第7話

「例えば明日、」

 三十回目。

 まず最初にすることは、神社について調べること。

 考えてみたら、伊吹が神社に通い始めて足掛け十年。しかし神社について知っていることはほぼ無い。

 知っていることといえば、あの神社には伊吹達四人の他に誰も来ないこと。神社の名前や所有者、何の神様が祀られているか、伊吹は全く知らなかった。

 かみさま、が、伊吹や汐にここまでしてくれること。それにはきっと何か理由があるはずで、だとしたらそれが何かを調べる事がもしかしたら三人をたすけることに繋がるかもしれない。

 一つ目、二つ目の例えば明日をやり過ごし、適当に理由をつけて三人と別れた。翌日、『十一月二十七日』も学校はサボるつもりで、但し『あの時刻』だけは一緒にいたいから、大体午後三時頃には学校近くで待っているつもりだった。それまでは、ひたすらに神社の情報収集だ。

 汐達三人と別れたその足で、伊吹は役場へと向かった。調べるにはまず神社の名前が分からないと無理だと思ったのだ。

 出来たら、所有者にも話が聞けたらいい。あと行くのは、地元の資料館と神社近くに住んでいる年寄り達。この辺りは伊吹の家から少し離れているため、そこまで顔が効くわけではない。

 役場に着くとよく分からないから適当な窓口で神社について訊いてみる。親切な職員の方が案内してくれ、出来る限り分かることを教えてくれた。

 橘神社。創建は元応二年。西暦に直すと1320年になる。私有地で管理は所有者に一任しているが、その所有者はこの辺りには住んでいないらしい。個人情報だから、とその場で連絡先は教えてもらえなかったが、問い合わせておいてくれると言ってくれた。

 役場でそれだけの情報を得たあと、少し迷った末に伊吹は資料館に向かうことにした。現在時刻は午後四時半。閉館時間は午後五時であるから三十分弱しかいられないが、それでもせめて資料が置いてある場所だけでも知っておこうと考えた。

 資料館はやはり閉館間際とあってか客は誰もいなかった。タイムリミットは十五分、自分で探すのは早々に諦めて職員に声をかける。にっこり笑って案内してくれた職員にお礼を言うと、伊吹は古びた本を手に取って広げてみた。

 この辺りの神社や寺をまとめたもの。その来歴や祀っている神様、総本山、流派、地元にとってどんな存在だったのか。そういったものが書かれており、もしかしたらと期待する。だが、時間が無い。

 その場は諦めて、伊吹は資料館を出た。明日の朝一に来て、時間によって聞き込みと図書館どっちが先かは行動を変える。今日は帰って寝よう、と伊吹は自宅へ足を向けた。

 長い目で、考えよう。

 今回こそ助ける、いつもいつもそう思っていて、そして助けられなかったからきっと伊吹は壊れた。だったら、今回こそと思わなければいい。次があると考えればいい。

 大丈夫、だってもう三十回もループしているのだ。かみさまはきっと、伊吹が諦めるまでチャンスをくれる。そう信じていれば、あのかみさまだ、きっと願いを叶えてくれるだろう。

 ────たったひとつ、よにんでぶじに、

 その願いは叶えてくれないのに。


「伊吹、何かあったの?」

 これからのことで頭がいっぱいだったから、まさか家の前で待ち伏せさせるとは思ってもみなかった。

 思わず漏れたげ、という言葉に、汐が険しい顔をする。言葉を撤回することもできずに伊吹は黙り込んだ。下手に喋ると、色々話してしまいそうだった。

「伊吹」

 詰問口調になる汐を、清春も千洋も止めない。逃げ場をなくして、伊吹はその場に立ち尽くす。伊吹、ともう一度その名を呼んだ汐に、何でもねーよ、と伊吹は笑った。

 ごまかすしかなかった。もう言うつもりはなかった。言わない方がいいと、思った。

 だから、ごまかしだと分からせた上で、ごまかした。

 伊吹が言おうとしなければ、三人は深追いはしてこないと、知っていたから。

「気をつけて帰れよ」

「伊吹っ!」

「千洋、」

 案の定、清春が千洋を止めた。それを逆手に取って、三人を掻き分けて玄関の中に入る。背中越しに伊吹、というばらばらな三人の声がかけられて、閉じたドアを背に伊吹はすとんとしゃがみ込んだ。

 本当は、何もかも全部。

 けれどそれはできない。汐が、清春が、千洋が大事だから、しない。

 このよく分からない事態に、三人を巻き込みたくなかった。汐が昔、伊吹のせいでループを体験しているというのだから、尚更。

 三人が巻き込んで欲しいと思っていたとしても、これだけは譲れない。話したら巻き込んで欲しいと言われることはわかりきっているから。

 だから伊吹は、全部を抱え込んで、その上でたすけたいと、そう決めていた。

 今日は早かったね、という母親にまあと適当に返して、すぐに二階の自分の部屋に向かった。夕飯までは時間がある、その間にまとめられることをまとめておこうと思ったのだ。

 一冊新しいノートを取り出して、役場でくれたメモを書き写していく。まだ有益な情報はない、明日の昼までにはせめて情報を集めなければ。その上で、明日の『午後三時四十九分』の行動を決める。

