第2話
「例えば明日、」
聞き慣れた、けれど数日間聞いていなかった声が耳に届いて、伊吹は訳のわからないままに辺りを見回した。
「きよはる、?」
「え? 何?」
「ちょっと何泣いてんの伊吹、え、なんで?」
「伊吹? どうしたの?」
言葉を続けようとしていた清春は焦って伊吹に近寄った。汐も千洋も、突然泣き出した伊吹にどうすればいいのか分からず右往左往する。
どうにかして零れ落ちる涙を止めようとするが、発作的に溢れた涙は止まる様子を見せない。ついでに嗚咽も漏らし始めた伊吹を清春がそっと抱き寄せて、「とりあえず、泣きな?」と言うと諦めた伊吹は思い切り嗚咽を漏らした。
どういう状況かは未だによくわからなかったが、もう一度清春や汐と話せたことが嬉しかった。考えてみれば、清春と汐がいなくなってから泣いたのはあの一回きり。千洋は二人が死んだことを覚えていなかったから、千洋の前で泣くことなんてできなかった。
こうして二人を前にして、自分でも気付かないうちに泣き出してしまうくらいには無理をしていたんだと、伊吹は漸く気づいた。
「伊吹ー?」
「ねえ、なんかあった?」
「とりあえず目立つし、神社行こう」
「っ、わり、」
「いーからいーから。ほら行くよ」
やっと小康状態になった涙と嗚咽の隙間から謝ると、柔らかい声で汐がそう言って清春に手を引かれる。後ろから着いて歩く千洋はこの少し異常な状況に、伊吹のことが心配になった。
唐突に泣き出すなんて、何かあったとしか思えない。でも何があったのか、千洋には全く検討がつかなかった。それは清春も汐も同じなようで、気丈な振る舞いを見せる二人の奥に不安げな気持ちがあることが分かる。
伊吹が泣くのを見るのは、清春と千洋にとっては初めてのことだった。汐ですら、一回か二回か、数える程度しかない。昔から我慢強い子だった伊吹は幼い頃から滅多なことでは泣かなかったから。
だからこそ、それが余計に今回の件に不安をもたらす。分からないことが一番怖いのだと、三人は今更ながらに気付いた。
「落ち着いた?」
「ん、おー」
「なんか飲みなよ。まずは」
清春の言葉に頷き、伊吹がバッグを漁って残っていたペットボトルのスポーツドリンクを飲み干した。一息吐くと、やっと状況が見えてくる。
泣き出すきっかけになった、久しぶりに聞いた清春の言葉は、前日に清春が言い出した言葉と同じだった。そして、その言葉を聞く前に伊吹が願ったこと。清春と汐が生きていて、千洋も怪我をしていなくて、勿論伊吹自身もあの腕や足の痛みを感じない。
もしかして、いやもしかしなくても、戻ってきた、のだろうか。
事故当日は確か十一月の二十七日だった。前日は二十六。もしこの仮説があっていれば、今日は十一月二十六日のはずである。
「なあ、今日って何日だっけ?」
今まで散々泣いておいて何事もなさげに、なんてことが無理なのはわかっていたが、なるべく普通に、ど忘れした体を装って問いかけた。何言ってるんだ、という目をしながら汐が二十六だけど、と返してくる。
「十一月だよな」
「ねえ、本当に何があったの? 伊吹、変だよ」
「まあまあ、千洋ちょっと落ち着こう?」
「だって清春」
「千洋」
千洋が押し黙る。
どうやら日付は十一月二十六日であっているらしい。伊吹は今の状況を素直に話すかどうか悩んで、やめておくことにした。
どうして戻ることができたのか、全く分からない。かみさまが伊吹たちを憐れんで戻してくれたのかもしれない。ならば尚更、この機会を逃すわけにはいかないと思った。
チャンスが何度あるかは、分からない。チャンスを逃したら、相手に流れを持っていかれる可能性もある。
この状況でバレーに当てはめるのも少し違う気がしたが、とりあえずこのチャンスをものにすることを目標にもう一度やるしかない。全員助ける。誰かが欠けるなんて事態にはさせない。
