第4話

「例えば明日、」

 清春の真剣な声が聞こえてきて、伊吹は内心ほっとして溜め息を吐いた。

 『四回目』の『今日』。ループしたいと願ったのは伊吹自身、だからもう泣くようなことはしない。と言っても泣いたのは『二回目』だけだが、それでも気を抜いてしまえば泣きはしなくても安心して溜め息を吐きかけたり、四人が揃って嬉しくて笑ってしまいそうになるのを我慢する。

 一つ目の『例えば明日』の間だけでも四人でなんてことない話ができる日常に浸っていたくて、伊吹は色々と考えを巡らせてしまいそうになる思考を切り替えた。せめて、今だけでいい。今だけでいいから、日常に浸らせてほしい。

 今までに少なくとも六回は聞いた言葉を放った清春が、ふと歩みを止める。つられるようにして足を止めた伊吹と汐と千洋に、清春はその続きを投げた。

「地球が滅亡するとしたら、どうする?」

「世界一周したい」

「色々、お世話になった人のところに行きたいなあ」

 間髪入れずに汐が答え、次いで千洋が口を開いた。答えは決まっているし『今まで』と変えるつもりもないが、伊吹は答えずふいっと清春に視線を向ける。

 伊吹の考えていることなんて知らずにいる清春が、視線に促されて口を開いた。

「俺は何もしない、かなあ……」

 一つ目の『例えば明日』では、『二回目』も『三回目』も汐、千洋、伊吹、清春の順に答えている。『一回目』はループの存在を知らなかったからノーカウント。これを崩して何か変化があるとは考えにくかったが、何となく清春に先に答えてほしかった。

「え、何もしないの?」

「うん」

 清春の答えに思わずといった様子で千洋が問いを投げた。素直に肯定した清春に、そういえば理由を聞いたことはなかったな、と思う。いつもは伊吹が先に行って、清春は自分の答えを言いつつ伊吹に突っ込む形になっていたから。

「だってさ、唐突に言われてみなよ、明日地球が滅亡しますって。何やるか分かんなくて結局何もしないで過ごしそう。だったらもういっそ最初からやることなくしちゃえばいいんじゃない?」

「嗚呼、それ分かるかも」

「いやちょっと待とうよ、それ凄く質問の意味なくない? それを考えるための質問じゃないの?」

「……まあ、そんなこともあるよね」

 うっかり、といった表情でちろっと舌を出した清春を汐が小突いた。一度納得した千洋は苦笑いだ。

 二人の視線から逃げるようにさ迷った清春の視線と伊吹の視線が絡んだ。その視線が、伊吹は、と問いかけてきているのを見て、答えを口に乗せる。

「俺は死ぬな、先に」

「え、伊吹死ぬの?」

「清春よりマシな答えじゃない? 質問の意図を考えると」

「ちょっ汐、それは言わないお約束」

「って言うのがお約束でしょ」

「二人ともそこじゃないってば!」

 汐と清春のテンポのいい掛け合いに伊吹は吹き出した。伊吹と汐もお互い息の合った掛け合いをしているのだが、本人達に自覚はない。伊吹と汐、二人の方がこういうやり取りは多いが、案外汐と清春も多かったりする。

 多分汐が突っ込み役だからかな、一瞬考えたがすぐに打ち消した。一番の突っ込み役は千洋だ。汐と男子組が話していて汐が突っ込みに回るのは、恐らく伊吹と清春がボケに回ることが多いせいだろう。


「んで、伊吹は何で死ぬの?」

「え、苦しいのやだから」

「苦しいの?」

 そりゃ嫌だけど、と汐が言うが、納得はできていないらしい。

 それを分かった上でおう、と頷くと、伊吹は言葉の続きを口にした。

「地球がどうやって滅亡すんのかわかんねーけど、俺溺死と窒息死はしたくねえ。苦しいって言うじゃん。だから先に苦しくない方法探して死ぬ」

「あー……それは分からなくもない、というか」

「確かに苦しいの俺も嫌だなあ」

「あたしはそうだけど……でも自殺ってのはちょっと」

 苦い顔をして汐が三人から視線を逸らし、どこともない虚空を睨む。のだが、真剣な汐とは対照的に伊吹はふと気づいて声を上げた。

「自殺になるのか一応!」

 考えたことはなかったが、確かにそうかもしれない。

 死ぬとなると自分で死ぬか殺してもらうかの二つ。要は自殺か他殺か。例えば明日、なわけだから、病死というのは限りなく不可能に近いだろう。薬物を投与して死ぬのも、病死ではなく分類的には自殺か他殺になる。