 その為に、今までのループの状況も思い起こしていった。

 感情のスイッチはとっくのとうに切っている。ただ淡々と、起こった出来事としてのループを思い出し、一回目から順に状況や誰が死んだか、怪我をしたか、どのくらいで死んだか、どんな会話をしていたかなどを思い出せる範囲で書き連ねる。

 どこかにヒントがないか。何かキーになっていることはないか。

 今回ほど頭の回らない自分を責めたことはない。自分一人、ということの大変さと辛さを実感したことも。

 どれだけ助けられていたかを今更ながらに実感した。いつも一緒にいたからそれが当たり前で、なくなったときのことを考えたことはなかった。

 それでも。

 汐に、清春に、千洋に、託されたから。よにんでぶじに、の未来を、『二十九回目』の三人に託されたから。

 頑張らないわけには、いかないのだ。

「……どうすればいいんだよ……」

 どうすれば。どうすれば、四人で無事な未来を迎えることができる。

 書き出していった死因と場所、それらには共通性はないように思える。共通しているのはその時間だけ、人数もメンバーもばらばらで、統一性なんて全くない。

 けれど、本当に無いのか。

 他の共通点。『午後三時四十九分』以外の、共通点。

 『一回目』を思い返して、ふ、と何かが引っかかった。そのまま二回目、三回目、四回目。最後まで記憶をなぞって、それでも何が引っかかったのかには気づけない。

 くそ、と悪態をついて、机の上に紙とペンを放り出したままバレーボールを手に取ってベッドに寝転がった。ただただ無心になりたくて、直上トスを繰り返す。それでも心でぐるぐると渦巻くものは消えることはなく、寧ろ伊吹の中で確実なものとして居座り始める。

 落ちてきたボールを受け止めるとベッド脇に投げて、思い切り勢いをつけてベッドを殴った。布団が音を吸収するから音は響かない。それが余計に伊吹をもやもやさせて、強く舌打ちをすると何も持たずに部屋を飛び出した。

 母親の、焦ったような声が背中から追いかけてくる。けれど伊吹にはそれに反応している余裕はない。

 何もできないのがもどかしくてもどかしくて仕方ない。普段どれだけ三人に頼っていたのか、それを強く強く自覚する。

 感情のスイッチは切った。多分この先、誰かが死んだとしてもまた伊吹はなかったことにするためにループする。だがそれと、自分が何もできないことに関する憤りは別物だ。少なくとも伊吹の中では、それがずっと負い目になって、汐や清春や千洋のように出来ないことで苛まれる。

 かみさまは、どうして。

 どうしてかみさまは汐でも清春でも千洋でもなく、伊吹を選んだのだろうとどうしても考えてしまう。走りながらそれだけを考えて、無意識に辿り着くのは神社。鳥居をくぐって本殿の裏に回る、────その途中で、伊吹、と名前を呼ばれて立ち止まった。

「伊吹」

「ど、して」

「伊吹が、変だったから」

 汐と、清春と、千洋。三人から逃げて、逃げた先に三人がいるなんて。

 考えてみればわかることだ。ここで、昔からよく集まって遊んで喧嘩して仲直りして、今の伊吹達がいるのだから。けれどそこまで考えている余裕はなくて、どうしてここに来たのか、伊吹にもよくわからない。自然と足が向いていたから、ここに来ようとか考えていなかったから。

 目の縁を赤くした千洋が、伊吹を見てぎこちなく笑う。その千洋の肩を抱きつつ汐が伊吹を睨みつけ、清春は二人の様子を見て苦笑する。

 別の場所、と逃げ出そうとした伊吹の腕を、追い縋って汐が捕まえた。睨みつけていたくせにいつの間にかその顔は泣きそうに歪められていて、瞳を揺らして伊吹はその場に立ち尽くすしかない。

「……汐、離して」

「やだっ」

「お願いだから、」

 離して、汐。

 感情のスイッチは、切ったつもりだったのに。会ってしまうと、そんな顔をされると、こうも簡単に揺らいでしまう。

 ふるふると頭を振って伊吹の言葉を否定する汐は必死で、その様子を眺めたまま清春も千洋も寄ってくることはない。二人とも、伊吹にはやっぱり付き合いの一番長い汐が適任だと思っているからだ。そしてその汐も拒否されたときは、きっとどうしようもないことも。

