第11話

「例えば明日、」

 五十九回目。

「あっ!」

 構えていた伊吹は、清春のその言葉を聞くなり思い切り叫んだ。

 声に驚いたびくり、と千洋が肩を揺らす。ぴたっと足を止めた汐と清春に、つられて伊吹も足を止めた。

「何したの」

 清春の言葉は続かず、汐の質問が投げられる。それに小さく息を飲んで、伊吹は俯きがちに声を発した。

「教科書、忘れた……」

 さあ、ここからが始まりだ。

 ────かみさま。

 最後の挑戦状を叩きつけよう。滑り出しは上々。

 このまま流れに乗りきれ。

 大丈夫、できる。終わらせられる。

 何度も繰り返した『十一月二十七日午後三時四十九分』を。記憶に残る『十一月二十七日午後三時四十九分』を。もう二度と迎えることのない、最後の『高校二年生の十一月二十七日午後三時四十九分』を。

 ────かみさま、

 もう、たすけられないのは嫌だ。


「もう六時過ぎじゃん」

「うわ外真っ暗」

「千洋、送ってく。帰ろうぜ」

「だね」

 無事に清春に『たとえばあした』を言わせずに教科書を回収し、清春の家で勉強会をしていると、時間が過ぎるのは思ったより早かった。

 支度をして清春と別れ、千洋を送って汐と二人になる。もう真っ暗な帰り道、並んで歩く汐に視線を向けていると、ふっとその視線がかち合った。

 何かを探るようなそれに、一瞬だけどきっとしたのを隠せる相手ではない。伊吹、と静かに呼ばれた名前に、そっと息を呑んだ。

「何か、隠し事、してるでしょ」

 清春と千洋は騙せても、あたしは騙せないよ、とでも言いたげな視線。それが嘘ではないだけに、断定的な口調に反論することは叶わない。今反論したところで、騙し通せるとも思えなかった。

 これで、終わりなのに。

 隠し通すつもりだった、それは今も変わらない。だから、隠し事の内容は、言わない。こういう状況は、もう初めてではない。

「してる、けど」

「……どうせ、言えないんでしょ」

「よく分かってんじゃん」

 街灯が点滅する。肌を撫でる風は冷たいというより、痛い。

「ちゃんと、言うよ。終わったらだけど」

「……待ってる」

 ぴたり、足を止めた。汐の家に着いたからだ。

 伊吹の顔を見上げてしっかりと視線を合わせる汐に、小さく頷いた。約束だから。清春と千洋との、約束だから。

 ────たすけて、ほしいから。

「おやすみ、汐」

「うん。……伊吹、おやすみ」

 扉の向こうに汐の姿が消えるのを見てから、自分の家に入る。夕飯と風呂を手早く済ませると、先に二人に出された宿題を片付けた。『今回』で終わらせるのだから、ちゃんとやっておかなければならない。

 それから、いつものノートを取り出して広げる。何も書いていない真っさらなノート。一ページ目を開いて、シャープペンを走らせる。ループのこと。神社のこと。鍵。たとえばあした。

 やはり『日課』だから、書かないと落ち着かない。最後まで書ききったら、次のノートへ。消しゴムは使わず、間違えたら塗りつぶす。そもそも間違えていたとしても分からないし、ちょっとした言葉の間違いなんて、頭の中で補完してしまう。

 二冊目は、半分を少し過ぎたところで終わった。一度ペンを置いて、手首を回す。時計の針は午後十二時を回っていた。

 もう既に、『今日』だ。

 ふと思い立って、ノートの最後のページを開いた。シャープペンを持ち直して、とんっと紙に芯の先を置く。思い立ったはいいが、言葉は思いつかない。

 少し悩んで、書き込んだのは一言だけ。二冊のノートを閉じると、一緒にバッグの中に突っ込んだ。シャープペンを筆箱に戻し、こちらもバッグに詰め込む。教科書類はもうしまってある。

 ────かみさま、

 布団に潜り込む。目を閉じる。疲れているのか、直ぐに眠気に襲われる。

 ────かみさま。

 もう、間違わない。


 そして、『十一月二十七日』の午後三時半過ぎ。

 朝の登校時と昼休みの時間さえ乗り切ってしまえばあとは授業なわけだから、清春の『たとえばあした』を警戒する必要のないことに気づいたのは『前回』。

 その『前回』と同様にして一日を乗り切り、伊吹はまた、自販機の前のベンチに座って三人を待っていた。

 手元にあるのは、『一回目』と違ってあのノート。昨日最後に書き込んだ文字を指でなぞって、自分自身に言い聞かせる。

 大丈夫。絶対に、たすける。

 清春に『たとえばあした』は言わせていない。戻ってきてすぐのその台詞の後、今まで一度もその話題をまた出されたことはなかった。

 だから、大丈夫、だ。

「伊吹お待たせ」

「ん、おー」

 ぱたんとノートを閉じてバッグに押し込む。まだ見せるわけにはいかないと思って隠したそれを汐は一瞥し、伊吹の隣にすとんと腰を下ろした。

「清春と千洋は?」

「あいつら掃除当番だろ」

「……あ、そっか」

 おう、と頷いて、もうそろそろ来るかなと立ち上がる。ひょっこりと廊下を覗けば、見えた顔が二つこちらに手を振って、千洋が伊吹達に駆け寄ってきた。清春は焦る様子もない。

「お待たせー帰ろ」

「えっと、今日は誰の家だっけ?」

「決めてなかったね……うちくる?」

「汐んち? いいんじゃん?」

「じゃあ決まり」

「伊吹、今日はちゃんと教科書持った?」

「ったりめーだわ!」

 くわっと噛み付くと清春に笑っていなされた。くそう、と歯噛みしながら靴を履き替え外へ。三人を待って、四人で歩き出す。

 時刻は、午後三時四十一分。

 道の相談はしていないから、きっと『前回』と同じ道になるだろう。

 『一回目』は後ろからで、『前回』は前から。では今回もし失敗していたとしたら、横から来るのだろうか。

 考えても仕方のないことを考えつつ、汐達の話に乗っかる。時刻は午後三時四十三分。何度も見た数字だ。

「そういえば、昨日渡したプリントやった? 伊吹」

「やったし! ちゃんとやったし!」

「……まあ、やることに意義があるというか」

「復習のはずなんだけどね」

 『前回』も聞いた会話だな、と思いついて、少しだけ苦しくなった。『前回』のこの時、汐はまだ生きていたのだと。

 時刻は、午後三時四十五分。

 二分おきに時計を見ている気がする。それだけ時間が近い。

 またいつものように二列に分かれて歩いていた。前に伊吹と汐、後ろに清春と千洋。今回は何があるかわからない。可能性は、潰した。これでたすからなかったら、どうすればいいのか、伊吹には想像もつかない。

 それでも、たすからなかったらまたループするのだけれど────もし、たすからなかったら。

 時刻は、午後三時四十七分。

 たすけるから問題はない。これで終わらせると決めた、かみさまに、あと一回と、祈ったから。

 これ以上のループは、望めないかもしれないのだ。

 時刻は、午後三時四十八分。

 汐、と隣に立つ幼馴染を呼ぶ。くるっと振り向いて、清春、千洋、と残りの二人の名前も呼ぶ。

 時刻は、午後三時四十九分。

 伊吹、と三人から半ば叫ぶように名前を呼ばれて。

 身体に受けた軽い衝撃に、伊吹は車道と反対側に突き飛ばされていた。

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