第6話
「例えば明日、」
二十九回目。
我慢できなくなっていた伊吹は、清春のその言葉を聞くなり泣き崩れた。
「……っ、ひっ……っうう」
「……伊吹?」
「ちょっえ、泣いてんの?」
「ねえちょっと伊吹?」
しゃがみこんだ伊吹の周りに三人が集まってくる。まだ生きている、その事実が伊吹を深く安堵させて、零れ落ちる涙は止まることなく溢れ続ける。
もう、耐えられなかった。
助けたいのに、助けられない。必ず誰かが目の前で死んでいく。
何度、誰かが死んでいく『十一月二十七日午後三時四十九分』を繰り返しただろう。何度誰かが目の前で助けられずにいなくなっていっただろう。
――――二十八回。これで、二十九回。
あと一回で、三十回だった。そんなに何度もなんども目の前で幼馴染を失って、平気でいられる方がおかしかった。
それでも、諦める気にはならないのだ。必ず、四人で。そう決めたから、ここで諦めたりしたら、もう立ち直れる気がしなかった。
中々泣き止まない伊吹に、清春が困った顔をして背中をさすってくる。つられて泣きそうになっている千洋は、そっと伊吹の指に自分の指を絡めている。
「とりあえず移動しよう。伊吹、立てる? 神社行こ」
汐の声に頷いて、泣きながら立ち上がった。けれど上手く足に力が入らずにふらっとよろける、それを汐がぱっと腕を掴んで支える。反対側から清春が伊吹の身体を支えた。千洋は静かに伊吹の背中を撫でていた。
汐と清春が伊吹を支え、軽かった伊吹のスポーツバッグを千洋が持つ。その手を離す気には、なれなかった。今だけでも、甘えていたい。生きている証拠を、実感していたい。
神社に着いて余計に安心した途端、心のどこかでセーブをかけていた箍が外れた。移動中はまだ我慢していたのもあって、それがまた拍車をかけていたのかもしれないと思う。
地面にしゃがみ込み、汐を巻き込んだ伊吹は汐に縋り付きながら声を上げて泣いた。
困ったように笑う清春と、心配そうに伊吹を眺める千洋。汐は幼い頃から一緒にいる伊吹の頭を撫でながら、こんなに大泣きしたのを見るのはいつ振りだろうか、と少し的外れなことを考えていた。
「っ、ごめっ、」
「いいよいいよ、泣きなー伊吹」
「そうそう、泣いていいよ」
「我慢しないで全部出しちゃいなー」
「ひぐっ、ううう……」
「はいはい、息はちゃんと吸ってねー」
三人の言葉にこくこくと頷いて、息を整えるために深呼吸をする。しゃくりあげながら泣いて泣いて泣いて、何度か過呼吸になりかけた伊吹は三人に落ち着かせられると、ぷつりと糸が切れたように意識を落とした。
様子の変化に気付いた汐が、その顔を覗き込む。心配で仕方ないという顔をする二人に寝てる、と落とすと、二人は揃って溜め息を吐いた。
「……どうしたんだろう、ね」
「……うん。いつも通りだった、のに」
「……とりあえず、移動しようか。俺ん家来る?」
「ん」
ムードメーカーの伊吹が泣き疲れて寝落ちした。その事実が、汐達三人に何かの予兆というか、途轍もない不安を抱かせる。
気丈に立ち上がった清春が、汐に手伝ってもらって伊吹を背負う。千洋は伊吹の荷物を持ったまま、汐が清春の荷物を持ち、清春の家に向かうべく歩き始める。
三人の間には重い空気が立ち込めていて、誰も喋らないその沈黙が酷く痛い。前を歩く清春の背に乗っかる伊吹向かって、汐は心の中でその名前を呼んだ。
どうして突然、泣きだして、泣き崩れて、泣き続けて、泣き疲れて、寝てしまうまで泣いていたのだろう。その前までの会話や仕草では、そんな様子これっぽっちも見当たらなかったのに。
講演会、が原因なのだろうか。
命を大切にしよう、と言った主旨で、六限目を削って行われた講演会。学校側が何人か人を呼んで、様々な視点から『命を大切にする』ということを話してもらう、といった形式だった。
いじめで自殺した子供の親。難病を乗り越えた男性。煙草や酒の弊害。大麻やシンナー、危険ドラッグによる被害。防げたはずの事故で子供を亡くした親。
全部で五人。持ち時間は大体一人十分程度。普段は五十分授業で質疑応答等を含めると一時間くらいかかったが、この自殺大国と呼ばれる日本でこのくらいの時間のロスなんて大したことないのだろう。
けれど、と汐は伊吹の背中をそっと見つめる。けれど、伊吹は果たしてこの公演を聞いていたのだろうか。
授業は睡眠学習がデフォルトな伊吹のことだ。ディベート形式のような強制的に考えなければならないものならまだしも、ただひたすら話を聞くだけの講演で、しっかり起きて聞いていたとも思えない。