 いつも伊吹の案に三人が乗ってくる形だったから、特に考えたことなんてなかった。『一回目』は何が起こるのかも知らずに純粋にその場を考えていっただけで、深いことを考えていたわけではない。『二回目』以降は一つ目の『例えば明日』になんて構っている余裕はなかった。

 けれど、どうして汐は『今回』、こんなことを言い出したのだろう。

 もしかしたら少しずつでも『今日』が変わってきているのか。

 汐の横顔を見ながら、『三回目』もそういえばこんなことがあったな、と思い出す。正確には少し違うが、何かの言葉に嫌に引っかかってきた。

 なんて言葉だっただろうか、嗚呼そうだ、二つ目の『例えば明日』への答えだ。あの時も少し様子がおかしかった。ということは、やっぱり変わっていないのか。否、けれど伊吹自身の一つ目の『例えば明日』の答えにこんなことを言い出したのは『今回』が初めてだ。

「じゃあ刺し違える? そしたら自殺じゃなくなるよ」

「無理心中、みたいな感じかな」

「待って千洋それいつの時代」

「え、幕末! 白虎隊」

「お願い千洋戻ってきて」

「それだと一人じゃできねえけどな」

 考えを巡らせていたせいで参加できなかった会話に唐突に口を突っ込むと、きょとんとして清春が伊吹を見た。それからすぐに何かに納得したように手を打つ。なんだ、と伊吹が身構えると、なんてことないように清春が言った。

「そん時は俺も死ぬよ。どうせやることもないし」

「清春何もしないって言ってたもんね。私もそうしようかなあ」

「ちょっと千洋まで」

 だから刺し違えて死ねると、そう言いたいのだろうか。というかそれって自殺と大差ないのではないか。伊吹にはよく分からないのだが。

 ぱちくり、と目を瞬かせて二人を見た。どうせセカイが回ってるとも思えないしね、確かに呑気に仕事してる場合じゃないし、なんて呑気に言っている清春と千洋に、伊吹がリアクションをする前に汐が溜め息を吐く。

 その大きさに伊吹が汐に注目すると、あたしも、と汐が声を発した。

「だったらあたしも連れてってよ。清春と千洋の意見にも一理あるし、まず現実的に考えて世界一周なんて出来ないの分かってるし。あたしだけ置いてけぼりとかそれ一番酷くない?」

 置いてけぼり、という言葉に反応しそうになるのを、伊吹は咄嗟に堪えた。

 一瞬だけ、言ってしまってもいいのではないかという考えが頭を過る。けれど、ダメだ。伊吹だけでなんとかしなければ。

「そん時は神社がいいね」

「一応神様の前なんだけど」

「だって地球滅亡しちゃうんだから許してくれるでしょ」

「てか神様ってどうなるんだろうね」

「その前に神様いるの?」

「いるだろ、かみさま」

「ふーん、伊吹は信じてるんだ?」

 ちょっと意外かも、と続けて言った汐と千洋に伊吹は何とも言えない顔をした。言わない、と決めたばかりなのだから、言えるわけがない。

 どうやってごまかそうか。

「……だって、トイレにも神様いるだろ」

「ぶはっ! そうだけどさ!」

 吹き出した汐につられて清春も吹き出した。千洋は控えめに、だがしっかりとくすくす笑い声を立てている。うまくごまかせなかったらしい。

 なんだよ、と伊吹が拗ねてみせると、清春がごめんごめん、と軽い様子で謝ってきた。笑いが収まる気配はないため質が悪い。

「ま、八百万の神とも言うしね」

「やお、よろず……?」

「伊吹が分かるわけなかったよねごめん」

「清春謝んなよなんかみじめになるだろ!」

「あーはいどうどう、伊吹くん落ち着きましょうねー」

「……もういいわコンビニ!」

 これ以上は自分が不利になる、と何となく感じ、そこそこに切り上げてコンビニに向かうことにした。笑いながら着いてくる三人も、元々そのつもりだったのだろう。現に『今まで』もコンビニに行っている。

「清春今日も肉まん?」

「当たり前でしょ。肉まん売ってるんだから肉まんだよ」

「その方程式意味わかんないよね」

「清春だから」

「伊吹それで納得させようとしてるでしょ」

 バレたか、と笑うと汐に呆れた顔をさせた。だってそれしか言いようがない。他になんて言えばいいんだ。

 でも確かにそれしか言えないよね、と千洋が同意すると、まあ、と汐も曖昧に頷く。酷いな、と笑う清春はとてもそうは思っていない様子で見えてきたコンビニに向かって足を速めた。

 やっぱり肉まんを買った清春に触発され、二人揃って肉まんを買った。汐と千洋は二人でロールケーキを半分こするつもりらしく、それを見ていると汐に「あげないから」と言われた。欲しかったわけではない。