「……そんなにさぁ、頼りないかなぁ」

「なにが」

「変だって言ってるじゃん、伊吹。あたし達、そんなに頼りない?」

「んなことっ」

 そんなこと、あるわけがない。寧ろ、頼りにしてばかりだ。

「じゃあどうして、あたし達を頼ってくれないの?」

「そ、れは」

 答えられない。その問いに答えたら、この状況を『また』話すことになる。

 口を噤んだ伊吹の顔を、汐が下から覗き込んでくる。逃げようにも逃げられない状況に、伊吹は嘆息してすっと汐との視線を外し、もう真っ暗な空を見上げた。

「……関係ねーよ、汐達には」

「うそ」

「ねーつってんの! るせぇ構うなよ!」

「やだよ構うよ! 離さないし! だって変だもん伊吹! なんでそんなに一人で抱え込むの!」

「俺にだって色々あんだよ! 言わねーつってんだろ!」

「伊吹のバカ!」

 勢いよく汐の手を振りほどいた。反動でよろけた汐が倒れ込むのを、助けもせずにただただ見下ろす。ぱたぱたとその瞳から涙がこぼれ落ちていくのから視線を逸らして、伊吹は一言、悪りぃとだけ呟いた。

「……謝んなら、話してよぉ……っ」

「……言えねぇ」

「伊吹の、ばかぁ……」

くるりと踵を返して、神社の裏手に回るために歩き出す。弾かれたように千洋が飛び出してきて、背中から伊吹に衝突した。倒れた伊吹と一緒に転けた千洋の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっている。

 どうして、こんなに。なんでこんなに泣いてるんだよ。

「いかないで、伊吹」

「……なんで」

「だって、なんか、……いつもと、違うから、おかしいって、思って」

「……俺、二人が泣くくらいにはちげーの?」

「ちが、うよ? いつもはもっと、話してくれる……から」

 確かに少し冷たく突き放しているつもりではあったが、二人を泣かせるつもりは全くなかった。けれど、汐も千洋も泣いている。伊吹がおかしいからと、話してくれないと、二人で伊吹を引きとめようとしてくる。

 どうすればいいのか困って、伊吹は清春に視線を向けた。清春は途方に暮れたように笑いながら、固まって地面に転がったままの三人に近寄って、手を貸してくれる。身を起こした汐と千洋の頭を撫で、清春はぽつり、言葉を落とした。

「……俺さ」

 地面に座り込んだまま、伊吹は静かに清春の言葉を待つ。それが分かった清春が、汐と千洋に視線を向けつつ困ったように笑う。

「伊吹は、もっと頼ってくれてると思ってたよ」

「……頼ってる、つの」

「うん、知ってる」

「なら」

 ごめんね伊吹、と清春が言葉を捩じ込んできた。謝られてしまっては何も言えない。きゅっと引き結んだ伊吹の唇を確認して、清春が空を仰ぐ。

「やきもちっていうか、もどかしいっていうか、……伊吹を信じてない訳じゃないんだよ。ただ、俺も汐も千洋も、伊吹が頼ってくれないのが寂しいだけ。俺達に隠し事して、そんな必死になってやってるのに、それを話してくれないのが寂しいの」

「隠し事なんて、」

「俺達に隠せると思ってる?」

 すっと視線を合わせてきた清春は真顔だ。その問いに肯定も否定もできず、そっと視線を逸らして清春の追及から逃げる。けれどそれが答えになることは伊吹も分かっていて、苦い顔をする伊吹に清春が笑った。

「分かってんじゃん、ちゃんとさ」

 そう、わかっている。幼い頃からずっと一緒に育ってきた三人に、隠し事なんてできないことくらい知っている。

 それでも、隠し通さなければと思った。自分一人でなんとかしなければと思った。それが出来ずに、一度は三人に話したけれど。にも関わらず助けることができなかったことは、伊吹の中に途轍もなく重いなにかを残したまま。

 三人に話したら、本当はすぐに解決すると思っていた。だが三人をこの訳のわからないループに巻き込むのは嫌だったから、ずっと話さずにいた。そして話しても変わらないことだと、結局はループを繰り返すのだと、たった一回で伊吹は悟ったのだ。

 巻き込んで辛い思いをさせてまで助からないくらいなら、自分一人が全部背負ってたすければいいのだと。

 だから話さない。だから話せない。

「ごめん、どうしても言いたくねぇ」

 それだけは絶対に。破ることはない、過去の自分との約束。

 そっか、と笑う清春の目から、涙が一粒零れて落ちた。もう一粒、また一粒、次々に落ちていくそれに汐と千洋も酷い顔でまた泣き出す。

 見ているのが辛くて、立ち上がった伊吹は三人を置いて神社の裏手へと走った。背中から声が追いかけてきたけど、それに振り向くことはしない。振り向いたら、きっと決意が揺らぐ。

泣かせたい訳ではない。傷つけたい訳でもない。

 ただ、よにんでぶじに、の未来を、必死になって探しているだけだ。

 果たして四人の仲を拗らせてまで、たすける必要があるのか。違う、そんなの考えずとも答えなんて決まっている。

 四人が元気ならいい。生きていればそれでいい。拗れた仲なんて、生きていれさえすればどうにだってできる。だからとにかく、どんなに仲を拗らせたとしても、伊吹だけは揺らぐことなくひたすらに挑み続けなければならない。

 ────わかって、いる。

「……っくそ」

 でもやっぱり、泣いている三人を置いていくのは辛い。

 自分のせいで泣いているのがわかっているからこそ、ごめんと謝って、ちゃんと隠し事なしに正面から話をして、それで四人でまた考えて。それでたすかればいいと、誰よりも一番思っているのは伊吹だ。