では、ならば、何故。なぜ伊吹は、あそこまで大泣きしたのだろう。
いつもの伊吹とは表情も雰囲気も全く違った。大雑把で適当で雑なくせに、雰囲気だけは柔らかかったものが、ぴりぴりとしたものを纏っていたように思う。
勿論汐の主観でしかないし、正解かどうかなんていうのはない。だが一つ言えるのは、いつもの伊吹ではなかったということだけだ。
物心ついた時から一緒に育ってきた。親同士も仲が良く、家だって徒歩三十秒の距離。だから他の誰よりも、伊吹のことは詳しい自信がある。分からないのは、何があって大泣きしたのか、ということ。
「しーお」
清春に呼ばれて、いつの間にか俯いて下を向いていた顔を上げる。困った笑顔を見せる清春の顔が目に入った。
「あんまり考え込まないでよ」
「だ、って」
「汐だけのせいじゃないから。分からなかった俺等も一緒」
「清春の言う通りだって。ねえ汐、一人で背負おうとしないで。私達もいるから」
ね、と優しく笑う千洋に、汐の瞳からぱたり、と涙が一粒零れ落ちる。
泣くつもりなんてなかったのに、泣いてどうにかなる話でもないのに、伊吹がぼろぼろになるまで隠していたことが辛くて、それを見抜けなかった自分が酷く腹立たしかった。
清春の家は誰もいなかった。父親は仕事、母親は多分買い物にでも行ったんだと思う、という清春がベッドに伊吹を降ろし寝かせる。冷凍庫から持ってきた保冷剤を冷たすぎないようにタオルで包み、泣き腫らした伊吹の瞼に乗せると、漸くひと心地着いたという体で清春が軽い溜め息を吐いた。
保冷剤と一緒に持ってきた麦茶を、汐と千洋は無言で啜る。ぼうっと伊吹を眺める汐は、伊吹の向こうに何かを見ているようだった。
そっと汐に寄り添って、千洋は何も言わずに隣に座った。清春の家に着くまでの途中で少しだけ泣いた汐は、今は落ち着いているらしい。けれどどこか不安定に見える汐が心配で、千洋はその背中を優しく撫でた。
「……ちひろ」
「汐、大丈夫だよ、きっと」
「……うん」
こくり、汐が頷いて、手の中のコップをくるくると回す。少し温めの麦茶が、コップの中でかき混ぜられる。ゆらゆらと揺れるそれがガラス越しに手に当たって温かい。
何かを考えていないと、おかしくなってしまいそうだ。
何でもいい、他愛ないことでいい。何だっていいから何かしら考えていないと、分からないことをぐだぐだと考えて戻ってこられなくなりそうだった。
片手でコップを持った清春が、もう片手で眠る伊吹の頭を撫でた。
いぶき、と呟いた誰かの声が、宙に消える。
どうして、という千洋の囁きが、汐と清春の心を代弁していた。
伊吹が目を覚ました時、部屋の時計はもう既に午後六時を回ってから十分は越えていた。
見覚えのある、けれど自分のものではない天井と部屋。すぐに清春の部屋だと気付き、ではその清春は、ときょろきょろ周りを見回した。いない。
どこに行ったのか、考えてさーっと血の気が引いていく。
もし、今が、『十一月二十六日』ではなく既に『十一月二十七日』だとしたら。
何があった。今度は何が。
どうして自分は起きなかったのだろう、寝てしまったのだろうと伊吹は唇を強く噛んだ。丁寧に掛けられていた羽毛布団を剥いで、ベッドから勢いよく降りる。と、酷い眩暈に立っていられなくなり、その場に膝から崩れ落ちた。
急にブラックアウトした視界が、怖い。心臓がばくばくと早鐘を打ち、気持ちだけが空回りする。
早く、三人は。
がちゃり、と音がして部屋のドアが開いた。どうしたの、と慌てた声が聞こえて、伊吹はそろそろと顔を上げる。目の前に見えた顔は探していたその人で、伊吹は形振り構わず抱きついた。
「きよはる……っ」
「ん、清春ですよー。どうしたの、伊吹。怖い夢でも見た?」
夢。怖い、夢。
そうであったのならどれだけよかったかと、伊吹は心の中で思う。けれど口から漏れ出た嗚咽が邪魔をして言葉にはならずに終わる。
ちゃんといて、言葉を交わせて、安心して思わず溢れ出てしまった涙に、清春は困ったような顔をするとそっと伊吹の頭に手を乗せた。
「ごめんね、伊吹。汐達帰っちゃったんだけどなあ……伊吹、いぶき。大丈夫だよ、大丈夫」
こくこく、と小刻みに頷いて、涙よ止まれ、と念じる。汐と千洋もちゃんと無事だと分かり、だとしたらまだ『十一月二十六日』なのだと知って、やっと落ち着いてきた伊吹の背中を清春がゆっくり撫でた。
