14 遠の目覚め

 誰かに呼ばれた気がして、戻ってきた。

 それまではずっと、見知らぬ土地にいた。見知らぬ巨大な山々が目の前に連なっていて、遠はその前に横たわる、奈落へと繋がる崖の淵に座っていた。深淵を覗き込むと、そこには星があった。赤と青の二色が美しく輝く、星。

 抱きしめたい、と思った。あの星を抱きしめたい、あの星に還りたい。だが闇を見下ろせば、そこからは強い死臭がし、この世のものとは思えぬ呻き声と悲鳴が反響する。飛び込もうとすると、足がすくみ、体が動かない。

 命などもういらない、と思った。思ったはずなのに、怖い。

 だが星はただただ美しく、それだけを頼りに深淵を見つめた。ずっと、見つめていた。


 呼び戻してくれたのはハターイーだと、今では分かっている。きっと、自分は命を失う寸前だったのであろうことも。

(ハーちゃんが、助けてくれたんじゃ)

 意識が戻って数時間のうちに、遠はかなり真っ当に頭を巡らせることができるようになっていた。一度女性が入って来て、あたふたして一瞬で退出して以降、誰も来ないので十分に時間はあったのだ。

(体は……自分の体じゃないみたいに痩せちゃったね)

(ここはきっと、えーっと……尭球だっけ、尭球なんとか連合……あと男の人、なんとかバンっていう……、あの人達に捕らえられているんじゃろか)

(どれくらい時間がたったんじゃろう、分からないな……)

 ひとしきり瑣末なことを色々考えてから、考えまいとしていた命題に自ら思考回路を切り替えた。

(わたしは、生き延びた。生き延びてしまった。だから、もう、逃げない。逃げてはいけない)

 命などいらない、と思うことも許されない、と分かっていた。いったいどれだけの人が、理不尽に命を奪われたのだろうかと考えるだけで寒気と、吐き気がした。

(数じゃない。わたしが大切な人を一人ひとり、……シェム、ミゼア、マイベリ、って考えるみたいに、一人ひとりが亡くなったんだ……)

 こぼれ落ちそうになる涙、込み上げる吐き気をこらえながら遠は自分に言い聞かせた。

(……ちゃんと受け止めるんじゃ……悲劇のヒロインみたいにじゃなくて、ちゃんと)

(わたしは、理性と天力を暴走させ、鉱球が滅びる一翼を担ってしまった。その罪を、わたしは、……生きて、前を向いて歩き続けることで、贖わないと)

 この先の道は平坦ではないことは漠然と予感できた。何が起きるかは分からないが、自分に憎悪の感情を持っている人は山ほどいるだろう。むしろまだ好意を持ってくれていることの方が奇跡的であるようにも思えた。

 不安だった。頑張れるかな、もしシェムやミーちゃんやみんなに嫌われて石を投げられても、頑張れるかな、と思った。

(でも、わたしは、鉱球に……鉱球のみんなが幸せになる道を探さんと。そんな道が無いんじゃったら、わたしの手で作らんと)

 だが丁度その時バタバタと人の気配がして、遠は身構えた。身構えた、とは言っても体に力は入らず、ベッドに横たわったままだったが。

「果神、ようやくお目覚めですか」

 聞き覚えのある、男の声。遠は上半身を起こそうとして、顔をしかめた。視界にさっと、芥子色の服を着た栗色の髪の女性が入ってきて、遠の背とベッドの間に手を入れ、そっと体を持ち上げてくれた。