 伊吹以外に、誰も知る人はいないけれど。もし誰かに話したとしても、自分が一番、その未来を望んでいる。そう言い切る自信が、伊吹にはある。

 そんな自信、正直いらない。もっと別のことに自信を持ちたかった。

「くそ……っ」

 自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。けれどただ泣いているわけにもいかない。

 やるしかない。悩むのは、全部終わった後でいい。

 泣いては、いなかった。腹を括れば、あとはもう簡単だ。

 ────どんなことになろうと、絶対にもう悩まねえ。

 例えそれが、何度望まぬ未来になろうとも。


 朝起きて、学校に行く支度をして、家を出た俺がまず向かったのは神社だった。

 時刻は、午前七時。

 遅い時間だと、汐達が迎えに来てしまう。それから逃れるために早めに家を出て、向かう先は一つしかない。

 あの、神社。他に行く当てはないし、行くのならこの場所に決まっている。

 古びてところどころ苔が生えている鳥居をくぐり、水の枯れた手水舎を横目にそのまま木で作られているせいで腐っていそうな賽銭箱の前に立つ。すっと、閉じられた観音開きの扉を見遣った。その向こうを伺うことは叶わない。ぴたりと閉じられていない隙間から伺うも、奥は真っ暗で、何も見ることはできない。

 その見えない中をじっと見つめて、伊吹はかみさま、と心の中で呼びかけた。

 ────かみさま。ぜったいに、

 絶対に、四人で無事に、の未来を。これは伊吹からかみさまへの、文字通り四人の命をかけた挑戦状。

 何のために、かみさまが伊吹達をループさせているのか。

 伊吹にはそれがわからない。きっかけが恐らく伊吹のあの願いだったことは、何となく理解している。それは汐の話でもそうだろうなと推測できる。

 けれど、裏を返せばそれしかわからないのだ。この神社が何を祀っているのかさえ、まだわかっていない。

 『今回』の目標は、この神社についてのことをなるべく沢山知ること。それを持って、次から助ける為に動く。逆に言えばここでどれくらいの情報を集められるかが勝負になる。

 情報は、あればあるだけいい。その方が、取れる対策も、考えられる事態も多くなる。

「……ぜってぇ負けねえ」

 何か、かみさまに勝負を持ちかけられている気がしていた。

 負けてなんて、やらねえ。負けず嫌いの本気、見せてやる。

 半ば睨みつけるようにして口にすると、自分の中にすとんと言葉が落ちてくる。よし、と気合を入れて視線を外し、神社の裏手に回ろうとした、その時だった。

「────伊吹?」

 思わずげ、と漏らしてしまった伊吹はきっと悪くない。

 そーっと声の主に視線を合わせると、汐達三人の姿。

 普通に考えたら当たり前のことで、伊吹にとってここしかくるところがないとなれば、昨日あんな別れ方をしたのだ、今日汐達がここに来ることはわかりきっている。それを考えられなかった自分が悪い。

「ん、おはよ」

「お、はよ……じゃなくて」

「言えること、なんもねーよ」

 釘をさすと、千洋がぐっとおし黙る。汐は何も言わない。清春も、ただ伊吹のことを静かに見つめてくるだけ。

 こうなった伊吹に何を言ってもどうにもならないことを、三人とも知っている。それでいて尚声をかけるのが千洋で、全部受け入れたような顔をして何も言わないのが汐、視線で訴えてくるのが清春。

 ここに来てまで分かれる性格に、伊吹は思わず笑みを零した。それを認めた汐がきゅっと眉を寄せて問いかける。

「何笑ってんの」

「や、本当にばらばらだなって」

「いいじゃん、違うほうがいて楽しいでしょ?」

「ま、そりゃそーだな」

 沈黙。

 ぴんと張り詰めた糸の上を、落ちないように落ちないように、慎重に綱渡りをしている。お互い、とは言っても一対三だけれど、腹の探り合い。表情から何かを探り出そうとする視線に、伊吹は笑ってそれを交わす。

 言わないと決めたのだから、最後まで言わない。幼馴染相手に隠し事なんて不可能に近いが、それでもやらなければならない。

 そう、自分で決めたのだ。

「……伊吹、学校来るの?」

「ん、嗚呼……行かねーよ、今日は」

「何、サボり?」

「いいだろ」

「赤点取っても知らないからね」

「……清春、汐がつめてぇ」

「残念だけど俺も知らない」

 ひでぇなくそ、と悪態をつくと、ぎこちなくだが千洋が笑う。それに伊吹も笑い返すと、くるりと踵を返して三人に背を向けた。

「行けよ、遅刻すんぞ」

「……ん、」

「また、明日、ね?」

「……そう、だな」

 また、明日。

 いつになったら、その言葉を伝えることができるのだろう。

 正確には放課後会いに行くのだけれど、訂正をせずに神社の裏手に回った。ざりざりと足音がしたから、汐達は学校に行ったらしい。木の幹にもたれながらすとんとしゃがみ込んで、伊吹は大きく溜め息を吐いた。

