17 インファの橙
尭球に来てから一年と少し。朝晩の気温は低くなり、冬の訪れを感じ始めたある日の昼。
インファがベッドから起き上がって、簡単なストレッチをしていた時だった。
突然、目の前が一瞬だけ真っ暗になり、殴られでもしたかのように体の力がガクンと抜けた。
(!? 何?)
腰でも痛めたかと思ったが、痛みがあるわけではない。ただ――ただ、もうストレッチを続ける力はなく、インファはばたりとベッドに倒れ込んだ。起き上がろうとしたが、全く、本当にまるで、どこにも力が入らない。まるで自分が人形になったかのように。
混乱したままひとしきりもがいた後、ふと、頭をよぎったものがあった。
(……あ。……え)
衝撃は、ゆるやかに彼女の心を押しつぶす。
(まさか。機械だから? あたし、壊れたの?)
(やだ……あたしまだ、何も、何もしてない! ダカンで必死に生きてきて、……遠が、ダカンを助けるって言って、でもダカンは滅びて、アッサニー様もきっと死んで、でもきっと遠なら、遠ならこの状況をどうにかしてくれるって思ってた、遠と一緒にダカンを作るんだって思ってた)
(あたしもその時にはきっとまた戦える体になってるって思ってた)
(シナトと……一緒にここを出て、あのくそったれみたいな奴らをぶっ殺してやれる日がくるって思ってた、そしたら、その後はもしかしたら、……家族、を作れたりするのかな、って、ちょっとだけ思ってた、でも、もしかして)
――もう、あたしは終わり?
インファは必死にその考えを追い払おうとした。だが不安は募るばかりで、情けないと思いながらも、弱々しい声でシナトの名を呼んだ。
「シナト……」
シナトは、どこに行っているのだろう。
「シナトー……」
その時、表でがたがたと音がして、どうやらシナトが帰ってきたことが分かった。
「インファ! おい! 大丈夫か!? ……っう」
自分を案ずる声の中に、一瞬痛みをこらえるような息が混じったのを、インファは聞き逃さなかった。
「シナト! ど……した!?」
大声を出して体をベッドから跳ね上げた、つもりだったが、体はほんの少し震えただけで、まるで起き上がる気配はなかった。
「インファ!」
部屋に入ってきたシナトは、焦燥感を浮かべた表情で、ひどく汗を掻いていた。
「シナト、あんたはどうした……? あたしは、何か、体に全然力が入らない……」
「俺も同じようなもんだ、外でも似たような奴らがいる。なんだ、これ……」
「空気が……ひどくなったのか?」
「違うだろうな、元気そうな奴らもいっぱいいるし……あとなんか、どっかでスイッチが入ったみたいな衝撃が……」
「あたしも、あった……。なんだろう、……」
怖い、という言葉をインファは飲み込んだ。口に出してしまうと、一層恐怖は加速しそうだった。死にたく、ない。死ぬなんて、考えたくなかった。
シナトがベッドの脇に座り込み、ひと呼吸置いて、インファの左手を握った。
(……!)
ここで暮らし始めてから、シナトの肌に触れるのは、初めてだった。インファの皮膚から、シナトの温かさが少しずつ滲みて、心の震えを沈めていく。
だが、シナトの横顔は険しかった。
「……たぶん……いやー……」
「な、に?」
「……まさか、とは思うけど。『罪人タグ』がつけられてる、人間に対して、何かしやがったのかな……」
「……ざいにんたぐ?」
「あっちの星を出る時、なんか、首の後ろか背中のあたりに、……うまく言えねぇけど、なんか青いシール? 光? みたいなものを当てられたんだよ。たぶんお前も。覚えてねぇ?」
そういえば、そんなこともあったような気もする。
「ピッ、て音……? ……あと、何か、言ってた……」
「それそれ。『仮の罪人タグ』って言ってた。……罪人タグは、俺の祖先、初代シナトの代にもあったんだよ。でも、裁判とか、正式な手続きを経て初めて『犯罪者』と確定した人間に貼られるものだった、はず。『仮の』って……ことは、俺らは、仮の犯罪者、として圏界連合のシステムに登録されているんだ、きっと」
「……うん……」
「でも、何をしたのかは分かんねぇから、な……」
「うん……」
「お、おいインファ! 大丈夫か、しっかりしろ!」
「ん……」
「おい、おい、インファ!」
シナトの声は随分遠くから聞こえてくるように思えた。遠く、遠く。ダカンの熱い砂土を、熱い風が吹いていく、その風の向こうから。
――インファ。
熱い土。生い茂った木々の合間から僅かに見える青い空。
「……風が、」
「なんだ、インファ! インファ!」
「……風が、欲しい」
「……! 風……!」
シナトはインファの体を抱き上げた。
「待ってろ、今すぐに風を……!」
インファは自分の体が外に運ばれたことにすら、もう気付かなかった。目が開かない。だが、頬に僅かな風を感じた。僅かな風と、シナトの、荒い息遣い。
「風……ありがと……シナ、ト……」
「インファ、しっかりしろ! しっかりしろよ! ダカンに、帰るんだろ!」
「……うん。ダカンに、帰る……あんた、や、遠達と、一緒……に」
「そうだ、だから!」
「あ、あたし……もっと、生きたかっ……」
「おお、そうだ! もっと生きよう!」
「でも……楽しかった、最後……シナト」
シナトの手を、握る。肌の、感触がある。
「いつ……人生……終わっても、いいと思ってた……でも、」
――いつ、途切れても、いいと思っていた、この道を。終わらせたく、ない。絶対に。
「インファ! インファ――!」
「あんたに、つなげる……」
薄汚れた、街で。濁み、澱んだ空気が漂う、街で。
シナトは、必死に走った。必死に走ることで風を作って、なんとかインファを、この世につなぎ止めたかった。
だが、無駄だった。インファの体を抱いて、スラムのど真ん中でシナトは泣いた。人目もはばからず声を上げ、叫び、嗚咽した。徐々にぬくもりを失っていくインファの唇に、初めてキスをした。もっと早く、すればよかったのかもしれないと後悔した。
――それから、数日後。
シナトの首には、燃えるような橙色をした、小さな石の首飾りがあった。
今では、シナトは、知っている。
『罪人タグ(本)』と『罪人タグ(仮)』をつけられた人間に対して、尭球圏界連合が「生命活動の制限」をしたことを。人口を減らすために、タグのついている人間に『母艦』を使って干渉したようだった。あまりにも――あまりにも、非人道的な、所業だった。
(殺る)
そう、固く決意した。
(ウルバンを、必ず)
遠を助けようと、尭球圏界連合を滅ぼそうと、機をうかがっていた。
だが、自分の体も弱り、それはままなりそうもない。
(圏連全ては無理でも、ウルバン一人だけなら。殺れる)
自分の命と、引き換えにでも。シナトは、炎色の石を握りしめ、そう誓った。
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