第1部:夏休み編

1.いにしえいしょん

1日目:花火の夜に(着付け/一部改変※)

 制服だった四人は、花火大会に備えて全員で浴衣に着替えているところだった。悲痛な面持ちで春に着付けられている奈由の浴衣は、紺地に朝顔が描かれており、赤の帯が映えている。春は帯まで全体を紫で統一してあって、いつもより幾分か落ち着いた印象であった。

 傍らでは、桃色と水色とで花と流水が描かれた白地の浴衣を着た杏季が、潤の着付けをしているところである。潤は浴衣を自力で着付けようと試みたものの早々に挫折してしまい、黒地に白抜きの桔梗柄の浴衣を杏季により着付けられているところであった。杏季は不器用だったが、着物や和風なものが好きだったため、浴衣の着付けなら自力でできるのである。普段、彼女の幼さや不器用さをしょっちゅうからかっている潤としては、そんな杏季に着付けられている現状がどことなく心外そうだった。


「さて、できたっと」


 奈由の帯を整え終えた春は満足そうに微笑む。


「あっきーは終わりそう?」

「もう終わるよー」

「よし。じゃあ終わったら悪代官ごっこするから、つっきーをこっち寄越してね」

「分かったー」

「おい待て何普通に会話してんだお前ら」


 杏季にされるがままになっている潤が勢いよく春の方を向く。春はきょとんとした表情で、わざとらしく口元に手を当てた。


「え? やらないの?」

「何驚いてんだよ! やらねぇよ! せっかく着たのに何考えてんだ貴様!」

「だって浴衣や着物着たら悪代官ごっこは鉄板じゃないか」

「それが鉄板なのはお前だけだよ!」


 帯を整えながら、杏季が余計なことを言う。


「大丈夫だよつっきー。解かれてもまた着付けてあげるから」

「そしてまた解いてあげるから」

「貴様は黙れ変態メガネ」


 潤に凄まれるが、春はめげることなく今度は自分の荷物を漁りはじめた。やがて目的の物を手につかむと、潤の背後に回り込みそれを構える。パシャリと携帯電話のシャッター音が部屋に響き渡り、春は満足そうにそれを保存した。

 怪訝な顔で潤は春を睨む。


「おい何やってんだお前」

「写真を撮りましたが何か」

「『何か』じゃねぇ! 何撮ってんだよ!?」

「うなじですが何か」

「『何か』じゃねぇぇぇ!!!」


 言っている側から、また別のシャッター音が聞こえる。

 音のした方を振り向くと、奈由もまた潤のすぐ側で携帯電話を構えているところだった。


「……奈由さん何を?」

「写真を撮りましたが何か」

「『何か』じゃなくてね!?」

「因みに襟元からチラっと見えている鎖骨ですが何か」

「何やっちゃってんのぉぉぉ!?」


 更に奈由は一眼レフのカメラを手に取り、浴衣姿の潤を激写する。


「なっちゃああああん!?」

「だってほら、タラシの写真なら売れるかと思って」


 奈由はポーカーフェイスのまま小首を傾げた。

 潤の明るく威勢のいいキャラクターや、女ながらに男前と人に言わしむその容貌から、彼女は同輩後輩問わず女子に人気がある。それで調子に乗って、冗談交じりに女子を口説いたり気障な行動をとったりする辺りが、彼女がタラシと言われる所以であった。

 仲のいい同輩からするといじられキャラでもあったが、実際に人気は高いので、以前にも奈由は彼女の写真を奈由の好物であるチョコと引き換えに取引きした前科がある。


 春がカッと目を見開き、ガッツポーズをした。


「なっちゃんグッジョブ! そして鎖骨もろともその写真ください!」

「コアラのマーチかアルフォート一箱で送る」

「了解した!」

「当人の前で何取引きしてんの!?」


 悲鳴のような潤の訴えに、春と奈由は顔を見合わせて頷く。


「タラシの鎖骨ならチョコレートの報酬は当然かと思って」

「タラシの鎖骨ならチョコレートの応酬は当然かと思って」


 そして同時にぐっと親指を立ててみせた。


「変なとこで息ピッタリ合わせてんじゃねーよ!