「突然泣いてごめん。でも理由はまだ言えない。全部終わったら話すから、それまで待ってて」
「伊吹、そう言われて素直にはいわかりました、なんて言うと思う?」
「……思わねーけど」
「目の前で突然泣き出された気持ち、わかる?」
清春の問いかけに答えられずに黙る。
やっぱり話さないとダメか。そう思って口を開きかけると、横から汐の「分かった」と言う声が聞こえた。
「終わるの待つよ」
「汐!」
「だって、伊吹が泣くってことは相当でしょ? 何抱えてんのか知んないし本当は究極に問い質したいけど、訊かない。その代わりいつ終わるか訊いてもいい?」
「……多分、明日の放課後」
「なんだ、意外とすぐじゃん。終わったらちゃんと話してくれるんだよね?」
「約束する」
しっかりと視線を合わせ、伊吹はそう口にした。暫く真剣な瞳で伊吹を見つめてきた汐が、ふっと笑う。千洋、清春、と二人の名前を呼ぶ汐の声は、いつもよりも柔らかかった。
「話せなくて、本当にごめん。でも絶対話すから。約束するから、許して下さい」
「……分かったよ、許す」
「私も、その代わりちゃんと絶対話してね」
「……ありがとな、汐も清春も千洋も」
なにものにも代え難い、大切な大切な仲間たち。その存在は温かくて、そこにいるだけでこんなにも安心するものなんだ、と伊吹は実感した。
正直、どうすればいいのかなんて全く見当もつかない。心の隅には、もし失敗したら、という気持ちが居座っている。助けると決めたはいいが、本当にあの事故を防ぐだけで助かるのか、と疑う気持ちもあった。
「……で、伊吹。テストはどうするの?」
「そっか、明日の放課後ならテスト期間はもう終わってるんだもんね」
「今の伊吹に勉強ができるとは思わないんだけど」
「千洋、それはいつものことだから」
「すっかり忘れてた……」
そういえばテスト期間だから一緒にいられたんだった。
部活のことを考えれば、ちゃんと勉強しておかないと赤点コースまっしぐらなことは目に見えている。真実を話したところで信じてもらえるとは思えないし、このことを他の人に話すつもりはなかった。
ただ、優先順位は幼馴染が先に決まっている。
幸いテストは四日間で間に土日も挟む。なんとか頑張るしかない。
「ごめん、今日多分できねぇ……」
「はいはい、わかった。その代わり明日から扱くよ?」
「分かってる」
「じゃあ伊吹用に対策問題とか公式とかのまとめプリント作っとくよ、短期間型の」
「私も。だから心配しないで頑張ってよ」
ありがとう、と言っても言い足りない。
ふうっと息を吐いて、きゅっと唇を結ぶ。やるしかない。
立ち上がった伊吹を見て、三人は知らず知らずのうちに安堵の溜め息を零した。泣き出した時はどうなることかと思ったが、どうやら自分で解決したらしい。明日の放課後、と言っていたから全部が解決したわけではないのだが、それでも泣き出した時の消えてしまいそうな感じはなくなって、通常運転近くまで戻ってきている。
「……あの、一つだけ頼みごと、いい?」
「できることならなんでも聞いてあげるから言ってみ、伊吹」
「今日俺勉強する気ないし、多分できねぇけど、お前たち勉強しててもいいから一緒にいて……くれませんか」
言い辛そうに言う伊吹に、どんな難しいことだろうかと身構えていた三人は拍子抜けしてきょとん、とした表情になった。なんだそんなことか、と汐が吹き出すとつられて清春と千洋も笑い始める。
目の前でいきなり笑い出された伊吹はひとり、頭の上に疑問符を浮かべながらくつくつと笑う三人を眺めた。伊吹からすれば、一番赤点取りそうな自分が勉強せずにいるところで一緒に勉強するのは嫌かな、と思って遠慮したのだが、他の三人にはその遠慮がツボに入ったらしい。
「伊吹にも遠慮なんてことできたんだね……」
「しっ、つれいだよ汐」
「笑ってる清春も大分失礼だよ」