ふう、と一つ溜め息。そして深呼吸。
それを何度か繰り返し、ぎゅっと清春の胸に頭を押し付ける。すん、と鼻を啜ると、もう大丈夫と自分に強く言い聞かせた。それからやっと顔を上げる。
「落ち着いた?」
「おう、……ありがと、清春」
「いいよ。たまには弱味見せてもらわないとね」
そう言って笑った清春に、ぎこちない笑みが零れ落ちる。清春は伊吹の頬をつんと突くと、そっと時計を指さした。
「家、別に伊吹から連絡入れなくても大丈夫だとは思うけど。……伊吹今日泊まりね。連絡はしてあるから決定。いいって言ってたよ。ちなみに汐と千洋も汐の家でお泊り中。明日は学校サボるから」
「え、あ、うん、……うん?」
「あれだけ泣いて今も泣いて、何もないとは言わせないから。明日ちゃんと話してもらうよ」
「……ん」
一拍置いて、首肯する。唐突かつ怒涛の情報に、思考がショートしそうだった。
伊吹は清春の家でお泊りで、千洋は汐の家でお泊り。どうやら母親への連絡は済んでいるらしい。
どこまでどう話したのだろうか、とは思うが、母親のことだからいつも伊吹が一緒にいるこの幼馴染に一任してくれているのだろう。そう、『二回目』のように。
明日は学校サボるのか。
どう変わっていくのだろう、と漠然と思った。明日の、『十一月二十七日午後三時四十九分』、果たして伊吹達はどこへいるのだろう。どうなってしまうのだろう。
ちゃんと、生きる。たすける、と決めた。でも、約束は果たせないまま。いつの間にか、精神はぼろぼろになっていた。
もうごまかせないと思った。今までの二十八回、一度として話したことはなかった。けれどもう限界だったし、あそこまで大泣きしてこの三人相手に言い逃れなんて出来ない、と伊吹には分かっていた。
「保冷剤、もらってきた。これで冷やしときなよ、目。ご飯は?」
「たべ、たい」
「下行く? 持ってくる?」
「……わりい、持ってきて」
「謝るなよー。分かったから、大人しく目ー冷やして待っててね」
「ん」
保冷剤とタオルを受け取って、部屋を出ていく清春を見送った。残された伊吹はベッドを背凭れにして天井を仰ぐ。そのままタオルに包んだ保冷剤を閉じた瞼の上に乗せると、ふうっと溜め息を吐いた。
泣きすぎたせいだろうか、ストレスとパニックから一時的に解放されて疲れが出たせいだろうか。頭がずきずきと痛んで、まともな思考回路はきっと回っていないのだろう。
そうじゃなきゃ、誰もいないからってすぐに『十一月二十七日午後三時四十九分』以降に思考は直結しない。敏感になっているのは仕方ないし、自分でその自覚はある。
それを汐も清春も千洋も分かっていたからこそ、明日学校をサボって多分話をすることになるのだと、思う。
向き合わなければ、ならない。
今までずっと、言わずに来た。ひとりで頑張って乗り越えようとしてきた。
それが間違いだとは、今でも思っていない。ひとりで頑張ってきたことを後悔もしていない。
確かに、毎度毎度誰かしらが死んでいく事実は、まだたった十七歳の本の高校生の伊吹が背負うには大きすぎるものだ。いっそ誰かに話してしまえたら楽になると、それはこの何回ものループの中で考えたことは一回ではない。それが第三者ではなくて三人の誰かだったらもっといいかもしれない、と考えてことだって、ないとは言えない。
だが、言わない。言えない。
こんな苦しい思いをするのは、自分ひとりで十分だと、伊吹はずっと思ってきた。だから言わなかった。
ループしていることを、毎回誰かが死ぬことを、その度に伊吹がループを繰り返していることを。言わなかった、言えなかった、言いたくなかった。
言ってしまったら決意が全て崩れていく気がした。それでも傷ついていく心をごまかし通せるはずもなかった。
まだ、高校生なのだ。幼馴染の死ぬ瞬間を何度も見て、大丈夫なわけがないのだ。
決める。自分自身と約束をする。
全て、話すと。きっと大丈夫、今までに決めた決意は崩れたりはしない。
どんなことになったとしても、たすけると決めているから。
今度こそ全員で無事に『十一月二十七日午後三時五十分』を迎えると、決めているから。
だから、かみさま。
「伊吹」
片手でドアを開けた清春が、するりとその隙間から身体を滑り込ませて折り畳み式のテーブルの上に夕飯が乗ったお盆を置いた。大きめのそれには二人分の食事。もしかしなくても伊吹と清春の分だろう。
清春のおばさんが気を使ってくれたことを察して、伊吹は全てが終わったらお礼を言わないとな、と思う。そう考えられるようになっただけ、少し余裕が出て来たのかもしれない。