 また四人で喋りながら神社へと向かい、到着するなり各々好きな場所に腰を下ろす。早速食べ始めた清春に倣って伊吹も食べ始めた。と、汐と千洋からブーイングが入る。

「早いんだけど二人とも」

「待っててくれていいのにー」

「だって冷めちゃうし」

「そういうこった」

「もー……」

 呆れた汐が溜め息を吐き、苦笑した千洋がロールケーキの袋を開ける。四つ切りのうちの一切れを千洋が汐に渡して、二人が食べ始めた頃には清春は既に食べ終わっていた。伊吹も残り少しである。

「ねえ、」

 ビニール袋にゴミを畳んで仕舞いながら、清春が口を開いた。同様に伊吹もビニールにゴミを押し込むとぱっと顔を上げる。

 あ、と零れそうになった呟きを堪えた。

 口に入っていたロールケーキを汐が飲み込んで、なに、と問い返す。千洋も最後のひと欠片を口に放り込むとゴミを纏め始めた。伸ばされた手にゴミを渡すと、一緒に纏めてくれる。

 この先は。もうただこの時間に浸っているだけではいられなくなる時間。

「例えば明日、俺達の誰かがいなくなったら?」

 けれど清春の言葉を遮ることなんて出来ず、伊吹はふっと押し黙った。

「何、それ」

 冷たい口調で千洋が清春に視線を合わせて問うた。困ったように清春が例えばだよ、と繰り返す。

「あたしは」

「汐」

「いいよ千洋。あたしは、……んー、分かんない、なあ。受け入れられたとしたら信じたくないとか傍にいきたいとか思っちゃうんだろうなあ。受け入れられなかったら……どうするんだろう」

 口を開いた汐と窘めるように呼んだ千洋と、それに応えた汐に少しの違和感。『三回目』と同じ類のそれ。それを問うていいものなのかやめた方がいいのか、判断がつかずに結局訊くのはやめた。

 清春だけが、『誰かの死』に直面していないことに気付いた。

 三回が多いのか少ないのか、そもそもこんなことが頻繁にあって堪るかといった感じだが、そういえば『一回目』も『二回目』も清春は助かっていない。『三回目』では千洋が死んだときは清春は目を覚ましていなかった。

 『三回目』で、清春は助かったのだろうか。

 千洋の死亡宣告がされてすぐに伊吹は神社に向かってしまったから、清春のその後は分からない。あのまま助かったのか、それともダメだったのか。分からないままでいい、と伊吹は思った。

 千洋に関しては『一回目』の時、痛い程にその行動を見ている。汐に関しても清春と同じことが言えるかもしれないが、それでも『三回目』で千洋が助からないと分かるまで一緒にいた時間は恐らく大きい。伊達に幼馴染をしているわけじゃない。

 でも、と伊吹は『一回目』を思い出して考え直した。

 あの時は、誰かの死というのがあまりにも唐突で、『三回目』のように多少なりとも気持ちを整理する時間なんてなった。伊吹も千洋も、気付いた時には既に汐も清春もいなくて、千洋が多分唐突過ぎて事実を受け止めきれなかったんだろうな、と思う。

 伊吹自身千洋がいたからこそなんとかしっかりしていられたのであって、もし助かったのが伊吹一人だけだったとしたら、どうなっていたか分からない。千洋と同じことにならない保証なんて、どこにもない。

 では、例えばもし、『三回目』のように誰かが死ぬまでに時間があったとしたら。その死を看取る時間があったとしたら。まだ『ループ』の存在を知らないときに、少しだとしても受け入れる時間があったとしたら。

 そこまで考えて、伊吹の胸の内はすうっと冷えた。

 果たして自分は、同じ行動を起こすことができただろうか。

「……ぶき? いーぶきー?」

「え、あ、ごめん?」

 ぱっと顔を上げると、目の前で汐がひらひらと手を振っていた。あ、と思う。どうやら自分の世界に入りこんでいたらしい。

「急に黙り込んでどうしたの?」

「や、別になんでもねーよ」

「んなわけないでしょ。一体なに?」

「……ちょっと、真面目に考えてただけだっつの」

「二つ目の例えば明日?」

 こくり、と素直に頷いた。間違ったことは決して行っていない。

 伊吹の言葉に意外そうな顔をした汐が、視線でその先を言え、と訴えてくる。少しだけ答えを口にすることを躊躇した、けれど汐の視線から逃れることも出来ず、伊吹はその答えをそっと口にした。

