15  遠の小さな旅

 再び、遠の時計の針は時を刻み始めた。

 遠は目覚めた次の日から、さっそくユドンとビエナを教師として、尭球のことを学び始めた。今は四圏となった圏のこと、その特徴。環境汚染や極端な貧富の差による社会不安など、ここ最近の尭球の状況。都市が空に浮かんでいることも、映像で見てただただ驚嘆し、その仕組みについても分かる範囲で聞いた。

 ユドンやビエナが不在のときも、机についている緑色のボタンを押せば、『母艦の葉マザー・リーフ』と呼ばれる画面を登場させることができる。そしてその画面に向かって、知りたいことについて話しかければ、様々な資料が写し出されるようになっていた。

 聞きたいことは後から後から、尽きることのない泉のように湧き出てくる。自分が鉱球の皆のためにどう動くにしろ、ウルバンの要求にどう答えるにしろ、毎日どれだけ学んでも、知識は圧倒的に不足していた。

 ウルバンは昼間も時折やってきたが、ひどい言葉を投げかけはしたものの、あの夜のように暴力を奮うことはなかった。

(言葉の暴力には慣れてるし、わたし鈍感なんか、あまり悲しくなったりしない……)

 ただ、直接的な言葉よりも、その言葉によって鉱球の最後のこと……死んでいく人々のこと……が思い起こされ、呼吸が乱れたり、吐いてしまったり、無性に涙が出ることは頻繁にあった。

(大丈夫、大丈夫。深呼吸するんじゃ……)

 遠は日が経つにつれて少しずつ、ウルバンに他愛もないことで話しかけるようにした。憎むべき相手であることは分かっていたし、実際、この男を殺すことで皆が幸せになるのであれば、躊躇いなく手を下せるような気もした。だが、ウルバンという人間についてまるで知らないのにひたすら憎む、ということは遠にはどうしてもできなかったのだ。

「ウルバンさん、寝癖ついてますよ」

「……」

「ウルバンさんはどこの圏で生まれたんですか」

「静かにしてもらいたいな」

「わたしは月糸じゃった。……こっちの月糸も見てみたいなぁ、空に浮かぶ月糸、どんな圏じゃろ」

「……」

「ウルバンさんは食べ物は何が……」

「静かにしていろと言いましたよね? ……口を噤めないのならば、開けないようにしてあげましょうか?」

 ウルバンは遠の質問に答えてくれはしなかったが、遠はめげなかった。

「遠は、勇気があるなぁ」

 ある時、ビエナがぽつりと呟いた。

「勇気?」

「勇気じゃないのかな、それは。無邪気なのか……拒絶されると分かっていて、どうして懐に飛び込もうとできるの?」

 ビエナは、部屋の壁についている蛇口からコップにオレンジジュースを注ぎながら、遠に話しかけた。ビエナは、ユドンと同じように芥子色のスーツを着ており、やや灰色がかった短い麦色の髪型はどことなく「今風」な感じがした。遠の見た限りいたって真面目、かつ優しい常識人で、ユドンもビエナも何故、狂人と言っても差し支えないようなウルバンのもとで働いているのか不思議になるほどだった。

「うーん……」

「傷つくの、怖くない?」

「そりゃぁ、怖いよ。悲しいし。うーん、分かんないや、自分でも。なんでじゃろうね、でも多少傷ついても、欲しいものがあるからじゃないかな」

「……そっか、なるほどね」

 ビエナは遠くを見るような目をして、窓の外に目をやった。開かれたカーテンの向こうには小さな庭が広がり、細く、小さな木々が外界からこの部屋を遮断するように立ち並んでいた。

 遠は思い切って、ビエナに質問をしてみた。

「ビーちゃんはなんで、ここで働いているの? 頭がいいから?」

「なんでだろうね、確かに学校の成績は良かったよ。基礎学校でも普通学校でも、研究院でもね。研究院で良い成績を収めていると、大抵どこかの団体からスカウトされるんだ。それで圏連で働くことになって、最初は情報戦略部というところにいたんだけど、突然ウルバン様に抜擢されて、書記官になった」

「そっか。……ここで何か、うーんと。やりたいことが、あるの?」

 ビエナはうーん、と言ってしばらく動かなかった。顔に窓から射し込む橙色の光があたり、逆に濃い影を作っていた。

「ない。というか、あまり考えたことなかったんだ、自分が何をしたいとか、何になりたいとか……。……今は、それを少し恥ずかしい、と思ってる……」

 遠はあはは、と笑った。

「ビーちゃん、わたしと同じじゃ」

「同じ……?」

「わたしも、やりたいこととか、考えたこともなかったんよ。手に職つけて生きていければいい、くらいじゃった。でもいつの間にか……」

「いつの間にか?」

「……最初は、みんな……女神養成所でできた4人の友達のうちの誰かが女神になるんじゃったら、それを支えたい、て思った。でも、わたしが女神になることになって、それなら友達が幸せでいられるような世界を作ろう、て思った。でもその世界はわたしが滅ぼしてしまって……」

 遠はビエナの顔に、哀れみとも後ろめたさともつかぬ感情が浮かび上がるのを見た。

「……なんでもない、ごめん。ビーちゃんの話を聞いてたんにね。……ビーちゃんは、じゃぁこれから、やりたいこととか、ほしいものとか、見つけるんじゃね」

「……ほしいもの、なら……」

 ビエナはだがそこで曖昧な笑みを浮かべ、話を誤摩化してしまった。そしてその時、ふと遠は気付いてしまったのだ。頭が良く、地位も手に入れた、ビエナのほしいもの。

(ユーちゃん?)

 ユドンの涙に、ビエナが差し出されたハンカチ。ユドンに向ける視線には憧れともつかぬものが混じっていなかったか。

(でもユーちゃんは、……もしかして)

 遠はぶるぶると首を振った。自分は色恋沙汰にとんと縁がないのだし、勝手な想像で物事を決めつけてはいけない。

 ビエナが出て行った部屋はがらんとして、淋しかった。風が無いのが、遠の息を詰まらせる。猛烈に風が恋しかった。空も土も恋しかったが、常に触覚で感じ続けていた風がなくなるのは非常に堪え、いかに自分が風の中で生きていたかがよく分かった。

 我ながらどうかと思ったが、カーテンを手で揺らして、僅かな空気の揺れを作り出す。ほんの少しの風が生み出されたが、それは余計に本物の風を恋しくしただけだった。

 遠は机を立ち、ベッドの上に無造作に身を横たえた。さっきビエナと交わした会話を、頭の中で反芻する。ビエナには言ってはいけない、と思って飲み込んだ言葉のことも。

(でもその世界はわたしが滅ぼしてしまって……)

 遠は目を閉じ、歯を食いしばった。シーツを握りしめる。泣くな。泣いてはいけない。

 そしてかすれて震える声を絞り出した。

「だから、また作り直したいと思ってる……」



 数日後から、体力が回復したと判断されたのか、遠は初めて部屋を出してもらえた。とは言っても自由を得た訳ではなく、ただ別の部屋へと移動させられただけだった。その上、腕には細い黄金のリングを巻かれた。それはどうやら、常に遠の居場所が分かる何かしらのサインを発信し続ける道具のようだった。もちろん、自分では外せない。

 移動先の部屋にはウルバンと、十数人の人々がいて、一見しただけでは何か分からない機械のようなものがごちゃごちゃと置いてあった。正面には大きな真っ青な布がかけられている。

