第三章 黄昏の色

12 ハターイーの決意

 地の街は昼も薄暗い。

 なんとか地面に支えの棒を立て、それに幌を引っ掛けただけ、というテント。あるいは空き箱だけで作られた吹けば飛ぶような家。それらが歩く道幅もないほど無数に並ぶスラムには、所狭しと洗濯物が並び、それと同じくらいの数の子供が走り回り、そして強い異臭がする。

 ここがハターイーの昼の仕事場だった。闇医者として働き、その報酬として、情報を手に入れる。

 空の街の夜は無数の灯りで彩られるが、強い光があればその分、闇は濃い。

 ありとあらゆる種類の業がそこには集まる。強欲、嫉妬、虚栄、情欲、愛のようなもの。――それらは美しい絹や宝石、飽食に彩られてはいたが、地の街のスラム同様、いやそれ以上に臭い。そう、ハターイーは思っていた。

(先祖が鉱球に流されなければ、僕は今頃この星の空を闊歩するエリートのはずで、そんな未来にずっと憧れていた――でも、今は違う)

(憧れていたものは、虚像だった――そういうことさ。もっと、早く気付けば良かった――)

 ハターイーが今いるのは、尭球圏界連合直轄都市、その最も豪奢な酒店ホテルの最上階のテラス。柵に腰掛け、宙に足を投げ出して見下ろしたその先――圏界連合本部の牙城は、無数の棟が環状に接続、配置され、幾重にも重なる巨大な円を描いているように見える。

 直轄都市に、連合本部より高い建物はこの迎賓酒店ゲストホテルしかない。圏界連合がまだ今程の力を持っていなかった古い時代に、まさに賓客を迎えるために作られたもので、その格式ある重厚な佇まい、計算し尽くされた贅は、尭球の経済状況が傾き続けている現在まで、一度たりとも質が落ちることはなかった。

 ハターイーがこの酒店に足を踏み入れることができているのは、自らが尭球圏界連合に招かれる程の地位を得た……わけではない。だが、「そのような地位にある人間から招かれる」ところまでは一年で、なんとか辿り着いた。その知性と、美しい肉体を使って。

 (風が、強いね……)

 夏の終わりを告げる涼やかな風。だが、その無軌道な吹き方からは、どことなく嵐を引き連れてくるような予感がした。

 (行こう。もう、限界だもの。これ以上の<はなればなれ>はあの子の命を奪う)

 ハターイーは口のなかで小さく呪文を唱え、足を空中に踏み出した。重力に逆らって体はふわりと浮き、ふいに加速して、一気に飛翔する。

 向かうのは、圏界連合本部、その中央棟にある小部屋。――そこに、遠がいる。



 居場所が特定できれば、ハターイーの力を持ってすれば、忍び込むのは容易いことだ。

 ――女神たちの体内にある天恩因子は、『母艦』から干渉を受け、使用を制限されている。

 だが、ハターイーの使う天力の源は天恩因子由来のものではない。鉱球でウルバンに伝えた、「初代ハターイーの天恩を引き継いでいる」というのは、実は嘘である。

 確かに、初代ハターイーを含めた当時の支配階級は、欲望を満たすために自らの肉体に違法に天恩因子を注入し、天力を得ていた。だが、天恩因子は遺伝しない。ウルバンは、尭球から女神の姿が失われて久しい故に、その原則を忘れてくれていたのだろう。

 ハターイーの持つ力は体内にあるのではなく、外部装着している、ある道具から生まれているものだった。

 だからこの星で、ハターイーは自由に動くことができる。

 姿を見えないようにする黒術<葉隠れ《ハイド》>を使いながら、少しだけ迷って棟内をうろつく。廊下は煌々と明るいのに、なぜか陰鬱な印象を受けるのは、異様に青白い照明のせいだろうか。 

