たとえばあした、

絢瀬桜華

第1話

「例えば明日、」

 ずっと黙り込んでいた清春の口にした言葉に、伊吹達三人が立ち止まって清春を見た。

「地球が滅亡するとしたら、どうする?」

「世界一周」

「先に死ぬな」

「んー……私はお世話になった人のところに行く、かな。清春は?」

「俺は、そうだな、何もしないかも」

「見事に分かれたな、おい」

 ばらばらすぎる答えに伊吹が笑うと、汐がいつものことでしょ、と突っ込む。それもそうだねと同意した千洋が頷くと、もう一度三人で清春に視線を合わせた。

「ずっと黙ってると思ってたらそんなこと考えてたの?」

「え、……んー、まあ?」

「何その答え、絶対まだ何かあるでしょ」

「汐って鋭いよね」

「言っとくけど清春、俺も千洋も分かってっからな?」

「困ったなあ」

 そう笑う清春は絶対に困っていない。

 何年幼馴染やってると思ってんだよ、と睨みつけるとごめんごめんと軽く返される。汐がこれ見よがしに溜め息を吐くと、清春がすっと真顔に戻った。

「じゃあさ、例えば明日、俺達の誰かがいなくなったとしたら?」

「それ考えてたのかよ? ずっと」

「何考えてんのかと思ったら……」

「授業引きずりすぎでしょ清春」

「言いたい放題だね」

 苦笑を漏らした清春の脇腹に手刀を入れてやった。う、と呻き声を漏らして脇腹を抑える清春の頭を、今度は汐がはたく。一歩引いてそれを見る千洋も止める様子はない。

 午後の授業である五限と六限を丸々潰して行われた講演会の内容は、確か命を大切に、みたいなものだったと伊吹は記憶している。元より不真面目で授業は睡眠学習が常の伊吹は今回の講演会も起きてはいなかったし聞くつもりも毛頭なかった。

 けれど他の三人はちゃんと起きて聞いていて、清春のその問いはきっと講演会のせいなのだろう。初めてではないし、寧ろ清春の癖と言ってもいい。出逢った頃からこんな感じで、何か講演会や特別授業がある度にこうなる。

「誰かがいなくなったとしたら、かあ……」

「てか清春、それは」

「あーごめんて」

 鋭くなった汐の語尾に清春が謝った、理由は分からないがきっと何かあったのかもしれない。幼馴染だから、知っていることは多いかもしれないがそれも全部ではないことくらい伊吹も分かっている。

 少しだけ張りつめかけた空気に、伊吹はどうしようかと悩んで、ふと思った疑問を口にした。

「いなくなるって引っ越しとかってことか?」

「いや、今更それはないでしょ」

「じゃあなんだよ、死ぬってこと?」

「まあそれでいいよ」

 間髪入れずに汐の突っ込みが入り、問い直すと清春に半ば投げられるようにして肯定された。

「確かに引っ越しは今更ねーだろうけどそんな勢いで否定しなくたっていいだろー?」

「え、思わず」

「清春だってちゃんと考えてやろうとしてんのにー」

「え、ごめん」

「というか大分話題離れてるけどね」

 千洋の軌道修正のお陰で話題が戻った。

 んー、と汐が考える傍で、千洋が一人口を閉じる。その様子に首を傾げたくなったが、伊吹はとりあえず軌道修正に乗っておくために答えを口にした。

「んな考えることねーだろ。お前等がいなくても生きてくしかねーし、俺がいなくてもお前等には生きててほしいし」

「伊吹って単純だよね」

「んだよだってそうだろ! 俺だってお前らがいなくなったら寂しいし多分泣くけど、でもずっとそうしてるわけにはいかねーじゃん。ちゃんと生きなきゃだろ。それとも後追って死ぬのかよ俺は認めてやんねーからな俺が死んでたら追い返してやる」

「追い返すって!」

 ぶはっと千洋が吹き出した。そこにはさっきの違和感は見いだせず、伊吹は気のせいかと見切りをつける。

「三途の川なんて渡らせねーから。叩き返してやっから」

「それ三途の川渡る前にもう一回死ぬやつ」

「そうかもしれない」

「そろいもそろってひでーな!」

 わっと叫ぶと三人が声を揃えて笑い出す。唇を尖らせて先に歩いて行こうとする伊吹の腕を汐が掴んで、ごめんって、と宥めた。どちらも本気じゃないのは分かっているからしゃーねーな、とその場に足を止める。