「お前ら纏めて失礼だよ! 俺だって遠慮くらい知ってるわ!」
なんとなくなんで笑っているのかを感じ取った伊吹は、笑いを堪えながら会話をする三人に噛み付いた。伊吹だって遠慮くらい知っている。逆に三人に伊吹がどう思われているのかが気になったが、不意にこみ上げてきたものに邪魔をされて口にすることはなかった。
油断するとまだ泣きそうになる。いつも通り、が一番平和だということに、二人がいなくなってから気付かされた。そのいつも通り、が戻ってきた中で、泣かないというのは案外難しい。やたら滅多なことでは泣かないが、一度箍が外れると悔しいくらいに涙が出てくるのだと伊吹は初めて知った。
「そんぐらい楽勝。伊吹ん家でいいよね?」
「元々そのつもりだったしいいんじゃない?」
「じゃ、それで決定。伊吹、行くよー?」
迷いのない行動に言い出した伊吹が置いてけぼりをくらいそうになりながら、大して重くもないバッグを肩にかけて三人を追いかける。清春たちのおかげでやっと通常運転に戻ってきた伊吹は、とりあえず考えてても仕方ないか、と開き直って清春の背中にタックルをかました。
大抵標的は汐が多いので、慣れていない清春がもろに食らってよろける。それを見て汐が笑い、そのこけっぷりに心配を通り越した千洋もくすくすと笑い始める。
じゃれあいながらコンビニに寄ってみんなでお菓子なりなんなりを買い、伊吹の家に着いた。いらっしゃい、と笑う伊吹の母は慣れたもので、すぐに飲み物だけ用意して伊吹に渡す。それを受け取って自分の部屋に上がると、手際よく清春が広げた折りたたみ式の机にそれを置いた。
「伊吹、保冷剤もらっといで」
「え」
「あーほんとだ。もうバレてんじゃない?」
「伊吹のお母さんだから無理矢理は訊き出さないだろうし、冷やさないとそれもっと腫れるよ」
「マジかよ」
清春に指摘され、流石にそれはいただけないと伊吹は冷蔵庫から保冷剤を漁る。タイミングよく母親はトイレらしい。適当に二、三個持って部屋に戻ると、そこらへんにあったタオルを渡されて「冷やしておきな」と言われた。
どうするか迷った末、ベッドにもたれかかるように座って上を向き、タオルに包んだ保冷剤を乗せた。言われてみれば熱を孕んで熱くなっている瞼に、保冷剤の適度な冷たさが心地いい。
伊吹の言った通り三人は勉強を始めたらしく、部屋は三人がノートやらプリントやらに何かを書き込む音しかしない。それでも息遣いや時折聞こえる唸り声は、伊吹をひとりではないと安心させる。
暫くそのままいたせいでうとうとし始めた伊吹の耳に、清春の「休憩入れる?」と言う声が入ってきて、タオルと保冷剤を持ち上げて三人を見た。
「伊吹ー休憩だってー」
「伊吹起きてるよ」
「え、寝てたの?」
「寝てねぇよ」
「寝てるのかと思ってた」
ベッドの上に保冷剤を放り出し、伊吹はいそいそと三人の勉強していた机に近寄った。簡単に広げていた荷物を片し、中央にさっき買ったお菓子を広げる。
「あれ、清春肉まん買わなかったの?」
「すぐ食べる予定じゃなかったからやめておいた。あったかいの食いたいじゃん」
「あーそういう」
「だからってパン買う? がっつり惣菜パンだし」
「お腹減るかなと思って」
「清春って体格の割に意外と食うよなー」
そういえば『前回』は肉まん買ってたような、と思って伊吹が問いかけるとそう返ってきた。
見た目はひょろ長くて運動不得意そうで明らかにインドアで草食っぽい清春は、実は運動部の伊吹と張り合うくらいに食べる。運動もそれなりにできる。部活はただ単に面倒臭いから入らないだけらしい。そして意外と外でよく遊ぶ。曰く、部活は面倒だが運動自体は好きだから動きたいらしい。周りを見るのが得意なので判断も的確なため、伊吹が何度かバレー部に誘っては撃沈しているのは余談である。
「あ、そうだ。伊吹、テスト範囲ちょうだいよ」
「おー。汐、バッグ取って」