 時間はまだ八時前。どこに行くにも早い時間。

 手持ち無沙汰になって、バッグから一冊のノートを取り出した。昨日の夜、『今まで』のことを記入したノート。ルーズリーフでは足りない。思い出せること、思いついたこと、全てを書き込むにはノート一冊でもぎりぎりだった。

 『次』からは一冊では足りなくなるだろう。二冊目、それがなくなるまでに終わらせられるか。自分自身が壊れる前に、終わらせることができるのか。

「いやまあ終わらせるんだけど」

 じゃないと、約束が。

「……周るか」

 役所や資料館は開いていないけれど、この辺りの近所の人達への聞き込みは出来る。

 バッグの中にノートを放り込み、立ち上がって尻を叩く。直に座っていたから砂がついていそうだ。これから聞き込みに行くのに、そんな格好じゃいけない。

 この辺りは伊吹達の庭、というのは少し気がひける。神社にはよく来るが、その周りには出ることがなく、だから近所の人とはあまり面識がない。

 こんなことならもっと話をしておくべきだった、と思いながら神社を出てまず右に曲がってみた。そこまで詳しくはないし切羽詰まっているわけでもないから、なるべく多くの情報を集めるのが先決だ。

 なるべく古い家。ターゲットはお年寄り。古くからこの辺りに住んでいる人を中心に。

「あ、こんにちは」

「おはよう。あまり見ない顔だねぇ。学校は?」

「ちょっと、授業の一環で。この辺りのことを調べているんですけど」

 見つけた人に声をかける。吐いた嘘は考えておいたもの。制服できたのだから、それを逆手に取る方がきっといい。

「珍しいんだね」

「なんか、今年からって先生が言ってました。それで、今、お時間大丈夫ですか?」

「構わないよ。何が知りたいんだい?」

「それが、この近くにある橘神社って神社のことなんですけど……」

 一通り、神社の周りをぐるっと回って情報を集めた。もともとコミュ力は高いから、人と話をするのは難しいことじゃない。

 それでも、ぱっとしない情報ばかりが集まる。管理人らしい人はこの辺りにはいないこと。これは役場で聞いて知っている。お祭りなどの行事を行っていないこと。これも、何年も入り浸っていればわかることだ。

 知りたいこと、例えばなんのかみさまを祀っているだとか言い伝えだとか、そういうことは何一つ出てこない。いっそ清々しいほどに、何も出てこない。

 どうして。

「あとは……嗚呼、病院か」

 ある一人の男性に、もしかしたら祖母が何か知っているかもしれないと、そのおばあさんが入院している病院を教えてもらっていた。時間は十時。役場と資料館は午後に回しても間に合うだろう。

「……行くしかねーな」

 会えるかどうかはわからないが、もしかしたら、ということを考えると行かないという選択肢はない。

 教えられたのは、『いつも』入院することになる総合病院。面会時間外ではあったが教えてもらった部屋に行くと、四人部屋の窓側、入って左手にそのおばあさんは座っていた。

「……こんにちは」

「おお? こんにちはぁ」

「初めまして。俺、瀬川伊吹っていいます」

「あまり聞かない名前だねぇ」

 どうやら、会話はしっかりとできるらしい。

 座っていいですかと訊くと、どうぞどうぞと椅子を示された。何しに来たんだい、という割に自分から色々なことを話し始めるのはきっと話し相手がいないからだろう。どこの年寄りもおしゃべりなのは変わらない。

「訊きたいことが、あって」

「おや。なんだい? 私の知ってることかね」

「わからないですけど、多分」

 知っていて、欲しい。

「橘神社のことを、聞きたいんです」

 それまで穏やかだった、ように感じていた雰囲気が変わった気がした。すっと視線を動かして伊吹に合わせたそれを、そのままゆっくりと外す。知ってる、そう確信して、伊吹は身を乗り出した。

「教えてください。あそこの神社が、何を祀っているのか。どんな言い伝えがあるのか」

「……大切な人が、いるんだねぇ」

 零したおばあさんの言葉に、深く深く頷いた。

 そう、大切な、ひと。何があっても失いたくない、諦めたくないひと達が、いる。

「ずうっとねぇ、昔からあるんだよ。でも、あそこには誰もこないし、誰も知らない。知っている人も、もう少なくなってきててね」

 口を挟むようなことはしない。ほんの少しの手がかりを、忘れることのないように。

「まさか若い子が知ってるなんてねえ。あそこが知られていたとは思わなかったよ。たまたま見つけたのかい?」

「……まあ、遡ればたまたま。でも、十年くらい前からずっと」

「ほお、そうかい。でもあそこのことは知らなかったんだね」

「……あそこ、は」

 あそこはねぇ、と一度言葉を切った。知らず知らずのうちに握りしめていた拳を緩める。

「時を、遡ることができるんだよ。そうは言っても、簡単にできるわけじゃないんだけどね。詳しいことはなってみないとわからない、云われ伝えられているのはそれだけなのさ。……坊主は、体験した、否しているのかい?」