「あ……ありがとう、あなたは?」

 女性は驚いたような顔をして遠の顔を覗き込み、そしてふっと笑って答えた。

「主より先に名乗ることをお許しください。私は、尭球圏界連合副事務局長ウルバンの秘書、ユドンと申します」

「ユーちゃん、ありがとうね。……」

 遠はようやく目の前に立つ男性に視線を投げた。

 あの時と、同じ姿。黒く短い髪に、白い肌、切れ長の目。白い服、黒の長帯。

「……なんとかバンさん」

「尭球圏界連合副事務局長のウルバンです、ようこそ尭球へ、果神」

「……」

「とにかくよく目覚めてくれました。早速果神として、この世界のために尽力してもらいましょう」

「……嫌じゃ、と言ったらどうなるん?」

「生き残っている鉱人……ああ、あなたの星は鉱球と言うんです、その仲間達のことですよ……の皆さんを排除しましょう」

 ウルバンは表情を変えず、こともなげに言った。

「そもそもあなたには嫌、などという権利はないのですよ。全てあなたが元凶の癖して、1年間も……1年間も訳の分からぬ力を使って逃避するなど。そう、あなたは愚かにも現実を直視せず逃げていただけなのですよ」

 遠が黙っていると、次第にその言葉は憎悪のような感情を含み始めた。

「あなたは、果神などと呼ばれているが神というよりは……そう……こんなことは言いたくないですが、化け物モンスターなのです。だがもうその化け物に頼るしかない私の胸中も察してほしいものです。本来ならばこんなモノに頼りたくはなかった……だが、『母艦マザーシップ』によって選出された、最後の切り札なのだから有効に使うしかないのです」

「……あの、『母艦』ってなんじゃ……?」

「300年ほど前に、私達の英知を集めて作られたこの星の全てを司る基幹システムですよ。ありとあらゆる社会インフラシステムがこの『母艦』に含まれている」

「……ええと……」

「ああ、こういう概念は未開の鉱球にはないから理解できないのですね。まぁいい。とにかく、この『母艦』の奥深くに『女神』や『女神の庭計画』に関わる大事なプログラムが存在していて、それは鉱球のあの塔とつながってもいるのですよ。もちろん『女神』達ともつながっている、だからこうしてあなた達の力を抑えることができる」

「……」

「とにかく、お前……あなたの役目は、圏界連合が常に迫られている多くの選択に対して、最適な解を導き出していくことです。機械のように……いや、そもそも機械生物なのでしたね」

 その時後ろから、若い男性が入ってきてウルバンに声をかけた。

「ウルバン様。恐れながら、次のご予定が……。部屋の外で守備隊が待機しておりますのでどうぞご移動を」

「ああ、そうだったな。……また来る。ユドン、ビエナ、まず果神の体力を回復させろ」

「かしこまりました」

 ユドンと、ビエナと呼ばれた若い男性が頭を下げる中、ウルバンは固い足音を立てて出て行った。ドアが、重い音を立てて閉まり、数秒、静寂が訪れた。

「……果神さま」

「お願いじゃ、ユーちゃん。遠って、呼んで。お願い。あの人のいないところだけでいいから」

「……かしこまりました」

「かしこまらなくていい! うん、とか、はい、とかでいいよ」

「遠さ……遠」

「……神、とか、様づけで呼ばれたりしたら、わたしはどんどん、わたしじゃないものになってしまいそうじゃ。それが嫌なん。機械とか、化け物とか言われるんは全然気にならんけど……」

「いいえ! 気にならないわけがありません! ……遠、改めて、私はユドンと言います。主の失礼な態度と言葉を……お許しください、なんて調子のいいことは、言えませんね……」

 ユドンは俯き、そしてゆっくりと頭を下げた。さらさらとした髪が、彼女の顔を隠す。

「私達の罪の重さ、主の惨さはよく理解しているつもりです。……そのうえで、私はしばらくあなたの身の回りのお世話を司ることになりました。どうぞよろしくお願いいたします」

「ユーちゃん。泣かないで。顔をあげてよ。わたし、本当に、気にしてないんじゃ。ウルバンさんが、わたしをどう罵ろうとも、わたしはわたしじゃもの。自分にとってどうでもいい人がわたしのことをどう言おうと、気にならんよ。ほら、顔、あげて」

