13 椎椎の静養
五圏の最北に位置する涼車、その中央を東西に貫く
短い夏は瞬く間に去り、全ての気候と風景が、冬の足音を告げていた。朝晩の気温はぐっと下がり、吐く息が白く流れる。
藁を重ねに重ねた寝床から這い出して鳥肌をたてながら外着に着替え、まずは火鉢の炭に火を入れる。冬に備えて、ジヘルと炭窯で焼いた炭だ。天幕の外に出て、ぐるりとあたりを見回す。淡い淡い水色の空に溶けた山々は薄い菫色、その端の一点がほんのりと火を灯したかのように、赤々と輝く。次第にその光は横へ横へと流れ、棚引く雲海を紅く染めていった。
椎椎はほっ、と息を吐く。まだ鳥も鳴かない、静寂のひと時が身に滲みた。
水を汲みに行くためにそのままゆるやかな傾斜を降りようとして、ふと、足を止めた。
(遠……?)
朝は大抵、天幕から視界に入るどこかで、寝転んでいた。だが今朝はその姿がない。
「……おーい、えーんー……」
椎椎は小さな声を精一杯張り上げて叫んでみた。朝靄のなかに、声はゆっくりと溶けていく。返事はない。
(……当然、返事はないよね……)
椎椎はなだらかな丘をくだり、山の木立の奥に踏み入らない範囲で遠の姿を探した。だが、どこにも遠の姿はなかった。
「そういうわけで、遠は消えてしまったみたい……」
火鉢の前に座り、温かい山羊の乳で作ったミルク粥をすすりながら、椎椎はジヘルに報告した。
「……随分、落ち着いているな」
「……いつかこうなるって、分かっていたもの。でも……」
椎椎はスプーンを持つ手を止めた。
「遠が、自分の体に戻ったんだと、いいけど。もし、もし死んじゃったんだとしたら……」
「したら?」
スプーンの上に乗っている粥に視線を落として、椎椎は黙り込んだ。
どこかで、遠は死んでいない、と当たり前のように考えている自分がいた。これで命が潰えるような人生は遠には似合わない。具体的にどうするかは全く想像がつかなかったが、とにかく遠はここから反転攻勢をかけ、輝きはじめるのだというほとんど願望に近い確信があった。
「……死んでない。やっぱり」
ジヘルは微笑み、頷いた。
「俺も、そう思う。……これは、願望に近いのかもしれないが。会ってみたいと思っている、あの子に」
「遠に?」
「ああ。……なぜか、自分でも不思議だ。全然知らない人間なのに、……無性に彼女に希望を託したくなる」
「ジヘルさんでも?」
「俺でも、だ。……ただの少女なのに、こうやって人の望みを背負うのは辛かろうなと思うが、でもそれが果神の資質なのかもな……」
ジヘルはどこか遠くを見るような表情を見せた。柔和で、だが何かを諦められないような、未練を残しているような、そんな顔だと椎椎は思った。
椎椎の視線に気付いたのか、さぁ、これをさっさと食っちまって仕事だ、とジヘルはいつもの顔に戻って、ミルク粥の椀を豪快に傾けた。
(本当は、遠が消えたら、みんなのところに戻ろうと思っていた……けれど、もう少しだけ、ここにいよう)
遠やミゼアに対して生まれた負の感情は、この山麓で暮らすうちに徐々に薄れ、いまや愛情しかなかった。だが、その愛情を愛情だけで終わらせないために――きちんとみんなの側にいれるようになるにはもう少し時間が欲しい、気がしたのだ。
(……冬が来る……)
食べ終わった椀を水ですすぎ、その冷たさに震えながら、椎椎はまだ見ぬ冬に思いを馳せた。暗くて長い、冬。おそらく今までに経験したどの冬よりも厳しい、山の冬。
その重たい闇の下で静かに根をはり、芽を出す準備をする。
(遠、待っていて。あなたに希望を託すだけの無力な人間にはなりたくない。私には私のできることを見つけたい……)
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