「……俺は」

「ただ一つ決まりごとがあると言われていてね、無条件で助けられるのは一人までだと。それでも一度で終わるわけじゃないそうだが、詳しいことはわからないね」

 無条件で助けられるのは、ひとり。

 ひとり、だなんて、決められるわけがないし、決めるつもりもない。四人で、と決めたのだから、今更諦めることはしない。

 ただ。裏が取れた、とは思う。

 汐は一度のループで俺を助けた。俺は、何度ループしても三人を助けることができていない。

 それはきっと、この決まりごとのせいなのだろう。もとよりなんの代償もなしに助けるなんて無理だと思っていたから、簡単に助けられないと言われたって、諦めるつもりはない。

「……ひとりじゃないんだね」

「三人、いるんです。俺入れて、四人。どうしても、何があっても諦めたくない奴らが」

 零すと、自分の中にすとんと落ちてくる。考えてみたら、心の中で思うばかりで言葉にしたことはなかったかもしれない。

 すっと手が伸びてきて、とん、と軽く頭を撫でられた。伊吹がきょとんとしていると、そのままわしゃわしゃと掻き撫でられる。

「世の中に、絶対はないんだよ。だからね、絶対に助かる命もないし、絶対に助けられる命もない」

 ぽんぽん、と二回頭を叩かれた。

「けど、絶対に助からない命もないし、絶対に助けられない命だってない。────坊主の思うように、やりなさいな」


 コンビニで弁当とおにぎりを買って、神社でお昼を食べると十一時半を回っていた。

 少なくとも、三時半までには学校に戻っていたい。ここから学校までは歩いて三十分程度。ということは、目安は三時までということで、タイムリミットは二時間半。

 先に、神社の所有者から話が聞いてみたい。昼休憩がかあるのかは分からないが、今から行けば間に合うだろうか。

 悩んでいても仕方がないため、伊吹はとりあえず役場に向かった。歩いて三十分もかからない。『昨日』、訊いた受付に顔を出すと、あ、という声が漏れ聞こえてそちらに視線を向けた。

「昨日の! 来てくれてよかった」

「遅くなっちゃって、すみません」

「いやいや平気! それでね、連絡とったんだけどね。大したことは教えられないけど、それでもいいなら電話番号教えていいって言ってくれてて」

「本当っすか!」

 直接訊いてみたいとは思っていたが、まさか本当に話せるなんて思っていなかった。

「で、これが電話番号。お仕事してらっしゃるから、お昼か夕方なら大丈夫だと思う。一応昨日聞いておいた瀬川さんの電話番号教えてあるから、できたら今から電話したほうがいいかな?」

「あざっす! お世話になりました!」

「はぁい。じゃあまた何かあったら来てね」

 電話番号と名字の書かれたメモをもらって、役場を後にする。どこで電話するのか迷った末、結局落ち着くのは神社だ。

 メモを左手、スマホを右手に持って一度深呼吸。訊くのは、神社のかみさまと、言い伝え。

 零から始まる十一桁の番号を打って、通話ボタンをタップする。一コール、二コール、三コール。五コールを過ぎた頃、耳に飛び込んできた声に一気に緊張した。

『もしもし? 瀬川くんかな?』

「そうです。突然お電話してすみません、」

『いや、いいんだよ。まさか神社について訊きたい高校生がいるとは思わなかったけどね』

 どう反応を返せばいいのか悩んで、閉口する。それが分かったのか、電話の向こうからごまかすような咳払いが聞こえた。

「……訊きたいことが、あるんです」

『俺にわかることは少ないよ。そもそも存在自体しか知らないんだ、行ったこともなくてね。それでもわかることは教えるよ』

「……言い伝え、を、ご存知ですか」

 言い伝え、と繰り返す声がした。返事を待って、伊吹は口を閉じる。

 うーんと唸る声に、あまり知らないのかもしれないと見当を付けた。知らないのも多分、無理はないのかもしれない。この地域だけで受け継がれていることだとしたら、いくら管理者とはいえ土地を離れてしまえば分からなくなることも多いだろう。