 遠はウルバンに何をしようとしているのか尋ねたが、返事は「黙って座ってていてもらえませんか?」だった。仕方なく黙って座っていると、次々に女性達が近づいてきて、遠の顔に何かを描こうとする。最初は抵抗しようとしたものの、女性達が小さな声で「痛くありませんから、お美しくして差し上げるだけですから」と言うので、遠はははぁこれは化粧か、と合点した。

 しばらく顔をいじられるくすぐったい感触に耐えたあとは、衝立に囲まれたスペースに連れ込まれ、着ていた簡素な白いワンピースを脱がされた。え、ちょっと待って、と言う暇もなく下着まで脱がせられ、替わりにまず着せられたのは、やたらめったら体を締め付けるブラジャーにひらひらとしたレースのついたパンツだった。女性達は、胸とその周辺の肉をブラジャーにかき込むように全力で押し込み、遠が「鎧みたいじゃ……」と呻くのにはただ「お綺麗ですよ」の言葉とともに笑顔が返されるだけだった。

 次に着せられたのは白いロングドレスで、胸元は大きく開いており、このために胸の肉を寄せていたのかと遠は納得した。下を見下ろせばまるで乳を放り出したかのような光景が目に入り、遠の不安は膨らむ一方だった。ドレスは胸の下あたりの位置でちょうど締まっており、そこには美しい青い小石の連なった鎖、青い花を模した飾り、金色の細い鎖などが巻き付けられ足元まで垂れていた。さらには髪の毛をさんざん梳かされ、頭の上に重い豪奢な金色と青い石の冠のようなものを乗せらる。その頃には遠は意識が遠くならんとするほど退屈していた。

 言われるがままに女性達に手を引かれて衝立の外に出ると、待機していたらしい人々が一斉に歓声ともため息ともつかぬを上げた。

「う、美しい!」

「これはこれは……」

 だが遠にはこの服は歩きづらいだけだったし、養成所の「美術」の授業を思い起こさせてミゼア達を恋しく思うだけだった。

(ミーちゃんの方が似合うだろうに……)

「ほう、機械でも着飾ればはるかに人間らしく見えますね。これも我々の技術の素晴らしさと言うべきでしょうね」

 ウルバンの声だった。人々の歓声はさざめくように引いていく。

「さぁ、その青布の前に立ちなさい。今からあなたの撮影をするのです。神が我々の元にいることを広く圏民に知らせなければならないですからね」

「なるほど……」

 遠は小さく呟いた。自分は圏界連合のプロパガンダのための道具なのだ。圏界連合の下す判断が常に正しい、ということを裏付けるためのイコン。――こうなることは、なんら不思議なことではなかったから、今更抵抗しても仕方がない。だが、その瞬間、はっきりと遠は「嫌だ」と思った。憎しみに似た拒絶の感情が、心の奥底の真っ暗な空間で、大きな炎となって音もなく燃え上がった。

 遠は大人しく布の前に立ち、言われるがままに大人しく写真を撮られた。一切笑顔は見せなかったが、写真を撮る技術士は「憂いを帯びていて神らしく、素晴らしい」と賛美の声を遠に浴びせた。その技術士の向こう、部屋の壁際にユドンが立っていることに遠は気付いた。ユドンは一瞬戸惑ったような表情を見せ、そして数秒のためらいのあと、深々とゆっくり、頭を下げた。

 

 その日の夜。遠は自分の頬に当たった温かい感触で目を覚ました。

「……ハーちゃん!」

「しーっ。……ごめんね、全然来れなくて……。体は大丈夫? 酷いこと、されてないかい?」

「……うん、大丈夫じゃ、ありがとう」

「食べ物は? 食べてる?」

「……あれ……何か食べたような気がする、けど、覚えてないや……」

 遠はもぞもぞと体を起こし、ハターイーはそっとベッドの上に腰を下ろした。

「はぁ、ハーちゃんが来ると夜なのに部屋の中が明るいような気すらするねぇ」

 それは実際半分くらいは本当で、僅かな星の光がハターイーの髪の毛に当たって煌めくように輝いているのだった。

 ハターイーは微笑み、遠の頭を撫でた。

「ね、わたし……ハーちゃんにいっぱい聞きたいことがあるんじゃ。みんなはどうしてるん? 元気?」

 ハターイーは知る限り全ての情報を遠に話した。ミゼアが鉱人の代表として頑張っていること。ミゼアは髪を短く切ったこと。マイベリは相当体が弱っているが、彼女の歌が鉱人達を癒していること。椎椎はしばらく前から姿が見えなくなってしまったこと。インファとシナトは全く行方が知れないこと。鉱人達は今、キーヨウという企業と協力して、鉱球に帰るフネを準備していること。特にシェムがその最前線に立っていること。キーヨウの調べで、鉱球にはまだ開拓できそうな土地や、「海」もあること。そして皆、遠を助け出したいと強く思っていること。

 遠はまるで数日間水を飲んでいなかった人間が水を飲むような勢いで、それらの話を聞いた。始終目に涙を浮かべ、時々その涙が目尻から頬へと流れ落ち、膝にぽたぽたと落ちるのも全く気にしていなかった。

「心配もあるけれど……でもミーちゃん達が生きているなら本当に良かった……!」

 ハターイーの話が一区切りしたところで、そう遠は吐き出した。

「でもこんな悠長に話してられないんね、聞きたいことを早く聞かないと。えーと、えーと……そうだ。ハーちゃん、ハーちゃんのことが聞きたいの」

 ハターイーはゆっくりと遠の目を覗き込み、そしてその長い睫毛を伏せるようにして小さな声で呟いた。

「僕のこと?」

「うん」

 ハターイーが美しい顔を曇らせ、怖れのような表情を浮かべるのを、遠は見た。まるで、母に怒られるのを怖がる、子供のような顔だった。

「……ハーちゃん、何か責めようと思ってるんじゃないよ。ハーちゃんは、誰で、どうして力があるのか、何がほしいのか、教えてほしいんじゃ」

「……そうだね。遠には、話さないといけないね。でも、これはとても長い物語になるんだ。だから、今日は大事なところだけ。それでいいかな?」

 遠はこくりと頷いた。

 ハターイーは覚悟を決めたように、息を一つ吐いて、話し出した。

「一番簡単な言い方をすると、僕はアーリアの子孫だ。天才……いや、人類とはレベルの違う知能を持っていたアーリアは、だが『女神』が造られた目的のために政治利用され、ある要人の子供を身ごもった。バイオロイドとして、妊娠能力は持っていなかったのに、だが確かに子供はできたんだ。……その子供はアーリアの手から奪われ、育ち、尭球圏界連合のエリートになった。彼の名はハターイーだ。だが初代ハターイーは政治的思惑から鉱球に左遷される。アーリアも、その存在を怖れられて鉱球に流された。鉱球で再会した二人、だがアーリアはすぐに体を病んで死んだ。……『女神』が死に、火葬されるとどうなるか知っているね?」