「……助ける」

 伊吹の答えに清春がひょいっと眉を上げたのが見える。それを追うように、少し笑いを含んだ汐の声がした。

「伊吹らしいね」

「何も考えてなさそうだもんね」

「まあ質問の意味は完全に無視されちゃってるわけだけど」

「それは清春が言えたことじゃないかな?」

「俺だってちゃんと考えてるっつーの!」

「はいはい、知ってますよー」

 拗ねてみせると、清春が笑いながらいなしてきた。本気で怒っているわけでもないことを三人とも分かっている。その日常が好きで安心して、別にいいけど、と伊吹は言葉を落とした。

 思考の海に沈みかけていたテンションを通常運転に戻す。

 気付かれないように、勘付かれないように。もし何があったのかを問い詰められたら、その追及から逃れることはできない。何年一緒にいると思ってるの、とか言われそうだ。

 だから、気付かれないように勘付かれないように、動くしかない。

「おっし! ちょっと遊ぼうぜ!」

「唐突だねー」

「自由か」

「伊吹、アンタ自分の状況ちゃんと分かってる?」

「伊吹が一番危ないってのに……」

 溜め息を吐いた汐と千洋だったが、それでもやらないとは言わず伊吹が動くのを待っている二人は伊吹に甘い。なんだかんだ言いつつ、清春も伊吹に甘い。

 それを分かっている伊吹は、早速バッグの中からバレーボールを取り出した。様子を見ていた三人が呆れたように笑う。伊吹の言う『遊ぶ』がバレーだということは分かっていたらしい。

「十分だけね」

「えー……」

「赤点だともっとバレーする時間減るけど」

「よーし十分な!」

 ぶっと吹き出した清春目がけて容赦なくジャンプサーブを打った。正直コントロールはそこまでよくないので、若干清春の身体の正面から外れてしまう。試合ではそれが正解だが遊びでそこまで高度なことは求めてはいけない。

 何とかサーブを上げた清春が「汐!」と叫ぶと、ボールの落下地点に滑り込んだ汐が千洋に向かってトスを上げた。それをスパイクの要領で軽く叩いた千洋の奥にいる清春向かって、今度はアンダーで安全に上げる。

 順番ばらばらになりながらもパスを繋げていっていると、十分は案外早く過ぎていた。

 時計を気にしていた汐が回ってきたボールを上げることなくキャッチする。約束とはいえ残念そうな顔をした伊吹に、汐は怖い顔を作った。

「はい十分。約束」

「えー」

「伊吹?」

 笑顔で名前を呼んだ千洋に「ナンデモアリマセン」と片言で返す。各々荷物を纏め始めた三人に倣って伊吹も汐からボールを受け取ると、渋々バッグの中にそれを仕舞い込んだ。

「……あれ、ちょっと待って。伊吹そのボールバッグん中入るもん?」

「教科書とかノートは?」

「ボールと筆記用具とぐちゃぐちゃになりかけたプリントだけだったりして」

 清春の的を射た言葉に、伊吹はぎくっと顔を引き攣らせた。それを見逃す汐ではない、げ、と声を出して瞬時に顔を顰めてみせる。

「図星か」

「どうやって勉強するつもりだったの」

「えっと……えっとまあそのあれだ」

「勉強する気じゃなかったってことだね」

「清春う」

 容赦なく言い切った清春に情けない声を出す。そんなにはっきり言わないでほしい。否定できないだけに尚更痛い。

 肩からバッグを斜め掛けにして、三人から逃げるように神社を出た。のだが、首根っこをひょいっと清春に捕まれ、伊吹は逃げることも出来ずその場に立ち止まる。

「今日は扱く」

「伊吹の家でいいよね?」

「潰れたままでいられるからその方がいいんじゃない?」

「教科書は俺達のあるから何とかなるか」

「とりあえず何の教科やる?」

「んー……数学とか?」

「一番苦手だしそれがいいか」

「酷い……」

 伊吹が悪い、と汐に頭を叩かれた。漸く清春から逃れ、むーっと唇を尖らせる。もう、と溜め息を吐いた汐が伊吹の腕を掴むと、ぐいぐいと引っ張りながら歩みを進めていく。だが、伊吹とてやらなければならないのは分かっていた。