「はいはい、どーぞ」
「あんがと」
がさごそとスポーツバッグを漁り、見つけた数学のテスト範囲の書いたプリントを清春に渡す。伊吹は文系だが清春は理系なので範囲が微妙に違う。英語の範囲は全クラス共通だから問題はない。
明日は教科書持って帰らないと、と思いながら、伊吹は勉強机の横に置いてあったバレーボールを手に取ってくるくると回した。手に馴染んで大分汚れたそれは、中学でバレー部に入ると決めてから母親に買ってもらったものだ。中学より人数は多いとはいえど、大人数と言うほどでもない高校のバレー部で、ウィングスパイカーである伊吹は一応レギュラーだった。
胡座をかいた上にバレーボールを乗せ、汐が買ってきたチョコのお菓子を口に入れる。思ったより甘かったそれに伊吹が微妙な顔をしながらお茶を飲むと、千洋に笑われた。これはもう食べない。
「そういえばさ、清春ってさっき何言いかけてたの?」
「さっき?」
「伊吹が泣き出す前の」
「例えば明日、ってやつ?」
「そうそれ」
ふ、とそんなことを言い出した汐にどきっとした。
最初の例えば明日、は世界が滅亡したら。それは別にいい。けれど、二つ目例えばが今の伊吹にはネックだ。
「大したことじゃないんだけどさ、三人は例えば明日、世界が滅亡するとしたらどうする?」
「あたしは世界一周」
「世話になった人のところ巡る、かな」
「先に死ぬ」
「俺は何もしない……んだけど、伊吹死ぬの?」
この反応『前回』もされたな、と思いながら伊吹はおう、と応える。『前回』は汐だった。『今回』は清春らしい。
「だって、地球が滅亡するとこ見たくねぇし。窒息死だったら嫌だし。だったら先死んだ方がいいかなって思って」
「確かに、そう考えるとそれでもいいかも」
「まあ確実に地球が滅亡するって分かったらだけどな」
「確実に地球が明日滅亡するって分かるってどんな状況」
「汐、そこはあくまで仮定の話だから突っ込まない」
すみません、と思っていないような声で汐が謝る。
「そしたら俺もどうせすることないしお供しようかな」
「清春いると心強いな」
「死ぬのに心強いもへったくれもないでしょ」
「二人とも死ぬなら私もお供する」
「千洋まで? まああたしもその方がいいかもなあ。なんか飛行機とか出てなさそうだよね」
「仕事してる場合じゃないだろうしね」
「神社がいいなあ」
「それ分かる」
「じゃあもし本当にそういう事態になったらそうしようか。神社で四人で心中」
神様赦してくれるよね、と千洋が呟き、大丈夫だろと伊吹が返す。だって、時間を戻してくれるようなかみさまだ。
そこで話は終わるかな、と伊吹は期待した。二つ目の例えば、はなかったことにならないかと。しかしそうもいかないらしい。
「じゃあ、例えば明日、俺たちの誰かがいなくなったら?」
清春の問いに、伊吹の胸に心臓がぎゅうっと掴まれたかのような痛みが走った。
「私は、……考えたくないよ、そんなこと」
「例えばでも?」
「だって、嫌じゃん。こんな話して本当に明日、誰かがいなくなったら」
千洋の言葉に伊吹がどきっとする。誰も気付いた様子はなく、伊吹はほっとしていいのか悪いのかよく分からないまま汐の表情を窺っていた。
「それは、そうだけど……あたしは、受け入れられたら、信じられないって思ったり、信じたくないって思ったり、傍にいきたいと、思っちゃうんじゃないかと思う。受け入れられない可能性の方が高い気がするけど」
「受け入れられたら信じられないって思うの? 信じられないって受け入れてないんじゃない?」
「んー、受け入れられなかったら、多分そのこと自体を忘れそうかなって。その、例えば事故なら事故のこと忘れる、とか、事故で誰かが死んだとしても死んだこと忘れる、とか。もしくは一番嫌だけど、誰かがいたこと自体忘れる、っていうか」
「汐はないと思うよ、それ。私はありそうだけど……」