「少しだけ天力を持った石になる。あ……」

「そうだよ。僕の力の源は、代々受け継がれてきたアーリアの遺石だ。他の女神の石とは桁違いの、莫大な力を持つ」

 ハターイーは、胸元から大きな桃色の鉱石を取り出した。遠がそっと顔を寄せる。

 歪な形をしているそれはたくさんの面を持ち、面と面が作り出す山、谷が光の陰影を織りなして美しいことこのうえなかった。

「わぁ……綺麗……」

 そして遠は突然にこりと笑顔になった。

「これ、ハーちゃんにぴったりじゃね。すっごく似合う。ハーちゃんの手元に来るのをずっと待っていたみたい」

 ハターイーは、絶句した。遠の笑顔と言葉が、胸に鋭く突き刺さった。だがその痛みのようなものがなんと言う名前の感情なのか、今自分が何を思っているのか、全く言葉にはできなかったのだ。

「ハーちゃん?」

 大丈夫? と遠に顔を覗き込まれ、ハターイーは無理矢理に笑顔を作った。大丈夫だよ、と答える。だがこの体の奥から込み上げてくるような衝動はいったい何だろうか。

「……これ以外にも、僕たち……アーリアの直径の子孫達を『尭巾』と言うんだけれど……が語り継いできたアーリアの物語はたくさんあるのさ。……少しずつ話すよ」

「うん、ありがとう。楽しみじゃ。あとね、最後の質問にも答えてほしいな」

「……ええと?」

「ハーちゃんは、何がほしいの?」

「……」

 遠は、ハターイーが話し出すまで辛抱強く待った。ハターイーが時間と共に項垂れていくので、遠はハターイーの膝にそっと手を置いた。ハターイーは、うまく話せないけれど、と前置きをしてから、囁くような声で話し始めた。

「……最初は……僕は尭巾だから……高度な文明を持つ輝かしい尭球にいつか還りたいって思ってた……でも尭球に帰る時が来るということは、果神が誕生して『女神の庭計画』が終了し、世界が滅びることを意味すると分かってた。……鉱球の小さな世界を滅ぼしてしまうのは可哀想だと思ったんだ……。人の手で造られた『女神』は倫理的に誤った、おぞましい存在で……だけどけなげで美しいから、見守ってやろうって、思い上がった考えを持っていた……」

 そこまで話してハターイーは、膝の上にあった遠の手を握りしめた。

「とりあえず……尭球に還れなくてもいいから、果神の誕生だけは阻止しようって、思ってた、気がするけれど、今振り返ると、全然本気じゃなかった。本気じゃなかったんだよ。ヒーローぶっている自分に酔っていただけだし、心のどこかでやっぱり尭球に還りたいって思ってた。まさか本当にあんな惨事を尭球が起こすなんて、現実のものとして考えられていなかった。……最低なんだ、僕は……。こんなことを今、君に話しているのも堪え難く恥ずかしい。でも……でも……今は、今はただ、僕は……」

 ハターイーの声はどんどんか細くなっていったが、彼は自分を鼓舞するように長い前髪をかきあげた。

「僕は、まず君を守りたい。君をここから救い出して、幸せにしたい」

 遠は一瞬きょとんとして、そしてぎゅっとハターイーの手を握り返した。

「……うん、わたしも、そう思ってたんじゃ」

「……え!?」

「わたしも、まず自分の大切な人のことを幸せにしたいんじゃ。……本当は全員幸せにしたいけど、いきなりそんなことはできんて分かってる。だって生きていくにはたくさんの喜びと、たくさんの種類の悲しみと辛さとがあって、しかもそこに費やせる力は無限ではないから。だからまず、一人ずつ。……そう思ってるんじゃ」

 遠は立ち上がって、窓際に近寄った。

「だから、ハーちゃんのことも、幸せにする。約束なんて簡単にするものじゃないけど……これは、約束じゃ」

 その遠の表情を、ハターイーは再び言葉を失いながら、見た。無邪気な少女のようかと思いきや、何もかも悟りきった老女のような。いや、そんな言葉では括れない。脳裏に浮かんだのは、鉱球の何もない地表とそれを覆う真っ青な空のような、広くて、大きい――。

 ――ハターイーは、話し疲れたのか、また来るね、と言い残して去った。来訪者が去ったあとの空間は、がらんとして淋しい。だが遠は、ハターイーに少し元気を貰ったような気がして、久しぶりに心穏やかに眠りについた。



 数週間後、遠に初めて建物外への外出許可が出た。これは意識が回復してから遠がずっと要望していたことで、主旨は、世界を救えと言われても、机上の情報だけではどうにも判断ができない、外を見せてほしいというものだった。最初は絶対に許可しないと言っていたウルバンだったが、ユドンやビエナの口添えのおかげ、またユドンが「遠様を逃がすような不手際が起きた場合は自分が責任を取る」と言ってくれたおかげで、渋々3日間の遠の外出を認めたのだった。

 久しぶりの外の空気と風は素晴らしく爽快で、少し吸い込んだだけで遠の体の中に澱み、溜まった何かをさぁっと洗い流していってくれるような気すらした。

(……夏の終わりの風……月糸の夏……懐かしいな。毎年初夏に訪れる飛桜海老や飛緑鮫は……人間の世界がなくなってしまった後も飛んできたんじゃろうか……真夏に毛の色が黄金に生え変わる七頭鳥は、今年の夏もちゃんと黄金色になったんじゃろか……)

 澱んだ何かが流された後には、郷愁が訪れる。

 それを言葉に出すことなく噛み締め、誘われるままに、『スピンドル』と呼ばれる紡錘形の小型の乗り物に乗り込んで、しばし出発を待つ。

「――絶対だ。鉱人地区には近づけるな」

 ふと、ウルバンの声がして遠は少しだけ開いていた窓の外に目をやった。ウルバンがユドンに何かを強く言っている。

(……そう言われると、行きたくなるんじゃなぁ……ミーちゃん……ベリちゃん……シェム……)

 懐かしい顔ぶれを脳裏に浮かべて、遠はため息をついた。

「あと、遠が戻ってきたらあれには任務をやる。人前に出ることになるのだから、体を傷つけたりすることのないように」

「ウルバン様、それは……もしかして。え、遠様には酷なのではないでしょうか。思いとどまってくださいませ……」

「お前はいつの間にか私に意見できるようになったんだ!」

 バチン、と乾いた音がした。ウルバンがユドンの顔を平手で打ったのだった。

「ユーちゃん!」

 遠は思わず座席から腰を浮かしたが、ベルトで固定されているのでほとんど動くことはできなかった。

 だが窓硝子の向こうのユドンは、ウルバンに向かって深々と礼をし、身をかがめてスピンドルに乗り込んできた。

「ユーちゃん……大丈夫?」

「やだ、見てたんですか? 大丈夫ですよ、これくらい」

「でも……なんか、わたしをかばってくれたっぽかったから……ごめんね……」

「謝らないでくださいったら」

 ユドンはにこりと微笑み、いくつかのスイッチらしきものがあるパネルを手早く操作した。スピンドルは小刻みに振動しはじめ、すぐにふんわりと浮かびあがった。

「私、実は遠様にご同行するの、楽しみにしてたんです。私はこの組織だと一番若くて下っ端ですけれど、遠様は私よりも年下でしょう。こう言っては失礼ですが、妹ができたような気持ちで」

