第15話 公開処刑、あるいは提案
もうあと数日――という授業が、ここまで苦痛だとは思いもよらなかった。おまけにとんでもなく生温い風が顔を弄ぶ。
室内には本来、快適な冷房が機能しているはずなのに、男女比率の均衡が元来より崩れているせいか、妙に男っぽくて湿った空気が部屋を満たしている。人にもよるだろうが、薫は休み時間の度に外に出なければやっていけなかった。
本日三回目の授業がようやく終わった。
これであと一回、今日はそれで終わる。
とは言えど。
そう簡単に終われない宿命に巻き込まれているのは、事実なわけで。
トイレで用を足して外に出ると、そこに渡さんの姿を見かけた。
思わず体が硬直する。
女子トイレは二階にあるから、きっとそこに行くのだということは分かるのだけど。しかし、それでも瞳を交錯させた瞬間、思わず目を逸らしてしまう。昨日の夜があまりにも刺激的だったせいか、ちゃんと目を合わせることができない。
恋愛の経験は皆無なのだ。そのことを考え出すだけで、心中を渦巻く感情のうねりは更に凶暴さを増す。
仕方ないと誰かに慰めてほしい気持ちすら捨てられない。
きっと、間違いなく薫は甘いのだろう。そして同時に、甘えたいに違いあるまい。
自分はいま、どうしようもない恋をしているのだと。
それを誰かに伝えたくて仕方ないのだ。
これまで何の興味もなかったのに、
恋をしたいだとか、
彼女が欲しいだとか、
そんなこと、思ったことすらないのに。
たった一度の告白だけで、ころりと気持ちが変わってしまった。一体これはなんなのだろう。冗談にしても酷過ぎる茶番だ。欲しいとすら思っていなかったものは、手に入った瞬間大切なものに変わって、そして、取り返しがつかなくなった。
笑ってくれればいいさ。
だけど、この恋は本当に本物なんだ。
「……ったく、良い人がいたもんだ」
ロリコンである薫からしてみれば、中学校への入学は断頭台への一三段を上るようなところだったけど、意外と良いこともあるものだ。
人生そう捨てたもんじゃない。
「どうしました?」
声がかけられ、ハッとして振り向くとクラスメイトの茅さんが、薫に対して厳しい視線を向けていた。それはそうだ、今の自分は渡さんを見ていてニヤニヤしていた、ただの変態なのだから。
いや、何もしていなくても変態なんだけどね。
「あの……あんまりジロジロ見ないであげてください。渡さん、そういうの嫌いなんですよ?」
茅さんは、少々大きな声で言う。
まるで、教室に聞こえるのを目的としているみたいに。
「いや……そういうのじゃないよ」
やんわりと躱してから、教室に戻る。
心にダメージがなかった、そんなのは幻想だ。
席に戻ってから、女子がひそひそと声を立てているのに気付いた。それも薫の方を見て。何を考えているのか知らない。
彼女らは、そういうスキャンダルを求める人間たちではないだろうに。
そもそも高専生は、普通の高校生とは、やはりどこかズレた存在なのだから。個人差こそあれど、薫が見聞した限りでは男女共に普通科高校の人とは差異があるのだ。
だがそれでも、一度火が起きてしまえば徐々に火災には近づいていく。早目に手を打たなければ、どんなことになるか知れたものではない。
そこに、ハンカチで手を拭きながら渡さんが戻ってきた。
女子の集団の中から一人が、渡さんに耳打ちをする。
――少々、まずい。
内心平静さを装いながら、冷や汗をかいていた。
間違いなく女子たちは、渡さんに何らかの苦言を呈したに違いない。
無難に思いつく辺り、あいつは近寄らない方がいい、とかなんとか。
何せ耳打ちをしているのだ。
薫にとっては聞くも憚られることを言うに違いないのだ。
そして、何を言われたのか知らないが。
「ん、それなら勘違いよ。だって私、花江くんと付き合ってるもの」
しん、と教室が静まり返った。
疑問符がそう狭くない部屋をたちまちのうちに埋め尽くす。
想定以上に声が響いたせいで、クラス全員にばれたらしい。
いや隠すものではないのかも知れないが、面と向かって「私たち付き合ってます」なんていうつもりは到底なかったし、むしろ可能な限り、ずっと秘匿するつもりですらあったのだ。
高専生は男女比率が不均等なおかげで、かなり恋愛に飢えている。
ツイッターとかそこらを確認すれば、容易に検討がつくだろう。
そして、教室で堂々と交際宣言をすると、
当然、
沈黙の帳は、男子の罵声によって掻き消される。
「おいそこのリア充め、事情を聞かせろ!」
「ええー……」
ということになる。
面倒臭い。
どうしてこんな展開になるの?
暑さにやられた非リア充の群れが殺気立っていた。
「ちょっとまってこれには色々と事情が」
「そりゃ分かってるよ!!」
大柄の男子がこっちによってきて、襟首を掴んでくる。
ちょっと、怖いよぉ――。
薫がむさくるしい荒波に飲まれていると、ふと渡さんがこちらを見て笑っているのが見えた。四面楚歌というのはどうやらこういう状況にある言葉らしい。と体験してようやく分かる。
何故なら本来薫を助けるはずの立場にある彼女ですら、薫が自分よりも強い男子に絡まれているのを見て、赤面しているのだから。
あれはもう腐女子なんてレベルじゃない。
もうちょっと齢取ったら貴腐人って呼んでやるー!
薫は、その容姿に見合った甲高い声で文句を喚き散らしたが、そんなのは男の低い声によって阻まれ、目標には届かず、四時限の始まりを告げるチャイムがこの諍いを終わりへと導いた。
「まったく、なんで助けてくれなかったのさ?」
唇を尖らせ、薫は渡さんを睨んだ。が、大きめの瞳が災いして迫力とは全く結びつかない。少女めいた顔立ちも、さして高くない背も、その迫力の低さを形成する大きな要因だった。どうあがいても薫は威嚇などできないのだ。
身長は渡さんよりは高いが、薫が男子一小柄なのでは気概だって薄れる。
「いやー、男に絡まれる薫くんも、なかなかそそられるものがあってね」
「もう、意地悪なんだから」
精一杯の皮肉を込めて言ったつもりなのだが、渡さんはクスクスと笑い始める始末だった。
なんだか、こう、男子としての尊厳を誇示したいのはやまやまなのだが、しきれていない。結果、どうにもこうにも可愛らしい少年の図が生まれていた。
ぷくりと頬を膨らませるその顔も、余程童顔でなければ似合わないだろう。そして、薫にはそれが似合っている以上、薫は本人が何と言おうと可愛らしいのだ。
「わかった、わかったって。ごめんね、薫くん」
「もー、次やったら怒るんだからね?」
渡さんは口元を緩める。
是非もう一度やりたいと言わんばかりの反応だった。
事情はばれた。
というわけで、こんな風に堂々と帰り道を共にするのも悪くない、そう思ったのだ。
今日は部活動も何もない。休みなのだ。
未だ太陽は高く、見上げれば燦々と日光が降り注いでいる。
半袖のカッターシャツを着ていても暑い。
手で扇を作ってパタパタと顔を扇ぐ。
「あと、二日で夏休みだね」
ふと、渡さんが呟いた。
「もうそんなに短かったっけ。あっという間で忘れちゃった」
並んで歩き、駅まで向かう。本来方角がかなり違うので、薫としては遠回りになるのだが、楽しいからそれでよかった。
「ねえ、薫くん」
「ん?」
渡さんは、唐突にこんなことを言った。
「夏休みになったら、海に行かない?」
ロリコンと腐女子 @shinshin
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