 空気清浄機が作動する虫の羽音のような振動音だけが僅かにする中、すぐに目当ての部屋は見つかった。円形の中央棟の北、円弧から少し飛び出るような形で配置されている。

 廊下に面した白い扉は見るからに分厚く、中央には電子錠がついていた。ハターイーは迷いなく手をかざし、短い言葉を呟いた。ほぼ同時に錠から僅かな電子音が鳴り、一歩遅れて扉の物理錠ががちゃり、と金属音を立てた。

 ハターイーは小さく息を吐いた。警報でも鳴るかと覚悟はしていたが、何も起きる様子はない。

 そっと押したドアはひんやりと冷たく、そして重い。するりと体を滑り込ませ、後ろ手にそっと閉める。

 部屋の中は明かりがついておらず、真っ暗だった。暗闇に目が慣れるまでの間に呼吸を整える。珍しく、鼓動が速くなっているのが自分でも分かり、ハターイーは口の端に微笑みを乗せた。

(僕にまるで夜這いみたいなことさせて……遠は悪い子だな)

 部屋はハターイーの予想とは異なり、円形らしいことが分かった。上空からは影になっていて、その形状は見えなかったのだ。円形の中央部はどうやら中庭のようになっていて、硝子の向こうに植物らしき影が見える。左回りでそっと歩みを進めると、どうやら部屋の中は扉のように無機質ではなく、絵画やらタペストリーやら様々な調度品が置かれていて、酒店の客室に近いことがわかる。目当ての部屋は入ってきた扉の丁度向こう正面にあたる位置にあった。辿り着いた小さな木製の扉を押す。

「遠……?」

 返事はない。だが、暗闇のなかに遠がいることはすぐに分かった。――その体が、靄がかった光を放っていたから。

「遠……。……ああ、熱い……!」

 遠は薄い生地でできた真っ白なワンピースを着て、ベッドに横たわっていた。目は閉じて、額にうっすらと汗をかいてはいるものの、表情は苦しげではない。だがその体は近づかずともそれと分かる程、明らかに熱を発していた。体を取り囲む光は揺らめきながら青、黄、赤、紫と様々な色調に絶え間なく変化し、安定しない。

 やはり限界が来ている、と確信した。無理にでも起こさないと、体がもたず、遠は死ぬ。だが、無理に起こすことに失敗すれば、遠は2つに分離して、やはり死ぬ。

「ごめん、……ごめんよ……」

 そっとベッドサイドの床に座り込み、遠に手を伸ばす。だが熱が、その手を阻んだ。

 鉱球の『塔』から、地上に広がるこの世のものとも思えぬ地獄絵図を見たとき、そして遠が意識を失ったとき。ハターイーは今まで自分が生きてきた道程を、ひいては自分自身のことを、全て否定せざるを得なかった。――何もかも、間違っていた。恥じても、悔いても、足りぬほど――。

 ハターイーが十五代目となる『尭巾』は、かつて尭球から鉱球に植民が行われた際、バイオロイドと犯罪者・肉体労働者と共に鉱球に移り住んだほんの僅かな尭球圏界連合の職員達が作った組織だ。その使命は、鉱球の真実――『女神の庭計画』のこと、女神のこと――を語り継ぎ、尭球の誇りを忘れぬこと。

 ハターイーもそれを信じて育った。女神はただの道具。その存在は本来生命に対する冒涜であるが、誇り高き尭人は道具に使命を与え、利用してやることによって、彼女達の存在を肯定してやっているのだと。だが彼女達を陰ながら見守るうちに、ハターイーはその健気さと美しさに惹かれるようになった。特に遠という少女は今までの女神や女神候補達には全く見かけなかったタイプで、彼の興味を引いた。

 ――だから、鉱球が滅びることだけは避けるようにしてやろう、と思った。その、あまりの幼さ。

 ハターイーが持っていた尭球の誇りなど、ただ傲慢と勘違いでしか、無い。他のものを見下すことで得られる誇りなど、誇りではあり得ないのだ。

 そして鉱球が滅びることだけは防ごうとしたと言う、その甘さ。安全なところから口だけ出す義侠心で、一体何が救えるだろうか。

 人類全体のために糧を成すなど、今となっては何をちゃんちゃらおかしいことを言っていたのかと思う。たった一人ですら、守れないのに。

 そんな考えがこの一年、一日たりとも頭を離れたことはなかった。だが、自分を責めているだけで終わっては、さらに救いようがないことは分かっていた。だから、なんとか、なんとか心に決めたのだ。