「ご存知ない、ですか」

『いや、聞いたことは。確か、助けたい人を助けられる、とか。嗚呼でもこれしか知らないなあ、すまないね』

「いえ……じゃあ、この神社の祭神? って分かりますか」

『嗚呼それなら知ってるよ。ときはかしのかみ、というらしい。正直知らなくて、昨日調べたばかりなんだけどね』

 とき、はかしのかみ。

 ときはかし、とはどういう字を書くのだろう。とき、とは時、だろうか。だとしたら、時間を司るかみさまなのか。だから、あんなに何度もなんどもループができるのか。

 けれど、一つでも情報が増えたらありがたいことに違いはない。

 他に訊きたい情報は、特に今のところはない。このあと資料館にも行くし、粗方聞き込みで聞くことができている。

『他に何かあるかい?』

「いや……多分、これだけで大丈夫、です」

『また何かあったら、電話して下さい。これ以上知ってることもないようなものですけど』

 ありがとうございます、と伝えて電話を切った。ふう、と切れたスマホを握り締めて溜め息を吐く。

 次は、資料館か。

 向かう前に、と、ノートを取り出して追加の情報を書き加えた。ときはかしのかみ。ついでにスマホで検索をかける。

 時量師神。別称時置師神、ときおかしのかみ。生まれたのは、イザナギとイザナミの黄泉での比較的有名な話で、らしい。

 だがその辺りに伊吹は詳しくない上小難しい話ばかりで、理解することは諦めて早々にページを閉じた。

 勢いをつけて立ち上がり、資料館へ向かう。時刻は午後零時三十分過ぎ。タイムリミットまでは一時間半。

 あと知りたい情報はなんだろう。言い伝えのきっかけ、か。何故そう言われるようになったのか。そしてそれが本当だということ、では昔の人達はこのことについてどう思って、実際に利用していたのか。

 昨日教えてもらった本を迷いなく取って、居座るつもりで近くの椅子に座って広げた。目次を見ると索引が付いているようで、橘神社で引いてみる。見つけたページを開くと、昨日と同じようなレイアウトで祭神、総本山、流派、そこまではいい。

 その次、地域の人との関わり。

「これ、短すぎんだろ……」

 期待した程、深いことは書かれていなかった。

「江戸時代、大切な人を亡くした人達が、かみさまを頼って訪れた、……全てが助かるわけではなかった……が、?」

 江戸時代、大切な人を亡くした人達がかみさまを頼って訪れた。全てが助かるわけでなく、幾つか条件があるらしい。しかし、分かっているのは、鍵があるということだ。

「それだけ、かよ……っ」

 否、でも。

「鍵……?」

 なんの、鍵だ。

 鍵が分かれば、なんとかなるかもしれないのに。何が鍵なのか。それは自分で調べていくしかないということか。

「……行こう」

 ────学校へ。汐と清春と、千洋の元へ。


「……いぶきっ」

「ちょ、千洋!」

「汐もバレる!」

「……お前等何してんの」

 学校に行くなり、保健室から出てきた三人に鉢合わせた。

どういう反応を返すべきか悩み、こんな時なのに、と思いながら笑う。変わらない、と思って、変わらないことに酷く安心した。

「アンタ何今頃!」

「待て汐話せば分かる!」

「問答無用!」

 すぱん、と頭を筆箱で叩かれ、容赦なかったその強さに頭を抱えてしゃがみ込んだ。伊吹、と慌てた千洋の声、汐、と嗜める清春の声、そして伊吹と名前を呼ぶ、不意に揺らいだ汐の声。

 ぴたり、と千洋が動きを止める。困ったように清春が笑う。

「……ごめんな、汐」

「まだ、話せないの?」

「……うん、ごめん」

 そっか、と痛々しく笑う。ごめんとも言えなくなって、伊吹はきゅっと唇を結んだ。

「こぉら、何してんの……て、えーと……瀬川くん?」

 暗くなった空気を、保健室から顔を覗かせた養護教諭が破った。ふっと緩んだ雰囲気に、養護教諭が何かを感じ取ったのか中に入りな、と招いてくれる。

 四人揃って中に入ると、奥のベッドを示されてシャーっとカーテンを引いた。伊吹と汐がベッドに上がって向かい合わせに座り、椅子を引っ張ってきて清春と千洋が脇に腰を下ろす。隙間から時計を見やると、午後三時五分を指していた。

「……お前等ずっとここいたの?」

「否、俺は違うよ。さっき来たばっか」

「私は、二限から……」

 唇を尖らせて黙ったままの汐を見た。どうやら教えるつもりはないらしい。そんな顔をされると知りたくなるのはきっと仕方ない。

「汐は?」

「言わない」

「しーお?」

「言わない」

「俺の性格知ってて言ってる?」

 また、黙る。

 状況を忘れ段々面白くなってきて、にやっと悪戯っぽく笑ってやった。こうなったら言わせる、知りたい。

「そうだな、三限?」

「……違う」

「じゃあ昼休みから?」

「違う」

「六限?」

「違います」

 ぷいっとそっぽを向いて、逃げた。そんなことないと思って言わなかったが、まさかとは思う。

「いち、げん?」

「……悪い?」

「朝からいたのかよ!? 学校来た意味ぃいひゃいいひゃい!」

「汐落ち着いて!」

「伊吹のバーカ!」

 ほっぺたを思い切りつねって左右に引っ張られた。千洋がその手を離させ、つねられたほっぺたをに手を当てる。じんじんと痛むそこはほんのりと痛みを持っていた。清春は一人で笑っている。

「ぶっは!」

「何笑ってんだよ痛かったのに!」

「まあまあ伊吹も落ち着いて」

 くつくつと笑い始める汐を恨めしげに見てやった。ここが保健室だということを思い出したのか、俯いて肩を震わせている。変わらず同じく笑ったままの清春をちらっと見て、溜め息を吐くと千洋と顔を見合わせた。