 言葉は、本心。

 伊吹は決して頭がいい方ではないし寧ろ悪い方で、汐や清春、千洋の方が数倍はいい。それでも、思う。それは考えというより勘と言った方が正しいのかもしれない。だとしても、伊吹はその直感を信じていた。

「伊吹、ずるい」

「はあ!? なんだよ汐お前忙しいな!」

「うるさいな! てか清春はどうなのさ!」

「俺なんか飛び火してきた」

「つかお前が言い出したんだから答えろよ」

「えー」

 そうだね。口を閉じた清春の言葉を待つために、その場がしんと静まる。

「ちょっと分かんないかも」

「しばく」

「手伝う」

「あはっ、じゃあ私見てるね!」

「味方なし!?」

 ったりめーだ、と言って今度はさっきより強く脇腹を殴ってやった。身体を折り曲げた清春の頭を、はたきやすくなったと言いながら容赦なく汐がはたく。

 いくらなんでもあの答えはないだろう。千洋からの許可も下りたから問題はない。一応千洋が俺達のストッパーでもあるから、そのストッパーから許可が下りれば正当だ。

「理不尽だってばっ」

「しらねーよお前から訊いてきたのにその答えはねーだろ!」

「ほんとだよ必死で悩んだのに!」

「ごめんて! だって本当に思いつかなかったんだもん!」

「はいはい声大きいよ三人とも」

 と、ここで千洋のストップが入ったため中断。もー、と溜め息を吐いた汐は先を歩き出して、伊吹がその後を追うと後ろから清春と千洋が着いてくる。

「ごめんて、ね?」

「怒ってないって。分かってるでしょ?」

「うん知ってる」

「やっぱりおこ」

「なんで!?」

「汐、清春」

 後ろを歩く清春が汐の背中に声をかけると、汐が後ろ歩きを始める。そのままじゃれあいを始めそうになった二人に千洋からの二度目のストップ。

 伊吹ではなく汐と清春がセットで怒られるのは珍しい。いつもは伊吹一人もしくは伊吹と汐か伊吹と清春、といった組み合わせ。一番騒がしいのが伊吹だというのもあるが、でもかといって他二人が騒がしくないというわけでもない。

 それが四人のあり方なのだ。

「てかちょっと待って、伊吹汐、俺コンビに寄りたい」

「お? おー……ってまた肉まんかよ」

「いいじゃん肉まん。あったかいじゃん」

「そうだけど」

 唐突に何を言い出すかと思ったらいつものことで、悪びれもしない清春に伊吹は呆れて半目になった。この時期になるといつも清春が肉まんを買っているが、些か食べ過ぎではないかと思う。気付くといつも肉まんを買っているというか、持っているから最早慣れた。

 まあいいか、と進路をコンビニに変更。喋っているうちに汐は少し先を歩いていて、清春と千洋は追いついてきていた。

「つか清春よくそんなに小遣いもつよな」

「え、伊吹奢ってくれんのありがとう」

「マジで? じゃああたしシュークリーム!」

「あ、私はプリンでいいよ伊吹」

「ちょっと清春クン、どこをどう聞いたらそうなるんですか? え? ケンカ売ってんのかおい」

 思い出すまでもなく、伊吹の今の所持金はせいぜい自分の分の肉まんが一個買えるくらいなもの。清春一人には勿論汐や千洋にまで買ってやる余裕はない。

 冗談、と笑う清春の後ろの回って、何をしようとしているのか気付かれる前に運動靴の踵を踏んでやった。ちょっ、と慌てたような声を聞き流して汐の隣まで避難。こけそうになった清春の制服の袖を慌てて千洋が掴み、一連の流れを見た汐がぶっと吹き出した。

「おごんなら清春が俺達に奢れこのやろ」

「えー伊吹俺に恨みでもあるの!?」

「大有りだわ! さっきの恨み忘れてねーぞ! 俺今金ねーの!」

「伊吹ちっちゃーい」

「うるせぇ汐てめえが奢れ!」

「え、やだよ」

 わいわいといつものように騒ぎ始める伊吹と汐の横で、二人の様子を楽しそうに眺めつつ時々口を出して清春が場を引っ掻き回している。良くも悪くも伊吹は馬鹿だから、簡単にそれに乗せられて、そこに汐も巻き込んでいくのだから油断できない。