そうだよ、という言葉が口を突いて出てきそうになって飲み込んだ。言ってはいけない。言っていいことではないと、伊吹にも分かることだ、口に出来ることではない。
「伊吹、大丈夫? さっきから黙ったままだけど」
「え、あ、おう、大丈夫」
「嘘でしょ? 顔色悪いよ?」
「大丈夫だっつーの。それより清春は? どうなんだよ」
清春に振ってから、あ、と思う。振らずに素直に頷いて、寝ていれば話題は変わったかもしれないのに、自ら話題を続けたら終われないじゃないかと、伊吹は自分を詰った。
話題を振られた清春は、そうだなぁ、と零しながら答えを探す。すっと伊吹に視線を合わせると、にっと笑った清春は柔らかい口調になった。
「今の伊吹おいてはいけない、かな」
「清春それずるい。だったらあたしも死なないし!」
「そういうの先に言ってよ? 私だって死ねないに決まってるじゃん」
「お前らバカじゃねぇの?」
泣きそうになるのを堪えながら、伊吹は突き放すように言う。
「それじゃ質問の意味ねぇじゃねーか」
「いいんだよ、それで。お前がそんな顔するの、見てて辛い」
そう言われては黙るしかない。
伊吹は口を閉じて上目遣いに清春を見遣る。じいっと伊吹に視線を合わせる清春は、ずっと見ていれば何かわかるのではないかと思ったのだが、当てが外れた。伊吹は徹底的に話すつもりはないようで、それ以上詮索するのを清春はやめた。
清春が大仰に溜め息を吐いたため、伊吹は何を言われることかと内心ひやひやしながら清春の挙動に目を向けた。だが、清春はそんな伊吹に小さく苦笑いをすると、さて、と声を切り替えた。
「勉強するか」
「伊吹、ゴミ箱」
「え、あ、おー、はい」
「何そんな動揺してんの」
「うっせ、ほっとけ」
ゴミをまとめてゴミ箱に放り込み、伊吹は三人が勉強に戻るのを見てからバレーボールを持ってベッドの上に横になった。今ここで明日のことについて考え始めたら三人にバレかねないし、かといって帰ってもらうのも寂しかった。まだ一緒にいたいのだ。
ウィングスパイカーはトスを上げることは滅多にないが、出来るに越したことはない。ボールを真上に上げる、落ちてきたそれをまた上げる、落ちる、上げる、落ちる、上げる、と直上トスを繰り返す。百回数えて、今度は足を放り出す形で座り直した。上げる、落ちる、上げる、落ちる、をアンダーで二百。
それも終わるともう特にできることはない。自分の部屋、まして三人が勉強をしているところでサーブ練をするわけにもいかず、手持ち無沙汰になった伊吹は手の中でボールをしゅるしゅると回した。
さっきより確実に落ち着いている。単純な反復練習が良かったのかもしれない、と指の上でボールを回していると、横から伸びてきた手がくるくると回り続けるボールを攫っていった。
「おいっ!」
「伊吹、あたしたち帰るよ? そろそろ」
「え、そんな時間?」
声をかけられた伊吹がふと時計を見ると、長針が六を回りかけている。気付かないうちにそんな時間になっていたようだ。
「気ぃ付けて帰れよ」
「うん。伊吹、今日は早く寝なよ」
「明日ちゃんと教えてね」
「教えなかったら肉まん人数分ね」
「だったらあたしシュークリームで」
「私プリン。高いやつ」
「言うし! 奢らねーし!」
じゃれながら四人で階段を下り、リビングに顔を出してコップを置いていく。夕飯はまだもう少しかかりそうだ。玄関から三人を見送ると、伊吹は部屋に戻った。
折り畳み式の机を片し、勉強机に座ってルーズリーフを取り出す。ペン立てに立ててあったシャーペンを手に取ると、真っさらなそれに気付いたことを書き込んでいく。
事故の正確な時間は覚えていない。
ただ、ショートホームルームが終わって掃除が終わって、それからだから恐らくは四時十分前くらいだろう。三時五十分。とにかくその時間にあの事故のあった道を通らなければいい。