「そんな……ありがとう」

「いいんです。楽しみましょう、私も圏連直轄都市から出るのは久しぶりです」

「ユーちゃんは、どこの生まれなの?」

「私はニューポート、……ウルバン様もそうです。ここから話すことは全て秘密にしてくださいね。私達は、実は従兄弟同士なんです」

「えっ!? そうなん!? びっくりした! 全然似てないんじゃもの!」

「ふふっ、だから誰も気付かなくて都合がいいんです。ええと、私の父は、ウルバン様とジヘル様のお父上の、末の弟にあたります」

「そうなんか、じゃぁ小さい頃から一緒に育ったんかな?」

「一緒にと言うほどではないですけれど、よくお互いの家を行き来はしていました。……でも、私が10歳くらいの頃、今から12年ほど前まででしょうか。ウルバン様とジヘル様のお父上はもう来るな、とおっしゃられて……ご高齢だからだったのでしょうか……」

「ご高齢……?」

「ああ、お父様は今は80歳に近いはずです。ジヘル様はたぶん、今45歳ほどで……ウルバン様は27歳、お父様が50歳の時、二人目の奥様が産んだお子様です。ただ二人目の奥様はすぐに行方不明になってしまいました。お父様は大変気落ちされて、ウルバン様にはずっと辛くあたっていらっしゃいました。そんなこともあって、ウルバン様はすごく淋しい幼少・少年時代を送られているんです。ジヘル様にはとてもかわいがられていましたが……」

「……そっか……」

 だから、と遠は思った。複雑な生い立ちだから、ウルバンの心は淋しさに蝕まれている。そんなウルバンを見てきたから……ユドンはウルバンを愛している。――もちろんそんなに簡単な因果関係ではないだろうけれども、原因が結果に影響を与えているのは間違いがなさそうだった。

「……たぶん遠様もお気づきだと思いますが……ウルバン様は……本当はものすごく情緒が不安定です。それを取り繕って執政していらっしゃいます。でも最近はその仮面が綻んできてしまいました。先ほどのように一目のあるところで私を手打ちにするなど、以前は、無かったんです……。このところは……やはりこの星の状況の悪化が大変心身に負担をかけていらっしゃるようです」

「……そう、そうなんね……」

 どことはなく、二人の間に沈黙が訪れた。遠はスピンドルの窓硝子から外をのぞく。

「うわあ……!」

 思わず声が漏れた。映像で見たままの、いや、それ以上の風景が目の前に広がっていた。

 青い空を背景に、白亜に輝く石造りの建物が、無数に浮かんでいた。大きな島から小さな島まで、無数の島々の上に建物が建っているようだ。白くて無機質なそれらの建造物はほんの少し、故郷・月糸の玉宮や、女神養成所のある第三層に立ち並んでいた圏立の建物達を思い起こさせた。

(あんなに白くなかったし、あんなに角張ってなかったけれど、どことなく似てる……きっと最初に鉱球に移り住んだ人々が……ハターイーの祖先のような尭球圏界連合の人達が、故郷を思って作ったんじゃ……)

 ふと、遠の頭に初めて鉱球に移り住んだ人々のことが過った。肉体労働要員として蔑まれ、母星から見捨てられた人々。左遷されたエリート達。厄介払いされた犯罪者達。そして、アーリアと5人のバイオロイド――女神達。彼らがどんな思いで、見知らぬ過酷な地を開拓したか……。

(でも彼らは必死に生きて、造って、産んで、それをその次の代の人々も繰り返して……そのおかげで300年後、あの世界と、わたし達があったんじゃ……でも今はもう……)

 遠は唇を咬み、小さく息を吐いた。

(だめ、今は見ることに集中せんと。ユーちゃんががんばって作ってくれた貴重な機会じゃ)

 建物と建物の間の空間には、なんだかよく分からない、色とりどりの小さな機械らしきものや、立体的なマークや文字のようなものが無数に浮かび、その間を時々翼の生えた獣達が人を乗せて横切っていく。あまりにも不思議な光景に、「あれはなんじゃろう」と考えるのが追いつかない程だ。

「遠様、次に向かうのが私の故郷、ニューポートです」

 だがユドンの声には、無理に明るく振る舞うような調子が潜んでいて、遠は小首をかしげた。

「ユーちゃん?」 

「……なんでもありません。さぁさ、ちゃんと外を見てください、遠様」

 真っ青に見えていた空は、次第に少しだけ曇ってきたように見えた。人を乗せている飛ぶ獣達の数も心なしか少なくなってきている。

 スピンドルは滑らかにニューポートの検問口に滑り込んだ。圏連専用機であることが自動的に判別されているためなのか、何のチェックも受けない。

 少しスピードを落としたスピンドルの窓からは、存分にニューポートの町並みをみることができた。最初に現れた建造物群は直轄都市と同じように白く巨大で、だが直轄都市の建物よりも丸みを帯び、質感もどことなくつるつるとして、磨き立ての玉のようだった。そもそも建物の形も奇妙なものばかりで、反っていたり、歪んでいたり、凹型であったり、球を重ねたようなものであったりと様々でまるで統一感がない。唯一共通していたのは建物の入り口や窓に飾られている大小のタペストリーで、どれも紫色の地に、白で*マークが縫い付けられていた。

(あれが、ニューポートの統治者『グノス』のマークか……)

 だが文字と映像で知った情報と、実際に目にするものから受ける印象はかなり違う。情報は無味乾燥なものだったが、目の当たりにしたグノスの統治はどことなく、背筋がぞわりとするものがあった。

(なんじゃろう……この違和感……)

 不思議に思った遠はユドンに、スピンドルを降りて歩けないかと聞いたがユドンは首を振って拒否をした。

「申し訳ございません。でも、ここはニューポートの首都、つまりグノスの直轄領です。グノスの力は非常に強く、街の様子は全て教団本部で監視されています。変装も無駄です。尭人の証である、左肩に埋め込まれているチップのシリアルナンバーを彼らは独自の技術で読み取ってしまうのです。そんなところに遠様を出すわけにはいきません」

 遠は大人しく引き下がった。ふと気付けば、町には人がほとんど歩いていない。ユドン曰く、首都ではほとんど人が外を出歩くことはないそうだ。買い物や散歩やご飯はどうするの、と聞いた遠に、ユドンは淋しそうに笑って、欲しいものは自動的に配送されてくること、建物と建物はほとんどが通路で繋がっていて行き来できること、建物内に擬似的な公園やスポーツ施設、レストランもあることを教えた。

「圏境の方に行きましょう。……もう少し、人の生活が見れますから」

「……ユーちゃんのおうちは?」

「首都の端の方にあります。……でも、いいんです。行きましょう」

「……あの、よかったら教えてほしいんじゃけど。グノスって、唯一神を信仰していてかつ、神の啓示を受けた賢人グノスのことを、神に応える最良の形として崇めている、て学んだけれど、どう、ユーちゃんも『信仰』してるの?」

「……ええと、そうですね。グノスでは、賢人グノスの教えに従って生活のすべてがあるんです。朝起きる時間、食べていいもの悪いもの、していいこと悪いこと、恋愛のあり方、そういったものまですべて。だから、私の生活も当然、グノスの掟の上にありました。朝夕の礼拝を欠かしたこともありません。でも……神とグノスを信じているか、と言われると、言葉に詰まります」