「……申し訳ありません、みっともないところをお見せして……」

「ユドン、ほら、ハンカチだよ」

 後ろに立っていたビエナがそっと胸ポケットからハンカチをユドンに差し出した。

「果神様……じゃない、遠。僕はビエナ。尭球圏界連合書記官だ。僕も、君に関する諸々を手伝わせてもらうことになる。……よろしくね」

「ビーちゃん、よろしくじゃよ。ユーちゃん、よしよし」

 遠は手を伸ばして、ユドンの背中を撫でた。ユドンとビエナは、少なくとも表面的には遠を憎んだり、傷つけたりしようとしているわけではなさそうだった。

「……わたし、まだ何もわからないんじゃ。……状況、とかだけじゃなくて、誰にどんな感情を向けたら良いのかも」

 遠の声に、ユドンは涙の筋のくっきりとついた顔を上げ、ビエナも遠に視線を向けた。

「もしかしたら、わたしはユーちゃんやビーちゃんに対しても怒りをぶつけなければいけないのかもしれん。あの星で生まれた人間……生き物として、あの星の女神になった生き物として。……でも、今は他の人のことなんて考えられない。自分の不甲斐なさを悔いる気持ちしかないし、その感情すらもあまり顧みないようにしようとしている……」

 二人は再び俯き、押し黙ったまま何も言わないので、遠は話題を変えた。

「ね、……わたし、何も知らないんじゃ。色々、教えてください。よろしくお願いします」


 

 その後、二人はこの建物が尭球圏界連合直轄都市の中にある尭球圏界連合本部の中央棟の北部分にあることを遠に教え、部屋は自由に使っていいこと、その設備の使い方などを教えた。自由に外には出れないことも。

 遠の体力を慮って、そこまで話して二人は去った。また来ますね、と笑顔で言い残して。

 ベッドに残された遠は、先ほど抱きかかえられながら見せてもらった部屋の中の設備を思い出して、すごい技術だなぁと感心していた。ボードのボタンを押せば、お湯が湧いて壁の穴から出てきたり、しかもお湯はお茶や甘い飲みものにもボタン1つで変えられる、と言うのだ。

(星から星に飛べるんじゃから、こんなんお茶の子さいさいじゃよね。それに、そっか……)

 そもそも自分はこの尭球の技術力によって作られた、そうハターイーは言っていた。『天印持ち』は、人工的に作られた別の種。黒術や白術、その根本となる天恩も、魔法ではなく、科学技術の賜物。

 その後に起きた出来事の衝撃が強すぎて、そんなことはすっかり頭の隅の隅に追いやられていた。

 自覚はしていなかったが、遠にとって「自分が人間ではない」ということはあまり重大事ではなかったのである。

(そうだ。……あの星は、尭球の資源を採る為の星で、そこにうまく『印持ち』とあまり大事にされていない身分の人間を送り込んで、五圏を平和に導ける女神……果神が誕生するかどうかの社会実験を、していた。そうハーちゃんは言ってた)

 だがそれだけでは分からないことがたくさんあった。

(わたし達、その社会実験のために作られたのかな、それとも別の目的で作られたんじゃろか……)

 その「わたし達」という言葉は、遠に急速にミゼア達のことを思い起こさせた。ハターイーは確か、皆無事だと言っていた気がする。だがどこで何をしているのか、酷い扱いを受けているのではと考えると、息が詰まった。 

(次にユーちゃんに会ったら、みんながどうしてるのか詳しく聞こう)

(……わたしは、これから何をしたらいいんだろう。みんなを助けたい。でもウルバンのため……この星のためにも働かなければいけなさそうじゃ。どうしたら両立できるか、考えないと)

 カーテン越しに、どうやら日が暮れていくのが分かった。どこの星でも夕闇の色は変わらないんだ、と思いながら、ふと枕元に残された果物に目が留まった。手を伸ばして口に入れると、甘酸っぱい、懐かしい味がした。

無花果いちじくじゃ。久しぶりに食べた……)

 喉に水分が染み込んでいくのを感じることで、自分が乾いていたことを知る。

(外に出たい……風……ここには風がない……)

 意識が朦朧としてきて、遠はうつらうつらと眠りに落ちた。



 次に遠が目を覚ましたのは、どうやら真夜中だった。真っ暗な闇に焦点があわず、どこを見るでもなく視線を漂わせる。

(……?) 