選択肢は三つ。一つはあの道を通らない。二つ目は道はそのままにして出る時間を遅くする。三つ目は逆に早くする、だ。
最後の選択肢はそれぞれのクラスの事情が絡んでくるから難しい。となると選択肢は二つに絞られる。この二つなら、一つ目の方がいい気がする。それに、伊吹自身があの道がトラウマになりかけていた。ここは別ルートで行くことにしよう。
どうしても車が気になるため、なるべく車通りの少ない道を行くことに決め、伊吹はルーズリーフをバッグの中に押し込んだ。
これできっと、大丈夫。全員助けられる。
階下から母親がご飯だと呼ぶ声がして、伊吹は返事をして下に降りていった。
正直登校中にもしかしたら何かあるのではないかと少しびくびくしていたが、何事もなく四人で学校に到着し、何事もなく放課後を迎えた。
「いーぶーきー!」
「汐」
「早かったね。二人は?」
「掃除だろ」
「あ、そっか」
自販機前のベンチに座っていると、階段から降りてきた汐が名前を呼びながら隣に座った。一通り会話が終了し、伊吹は汐に気付かれないように深呼吸をする。
大丈夫、上手くいく。そしたら三人にこのことを話して、全部終わりだ。
「終わった?」
「っえ?」
「なんか、昨日の。その反応はまだ?」
「あ、おう。これから」
「そっか」
会話終了。いつもならくだらないやりとりが続くのだが、今の伊吹にそんな余裕はない。これからが本番である。試合でもこんなに緊張したことはなかった。
時刻は、午後三時四十二分。
何があるかは知らないものの、汐は特に何も言わずにいる。珍しいのだ、ここまで緊張している伊吹は。試合を見に行ってもムードメーカーとしてテンション高く振舞っているため、緊張しているのを見たのは中学最初に出た公式戦。流石にそれは緊張したと言っていた。
何か言おうとしたのだが、なんて声をかけた方がいいのか、それとも声をかけない方がいいのか、結局判断がつかないまま汐は口を閉じた。そのうちに、視界に二人が入ってくる。知らず知らずのうちに、汐は溜め息を吐いていた。
「伊吹ー!」
「汐! 遅くなってごめん!」
「掃除だし仕方ないでしょ。伊吹、帰るよ」
「おー。なあ、今日違う道通らねえ? たまにはさー」
さり気なさを装って伊吹は一世一代の演技を始めた。まずは、第一関門。違う道で帰ることを三人に了承してもらう。
「突然どうしたの? ま、いいけど」
「昨日からおかしい伊吹くんの提案ですしねー」
「それで、どの道行くの?」
「え、いいの?」
余りの反論のなさに思わず無駄な反応を返してしまった。バカか。
何言ってるんだ、という顔で清春が伊吹を見てくる。
「えっとな、あれだ、車があんま通らない道あるだろ? そこ」
なんとかごまかして提案すると、これまたすんなりと意見が通った。四人で固まりながら『前回』とは違う道を帰る。
時刻は午後三時四十六分。
「で、伊吹、終わったの?」
「まだなんだってさ」
「……これからなんかあったっけ?」
「いや特に思い浮かないけど」
「だー! 家着いたら話せると思うしそしたら話す!」
こそこそと話す三人に痺れを切らし、伊吹は声を上げる。家に着けば恐らくもう大丈夫なはずだ。
「てか、そういえば誰ん家?」
「あれ、まだ決めてなかったか?」
「そう言えばそうかも」
決めた、と思っていたのは『前回』があるからだ。道の端に四人で立ち止まって丸くなる。車の通る様子は、ない。
「あ、お母さんが今度はうち来ればって言ってた」
「じゃあ汐ん家で決定かな」
「断る理由もないしねー、伊吹はそれでいい?」
「おー、誰ん家でも関係ねーし」
「まあそれは言えてる」
「どこ行ったって同じような感じだもんね」
『前回』と同じように汐の家に決まり、円を解いて進行方向へと足を向けた。
時刻は、午後三時四十九分。
縁起悪い数字だな、と思った時だった。