「そっか。なんとなく、分かった。……それはきっと、ウルバンも?」

「いいえ。彼は……彼はグノスを強く拒否しています。……グノスも、神の存在も」

「ウルバンらしいねぇ」

「ふふっ。そうですね」

 喋っているうちに、窓の外の風景は移り変わって、あれほどびっしりと立ち並んでいた建物はまばらになり、また島と島の間隔も広がってきた。

「もうこのあたりは、ニューポートの辺境です。ほら、見てください。あそこには公園が!」

 ユドンの指差した先には確かに小さな公園があり、小さな子供の姿も見える。だが、子供達は色とりどりのマスクをつけていた。

「珍しいですね、ニューポートではもうあまり子供が産まれてこないですから……あの子達はとても大切にされているでしょう」

「出生率が、とても低いんじゃよね……?」

「そうですね……もう、集団を維持できない数値と言われています」

「……そか……もう、マスク無しでは生活できないん?」

「そうですね。……空の上でこうなら、下はもっとひどい状況でしょう。既にご存知かと思いますが、この空気汚染の原因は2つあります。1つは、この星の内部から湧き出ている有害ガス。もう1つは、私達の経済活動の結果排出される汚染物質。1つ目についても、そもそも星内部から有害ガスが出てくるようになったのは、圏界連合の作った『源海エナジー・シー』が原因です」

「ええと……巨大な、発電所、じゃったね」

「そう、莫大な土地を掘って作り出した人工の海と波によってエネルギーを作り出しています」

「……わたし達、女神を開発する時にもきっと『源海』が使われたんじゃね?」

「そう、ですね……」

「ふむ。……空気の悪いところでマスク無しでいると、どうなるん?」

「すぐに死ぬことはありませんが、そのうち涸病こびょうという病にかかり、10年以内に死んでしまいます」

「そうか……。……えっ、あのさ、もしかしてわたしの仲間のいる場所は、」

 ユドンは顔をしかめ、俯いた。その表情が答えだった。

 遠は愕然として頭が真っ白になった。ハターイーは行方不明の人をのぞけば皆無事だと、苦しい生活だが頑張っているとだけ言っていたから、それ以上突っ込んで考えていなかった。星が汚染されつつあることも知っていたが、自分の仲間の置かれた状況と結びつけて考えられていなかった。

 しばらく押し黙って、自分のことを責めたり、これからのことを考えたりしていた遠だったが、ようやく一言、声を発することができた。

「……みんな、マスクしてくれてるといいけど……」

 ユドンは俯いた。

「ごめんなさい……本当に。本当に……」

「ユーちゃんは謝らないで……」

 その後、遠はしばらく黙って窓の外を眺めていた。リアルに想像してしまった「仲間の死」は、否応無しに、故郷の凄惨な最期の記憶を呼び起こし、遠の体を小刻みに震えさせた。ぎゅっと体に力を入れ、頭の中から必死にその映像を追い払おうと努めた。

 遠の震えがようやくおさまった頃、風景は既にニューポートののどかな辺境地帯を抜け、ヨグナガルドへと変わっていた。既に暮れはじめた薄紫色の空の中、煌々と白い光が無数に瞬き、それによって、金属質に輝く大量の高層建築物が照らし出されていた。行き交う人々は楽しそうで活気があったが、よく目を凝らせば口元は透明のマスクで覆われている。通りがかる地区によって、建物の種類や行き交う人々の雰囲気は異なり、あるところではきちっとした制服を着た人々ばかりが目につき、あるところでは作業服姿の男性ばかりが目立った。どの地区でも活気があるので、スピンドルの中でも街の喧噪が漏れ聞こえてきた。

 かなりの長い間、小山のように盛り上がった建物の間を縫うように飛んだあと、突然視界が開けた。目を凝らせばその中心に、一本の細い線路が伸びていくのが見えた。突然ごおっと風の音がして、ほぼ同時に、無数の窓明かりを煌めかせながら長い長い列車が走っていく。その先には、やはりたくさんの橙色の光に彩られた巨大な島があった。

「ヨグナガルドは、働くところと、住むところが完全に分かれているんです。行く手に見えるのは住居用の島嶼群です。しばらくこの島の間を飛びます」

 ヨグナガルドの住居はどうやらすべてが集合住宅のようだった。延々と続くタワー型の高層建築群を見ながら、遠はここに住む人々の姿を、暮らしを想像した。

「あれ、ユーちゃん……あの辺、何か燃えてるように……明るいような……」

「……ああ、ヨグナガルドの住民の一部が、反圏界連合の集まりでもしているんだと思います。それか、警備隊と小競り合いをしているのかもしれません」

「それ、よくあるん?」

「そうですね、よくありますね……。彼らも不満がたまっていて、限界なのです。……本当は、主に命じられて、こういう状況には出くわさないようなルートを組んでいたのですが……」

「……そっか……」

 ということは、こんなことは本当はもっと普通に目にするはずなのだ。避けていても出会うくらいに、頻発しているのだから。

 よく耳を澄ませば、男達の怒声のような、何かが弾けるような音が微かに聞こえてくる。

 あそこに生きたい、彼らの話を聞きたい、という気持ちを遠は飲み込んだ。ユドンに迷惑はかけられない。

「……遠様、もう少しするとダカンに入り、それから数時間、その上空を飛びます。ダカンは広大な土地でしたが、100年程前に滅び、今は荒れ地となっています。どうぞお眠りになってください。朝日が差す頃には、おそらく月糸の南のあたりに到達できるでしょう。きっと、少し海が見えると思いますよ」

「ま、待ってユーちゃん」

 遠は慌てて口を挟んだ。

「なぜダカンは荒れ地になってるんじゃ、誰かがその土地を利用したりはしてないん?」

「ダカンには空域部はなく、そして地上の土は非常に強く汚染されているか、あるいは何にも使用できないからです。……ダカンの遥か南に、『源海』があります。ダカンはその影響を強く受けてしまいました……」

「そうなの……ね、ねぇ、わたし、ダカンに降りたい」

 遠はついに気持ちを抑えられなくなった。

「えっ!? だ、駄目ですよ遠様。お体に触りますし」

「いい。いいから、わたしをダカンに降ろして。ほんの少しでいいから。ウルバンは、ダカンに降りたら駄目、って言わなかったじゃない」

「で、でも……」

「ユーちゃんは降りなくていいから」

「……遠様……」

 だが結局ユドンは、遠の瞳に宿る強い光に逆らえなかった。超高速でダカンの、スピンドルを降ろせそうな地点を目指す。

 遠は闇に目を凝らして地表を見ようとしたが、真っ暗でどう足掻いても何も見えなかった。完全な闇だ。一つの灯りもなく、一つの生命活動の気配もない。

「遠様、降ろします」

 スピンドルは一瞬ふわりと浮き、そして急降下した。必ずマスクをつけてください、とユドンから声がかかる。

 スピンドルがその風圧で巻き上げた、地表の砂埃の舞がおさまると、ユドンはスピンドルのドアを開けてくれた。

「ユーちゃんは残っていていいんじゃよ」

「私も行きます。ダカンに来たのは初めてです」

 ユドンは微笑み、その声に一切迷いはなかった。

「ユーちゃん……」

 遠はそっと足を地上に降ろした。足の裏に、久しぶりの、土の感触がした。固くなく、柔らかい。故郷の、月糸のように。

 数歩、歩く。スピンドルの中の小さなライトが点いているため、あたりを見回すことができた。何もない。ただだだっ広く広がった、土地がある。奥の方に目を凝らせば、長く横たわった、低い台形の丘の影がわずかに確認できる。腰を屈めて足元の土を少しひっかいて、拾い上げた。乾いた、紅い土だ。

(この土は作物を育てられない土じゃ……)

 指先にのせた土が、風に吹かれてさらさらと飛ばされていく。

(あ……風じゃ……風が、吹いてる……)

 久しぶりの風だった。強くはなかったが、僅かな風が遠の全身を撫で、通り過ぎていく。

(ああ、風じゃ! 皆どこへ行くの……!)