「仕方ねぇよなホント」

「まあ、元はと言えば伊吹が悪いし」

「俺かよ!?」

「え? 違うの?」

 分かったように笑みを浮かべた千洋に味方はいないと悟った。確かに、何も話していないわけだからそうなるのも仕方ない。

 反論できなくなって黙ると、汐にそういえば、と話題を変えられた。お、と顔を上げると笑いの治まったらしい汐にじとーっと睨まれている。嫌な予感を覚えてそっも視線を逸らすと、いーぶき、と作ったような声が聞こえた。

「勉強はしてるのかなぁ?」

「そっち……ってあ、はい、シテナイデス」

「他に何かあるのかなー?」

 口が滑った。安心して、思わず口から飛び出した。

「ったく、隠すならちゃんと最後まで隠してよ」

「まあいつかは聞き出すけど」

「怖っ」

「隠してる方が悪い」

 そう言われてはなにも言えない。

「で、テストは?」

「ノーコメントで」

「ちょっとバッグん中見せて」

「……ちょ、あっダメ!」

 あのノートが入っている、見られたらバレることは必至。しかしノートだけ守ったら余計何か言われそうで、取られかけたバッグを取り返して抱え込んだ。

 ふうん、と意味ありげな顔をされ、どきっとする。それでも渡せるわけがないので、そのまま汐と睨み合った。あと三十分くらい、守りきれば平気だ。

「どうなっても知らないよ?」

「それはだな、」

「知らないよ?」

「……はい」

 そのくらいは、甘んじて受けるしかない。

 時計を確認しながらわあわあと他愛もない話を続ける。一緒に居られる時間は、あと三十分もない。それまでに十分楽しんで、これからのために蓄えておかなければ。

 時間はきっと、いくらあっても足りない。

 時間ぎりぎりまで、伊吹はひたすら喋り倒した。三人も何かに気付いていながら、何かまではわからないから、知らないふりをしてそれに乗ってくれる。

 いつの間にか、時計の針は午後三時四十七分を指していた。

「……伊吹?」

「あ、わり。なんでもねえ」

「なんか時間あるの?」

「いやねーよ」

「てか、俺達荷物取りに行かないとじゃん」

「あーそっか」

「あとでいいだろんなもん」

 荷物なんて、あったって、どうせ。

 視界の隅で、時計の針が動く。午後三時四十八分。

 ごくり、と唾を飲み込んだ。廊下は騒がしいような静かなような。微かに話し声が聞こえるのは、掃除が終わった生徒達だろう。

「あ、瀬川くん達、私ちょっと用事があるから出るよ?」

「はーい」

「先生いってらっしゃい」

 汐の言葉に笑いながら養護教諭が保健室を出て行った。俺たち四人だけが残る。

 くる、そう思って構えた瞬間。

 がしゃん、と物凄い音がした。ぱっと音のした窓側を見る。割れたのは窓、割ったのはどこかから飛んできたボールでもなく、

「な、……っ!」

 ────包丁を持った、不審者だった。

 きゃあああ、と悲鳴が上がったのは窓の外から。何かあるとわかっていた伊吹はともかくとして、汐も清春も千洋も咄嗟のことに動けない。運の悪いことに、清春と千洋が座っていたのは窓側の椅子だった。

「っ清春千洋!」

「や、」

 ぐっと二人の手を引っ張りベッドの上に乗ってもらおうと動く。が、一瞬の静止が文字通り致命傷。

 にやにやと気味悪い笑みを浮かべながら、不審者が清春の背中に包丁を突き立てた。繋いだその手から力が抜ける、固まった千洋に、今度は血濡れた包丁が襲いかかる。

 せめて汐だけは。いくらループしたらなかったことになるとはいえ、そう簡単に殺されたって堪らない。

 するりと落ちた千洋の手を掬い上げることはせず、その惨劇を目を見開いたまま見ていた汐の手を引っ掴む。そのままベッドから降りて逃げようとした伊吹の足が、汐の手に引き止められた。振り返ると、投げ出された千洋の人差し指を握って、ベッドから転落したようだった。

「汐!」

「や、だ……」

「汐離せ!」

「やだ、よ」

「しおっ!」

 そうして、目の前の二人しか認識できなくなっている汐を、

「くっそおおおお!」

 汐の首を、躊躇いもなく切って。

 ばん、と保健室の扉が音を立てて開く。近くにあったパイプ椅子を掴んで、向かってくる不審者に向かって振り下ろす。

 その場に倒れた不審者を、入ってきた教師達が取り押さえているのをただただ眺めた。ぴくりともしない三人を、伸ばされたその手を、目の前で強制的に絶たれたその命を、助けられないことは予感していてでも信じていた未来を、握り潰されて弄ばれた。

 自分の格好を見ると、恐らく汐の血を浴びて紅く染まっている。駆け寄って肩に置かれた手を誰のものかも確認せずに振り払った。

 助からない。三人ともきっと。

 ────かみさま。

 上履きを履き替えるために昇降口に回る時間すら、惜しかった。

「瀬川……!」

 三人を置いたまま、不審者の割った窓ガラスから外へ飛び出した。向かう先は決まっている。これからすることも、決まっている。

「かみさま、」

 ────さあ、ここからが長い戦いの始まりだ。

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