ずるずると自分の身体を引きずるようにしながら、清春の並べた夕飯の前に座った。手を合わせて、いただきます、と掠れた声で呟く。泣きすぎたせいだろうか、声が出しにくいということに今更ながらに気付いた。
どこまで話を聞いたのか、もしくは清春が話したのかは分からないが、出来たての雑炊はしっかり伊吹の食べる量を分かっているようで、ご飯茶碗ではなくどんぶりによそられている。野菜たっぷりのそれを一口掬うと、二三回息を吹きかけてから口に入れた。
久しぶりに食べた雑炊は、ご飯と野菜の自然な甘さがふわっと香る。卵の薄い黄色を纏ったご飯はちょうどよく煮込まれていて、疲れた身体によく染み渡るようだった。長ねぎのお吸い物も馴染んだ味付けで、何度もなんども繰り返してきたループの中で、こうして落ち着いてご飯を味わって食べることがなかったことに気付いた。
暫く伊吹も清春も無言で夕飯を食べ切り、清春が食器を返しに行くのを見送ってベッドに上がった。横になって瞼の上に保冷剤を乗せる。
ひんやりとした感じは続いているものの、ご飯を食べている間にはやりそれも和らいでしまっていたようで、けれど伊吹にはそのくらいがちょうどいいような気がした。
小さく吐息を吐いて、そっと瞳を閉じる。泣きすぎたせいかそれとも寝過ぎたせいか、身体が何処となく怠いと感じた。
伊吹、と名前を呼ばれながら揺り起こされて、自分が寝ていたことに気付いた。見ると清春が濡れた頭をタオルでわしゃわしゃと掻きながら伊吹を見下ろしている。
「風呂、空いてるから。着替えはそこね、入ってきなよ」
「ん、わりぃ」
「いいからほら、さっさと入る! んで、今日はもう寝よ」
「ん」
着替えを持たされて、もう場所はすっかり把握してしまっているお風呂へ向かった。途中でリビングに顔を出すと、清春の両親が揃ってテレビを見ている。
伊吹の方を向いて、あ、というような顔をした二人にぺこんと頭を下げると、すぐに頭を引っ込めた。多分酷いことになっているであろう顔を、あまり晒したくはなかった。
軽くシャワーを浴びて、湯船には浸からずに出てしまう。怠すぎて風呂で寝てしまっては目も当てられない。全部終わったらちゃんと入ろう、と決めて、すぐに風呂から出た。
濡れた頭をタオルで拭きながら清春の部屋へと戻る。別の部屋から持ってきた布団を広げて、清春は伊吹こっちね、とベッドを叩いた。
「いや、清春がベッドで寝ろよ」
「いーから今日は言うこと聞きなさい。ほら寝る!」
「え、あ、うん」
なんとなく抗えずに、素直にベッドの中に身体を滑り込ませた。満足そうに笑った清春が、まるで幼子の頭を撫でるかのように伊吹の頭を撫でてくる。それを甘受してそっと目を閉じると、自分でも思ったより早く眠気が訪れ、抵抗せずに意識を落とした。
翌、十一月二十七日。
伊吹、と名前を呼ばれ、そうっと瞼を開ける。飛び込んできた光に一瞬目を細め、次いで見えた光景に伊吹は思わず飛び起きた。
「なんで、」
「おはよ、伊吹」
「伊吹おはよう」
「おうおはよう……じゃなくてだな」
覗き込んできていた瞳は六個、三対。紛れもなく汐、清春、千洋の三人である。
飛び起きた伊吹から頭突きを食らいそうになったのを三人は間一髪で避け、それぞれ部屋の好きな位置に腰を下ろした。
「なんでいる?」
「迎えに来た」
「……どっか行くのかよ?」
「ここで話せるの?」
汐の問いかけに口を噤んだ。多分言えないだろう。ここではきっと。
行こう伊吹、と千洋が優しい声で誘う。こくりと頷いて、伊吹は清春の伸ばした手を取った。
支度をしてすぐ、財布だけを持って四人で外へ出る。向かう先は、決まっている。誰も確認なんてとらないけれど、そんなことしなくたって行き先は一つ。
神社。
清春が地面にぺたりとお尻をつけて座った。隣をとんとんと叩く清春に迷ってから、背中合わせになるように腰を下ろす。それを見た汐と千洋はそれぞれ伊吹の左隣と右隣に背中合わせに座って、四人で背中を突き合わせる形になった。
朝は十時を回っていた。
親から連絡が来ないのは、きっと汐達が手を回しているからなのだろう。正直なところ、今は何よりも四人のことだけを考えていたかったから、その気遣いがありがたかった。
ずっと、助けを求めていた。心の中で、ずっと誰かに話したくて助けて欲しくて堪らなかった。
けれどいざその手段を手にしてしまうと、今度はとんと言葉が出て来なくなってしまう。