危ない、と頭上から声がして、何事かと見上げる頃には何かの下敷きになっていた。
工事現場の足場が落ちてきたのだと聞いたのは、その日の夜、伊吹が病院のベッドで意識を取り戻した時だった。
またダメだったのか、それとも伊吹のように生きているのだろうか。
詳しいことを何も教えてくれなかった看護師を少々怨みつつ、伊吹は自由の利かない身体できょろきょろと周りを見る。動きたいのは山々なのだが、『前回』は点滴の管一本だけだったのに『今回』は何本か自分の身体と繋がっていて、頭のすぐ傍には心電図や血圧が表示されているモニター。この状態では動けない。
広々とした部屋には伊吹と同じように何人かが管やら機械やらに囲まれており、扉に書いてあった文字を見て、ここがICUと呼ばれる集中治療室であることを知る。
自分が思っていたより重症だった、らしい。全く説明をされなかったためどういう状況なのかさっぱりわからない。
朝になるまで待てそうになかった。巡回の看護師が来た時に聞き出すしかない。
伊吹だけが重症で、他の三人は軽症だから一般病棟に入っているか入院しないで帰ったか、のどちらかであることを強く願う。
生きていてくれればいい。あわよくばまた遊べるようになれればいい。高望みはしないから、なあ、かみさま。お願いだから、清春と汐と千洋を連れていかないで、と伊吹はいるのかどうかもわからないかみさまに縋るしかなかった。
「あ、のっ」
暫くして巡回に来た看護師を呼び止めると、掠れた声しか出なかった。それでも気付いてくれた看護師は、伊吹の口元に耳を寄せると「どうしましたか」と問いかけてくれる。
「清春と、汐と、千洋は? 無事、ですよね?」
出しにくい声で途切れ途切れに必死に言葉を紡いだ。ふ、と表情を変えた看護師の腕を掴む。驚いたように伊吹を見る看護師から視線を外すことなく、怖い気持ちを押し込めてじっと見つめた。
看護師が伊吹から視線を外した。その仕草に伊吹はどうしたって最悪の状況を考えてしまう。けれどそれを口に出すことはできなかった。自分からは言い出せなかった。
「……少し、待っていてください。巡回終わらせてからまた来ます。そうしたら話しますから」
「っでも!」
「落ち着いてください、苦しくなっちゃいますよ。ちゃんと話しますから、ね?」
言われて気付く。確かに苦しくなっている。
緩んだ手をすり抜けて、看護師は隣のベッドに行ってしまう。伊吹は強く唇を噛んで、口を突いて出そうになった悪態を呑み込んだ。
自分のことは別に、なんだっていいのだ。清春と汐と千洋。三人が無事なら、伊吹自身のことはなんだっていい。そう思うのに、現実はうまくいかない。
「貴方と一緒に運ばれてきた三人は、……ほぼ、死亡確認のために搬送されてきたようなものだったの。だから、助かったのは貴方だけ」
「……くそっ、」
改めて口にされた事実に、伊吹は歯噛みした。
三人とも助けたかったのに、三人とも失うなんてこと、あるのか。ただ三人と一緒の普通が欲しいだけなのに、それを望むことはいけないことなのだろうか。
なあ、かみさま。
ナースステーションに戻った看護師の背中を見ながら、伊吹は脱走計画を立てた。ここがどこの病院かが分かれば、あの神社までどのくらいか見当がつく。分かったらすぐにここを出て、神社に行くつもりだった。
もう一度。もう一度、チャンスボールが欲しい。
事故のあった場所、伊吹たち四人の家。二つの場所から近い病院は、大体同程度の距離に総合病院が二つある。恐らくどちらかの病院だとは思うが、暗いせいで細かい字が読めない。仕方ないので、両方のパターンを考えておくことにする。
そもそも怪我の状態が全くわからないのも困ったが、歩けさえすればこの際なんだっていい。どちらの病院からでも、神社までは歩いて約一時間くらいかかる。