 何時頃だろう、と思うと共に、人の気配を感じた。誰か、いる。ハーちゃん? と口に出しそうになって、慌ててその声を飲み込んだ。ハターイーでなかったら、とんでもないことになってしまう。

 下手に何かしない方がいい気がして、遠は瞼を閉じた。だが次の瞬間、足の辺りに重みを感じて心臓が跳ね上がった。重みはベッドを軋ませながら、少しずつ腹の方へとその位置を移動し、恐怖にかられた遠は恐る恐る目を開けた。

 どうやら、人が自分の上に乗っている。男性の荒い息遣いが遠の恐怖を加速させ、悲鳴が喉元まで込み上げてきた。だがようやく闇に目が慣れてきて、相手が誰なのか、分かった。それはウルバンだった。 

「起きているんでしょう?」

 囁くような上ずった声から、妙な興奮が伝わってきて、遠は再び身をすくめた。

「わざわざ私が足を運ぶまでもないと思いましたが……あなたが増長しないように、一度はきちんとお話しないと、と思いましてね。重要機密も含まれるから、わざわざ夜、誰もいない時に足を運んであげたのです」

 ここまで聞いて、遠は自分の頬に妙な感覚があるのに気がついた。何か、鋭利なものが当たっている。

 (ナイフ……)

 冷たい切っ先が、ひどく震えながら遠の頬に触れていた。

「あなたは畜生以下の機械であることを忘れないようにしてくださいね。あなた達が生み出された理由を知っていますか? 性欲処理のため、それに軍事利用のためです。たまたま知性が多少発達してしまいましたが、元はただの汚物処理用機械です。いつでも本来の目的通りにあなたを使うことができるんですよ、それをお忘れなく」

 ウルバンはナイフの刃で遠の頬を叩いた。

「ああ、おぞましい化け物だということを示すための印でもどこかに刻みつけておいた方がいいかもしれませんね……」

 最初は恐怖におののいていた遠だったが、正体がウルバンと分かってからはその恐れは波のように引いていった。『汚物処理用機械』という言葉に受けた衝撃も、おそらくウルバンが意図した程大きくはなかった。――どこかで、気付いていたから。人工的に人間が作られるのは、おそらく倫理的にかなりの問題を抱えていただろうし、大変な技術と予算が必要だっただろう。その壁を乗り越えさせるほどの力があるものと言えば、自ずと『性産業』『戦争への利用』などが頭のどこかに浮かんでいた。

 ウルバンは自分を執拗に痛めつけはすれど、殺さないであろうことも、遠には薄々分かっていた。ウルバンの表情や言葉から感じるのは明確な殺意というよりも、もっと混沌とした感情だったからだ。彼の罵りの言葉は遠の心に刺さるよりも、逆にウルバンの精神の弱さを露呈させた。

「……なんですかその目は……くそっ、なぜ怯えない! 悲しめ、怖れろ!! ……ああ、心が無いからか……機械だから! 普通の人間であればできる反応ができないのか! はははは!」

(この人はどうしてこんなに不安定で辛そうなんだろう、そして圏界連合はどうしてこんなに弱い人をトップに置いているのだろう……)

 ウルバンはナイフを床に放り投げた。床に金属が当たる固い音がする。それと同時に腹を殴られ、遠は思わず呻いた。だが抵抗する力はない。

 体は痛めつけられながらも、遠の意識はどんどんそこから離れていった。痛みよりもっと深く、遠いところで、ウルバンという人間のことを考えているうちに、いつしか意識を失った。

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