 ――――『明後日』のために。『明日』の『午後五時五十分』のために。

 それは一種の祈り。こうなればいいという願い。

 今までの三回、全て校外にいるときに起きている。だったら校内にいればいいのかもしれない。それならきっと、勝機はある。

 そこまで考えて、伊吹は心の中だけで自嘲するように笑った。一体自分は誰相手に戦っているのだろう。

 終わらないこのセカイ? 繰り返される『明日』? だがこれらは伊吹が望んで繰り返しているだけだ。

 三人を助けられない、自分か。――――それとも、あの神社のかみさま、か。

 かみさま相手に勝てるのだろうか。けれど勝たないといけない。弱気になっている場合ではなかった。

 ――――だって、『四人』でまた『明日の午後三時五十分』を迎えると決めたのだ。

 三人を助けると、決めた。

「おじゃましまーす」

「ただいま」

「おじゃまです」

「おじゃまします」

「あ、今日はうちなの? いらっしゃい、伊吹麦茶」

「分かってるっつの! 先部屋行ってて」

 前者は母親に、後者は三人に向けて言う。母親から四人分の麦茶と一杯に入ったピッチャーを受け取って、伊吹は自分の部屋に向かった。勝手知った三人は折り畳み式のローテーブルを広げてまわりにちゃっかり座っている。

「伊吹それこっち」

「はい範囲のプリント出してー」

「現文と英語は範囲一緒だっけ?」

「数学と……あと日本史は?」

「日本史は私と一緒。あ、数学のプリントそん中入ってない?」

「あ、あったあった。清春これ」

「ん。じゃあ千洋は日本史頼むね」

「俺の意見聞いて?」

 どんどん決まっていく予定に思わず突っ込んだ。容赦なくバッグの中を漁っていた汐と、それを止めない清春と千洋。まあいつものことであるので咎めることはしないが。

 伊吹理科選択なんだっけ、と問われて生物と返した。それならあたしがいけるわ、という汐に少々恐怖。

「古典は?」

「それも共通じゃない?」

「あとは何? コミュニケーション?」

「それも一緒」

「そんなもん……か?」

 じゃあやろう、と汐が声をかけた。伊吹がバッグを手繰り寄せてペンケースを取り出していると、清春にはい、と教科書とプリントを渡される。

「ありがと清春!」

「はいはい、じゃあ数学からね。このプリントやって。書き込まないでルーズリーフね」

「……うぃーっす」

 清春の言葉に伊吹はいそいそとルーズリーフを取り出すと、渡されたプリントとにらめっこをする。問題数は少ない。実力拝見、といった感じの問題であるのは分かる。

 一問解いて二問解いて、三問目で止まった。分からない、とシャーペンを置いてしまいたくなる。代わりに唇の上にペンを乗せて遊んでいると、すっと汐に抜き取られた。

「いーぶーきー?」

「だって分かんねえんだもん」

 唇を尖らせてそう言うと、苦笑した清春がどれ? と覗き込んできた。伊吹が躓いた問題を見て嗚呼、と頷くと、自分のノートを引っ張り出している。大丈夫だと思ったらしい汐が自分の勉強に戻ると、伊吹は清春の手元に目を向けた。

 先は長そうだ。――――が、考えてみたら伊吹自身の記憶はなくなっていないわけで。

 もしかしてちゃんとやっていれば身につくんじゃないだろうか。嗚呼、でも。今回で終わらせてやるんだから、もう関係ないか。

 過った考えをそう結論付け、伊吹は清春の方へ身を乗り出した。


 その日、十一月二十六日の夜。あとは寝るだけになった伊吹は一人、部屋でルーズリーフを広げていた。

 書き出していくのは、今までの『三回』の死亡理由とその状況、そして『午後三時四十九分』という時刻。

 過去三回全て、外で『何か』に遭っている。

 『一回目』の交通事故。時間までは覚えていないけれど、恐らくそれくらい。場所は、いつも使っていた人通りも車通りも多い道。

 『二回目』は、工事現場の足場の落下事故。時間ははっきり覚えている。午後三時四十九分。不吉だと思った、伊吹がこの時刻を気にするきっかけになった。変えた先の道は、今度は人通りも車通りも少ない薄暗い道。普段はあまり通ることはしない道だった。

 そして、『三回目』。千洋が死んだことによって通り魔殺人事件となった。時刻はやっぱり午後三時四十九分。この時刻に通ることのできる道は三通り、その最後のルート。

 十一月二十七日の授業を最後まできっちり受け切ると、午後三時四十九分に通ることができるのは今の三通りしかない。だから『四回目』となる今回、選択肢は大きく分けて二つ。