 まず一人を。遠を、命をかけて守る。

 『女神の庭計画』を告白したときにハターイーの手を握りしめてくれた、あの手の体温が忘れられない、だから。

 バイオロイドは、生命への冒涜などではない。生命を操作しようとした自分達こそが生命を冒涜したのであり、生まれでた命は、他の命と何も変わらず、尊い。そしてそんなことは当たり前すぎて、もう、考えるまでもない。心底望むのは、ただ、遠を守ること。

 ハターイーは、首にざっくりと巻いていた大判のスカーフの下に手を入れ、細い鎖にかけられた、大きな石のようなものを取り出した。薄い桃色のそれは輝きを帯びて美しいが、宝石と呼ぶには躊躇うほどに大きく、むしろ鉱石と言ったほうがしっくりくる。ハターイーはこの桃色の石を、そっと遠の上にかざした。黒術を無効にする、黒術をかける。

(……アーリア……力を貸してください……!)

『そこにあるものを 鏡に写そう 鏡はその後 真実を写すだろう <反呪リバース>』

 その途端、石の内側から見る見るうちに光が滲み出すように溢れてきて、放射状に放たれた。強い風が同時に巻き起こり、ハターイーの髪を、後ろのカーテンを、大きくはためかせる。

 だがその嵐は長くは続かず、すぐに風は収まり、光はまるで意志があるかのように遠の体に向かってじわじわと波打ち、ゆっくりと穏やかに、遠の体を包み込む。

 いつの間にか、遠は薄桃色の繭に包まれたかのようになっていた。

(遠……戻ってきてくれ……!)

 強烈な光も風も止んでいるのに、ハターイーはまるで石に引きずられるかのような感覚を覚えていた。強く両足を踏ん張っていなければ立ってはいられないほどだった。

(遠……!)

 繭はきらきらと煌めき続け、そして突然、爆発するかのように凶暴な光と熱を放った。

 思わずハターイーは目を左腕で覆った。瞼の裏でも焼けるように感じるほどの光、そして全身が熱い。叫び出しそうになって、とっさに大声をあげてはいけないと思い、スカーフを口に押し込んだ。

 じっと我慢しているうちに、次第に熱が引いていくのが分かり、ハターイーはそっと目を開け、口から布を吐き出した。先ほどまで光に満たされていた部屋は既に暗く、右手の中の石は徐々に光を失いつつある。――遠はもう、輝いてはいなかった。何の光も、熱も、纏っていない。

「遠!」

 頼む、と思った。生きていて、くれ。

 そっとその首筋に触れる。優しい温もりが指先に触れ、確かにその脈が打っているのを、ハターイーは確認した。ほっと小さく息をつく。

「遠、ごめんね、無理に呼び戻して……。目を開けられるかい……?」

 遠の手を少し力を入れて握る。何度も名前を呼んだ。

 ふと、遠の瞼が微かに動いた気がした。錯覚かと思ったが、でも確かに睫毛が震えている。――次の瞬間、遠はぱちりと目を開けた。

(……瞳が……)

 映像で、遠の容姿に変化が生まれていることは知っていた。だが今その青い瞳を前にすると、本当に吸い込まれるようだと思った。空よりも青く、宇宙よりも青く――どこかにあると言う、まだ見ぬ「海」とはこのような色かと思う。

 覗き込み続けているのもどうかと思ったので、ハターイーはそっと遠の背に手を入れ、上体を起こした。遠の瞳の焦点は、まだ合わない。

 僕だよ、ハターイーだよ、と言おうとして、ハターイーは口ごもった。

(どの面下げて、僕だよ、などと言えるのだろう……)