一向に口を開こうとしない伊吹を急かすでもなく、汐達は何も言わず静かに伊吹を見守っていた。
何か言わなければと思い、口を開きかけはするのだが、その先の言葉が出て来なくて結局口を閉じる。それを何度もなんども繰り返し、伊吹は漸く腹を括った。
大丈夫、分かってくれる。助けてくれなくても、いい。ただ誰かに言いたい、一人で抱え込むのは、辛い。きっと汐達なら支離滅裂でもちゃんと理解してくれる。
だから、大丈夫。だから、お願いだから、
「――――死なないでっ」
その言葉を皮切りに、今までずっと言えずに溜め込んでいた言葉全てが口から雪崩れ落ちた。
清春の、『たとえばあした』。二つ目の、それ。最初は汐と清春が交通事故で死んだこと、神社で祈ったら、ループをしていたこと。たすけようと頑張ったのに、二回目は誰もたすけられなかったこと。何かが起こるのは決まって『十一月二十七日午後三時四十九分』だということ。ループをしても、今までの記憶はちゃんと残っていること。たすけるために何度もなんどもループをしているのに、どう頑張っても全員をたすけることはできていないこと。
「たとえばあした、誰かがいなくなったとしたら」
何度だって、全員助けるためにループを繰り返す。助かるまで、助けるまで。四人で『十一月二十七日午後三時五十分』を無事に迎えられるまで、何度でも。
たすけると、決めたから。たすけるまでは諦めないと、決めたから。
でももう限界だったのだ、と。そう零すとまた涙がぶり返してきて、伊吹は涙声で叫ぶように、ずっと言いたかった言葉を吐き出した。
「何で、死んじゃうんだよお……なんでおいてくんだよぉ……」
「い、ぶき」
「わか、んねえよ……どうしたら、全員で、無事に」
たすけたいのに、救いたいのに。
必死で伸ばした手は届かずに、直前で嘲笑うかのように何かが掻っ攫っていく。
時には、ひとり。時には、ふたり。時には、三人とも。
何度も悔しい思いをした。何度も目の前で誰かが死んでいった。だからその分、何度だってループしてやった。
背中の温もりが消えて、不安になった伊吹に今度は正面から温もりが抱き着いてきた。汐だった。それにみっともなく縋り付いて、伊吹は何かを吹っ切るようにわあわあと泣いた。
「たとえばあした、誰かがいなくなったとしたら、あたしは、あたしも、たすけるよ」
「俺、も。伊吹だけには、させない」
「わ、たしだって! たすけ、る、」
清春は後ろから、千洋は横から、それぞれ伊吹に抱きつく。言いたいことだけ落とすと、三人も伊吹につられて泣いた。
やっと吐き出せたことが、四人揃っていることが、ただ嬉しくて。
伊吹ひとりに辛い思いをさせてしまっていたことが、許せずに。
悩んでいたのに今までの自分が何もできなかったことが、悔しくて。
それぞれがそれぞれの想いを抱えて、ひたすらに泣いた。伊吹も汐も清春も千洋も、込み上げてくるものをどうにもできなかった。
こうして四人で泣くのは、初めてのことだ。そもそも四人が泣くこと自体が珍しかった。
暫く泣き続け、泣き腫らした汐の顔を見て、伊吹が思わず笑う。けれど涙はまだ止まることはなく、後からあとから流れ続ける。
それを四人で繰り返し、漸く泣き止んだのは正午を三十分程回った頃だった。
四人で団子になったまま呼吸を落ち着かせ、伊吹ははあ、と溜め息を吐いた。服が汚れるのも構わず、剥き出しの土の上に横になる。それに汐達が倣い、四人は並んで横になった。
「寒くね?」
「うん寒い」
「千洋、声」
「言わないでぇ」
「というか千洋だけじゃないでしょ」
「それな」
泣きすぎたせいで枯れた声。正直なところ頭も痛い。
あーと声を上げるといぶきーと間延びした声が聞こえた。なんだよ清春ーと同じような調子で返すと頭痛いと返される。
「俺も痛い」
「あたしは喉が痛い」
「私は両方……」
「頭がんがんするー……」
このままここにいてもいいのだが、恐らく顔が悲惨なことになるだろう。
あした、を信じるのなら。否、あした、を信じたいから。
ゆっくり起き上がって帰ろう、と声をかけた。おーだのうーだの唸り声を上げながら起きる三人の手を引っ張り、互いに背中の砂を叩き落とす。んーと背伸びをしてから脱力すると、どーんと効果音を自分でつけながら清春の背中に激突した。
よろけた清春が、何とか踏ん張って伊吹を支える。もう、と苦笑した千洋、汐はすぱんと伊吹の頭を叩いた。
「い、てえ……」
「危ない」