 午後三時四十九分に自宅へ着いているか、もしくは学校に残っているか。

 正直なところ前者は難しいだろう。伊吹だけ帰っていたって意味がないのだ。出来ることなら『午後三時四十九分』は四人で揃っていたかった。

 となると、残る選択肢は学校待機。

 理由は適当に忘れ物でいい。俺ならそれで通じる、と伊吹は分かっていた。日頃の生活態度万歳である。

 一枚で余裕で足りたルーズリーフを二つに折り、スポーツバッグに突っ込んだ。もう書き足すことがありませんように、と誰にともなく祈る。

 ――――今度こそ、絶対に。

 四人で無事に『午後三時五十分』を迎えてやる。


 翌、十一月二十七日。

 テスト期間で朝練がないため、伊吹は三人と合流して学校へ向かった。

 『二回目』と『三回目』から何となくあの時刻まで特に何かが起きることはないと分かっているため、まだ比較的安心していられる。

 そしてやはり何事もなく学校に到着し、五十分授業六時間を受け切った放課後。掃除のない伊吹は一足先にいつもの自販機の前のベンチへと座っていた。

 忘れ物はし掛けてある。汐には本格的に怒られるし清春と千洋には呆れられるかもしれないが、ロッカーに教科書を置きっ放しにしてきた。

 一番手っ取り早かったのだ。あまり変なことをすると、誰よりも鋭くて長い時間一緒にいる汐に気付かれてしまう。

 深く深呼吸を繰り返して、伊吹ははやる鼓動を何とか抑えた。

 清春と千洋はまだ掃除から戻ってこない。汐も掃除はないはずだが、クラスの友達に捕まっているのだろうか。

 そういえば『一回目』も『二回目』も『三回目』も、伊吹が一番最初にこの場所に来て他の三人を待っていた。そういう些細なことも考えていったとすると、何か変化は起こるのだろうか。

 迎えに行ってみようか、と思ってやめる。確か汐は階段からだったが、清春と千洋は二人揃ってゴミ置き場の方から歩いてきたはずだ。方向が違うし、行き違っては元も子もない。

 何か単語帳でも捲っていようかと考えて思い出す。教科書は意図して置いて来たが、昨日千洋が渡してくれた古文単語のリストを何処かの教室に持って行って起きてきた、気がする。どこの教室だったかは覚えていないが。

 時刻は午後三時三十六分。

 『あの』時刻まであと十三分。手分けして探しても大丈夫、だろうか。

 四十五分になったら合流することにして手伝ってもらおうと伊吹は決めると、素直に汐を待つことにした。と、階段から響いてくる足音にふと顔を上げる。噂をすれば何とやら、だ。

「いーぶきー!」

「汐―、ヘルプ」

「え? 何を?」

 最後の一段を飛ばして降りてきた汐に呼びかけたが、そういえばなんて声をかけるのか全く考えていなかった。

「えー、と」

「何、伊吹が声かけて来たんでしょー?」

「うー……清春と千洋来てからでいいや」

「ちょっと気になるんですけど」

 汐だけよりストッパーの千洋がいた方が穏便に済むような気がした。深い意味があるわけではなく単純に自分の頭の安全を考えた結果だ。

 時刻は、午後三時三十八分。

「ごめん、待ったー?」

「待った」

「汐、どうしたの?」

「なあ、忘れ物した」

「言いかけてたのそれ?」

「んん? 言いかけた?」

 結局何も思いつかず、とりあえず言わなきゃと思って口に出したら訳の分からないことになった。

 きょとんとした顔の清春と千洋、そして訳知り顔の汐。口を開くタイミングを失敗したと思いながら、伊吹は顔の前で両手を合わせた。

「ロッカーに教科書忘れて、それはまだ場所はっきりしてるからいいんだけど、どっかの教室に昨日千洋にもらった古文単語のリスト置いて来たから、探すの手伝ってください」

「……教科書持って帰って来いって言ったよね?」

「スミマセン反省シテマス」

「まあまあ、とりあえず古文単語の方探そうよ」

「今日使った教室どこ?」

「えーと、自分の教室は除くとして、生物講義室と家庭科室と三講の二!」

 三講の二、というのは昔は教室だった場所で、人が減った今は数学や英語の少人数指導だったり選択科目に使用されている教室である。この学校は教室棟と特別棟、三棟の三つの棟からなっており、三講の二があるのは三棟の三階だ。生物講義室と家庭科室は特別棟の三階と一階。