 それを外から眺めるのが千洋で、仲間外れというわけではなくてそういう役割なのだ。勿論時々は巻き込まれるし、そうすると収拾がつかなくなるからやめてくれと友達に言われたことがある。

 騒ぎながらも結局個人個人で買い物を済ませ、コンビニを出ると確認をしなくても四人の向かう方向は同じ。丁度四人の家から中間地点にある廃れた神社が目的地。そこに、伊吹達は何年も前から入り浸っていた。

 知っている人が他にいるのか怪しいくらいぼろっちくて、管理人がいるのかどうかすら怪しい。この場所に来るようになってから十年前後、一度として他の人を見かけたことがない。

 四人揃って神社に着くと、本殿の裏手に回った。伊吹と清春は汚れるなんて構いっこなしに地面に直に座り、汐と千洋は常備している小さなビニールシートを広げてその上に二人並んで座る。

 部活に入っていない汐と清春はよく来ている、と言っていた。バレー部の伊吹が来るのは部活のない日。土日は部活の帰りに同じく部活帰りの千洋と寄ったりする。千洋は野球部のマネージャーだ。

「伊吹ちゃんと勉強してんの?」

「してると思うか?」

「思わないけど……そこ胸張るところじゃない……」

 今日は通常の体育館ローテのための休みではなく、テスト一週間前の部活動強制停止期間。勉強嫌いの伊吹にとっては途轍もなく辛い期間である。

 伊吹にとってここに来るのは三日ぶり程度のもの。日曜日の部活が諸事情あって三時までだったため、元々部活のない二人と休みだった千洋を呼び出してだらだらしていた。特にやることがあってここに来るということはなく、単純に集まる場所として利用している。お互いケンカしたときなんかもお互いにここに来るからいつの間にか仲直り、覚えている限り長期間のケンカをしたことはない。

「そういえばさ、話戻していい?」

「んー?」

「清春の、さっきの。例えば明日、地球が滅亡したらってやつ。伊吹アンタ、先死ぬの?」

 最後の肉まんの欠片を口に放り込んだタイミングで、汐が思い出したように伊吹に問いを投げた。しっかりと噛んで飲み込んでから、嗚呼、と自分の発言を思い出す。

「言ったな、そんなこと」

「何となくっつったらしばく」

「さっきの清春じゃねーんだから言わねーよ」

「俺!?」

「当たり前」

 まあそれは置いといて、と汐が清春を適当にあしらった。え、と呟いたのを無視して伊吹は先を続ける。

「だってさ、地球が終わる瞬間見るの嫌じゃね? それにどうやって死ぬかっつーか、死因? もわかんねーじゃん。俺窒息死とか溺死とかしたくねーもん。苦しいの嫌い」

「……本当、伊吹って面白いよね」

「褒めても手しかでねーぞ」

「物騒だな」

 ふ、と笑って清春が伊吹を見た。得意げに笑い返すと、汐が後ろからすぱんと頭を叩いてくる。いてえな、と文句を言いながら汐を振り向くと、それに構わず名前を呼んだのは清春の方。

「伊吹調子乗っちゃうから誉めないでよ清春」

「そうだったね」

「なんでだよそうだったねってなんだよ!?」

「あーはいはい、三人ともストップー」

 はあい、と汐と清春が素直に口を閉じる。伊吹はどこにこの気持ちをぶつければいいのか悩んだ末同じく口を閉じることにした。

 不本意だが、大体がいつもこういう感じで終わる。本気で二人が言ってるわけではないのは分かっているので伊吹も本気で相手にしているわけではない。

 その場のノリ。でもそのノリが楽しくて、きっとみんなやめられない。

「話戻すんだけどさ。私、伊吹の言い分も分かるなあ」

「千洋も一緒に死ぬか?」

「何のお誘いしてんのアンタは」

 なんとなく気配を察知した伊吹がするっとその場から逃げだして清春の後ろに入る。安全を確保してから自分の居た場所を見ると手持ち無沙汰になったような汐の手。

 あっぶね、と漏らした伊吹に清春が笑った。笑い声が絶えない空間が好きだ。だけどなるべくそういうじゃれあいというか、痛いのは遠慮したい。

「てかどうせなら四人で死のうぜ。お前等も苦しいのやだろ?」

「そりゃまあなるべくなら嫌だけど」

「まあ、お前等となら死んでもいいって思うよ」

 自分の後ろへと隠れたままの伊吹に笑いながら、清春は伊吹のお誘いにそう返した。ほんの思いつきに過ぎない案だけれど、例えば明日、地球が滅亡するとしたら、この四人で死ぬのもいいかもしれないと思う。