「すいません」
「まあまあ帰るよー」
「清春んち戻るでしょ?」
「うん」
だらだらと四人で歩きながら他愛ない話をする。じゃれあいながら帰る道すがら、伊吹はそっと見えなくなった神社の方を盗み見た。
――――かみさま。
もう、解放してほしい。本当はもう、酷く苦しい。
伊吹、と名前を呼ばれる。視線をぱっと外して三人の方へ追いつくと、早く帰ろう、と背中を押した。
午後零時五十二分。『あの』時刻まで、あと約三時間。
清春の家に着くと、冷蔵庫から保冷剤を幾つか貰って清春の部屋に上がる。清春の母親はおらず、適当にあったカップラーメンを四人で啜って昼食は済ませた。
清春の部屋で呼んで雑魚寝形式に寝転がる。すうすうと聞こえてきた二人分の寝息の主を探すと、清春と千洋だった。瞼の上に保冷剤を置いている二人はどうやら視界が暗いせいで寝てしまったらしい。
「……伊吹」
「んー?」
「……あのね、伊吹」
汐の緊張した声に、伊吹は半身を起して汐を見た。汐が天井に視線を向けたまま、言おうか言うまいか迷っているのを見てまた身体を倒す。
何かを決めたのか、汐が話し始めるまで伊吹は一言も発さないでいた。
「……伊吹さあ、小一の時池に落ちたの覚えてる?」
「え? ……あ、うん」
汐の問いに、肯定する。そのことは朧げながらも覚えていた。
小一の、あれは冬だった。あの頃はまだ清春や千洋とは知り合っておらず、伊吹は汐と二人で町中を駆けずり回って遊んでいた。もう神社の存在も知っていたから、神社で二人で遊ぶことも少なくはなかった。
その日は冬でも比較的暖かい方で、前の日天気が悪かったせいで外で遊べなかったから、その反動とでもいうように伊吹は汐を連れて外へと繰り出していた。その途中で、何を考えていたのかは自分でも覚えていないが、伊吹は汐の目の前で池に転落したのだ。
汐が近所の人をすぐに呼んでくれたお陰で生きているが、もし呼ぶのが三十分遅かったら死んでいた、と言われたことがある。
それが、と問うと、汐はあのね、と繰り返して、すっと伊吹に視線を合わせた。
「あの時、伊吹、一回死んでる。……あたし、ループしたこと、あるんだ」
「……え、」
「あの日、伊吹が池に落ちて、あたしどうすればいいのか分からなくて、ずっと泣いてて。通りかかった人が伊吹を池から引き揚げてくれた時はもう、伊吹、……息してなかった」
嘘、と掠れた声が漏れた。汐が一度言葉を切って、唾を飲み込む音が響く。
「訳が分からなくて、伊吹が死んだなんて信じたくなくて、あたし、神社行って、泣いて、今度はちゃんと助けるのに、って……そしたら、伊吹があたしを遊ぼうって誘いに来たところだった」
「汐……」
「訳分かんなかったけど、たすけなきゃって思って、……伊吹が知ってるの、多分こっちだと思う」
汐の言う通り、伊吹が持ってているのは汐が助けてくれた時の記憶。一度死んでいたなんて今まで知らなかったし、そんなことがあったなんて考えたこともなかった。
汐はずっと、この事実を抱えてきたのだ。ループしている間の記憶を持っているのは、ループした本人だけ。だからどんな結果で終わろうとも、ループした本人は誰にも知られない傷を負う。
例えその事実を、誰かに話したとしても。
「……清春達は?」
「知って、る。昔話した、から」
あ、と思った。『四回目』の、汐と清春、そして千洋のやり取り。二つ目のたとえばあした、に千洋より先に反応して噛み付いた汐を、千洋は困ったように宥めていて、清春も、やはり何処か困ったような笑みを浮かべていた。
それらは何があったのか分かっていたやり取り。知らなかったのは、伊吹ひとりだった。
少しだけ、なんでだという気持ちはある。だが伊吹だってここまで話そうとしなかったのだ。伊吹が汐の立場だったとしても言わなかっただろうし、そこについては何も思わない。
そして一つ、思い出したことがある。伊吹が死にかけているのは、小一の一回だけではない。その後、四人揃ってからも、一度死にかけているのだ。
あれは小六の秋。九月末とか十月とか、少なくとも今よりはもう少し暖かかった頃。後遺症はなかったものの、伊吹は三人の目の前で交通事故に遭っていた。
二週間程の退屈な入院生活を終えて、伊吹は三人にどっきりを仕掛けようと退院したことを言わずに神社に隠れていた。そこで在り来たりではあるが、連れ立ってきた三人の目の前に飛び出して行ったのだ。