 遠はさらに歩いた。遠様どこへ、とユドンの声がしたが、遠は何かに呼ばれるかのように歩いた。その足取りは次第に速くなり、ついに遠は走り出していた。

 耳元で風が鳴る。体に強く、風がまとわりつく。

(……生きてる……わたし、生きてる……!)

 気持ちがよすぎて、懐かしすぎて、なぜだか吐きそうだった。風のない暮らしが、どれだけ自分の心身を抑圧していたか、今ありありと遠は悟った。

 走るうちにいつの間にか足元の土が柔らかくなり、足を取ることに気付いて、ようやく遠は足を止めた。

(ああ……)

 しゃがみ込んで土を拾う。赤茶けた、砂だった。闇の向こうに目を凝らせば、なだらかにふくらんだ稜線が見える。

「砂丘……?」

「よく、ご存知ですね」

 息を切らしながら追いついてきたユドンが言った。

「砂漠です。ダカンは、元々圏土に砂漠を含んでいましたが、砂漠化が激烈な勢いで進行し、全てを飲み込みました」 

「そうなんじゃ……」

 暗い夜の向こうに、茫漠たる砂の海を見て、遠はため息をついた。風はここに来ていたのだ。風と……昼間には太陽が支配する、砂の世界。その、圧倒的な強さ。

「ユーちゃん、あのね」

「はい」

「わたし、なんでダカンが見たかったんか自分でもよく分からなかったけど……たぶん、滅びた圏がどうなっているか、見たかったんじゃ……本当は今すぐにも鉱球に帰って鉱球を見たいけれど、うんと、その代わり、ていうわけじゃないけれど……」

「はい……」

「うまく言えない。なんだか自分の気持ちの整理が全然つかなくて、ごっちゃなん。わたしのせいで滅びた故郷、滅びたダカン、ダカンが滅ぶ原因に関わっているわたしの体、人間じゃないわたし、でも風を感じると生きてるって強く強く思う、全身から快感が立ちのぼってくるくらいに。それにこの砂漠、圧倒的に人間を、わたし達なんて全然必要としていない世界」

「はい……」

「ごめんね、こんな感じでもうごちゃごちゃ。……でも、この感覚が欲しかった。ユーちゃんが我侭聞いてくれた、おかげじゃよ」

「……ごちゃごちゃの、感覚が、欲しかったんですか?」

「うーん。わたし、すごく小さい時からね、……いつも『リーダーシップがある』とか『冷静』とか『正しい』とか、言われてたんじゃ。自分ではよく分からないけど、たぶんませてたというか、大人びてたというか……いつもね、わたしが言うことに最終的にみんなが納得するん。『遠が正しいね』ってなるんじゃ」

「……」

「わたしは大抵、あまり感情が大きく乱されたりしないんじゃ。自分なりに考えて、答を出しちゃう。自分がしたいようにして、それで、大抵『正しい』みたいなん。……だから、もっと自分の中に混乱が欲しい時がある。……やっぱり、うまく言えないや。あはは、ごめんね。ユーちゃん、ありがと。……帰ろうか」

「……はい」

 こうして二人はスピンドルに戻り、再び飛び立った。ユドンはスピンドルを完全に自動操縦モードにして道行きを任せ、二人とも、毛布にくるまって眠りについた。


 遠の目を覚まさせたのは、窓から射し込むぼんやりとした、だが強く、濃い朝日だった。目をこすって、すぐに窓に顔を寄せれば、眼下には再び目をごしごしと擦るような光景が広がっていた。青い、大地。どこまでも、どこまでも濃紺しか見えない。あまりの大きさを前に、距離感が掴めず、自分の居所を見失うほどだ。

「うわぇ……えええええええ?」

「あ、お目覚めですか。よく眠れましたか?」

 前席に座って計器をいじっていたユドンがほがらかに言ったが、遠は窓に寄せた頬はぴくりとも動かさぬまま、座席から手を伸ばしてユドンの肩をつかんだ。

「ユーちゃん……なにこれ!? なにこれ!?」

「うふふ、遠様ったら子供みたいですよ。これが尭海ぎょうかいです。特にこのあたりの海は月海げっかいと呼ばれています。月糸圏に接しているからですね」

「尭海……海……これが海……」

 遠の視界には、濃紺の、揺れる絨毯がどこまでも広がっていた。その、上空から見ても威圧されるほどの、大量の水の存在の、厚みと深み。濃紺との一言では表せぬ程の、青の強さと豊かさ。波間は朝の光を受けて、眩しく煌めいている。遠の背筋を下から上まで、何かがぞわぞわと行き来して、震えた。

「これが、海……」

 頭の中に、ハターイーの言っていた言葉が浮かんだ。

(鉱球にも海があることが分かったって言ってた……ああ、わたしが塔で見た夢の星……鉱球は赤と青の星じゃった、あの青は、もしかして、この海の青……!)

 胸の中に、込み上げる感情があった。

 作れる。新しい世界を、またゼロから、作れる。

(まだ海のこと、よく知らないけれど……きっと豊かな世界。海と、風と、土があれば……!)

「ユーちゃん、海には、降りれる? あの水面の下に行ける?」

「遠様、さすがに今回の予定には海へ降り立つことは入れておりません。特別な装置も入りますし……また、今度」

 遠は今度は大人しく頷いた。

「でも、遠様が喜んでくださって良かった。遠回りをした甲斐がありました」

「わざわざ遠回りしてくれたん?」

「ええ、見たらお喜びになるかな、と思って。さぁ、そろそろ月海を脱して月糸に向かいます」

「ありがとう……」

 遠はユドンに渡されたパンや果物も口に入れず、窓に張り付いたまま、ずっと海を眺めていた。時間が経つにつれて海は表情を刻々と変える。それは空も同じで、真っ青な水色を背景に大きな雲の旅団が優雅に旅をしているかと思えば、霧のような雲が立ちこめて海を覆い隠したりもした。

「ユーちゃん、海の色って色々あるんじゃね……! 鉱球の基礎学校で使った泥絵の具みたいな藍色じゃったのに、段々信じられないような色……あれは水色? ううん、翡翠じゃ、翠羊様の色……。」

「そういえば、遠様の額の鎖紋様は濃い青ですね。海の色でしょうか」

「これ、果神になったときに浮かんできた紋様じゃからよく分からんの。でも、わたし、天力を使う時も青じゃった。青い光が……」

 そこまで朗らかに話した遠だったが、突然目の前の海は消え、鉱球の最後――自分がめちゃくちゃに振り回した黒術の青い光が世界を覆っていた様子が閃光のように脳裏で瞬き、口元を押さえた。

「う……」

「え、遠様? どうしました?」

「きも、気持ち悪くて……で、でも大丈夫……」

「お顔が真っ青ですよ……! さぁ、座席に横になって休んでください。今、体が楽になる香を焚きますから……」

「う、ゆ、ユーちゃん、ごめんね……」

「謝らなくていいですから、さぁ。月糸に入ったら起こして差し上げますから」

 じきにユドンの言った通り、心地よい何か植物か果実のような香りがしてきて、遠は瞼を閉じた。

(海にもっと近寄りたい……風をもっと欲しい……土にもっと身を投げ出したい。でもそれより……もっと強くならんと……)