 そして! あっきー! さっきから帯ずっとごそごそ調整してるけど、わざと作業遅らせてるだろ!」

「あ、バレた?」

「バレないでかこんの十歳児ィィィ!!!」


 動けないのをいいことに、遊ばれ放題の潤だった。

 指摘された杏季は手早く潤の帯結びを完成させる。ようやく潤は着付けから解放された。ぜいぜいと息をさせながら、潤は春に人差し指を突きつける。


「貴様、覚えていろ畠中」

「覚えてるよぉ? タラシの鎖骨にタラシのうなじにタラシの胸元にタラシの浴衣が絶妙に妖艶さセクシーさを匂わせている具合を脳裏にしっかり刻み込み」

「やっぱ止めろ全力で忘れてくれ」


 手の形をパーに開き、潤は春を制止した。

 春は携帯電話を嬉しそうに握りながら、満面の笑みで言う。


「それはさておき、あっきーとなっちゃんの浴衣姿もまたもれなく撮りたいはったんな訳だけど、二人ともそこに並んでくれない?」

「させるか変態」


 素早く潤は奈由の前に立ちガードする。春は笑顔のまま、携帯電話を構えて一歩、彼女に詰め寄った。


「何だい、つっきー……わかったよ、そんなにも自分が撮ってもらいたいのかい? そうかそうか仕方ないなぁ、じゃあ期待に応えてお姉さんがつっきーを被写体としてあますことなく撮ってあげるよ、大丈夫怖くないからお姉さんに身をゆだねて御覧!」

「望んでねぇ! 危機感しかねぇ!」

「大丈夫、安心してつっきー。なっちゃんのうなじやあっきーの浴衣姿もいいけれど、一番いいのはタラシのだから!」

「そんな安心、私いらない!」


 浴衣を着ているのはお構いなしに、二人はじりじりと攻防を始める。

 ぎゃいぎゃいと騒ぐ潤と春を余所に、奈由は窓辺に腰かけて窓の外をぼんやりと眺めていた。夏の日はまだ高く、外は十分明るかったが、夕暮れ時の太陽は影法師を長く伸ばし始めている。寮があるのは裏通りの為、すぐ側の道に人通りはほとんどないが、視線を上げて遠くの道路を眺めれば、浴衣を来た人や夏らしい恰好をした人々がそぞろ歩いているのが二階の窓からよく見える。彼女たちと同じく、花火大会に向かう人達だろう。


 そのまま視線を何気なく窓の下の方へ落とすと、先ほどまでは誰もいなかった裏通りを一人の男性が歩いているのが見えた。奈由は目を瞬かせる。


「……何、あの人」


 思わず、そう呟いた。

 三十度を超えるという真夏日だというのに、上から下まで全身黒のスーツ。クールビズが提唱される昨今ながら、ネクタイはおろか上着まできっちりと着込んでいる。上着の下に来ているシャツも黒なら帽子も黒、革靴も黒だったが、ネクタイの色だけは毒々しいまでに鮮やかな赤だった。

 黒いサングラスをかけているのは夏だから分かるとしても、それが余計に怪しさを際だたせている。耳にはヘッドホンを付け、楽しそうに鼻歌を歌っているのが微かに彼女のところまで聞こえてきた。

 奈由の声に反応した三人が窓辺までやってきて、やはり謎の男性の異様さに目を見開く。


「この暑いのにどうしたの、あの人」


 真っ当な感想を漏らす春の隣で、半分身を隠すようにしながら窓を覗き込んでいた潤は、低い声で唸る。


「怪しい……」


 ぐっと右の拳を握りしめて潤は勢い込んで言った。


「これはきっと、尋常でない陰謀とか作戦とか闇の組織的な何かが絡んでいるに違いない!」

「組織! かっこいい!」


 便乗した杏季が目を輝かせる。調子に乗った潤は更に悪のりを続けた。


「きっとあのヘッドホンからはボスからの指令が聞こえてくるんだ」

「ボス! かっこいい! 何の指令?」

「それは、あれだ。……敵の組織に潜入的な!」


 二人して冗談で盛り上がっていると、不意に男が上を見上げた。そして潤たちが彼を覗いている窓に視線を移し、彼女らと目が合う。ぎょっとして潤は身をすくめた。だが突然のことで、今更隠れることもできずに彼女たちはそのままの体勢で固まる。

 男はふっと微かに口を動かした。何事かを言っているように見えるが、声は聞こえない。

 そして男は踵を返すと、何事もなかったかのようにその場を立ち去った。

 男が視界から消えてから、潤は遅れて窓から飛び退り、上ずった声で言う。


「何? 何、今の!?」

「つっきーの声が向こうに聞こえたんじゃないの。確かに怪しいけど、失礼でしょ」


 呆れ顔で春は立ち上がった。


「さ、うちらもそろそろ支度しなきゃ。結構、会場まで歩くよ」

「うーん、もうちょっと日が陰ってからじゃダメかなー」

「そしたら良い場所取られちゃうでしょうよ」


 春に促され、潤は窓から背を向ける。続いて杏季も二人の後を追おうとするが、その場からまだ動かない奈由に気付き、声を掛けた。


「どうしたの、なっちゃん?」

「……ううん、なんでもない」


 訝しげに窓の外を見つめながら、奈由も立ち上がった。


(なんだろう)


 部屋から出る一歩手前、奈由は立ち止まる。


(……ざわざわする)


 眉を顰め、彼女はもう一度、窓の方を振り返った。

 窓の外には、いつも通りの何の変哲もない風景が広がっていた。

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