脱走は明日の昼間と考えれば、親がお金を持って来るんじゃないか。それを持っていければ電車やバスも利用可能になる。そうしたら二十分くらいまで縮まるはずだ。
情報が少なすぎる。かといって寝られる気もしない。
とりとめもないことを考えて、とにかく時間をやり過ごす。意識が戻ったのは大体夜中の三時頃で、看護師から清春たちのことを聞き出したのが四時過ぎ。
それから四時間ほど過ぎて、軽い問診と診察を受けると一般病棟に移ることになった。病院名もはっきりわかる。これで脱走がしやすくなる。
診察の時に受けた説明によると、伊吹は左足の骨折と肝臓破裂、と言われた。手術自体は『今回』も終わっているようだ。
左足の骨折、が痛かった。肝臓も辛いは辛いが、歩けないほどでもないだろう。問題は左足。まだ立っていないからわからないが、見たところ重傷そうだ。
それでもやるしかない。少しでも助かる可能性があるのなら、それに賭けたかった。
九時になって、面会と説明のために親が揃って入院部屋に来た。一緒に行くか、と訊かれたから行かないと返し、二人から視線を外す。三人が死んだことはもうとっくに知っているのだろう、特に強く言ってくることもなく、入院のための荷物を置いて、二人は医者のところへ行った。
その時、伊吹は脇にあった棚に母親がいつも持っているバッグを置いていっていることに気づいた。中を漁ると、目当ての財布がある。五分ほど様子を伺って、戻ってこないことを確認すると伊吹は身体に繋がっていた管を片っ端から引き抜き、財布を持って部屋を抜け出した。
腹に出来た傷と、左足を庇いながらの歩行は目立つことこの上ない。なるべく人通りの少なさそうな通路を選びつつ、何事も無さげに正面玄関を抜けるとタクシーを捕まえた。明らかに歩き方のおかしい入院着の少年が乗ってきたことに運転手は顔を顰めたが、伊吹が必死に告げた行き先に、仕方なしに向かってくれる。
ちら、と入院着を捲ると、包帯に血が滲んでいるのが見て取れた。傷口が開いてしまったらしい。左足も言うことを利かない。
ICUにいただけあるな、と思いながらも伊吹は外の景色に目を向けた。告げたのは、神社から少し離れたところにあるコンビニ。『前回』、伊吹たちが買い物をしたところだった。
病院を出て約十五分。コンビニについて運転手にお金を払い、制止を振り切ってタクシーを降りた。そのまま裏道の方へ抜ける。こっちに来たら、車が入ることはできない。
神社に着く頃にはもうはっきりと出血しているのが分かって、立っているのも辛くなった伊吹は木の根元に腰を下ろして幹に身体を預けた。
早くなった呼吸をなんとか整える。自分の口から漏れる呼吸は浅く速く、意識して呼吸を戻そうとするが戻らない。過呼吸か、と昔千洋が泣き過ぎて過呼吸になったときのことを思い出した。
何がきっかけであそこまで千洋が大泣きしたのかは覚えていなかった。ただ覚えているのは、いつもと同じ呼吸ができないのを見て慌てた伊吹とは対照的に、清春がずっと背中を撫でながら励ましていたこと。そのうちに少し冷静になった汐と伊吹も片方ずつ千洋の手を握って、ずっと、千洋が落ち着くまで、声をかけ続けた。落ち着いて千洋が寝落ちしてしまうまで、ずっと。
呼吸は元に戻らない。額には冷や汗が滲んで、視界が霞み始める。
そういえばあの時もこの神社だった、とふと思い出した。あの時は四人揃っていた。けれど今は伊吹ひとり。誰も、手を握って声をかけて励ましてくれる人はいない。
「……かえせ、よ」
苦しき呼吸の合間から、伊吹は誰にともなく紡いだ。
かえせよ、かえしてくれよ、かみさま。いるんだろ。もどしてくれよ。あのひに、まだよにんでわらいあえていたあのひに、かえせよ。なあ、かみさま。
「こんど、こそ、たすけるから」
そう強く願った瞬間、身体中の痛みがふっと消えた。
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