 遠は意識を取り戻した。もう、自分は役割を果たしたのではないだろうか。この後は、ただ影に徹して守るのが良いのではないか。心は乱れ、ひとまず今日はここまでにして立ち去ろう、とハターイーは思った。<はなればなれ>を解除しただけでも、今日のところは成功と言えるのだ。

 後ろ髪を引かれつつ遠に背を向けた、その時。

「……ゃ」

 微かな、声がした。ハターイーは振り返る。

「……や……だ」

「遠?」

「やだ、いやだ、見たくない! やだああああああああっ!!!」

 遠はうつろな目のまま、だがしかし何かを見ていた。――おそらく、記憶の中の滅び行く鉱球、その地獄を。

 身をすくめ、体を震わせて絶叫する遠の元にハターイーは駆け寄り、抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 自分の言葉のなんと薄っぺらいことか、とハターイーは思った。だが、今は言葉よりも、体温を。母に抱かれて泣き止む赤子のように、落ち着いてくれたら、と思った。

「やだ……やだ、」

 子供のようにいやいやと首を振る遠の、伸びた黒髪の上から彼女の頭を強く押さえる。胸元に温かいものが広がり、遠が涙を流していることが分かった。

(そうだ、この子は普通の状態だとあの……尭球の兵器と自分の黒術がぶつかり合う中で、鉱球が滅びていくときの光景を思い出してしまうんだ……)

 あまりの辛さに現実を直視できず、<はなればなれ>をかけ続けた。それが解除されたからといって、心が癒えているわけではないのだ。

「遠、君はもう許されているはずだ。……そんなに、苦しまないで……」

 だがそれから数時間、遠はひたすら呻き、泣き、叫び、吐いていた。ようやくその嗚咽が収まったのは、窓越しにも分かる程空が白んできた頃だった。

 泣き疲れたのか、動きが止まり、少しずつ体が火照り始める。寝てしまったのか、と思ってベッドに寝かせようと、ハターイーが少し身じろぎをしたとき、遠は再び目を開けた。そして顔を動かし、今度こそ、ハターイーの姿を目に入れた。

 遠の顔に、好意か悪意かも分からぬ、戸惑うような表情が浮かんだ。遠はそのまま何か喋ろうとしたが、声にならず、小さな息として吐き出されただけだった。夜中にも無理矢理飲ませていた水を再び飲ませる。

「あ……ハー……ハーちゃん……?」

「……そうだよ。遠、」

 だがそろそろ去らなければならない時間が迫っていた。遠の部屋には毎朝、昼、夜とメイドが来ることになっているのは事前の情報で分かっていた。朝は、6時。あと数分だ。

「遠、……戻ってきてくれて、ありがとう。無理に起こして、ごめんよ。……僕は、必ず君の側にいる。なるべく、毎晩来るようにする。明日も夜に来るから……だから不安に思わないで。待っててね」

「ま、待って、み……ミーちゃん達と、シェムは……?」

「……まだみんな、大丈夫だ。じゃぁ、また来るね」

 縋るような顔をした遠が、一瞬のうちに表情を柔らかく崩したのを見て、ハターイーは微笑み、そして再び姿を透明にした。入ってくるメイドが扉を開けるのを見計らって、すれ違うようにして外に出る。あとは、簡単だった。

 姿を消したまま空を飛び、スラムの片隅にある根城へと向かう。柔らかい朝の光が、世界を美しく照らし始めていた。

(夜が待ち遠しい……本当はずっと側にいたい……)

 <はなればなれ>から現実へと還った彼女は、すなわち避難所から、戦場へと戻ってきたのだ。だがたった一人、見知らぬ敵地で、何ができるというのだろう。例え、『女神』としての類い稀なる才を持っていたとしても。

(……僕への、ウルバンへの憎しみよりも、……仲間と幼馴染への憂心が真っ先に口をつくのか……)

 遠らしい、と思った。

(あの惨い経験を経てもなお『遠らしく』在ることができるのか……。人とは……作られた命であっても……)

 なんとも言えぬ感情が心を強く揺さぶり、ハターイーはそっと拳を握りしめた。

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