 誰だって苦しいのは嫌いだ。明日滅亡しますって急に言われても特にやりたいことも思い至らないから、心中したっていい。とはいえ、元々伊吹はそのつもりだったのだけれど。

「まあ正直さあ、特にやること思い浮かばないよね」

「汐さっき世界一周って言ってたじゃん」

「あれはほら、王道の答えじゃん?」

「それ言ったら千洋もだから」

「あーそうかも」

「それに比べて男二人は」

 汐と千洋の視線が男二人に向いた。清春と顔を見合わせて、二人で分からないような顔をする。

「いやだって、思いついちゃったし」

「そうそう」

「清春てめえは思いつけてねえから」

「そうだった」

 とぼけた清春の脇腹を突いた。う、と変な声を出した清春は脇腹が弱い。

 心中か、と改めて考えて、この神社でしてもいいだろうか、とふと思う。神様の居るところで自殺を図るなんて罰当たりだろうか。けれどずっと昔からこの場所で過ごしてきたのだ、もし自分達の手で自分達の命を終わりにするとしたら、この場所が一番いい。

 どうせ滅亡してしまうのだから、神様も何もない。許してくれるだろ、と根拠のない自信を持って伊吹は自分のバッグの中からバレーボールを取り出した。そのまま一人でオーバーの練習を始める。

 この場所を見つけたのは、小学校一年生かその前くらいのこと。汐と二人でこの辺りを遊びまわっていた時にたまたま見つけて、そのまま入り浸るようになった。気付いたら清春と千洋が増えて、四人で来るようになっていた。

 伊吹と汐は、正真正銘の幼馴染だ。物心ついた時には既にお互いにお互いが傍にいた。親同士も仲が良く、家だって徒歩一分もしない距離。田舎であるこの辺りでは今でも有名なやんちゃコンビとして地元ではかわいがられている。

 千洋に出会ったのは小学校の五年生の時。小学校は違ったが千洋の家も伊吹達の家も学区の境目で、神社に行く途中に出会った子が千洋だった。専ら伊吹に混じって男たちと遊ぶことの多かった汐が学校外の同級生と話す機会にテンションが上がり、その時は伊吹と汐、二人の秘密基地のような感じになっていた神社に連れて来たのだ。

 最後に出会ったのが、小五の後半に出会った清春。伊吹たちの小学校に清春が転校してきた。小さな町の小学校でクラスは一クラス、おまけに家もそう遠くない場所にあって、コミュ力の高い伊吹が清春と仲良くなるのは時間の問題だったし、汐だって人並み以上にコミュ力が高い。寧ろ転校してきたその日のうちに神社に連れて来るものだから、内心で汐が冷や冷やしていたのは知らないだろう。いつか悪い人に着いていきそうだと。

 中学は四人が一緒だった。近隣の小学校三校がくっついて、ひと学年三クラス。四人で同じクラスは難しいかと思っていたが一年の時は奇跡的に同じクラスになることができた。その一年で四人の仲が良いことが広まったのは言うまでもない。

 二年、三年の時は流石に四人一緒になることはなかったが、問題児扱いされていた伊吹は必ず誰かと同じクラスにされたので問題児も悪くないなとちらっと思ったことがあるのは内緒だ。

 そして、現在。四人は同じ高校に通っている。

「あーあ、テストかー」

「ほんとに伊吹大丈夫なの?」

「暗記ならいけるから生物と日本史は余裕。あと現文も脚注とか問題の答え丸暗記でいける。それ以外は知らね」

「……清春」

「分かってるよ汐。千洋、英語よろしく」

「うん。清春は数学頼んだ」

 バレー部の伊吹は、赤点を取ると部活に出られない、または遅れて出ることにならざるを得なくなる。学業優先なのはどこでも一緒だ。

 清春と千洋は凄く、まではいかなくても人並みちょっと上程度にはできるし、通う高校は二人のレベルより少し低い。要は伊吹より余裕で頭がいいのでテスト前は大抵臨時の専属家庭教師になる。

