒に来て!」

「……僕は……僕が、僕がもっとちゃんと、ちゃんとしていたら、鉱球が全滅するような事態にはならなかった。遠がひどい目にあうこともなかった。シナトも……こんな風に死ななくてすんだ。僕の未熟さが全て招いたことだ。……僕は残って、ウルバンとの決着をつけるよ。せめてもの罪滅ぼしだ」

「馬鹿!!」

 遠は、ハターイーの体にしがみついた。

「なんで分かってくれんの? ……わたしだって、みんなに会わせる顔なんてない。みんなの大切な人を殺したんじゃ、八つ裂きにされたって仕方がない。でもわたしは……わたしは生きる、みんなと前に進むために。前に進みながら、後ろから石を投げつけられても、刺されても、痛くても、わたしは前に歩く。いつか、誰かを幸せにすることができるようになるために。まずはわたしの大切な人達から。ハーちゃん、あなただってわたしの大切な人なんじゃ!! あなたがいないと歩けない!!」

「……遠……!!」

 ハターイーは、遠の体をそっと抱き返した。天を仰ぐ。――この子には、決して敵わない。決して。

「遠。……分かった。誓うよ。ずっと君のそばにいると。ずっと君と一緒に歩くと――」

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