 じゃあ手分けして探そうか、と清春が言って、それに素直に頷く。伊吹が一人で生物講義室、清春が家庭科室、汐と千洋の二人が三講の二。

「なかったらすぐ戻ってきていいから」

「そういうわけにもいかないでしょ、折角千洋が作ってくれたやつなのに」

「気にしなくていいよ伊吹、私達三講の二になかったら職員室寄って聞いてくるね」

 職員室は教室棟の二回にあるので、教室棟と直接繋がっている三棟に行く二人の方が寄りやすい。特別棟も教室棟と繋がってはいるが、生物講義室と家庭科室は棟の端と端だ。

 時刻は、午後三時四十一分。

 『あの時刻』まであと八分。

 これでは時間に四人全員で合流できるか分からない。出来る限り目の届くところにいてほしい。どうなっているのか分からないのが、何よりも怖いから。

「じゃあ五十分になったら一回ここ集合にする?」

「了解、汐行こう」

「伊吹も行くよ」

「え、ちょ」

 待って、という言葉は出ずに終わる。五十分。それじゃあ、一緒にいられない。でももしかしたら変わるかもしれない、だったらそれでいいのだろうか。

 けれど、と伊吹は内心で歯噛みした。

 やっぱり怖い。三回だ。三回も目の前で誰かに死なれている。もう見たくない。だが、見なかったら見なかったで後悔するのは分かっていた。

「伊吹?」

 考え込んでいると、清春が顔を覗き込んでいた。何でもない、と伊吹ははぐらかして駆け出す。

 まだ、まだ。午後三時五十分を、四人で無事に迎えられたら。

 きっと大丈夫だ。大丈夫だから、離れる。大丈夫だから、別行動する。きっとかみさまが、そうした。もう大丈夫だから別行動しろって、離れてても無事に午後三時五十分を迎えられるからって。

 ――――なあ、かみさま。

「清春、行こー!」

「もー……」

 清春は何も訊かない。だから伊吹も、何も言わない。

 時刻は、午後三時四十四分。

 階段で清春と別れて、伊吹は一段飛ばしで駆け上がりながら生物講義室へと急ぐ。そろそろとドアを開けると、中にいた生物部員の生徒達が伊吹に注目してきた。

 探し物でーすと宣言して堂々と中に入る。何人かが嗚呼と頷いて視線が伊吹から外れた。伊吹は部員達の興味が自分から彼らの目の前にある水槽の中へ移ったのを確認して、自分の席に近づく。

 自分の席にはなかった。周りのクラスメートの席にも。

 時刻は、午後三時四十六分。

 あと三分、一応生物の担当教師がいる講師室を覗き込んで、プリントの忘れ物がなかったかを訊いてみる。けれど誰も見ていないというから、ここは外れだったのだろう。

 時刻は、午後三時四十七分。

 階段を駆け下りて、一階に辿り着く。家庭科室を除くが清春はいない。ばくばくと音を立て始めた鼓動を押さえつけて、伊吹はくるっと踵を返した。

 時刻は、午後三時四十八分。

 その先、反対側の奥。化学室の前に、伊吹と同じクラスの科学部の生徒が清春と話しているのを見つけた。ほっと内心溜め息を吐いた伊吹を認めた清春が、手招きをしてきた。パタパタとスリッパを鳴らしながら清春の方に近づく。

 ――――時刻は、午後三時四十九分。

 ばあん、と、凄まじい音がしたと同時に、伊吹の身体は廊下に叩きつけられていた。

 衝撃で息が詰まる。変に頭をぶつけたのか、視界がぐらぐらと揺れて気持ち悪い。

「――――き、よはる」

 掠れた声で、清春を呼んだ。視界が霞む。視界が揺れる。清春が見えない、見つけられない。

 非常ベルが校内に鳴り響く。ぐわんぐわんと頭の中で音が木霊して、音がよく聞こえない。

 ――――かみさま。

「伊吹いっ!」

 なんで、なんでなんでなんでなんで。

 二回目の爆発音と衝撃を最後に、伊吹は意識を手放した。


 ふうっと意識が浮上してゆっくりと瞼を開くと、飛び込んできた光に思わずぐっと目を細めた。

 ピッピッ、と規則的な何かを刻む音が聞こえる。見上げれば点滴のパック、指も何か機械で挟まれていて、口元の酸素マスクをずらすと伊吹はそっと身を起こした。

 隣を見ると、椅子に座ったままベッドに身を投げ出す形で千洋が寝ている。包帯でぐるぐる巻きにされた左腕からちょこんと出ている指先で、そっと伊吹に触れていた。

 四人部屋らしいこの病室の向かいには同じ高校の生徒が二人、寝かされていて、付添らしい体育教師が伊吹に気付くとナースコールを押しに来る。

 ――――汐と、清春がいない。

「瀬川」

「せ、んせ」

「喋んな。マスクしろ」

 ばたばたと看護師と医者が部屋に駆け込んでくる。その音に千洋が気付いてびくりと身を起こす。先生に手を引かれた千洋がベッドから離れて、しゃーっと引かれたカーテンの向こう側へ姿が隠れる。

 汐は、清春は。

 まるで『一回目』みたいだ。訊きたいのに、喉の奥で言葉が迷子になったように出てこない。医者や看護師の質問には掠れた声ながら答えられるのに、一番訊きたい質問が出てこない。