 

 遠様、とユドンが呼ぶ声で遠は目を覚ました。

「お具合はいかがですか? さきほど、月糸圏に入圏しましたよ」

「うん……大丈夫みたい。よいしょっと」

 遠は再び窓に顔を寄せた。

「わぁ……ユーちゃん、月糸はやっぱり少しだけ、少しだけ月糸に似てる!」

「そうなんですね、遠様の故郷に……」

 少なくとも今まで見た、直轄都市やニューポート、ヨグナガルドのどれよりも月糸は月糸らしかった。巨大な島の塊ではなく、小さな島が無数に飛び、それらに建つ建造物はどれも木や石でできていて、色とりどりだ。どの建物にも細工彫りやタイルが埋め込まれ、軒先には旗や提灯などが並び、建物がお洒落をしているような可愛らしさだ。

「月糸ほどごちゃごちゃはしていないけれども……あっちがひっくり返したおもちゃ箱なら、こっちはおもちゃで作ったかわいい街みたい!」

「気に入っていただけて良かったです。月糸は立憲君主制で、現在の王は海棠という女王、その女王が形式的に任命した――推薦したのは圏界連合ですが――総督が凱仙がいせんという男です。」

「うん、確かこの間勉強した。もう老齢の、でもすごくパワフルな方なんでしょう?」

「ええ、15歳で王になってもう在位50年ほどです。すごく人気があるんですよ。ただ……圏界連合とは……ウルバン様とは対立されて……あと海棠様の跡継ぎのお子様が、あまり能力が高くなく、圏民の支持も低いのです」

「ふぅん。どこの圏も、色々大変なんじゃね」

「そうですね……。ああ、あそこ、遠くに見える少し大きな建物が、歴代王家のご住居、月糸宮です」

「立派で綺麗な建物じゃねぇ……あ、でもユーちゃん、それよりもこの圏はたくさん人が歩いてるんね! マスクはしてるけど……でも今までで一番人がいる!」

「そうですね、商店も多いですよね」

「うん! あ、あの人袋から青ネギみたいんがはみ出してる、あ、あのお兄さんは何か食べながら歩いてる、いいな、おいし、そう……」

 その時遠ははたと気付いた。自分がこの星に来て以来、一度たりとも、食べ物のことを考えていなかったことを。何かを食べた記憶も、何かを食べようとした記憶も、全くない。

(前は……シェムには「お前は食いもんのことばかり」て言われて……ミーちゃんにも「遠は食べ物のことばかり」て言われて……)

(でもあのお兄さんが食べてるもんはおいしそうじゃ! そういえば今日も、何も食べてない……?)

(わたし、やっぱりおかしくなっとったんじゃろか……じゃろな……)

(でもこの旅でだいぶ戻ってきた。うん)

 ユーちゃんに、そしてウルバンにも感謝しないといけないのかもしれない、と思った時、自分の胴体からぐるるるる、という音がした。

「遠様ったら、ほら朝ご飯もろくに食べていらっしゃらないから……これ、食べてくださいな。……この星ではもうなかなか食べられない、天然小麦で作られたパンなんですよ」

 遠がさっき手をつけなかったパンを、ユドンは再び遠に手渡した。

「……ありがとう……」

 一口齧ると、懐かしい、香ばしい小麦の味が口の中で広がった。

「これ、これ月糸で食べてたパンの味にそっくりじゃよ……!」

「そうですか、じゃぁきっと鉱球で小麦を育てた人達がいるんですね……」

「そっか、そうじゃよね……」

(……また、故郷で小麦を育てられるじゃろか……また、子供達が走り回るのを見れるじゃろか……)

 少しスピードを上げます、というユドンの言葉と共にスピンドルは高度を上げ、月糸の小さな島々は眼下の光景となった。

「……月糸にも、地上に住んでいる人達がいるん?」

「月糸圏に戸籍を持つ人々は、皆空の島に住んでいると思います。月糸は福祉政策が手厚いですから。でもおかげで財政が逼迫しているようですね。それに、月糸の地上には、月糸民ではなくてダカン民が住んでいると思います」

「え……」

「ダカンから流出した人々です。彼らは流民となって、各圏に散らばりました。しかし、圏にはそもそも入れてもらえず、結果として、見捨てられつつありガードも緩い地上に細々と住んでいます……。月糸も含めて、地上の治安はよくありません。犯罪組織の温床にもなっています」

「そっか……」

そこに、みんなもいる。遠の体の奥が、きりきりと痛んだ。

「……だいぶ飛ばしてますけれど、お体、苦しくないですか?」

 大丈夫、と遠は答えた。確かに座席に押し付けられるような、重みのある見えない布団をかけられているような感覚はあったが、それよりも、体の芯からわき起こってくる焦燥感のようなものが強い。

「涼車に入ります。急激に北上したのでだいぶ冷えてきましたね……」

「……北は、寒いん?」

「そうですね、北は寒いです。涼車は他の圏と違って、実は空中機能はほとんどありません。いくつかは島がありますが……遊牧民族の特性で、地上をどうしても離れたくないようです」

「そっか、こっちの涼車も遊牧民の圏なんじゃね。故郷もそうじゃったよ。……しーちゃんが、本当は涼車の出身だったって最後に言ってた……」

 しーちゃんは今どうしているじゃろうか、と遠は思った。行方不明になったとハターイーは言っていたけれども、あの小さくて細く儚い体で、ちゃんと生きてくれているだろうか。

 窓に頬を寄せると、確かにかなり硝子が冷えている。いつの間にか眼下の光景は大きく変わり、寒々しく、どこかもの淋しい茫々たる大地が続いていた。

「短い夏の間は、草が青々として美しいそうです。でももうこちらは冬に片足を突っ込んでいますから」

 ユドンが説明してくれる。

 大地をじっと眺めれば、背の低い灌木がまばらに茂っている。地肌を覆う渋い緑はおそらく苔だ。それ以外は茶色、濃淡様々な茶色が延々と、なだらかに上下しながら地平線の向こうへと走っていく。

「遊牧民の人達、見えるかな」

「どうでしょう、もうだいぶ数が少なくなっていると聞きますから……」

「やや、そうなん?」

「……やはり地上で生きるには、涸病と戦わないといけませんから……」

「そっか……」 

「ただ、涼車には山があります。この星で一番高い、天嶺山脈が涼車を東西に横切っているのです。涼車の人々は有毒な大気を避けるために生活の場の高度を上げ、山の中に分け入っているようです。ちなみに、天嶺山脈以北も涼車の土地ですが、寒すぎて人はほとんど足を踏み入れないとか……」