そうしたら、そう――――『二回目』、ループする直前に思い出した、千洋が過呼吸に陥った記憶。あれはこの時の事で、千洋は昔、目の前で仲の良かった近所のお兄さんを亡くしたのだと言っていた。
そんなことがあったのと、突然出てきて驚いたのと、いつも通りだった伊吹に安心したせいで涙が止まらなくて、過呼吸に陥ってしまったらしかった。
そっか、と落とすと、そうだよ、と返される。もう一度そっか、と呟いて、伊吹は汐に視線を向けた。
「汐、ありがとな」
うん、と頷いた汐の声が揺れていた。それに気付かないふりをして、伊吹はそっと瞳を閉じる。
汐が助けてくれなかったら、汐がループしてくれなかったら。伊吹はここにいなかったし、こうして四人で遊ぶこともきっとなかっただろう。勿論、こうして伊吹がループすることも。けれど汐が頑張った末の未来だとするなら、やっぱり助けるまで何度だってループすると誓う。
「……ねえ伊吹、ありがとね」
震えた声で、汐が囁いた。それに小さく笑って、心の中でかみさま、と呼びかける。
――――かみさま。
どうしてここまで邪魔をするのだろう。何かが、足りないのだろうか。だとしても、どうしたら助けることができるのだろう。いつになったら、四人で、『明日』を迎えることができるのだろう。
――――なあ、かみさま。
何度だって、助けるまでループすると誓う。けれど、かみさま。もう限界だ。だから、頑張るから。これで終わりにさせて、と。
汐の寝息が聞こえてきて、伊吹はふっと瞼を上げた。視線を動かして、汐や清春、千洋の寝顔を盗み見る。
これで、終わりにする。今度こそ全員助けて、終わりにする。
すうっと眠りに引き込まれそうになる。それに抗うことなく、伊吹は襲ってきた眠気に身を任せる。
――――かみさま、
こんど、こそ。
それを最後に、伊吹は眠りに吸い込まれていった。
焦げ臭い匂いが鼻について、目が覚めた。
嫌な予感を覚えて、伊吹ははっと飛び起きる。周りでまだ寝ていた三人を、必死で揺らした。
「汐、清春、千洋っ! 起きろ!」
ぱちぱちと、何処かで何かの爆ぜる音が聞こえる。そしてこの焦げ臭い匂い。
火事だ。
たすけると、決めた。これで終わりにしようと、かみさまに、祈ったのに。
「起きろよ……っ」
「い、ぶき? ……起きて二人共!」
泣きそうになりながら呼びかける。と、汐が漸く目を覚ましてくれた。すぐに異常な事態に気付いて一緒に清春と千洋を叩き起こす。すぐに目を覚ました二人が強張った表情をして、逃げよう、と清春が強く言った。
急いでドアを開けると、むわっとした熱気が容赦なく襲ってくる。直接火は見えないが、それでも明らかに火事だということは全員が理解していた。
先に三人を逃がそうと伊吹が汐の手を引っ張ると、清春がとん、と軽く伊吹の背中を押す。なんで、と勢いよく清春を振り返ると、清春が真剣な顔をしていた。
「伊吹先行って! 俺が殿務める!」
「やだ、俺が、」
「いいから! ほら早くみんな助からなくなる!」
ひゅっと息を呑んで、汐の手を引いてドアをくぐった。そんなことを言われたら、行かないなんて選択肢を選べるわけがない。
先頭を伊吹、その後ろに汐、千洋と並び、殿を清春が務める。煙の充満し始めた家の中を、腰を低くしながら摺り足で、だが急ぎながら階段を降りて、玄関が漸く見えてくる。
見えてきた火と、強くなっていく焦げた匂い、そして濃くなっていく煙。頑張っても吸ってしまう煙が喉を通過していき、ひりひりと痛い。もっと腰を低くして、新鮮な空気を吸おうとした、時だった。
千洋の悲鳴と清春の慌てた声が聞こえた次の瞬間、伊吹は汐に思い切り突き飛ばされていた。
「伊吹っ!」
「危ない!」
「って、」
抗議しようと後ろを振り向く、その声を目の前を通過した何かが掻き消した。ばりばり、と音を立てて落下したきたそれ―――天井に、ぱっと視線を上へ向ける。剥き出しになった梁に心臓が冷えて、あっと思った伊吹は再び汐達に視線を向けた。
――――分断された。
容赦なく伊吹と後ろの三人を隔てたそれに、情けない顔をする。
なんで、たすけると、決めていたのに。
熱気は更に増していき、もう既にちらちらと火が見えてきていた。どうやら清春の部屋とは反対側から燃えてたからまだ被害が少なかったようで、玄関は火の手に近いのか炎は柱や壁を嘲笑うかのように舐めていく。
「いやだ、しお、きよはる、ちひろ」
「伊吹、行って!」
「やだ、」
「行ってよ、伊吹」
「いぶき」