 カーテン越しに、伊吹、と小さく叫ぶ声が聞こえた。千洋の声。それを宥める体育教師の声も聞こえる。向かいの生徒はまだ目を覚まさないのか、一度覚ましてまた寝ているのか。

 診察が終わってカーテンが開く。立ち尽くしていた千洋と目が合うと、伊吹の顔を見た千洋がその場に泣き崩れた。

「……ちひろ」

「澤山は左腕の火傷だけ。他は特にない」

「し、……」

 汐と、清春、は。

 途端に言葉が紡げなくなって、その場には千洋の泣き声だけが響く。体育教師は何も言わない。伊吹も、千洋も、何も言わない。言えない。

「い、ぶきっ、」

「……ちひろ」

「しお、とねっ、きよはる、がっ」

「もう、いい」

 わああ、と糸が切れたように泣き出した千洋。軽い気道熱傷と頭部打撲、両足火傷の伊吹。

 そして、助からなかった、汐と清春。

 どうしてこうも上手くいかないのか。ただ、四人でいたいだけなのに。それ以上のことは何も望まない。伊吹と汐と清春と千洋の四人で、他愛ない話をして時々ケンカをして、仲直りをして、一緒に遊んで、嫌いだけど勉強もして、そうやってただ日常を過ごしたいだけなのに。

 ――――かみさま。なあ、かみさま。

 痛み止めが効いているのか、火傷しているという両足はあまり痛みを感じない。呼吸はし辛いけれど、我慢できないというほどでもない。これなら十分に動ける。

 金はないから、タクシーは使えなかった。だが歩いてなら行ける。行かないという選択肢は、伊吹の中にはなかった。

 神社へ、行く。

「千洋、きいて」

 嗚咽を漏らしたままの千洋の耳元へ口を寄せた。そして、他の誰にも聞こえないように、小さな声で囁く。

「俺が、たすける」

 はっとして顔を上げた千洋とは顔を合わせずに、伊吹は体育教師にトイレに行ってきます、と言うと、千洋の傍を離れた。着いていくか、という問いには首を振って、千洋と視線を合わせることなくトイレへと向かう。

 トイレの個室に入ると、一思いに点滴の針を抜いた。だらだらと流れ出す血をトイレットペーパーで押さえ、止血しながら個室を出る。点滴の台は置き去り。とりあえずこの病棟を離れてしまえば、きっと大丈夫だ。

 堂々と正面玄関から出て、少し歩いて敷地を抜け、見えなくなったところで走れるだけ走る。なるべく人通りの少ない道を、車通りの少ない道を選んで、見つかって連れ戻されることの無いように。

 細道に入ったところで、伊吹はその場に座り込んで息を整えた。

 走り回ったせいか元々時間だったのか、痛み止めが切れかけている。じんじんと痛みが増していく両足と吸い辛くなっていく息に、そろそろ伊吹の体力も限界に近づいていた。

 けれど、ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。

 千洋と約束をした。汐を、清春をたすけると。俺が二人を、――――みんなを、たすける。

 どちらかというと痛みの強い方の左足を引きずりながら、一歩一歩確実に、ゆっくりと歩みを進めていく。正直なところ壱岐は苦しいままだが、立ち止まっている時間も惜しい。遅めのペースで呼吸を保ちながら歩く道は、誰ひとり歩いている人はいない。

 ごめん、と心の中で謝った。忘れ物をしなかったら、狙い通り忘れ物が教科書だけだったら。四人で『午後三時四十九分』を迎えることができたのに。『午後三時五十分』を迎えることができたかもしれないのに。

 だって、本当に化学室で爆発事故が起きるなんて誰も思わない。気を付けろ気を付けろと言われたとしても、きっと大丈夫だと思ってしまう。

 その過信が、今回こういう事故に繋がってしまったのだろうけれど。でも伊吹にとって、これはそれ以上の意味を持つのだ。

 漸く辿り着いた神社の境内に、伊吹はふらふらと倒れ込んだ。足が痛くて、もう立ち上がれない。大きく深呼吸をして息を整える。

 ――――かみさま。

「おねがいだから」

 もう一度、チャンスを下さい。一度と言わず、たすけられるまで何度だって。

 今度こそ、たすけるから。何回でも、たすかるまで繰り返す覚悟はできているから。

「なあ、かみさま」

 四人で笑っていられる未来を。いつも通りの日常を。

 お願いだから、かみさま。誰かひとりが助かっても、誰かひとりが助からなくても、意味がない。四人で揃わなければ、繰り返している意味がない。

 今日も明日も明後日も、この先ずっと。四人でいさせてくれ。何度だって頑張って見せるから、だから、

 ――――かみさま。

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