「そっか、山……」

「その辺の島よりよほど高いんですよ。もう少しすれば……あ、ほら、もう見えています!」

「どれどれ。……どれ?」

「目の前ですよ! 空に影のように、そして上に白い雪を抱いた山頂部が……」

 先ほど初めて「海」を見たときも、遠は言葉を失ったが、今度もまた言葉も、呼吸さえも失われそうなほどの衝撃だった。

 空の半ばを一直線に横切る白く長大なものは、雲ではなかったのだ。その下に見える少しだけ色の違う空も、空ではなかった。

 それは天を突かんばかりの峰々の連なりであり、それを根底から支えるとてつもない大きさの山だった。

「……山?」

「山です」

「あんな……大きい。壁?」

「山です」

「山……」

 その時に自分の中に宿った感覚を、遠はうまく言葉にできなかった。畏怖の念。尊い存在への畏敬の念。――神の座を、目の当たりにしたような。 

「あんなん……わたしの知ってる山と違う……」

「そうですか。でも、あれ、私確か昔、鉱球にも巨大な山脈があると聞きました。ただ、尭球が掘り起こした鉱山地帯よりははるかに遠くだとか……」

「そうなん!? ……初めて知った……そっか……」

 故郷の星に、山もある。海もある。遠の知っていた懐かしい世界が、どんどんと裾野を広げて新しい輝きを増していく。

 それと同時に、遠の胸に去来したのは、この星――尭球も美しい、という思いだった。美しいのに、滅びに瀕している。いや、滅ぼうとしているのは人間だけで、美しい自然は残るのだろう。だが、淋しかった。もっと、大地に、海に、風に、細々とでも沿うてずっと暮らしを紡いでいけたらいいのに――遠でさえそう思うのだから、今までこの星で暮らしていた人々は尚更だろう。

(その希望がわたしに託されている……)

 到底実現可能な望みではなかった。でも、そうと分かりつつも、最後の望みとして自分が連れてこられたのかもしれないと思うと、「そんなことできるわけない」と切って捨てるのも心が痛んだ。

(わたしはどうしたらいいんじゃ……)

 珍しく遠が思い悩む間にも、スピンドルはぐんぐんと巨大な山嶺に近づき、その山肌の凹凸が克明に目視できる距離になった。人を決して寄せ付けぬ、荒く磨かれた刃物のような連峰に寄っていくのは、乗り物の中にいるにしても、ほとんど恐怖に近いような感覚を遠に起こさせた。

「ここを越えはしません。方向を転換し、直轄都市に戻ろうと思います」

 山脈を背にしても、今しがた見た光景はあまりにも濃く焼き付き、目の裏から残像が離れない。思考の混乱と共に長らく無口になっている遠に、ユドンが恐る恐る声をかけた。 

「……遠様」

「うん……ごめんユーちゃん、なんかぼーっとしちゃって。あー、でもこの2日間、すごく楽しかった……楽しいっていうか、もっと……もっと……すごい経験させてもらってありがとう」

「いいえ……こちらこそ。……あの。最後に、これから、私はスピンドルの計器をオフにします」

「え? どういうこと?」

「……計器の故障。そういうことにしてください。遠様も」

「う、うん?」

「……一瞬だけです。全速力を出すので、気をつけてください」

 そう言うと同時に、スピンドルはさらに加速した。今まで本当に乗り物に乗っているとは信じられぬほどに静かだった空間にも、エンジン音のような轟音が満ちる。その音の中で、ユドンの声は確かに言った。

「鉱人地区に行きます。止まりはしません、一瞬通りすぎるだけです!」

「……! でも!」

「大丈夫です、ばれません。防衛部には手を回してあります。……私が遠様のためにできることはこれくらいしかない……お許しください」

 遠は絶句していた。ユドンはウルバンに逆らったのだ。その行為の意味するところ、行き着くところを遠は十分に分かっていた。だが、遠はユドンに「そんなことしなくていい、帰ろう」とは言えなかった。魂はずっとミゼアやシェムに会いたいと叫び続けていたのだ。

(こうやって、大切なものを天秤にかけて、選択していく……)

 遠は拳を握りしめ、だが迷いのない表情で顔を上げた。

(ミーちゃん! ベリちゃん! シェム!)

 遠は窓にぴたりと顔を寄せた。外の風景は無数の色が流線型に流れていくだけで、何も見えない。

(……少しでも、姿が見えればいいんじゃけど……)

(お願いです女神様、って小さい頃唱えたっけ……今はもう、唱える相手は自分だなんて、人生って面白い……) 

 轟音の中で数十分の時間が流れた後、それまで空気を横に切り裂くように飛んでいたスピンドルが、それと分かるほど明らかに高度を下げていく。

「遠様、窓は開けられませんよ。あくまで、通りがかるだけです。……もうすぐです」

「は、速いんじゃね!」

「スピードを落としますから……でも少しだけです!」

「分かった!」

 遠の目に、色褪せた世界が映った。

(……?)

 色褪せたと思ったのは、どうやら街全体が土埃と、曇った大気に覆われているからのようだった。それに、建物のほとんどが古びて朽ちかけているように見える。

(こんなに!? こんなに違うん!?)

 遠の育った層は、お世辞にも上流階級ではなく、厳しい力仕事に従事する裕福でない人々が暮らす層だった。だがそれと比較にならぬほどこの地の街の荒れようは酷く、ほとんど廃墟と化しているように遠の目には映った。

「この区画なんですが……さすがにもう少し上の階で暮らしていらっしゃるとは思いますけれど……」

 スピンドルが再びゆっくりと高度を上げた、その時。

 遠の視界で、きらりと何かが輝いたように見えた。褪色した世界の中で、光を放ったものを遠は目で追って――見つけた。その瞬間。

「――シェム!」

 目の前の建物の斜め右奥にある建物、その高層に見える崩れかけたテラスにある、人影。懐かしい、金の髪。

「ユーちゃん、もう少し近づけない!? それかエンジン音を大きくするとか!」

「こ、これ以上は……あと少しだけなら……っ」

「シェム! シェム……!」

 遠は窓を叩き、スピンドルの内壁を容赦なく蹴った。気付いてほしかった。スピンドルがぐっと、建物ぎりぎりまで寄る。

(シェム……!)

 その時、それまで身じろぎもしていなかった人影がふと、空に顔を向け、不思議そうに立ち上がった。ゆっくりと、こちらを、振り向く。

 遠の目に、シェムが映った。そしておそらく、シェムの瞳にも、遠が。

 それは遠のよく知るシェムであり、全く知らないシェムでもあった。――1年間の間に、シェムは明らかに背が伸び、体格が変わっていた。少年らしさがぐっと減り、まるで、青年のように。

 衝撃で、呼吸すら忘れたまま、残酷に時間は過ぎた。遠は窓に強く両手を押し付けたまま、何も言葉が出てこなかった。シェムもまた、目を見開き、とんでもないものを見たような顔をして、こちらを見ていた。

「遠様ごめんなさい、離脱します……!」

 ぐんぐんと、スピンドルは高度を上げ、あっという間にシェムの姿は豆粒ほどになり、じきに何も見えなくなった。

 遠の手が、ぱたり、と窓から落ちた。

「遠様……?」

 遠は、無言のままもぞもぞと動いて、毛布の中に潜り込んだ。

(びっくりした……びっくりした……)

 思考が混乱し、うまく物が考えられない。

(シェム、弟みたいだったんに……大きくなって……違う人みたいに……でももちろんすっごくシェムで……)

(話したい! いつもみたいに、話して、一緒に)

(いつもみたい、じゃよね。……すごい、変わっちゃってたら、どうしよう?)

(……でも大きくなってるってことは、ちゃんと食べてるんじゃよね、あの悲しいくらいに廃れてしまっている街でも、ちゃんと生きてる、よかった……)

(……なんじゃろう、嬉しいんじゃか、淋しいんじゃか、変な気持ち……ぐるぐるして、苦しい……)

 皮膚を内側から押し上げるような感情の波にじっと耐える内に、いつしか遠は、意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る