燃え盛る天井を気にせずに、汐達に手を伸ばそうとする。それを、汐が必死になって訴えた。いやいやをするように首を振った伊吹を、清春と千洋が優しく諭す。
だって、これで終わりにすると。ちゃんと無事に『午後三時四十九分』をやり過ごすと、きめていた、のに。
近くにあった部屋の時計を仰ぎ見ると、時刻は『午後三時四十九分』を示していた。
「伊吹、お願い」
「任せたよ、伊吹」
「伊吹、ごめんね」
諦めたように笑う三人に、伊吹は唇を噛み締めて立ち上がった。もう直ぐ近くまで、火の手はきている。今ここで逃げなかったら、それこそ四人で死ぬことになる。
ここまで頑張ってきた。だからこれで終わりにしても、いいんじゃないかと思った。
――――でも。
かみさま。なんどでも頑張ると、誓ったから。
「……っくそ」
三人に背中を向けて、玄関へと走り出す。泣きそうになるのを堪えて、伊吹は強くつよく唇を噛み締めた。
家から飛び出すと、燃え盛っているのがよく見えた。門の外には野次馬や近所の人達、そしてたった今到着したばかりらしき消防車と消防士の姿も見える。それに構うことなく、伊吹は直ぐにバケツを探し出すと外の水道へ噛り付いた。
勢いよく水を出して、バケツの中を水で満たす。それを被って、また家の中へ入って、三人を助け出す。
まだ、諦めない。ぎりぎりまではなんだってしてやると、出来ること全てやり尽くしてから次に行くと、だってまだ生きているから、死んでいないから。だから、と、決めていた。
けれど、後ろから羽交い締めにされた伊吹は、抵抗虚しく門の外へ引き摺り出された。
「離せよ! 離して!」
「止めなさい! 君が行ったところで何も出来ない!」
「それで、いい! 中にまだ、いるんだよ……!」
「無茶だ!」
流石の運動部でも、現役消防士から逃れることはできない。暴れるだけ暴れ、準備が整って放水を始めたのを見て、伊吹はふっと意識を手放した。
意識が戻った時、見えた天井は白かった。
段々と見慣れてきた、病院の天井。口についている酸素マスクを外して、辺りを窺う。誰もいなさそうなのを確認して、伊吹はそっと病室を抜け出した。
外は真っ暗で、どうやら深夜らしい。身体は特に外傷はないから、最早勝手知った夜の道を走る。
息苦しいのは恐らく気道熱傷のせいだろう。『前回』と同じような感じだから、きっとそうだ。
――――『伊吹、お願い』
お願い、なんて、言うな。お願いなんてされなくても分かってる。お願いなんてされなくても、何度だって繰り返す。
――――『任せたよ、伊吹』
言われなくても、任されるに決まっている。だって誓った。何度でもたすかるまでループすると、誓ったから、だから。
――――『伊吹、ごめんね』
謝らないで欲しい。伊吹ひとりに背負わせちゃって、なんて、思っていることくらいわかる。けれど伊吹自身が決めてやっていることだから、謝らなくていいのに。
それでも、もういいよ、と言わない三人に救われている。たすけるまで何度だって、と決めているのにもしそんなことを言われたら、これ以上酷なことはないだろう。
もう一度、お願い。俺達のこと、任せたよ。伊吹ばっかり、ごめんね。
汐も、清春も、千洋も。伊吹も含めて四人共同じ未来を望んでいて、それを託してくれている。辛いことを、苦しいことを、分かっていて尚、三人は伊吹を信じてくれているのだ。
ばか、と吐き出した声は誰にも届かない。溢れそうな涙を拭ってくれた誰かはいない。
「かみさま、」
辿り着いた神社の真ん中で、伊吹はしゃがみ込んで想う。
限界なのは変わらない。たすける気持ちも変わらない。けれどこのままだったら、たすける前に伊吹自身が壊れてしまうような気がした。
だから、伊吹は決める。三人をたすけるために、四人で『十一月二十七日午後三時五十分』を迎えるために、決める。
――――心を、捨てると。
もっともっと長いたたかいに、きっとなる。その都度『感じて』いたら、今度は今回では済まないようなくらいまで壊れてしまう。
そうしたらたすけられないし、例えたすかったとしても、四人で無事に、という目標すら、達成できなくなってしまう。
たすけたいから、こそ。どんなことをしてでも、たすけたいと思うから、こそ。
「――――かみさま」
たすけたいから。たすけると決めているから。どんな手を使ってでも、たすけると決めているから。
――――なあ、かみさま。
四人で、無事に。
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