 汐も決して頭が悪いというわけではないのだが、いかんせん他の人にまで意識を向けられるほど余裕はないのだ。それを分かっているから伊吹は勉強しろと言われても汐に泣きつくことはしないし、そこは分業だと分かっている。勉強以外のことは汐が一番物知りではあるので日常生活で何かあったときはとりあえず汐、だ。

 清春は理系、千洋が文系。強いて言うなら汐が技術系で、伊吹は典型的な体育会系。

 ばらばらすぎて友達や先生にあきれられることも多々あるが、正直その方が困ったときに誰かしらに頼れる。

「てか範囲どこ?」

「えー知らねえな」

「もー伊吹今範囲持ってるでしょ? はいプリント出す! 鞄漁る!」

「分かったって千洋、今探すから清春も祖も笑いやめろ怖い」

「怖くしてる」

「伊吹の将来が心配になってきたんだけど……」

「汐、今更」

「聞こえてんぞお前等ァ!」

 ボールを清春に託してスポーツバッグを思い切り開けた。ごちゃごちゃしている中を漁って探しつつ、頭上で交わされる会話に文句だけ言ってから捜索に戻る。

 確か水色のファイルに入れたはずだ、と思って探していると奥底に発見。取り出すというより掘り出すと言った方が正しいような状況で見つけ出したそれを千洋に渡すと、散らばった中身を再びバッグの中に放り込んでいった。ついでにボールも受け取ってこちらは丁寧に仕舞う。

「……伊吹さん?」

「は? ……あ」

「何で鞄の中に教科書とノートがないのかなあ?」

「千洋怖い怖いこえーっつの! きよは、るも怖いから! ごめんなさいすみません学校デス!」

 迂闊だった。

 笑っているようで笑っていない二人の視線を浴びつつ、伊吹はだらだらと冷や汗を流す。味方はいない。いるわけがない。

「あのさ、もう一週間前だって分かってる? 部活出来なくなってもいいわけ? 別に俺達は困らないから教えなくたっていいんだけど?」

「それはやだ! うぅ……」

「何度も言ったよね、教科書はちゃんと持って帰ること、って。せめてテストの前だけでも。中学の時から言ってるよね?」

「返す言葉もございません……」

 二人だけでなく汐の顔も見るのが恐ろしく、伊吹は視線を下に向けた。正論過ぎて何も言えない。

 伊吹、と呼ばれた名前にちらっと視線を上げる。飛んできた清春のでこピンに思わず額を押さえた。清春のでこピンは正直痛い。涙目になって項垂れた伊吹に清春の溜め息が聞こえて、そろりそろりと顔を上げると今度は千洋に軽く頭を叩かれた。

「とりあえず今日は俺と千洋の教科書貸すから。ノートはどうせとってないんでしょ? 明日は持って帰らないと教えないからね」

「分かってます!」

「その代わり今日は扱くから」

「マジかよ」

「赤点とっても知らないよ」

「俺が悪かった!」

 はい帰ろう、と千洋がレジャーシートの回収を始めた。どうしても勉強が嫌いな伊吹は苦い顔をしたままゴミをひとまとめにしてぎゅっとビニール袋の口を縛る。

 渡されたプリントを清春が流し読みしながら、あまり変わらないかな、と呟いた。体育会系とはいえ伊吹は文系の所属で、理系である清春とはテストの範囲が違うのだ。

 ただ文系の方が進み自体は遅いので、履修は既に終わっている。教える分には何ら問題はないし、被っている範囲はこちらの勉強にもなる分一石二鳥。英語は全クラス共通だから特に問題はない。

「よかったね伊吹今日が数学ない日じゃなくて」

「英語もある日で」

「俺にとっては地獄だった」

「んなこと言ってないで勉強するよ」

「うぃっす」

 理系は週四コマの数学、穴の日ではなかったらしい。英語は週三コマだがこっちもあったようだ。

 タイミングの良さに思わず眉を寄せた。なかったら一旦それぞれの自宅に取りに行くことになっいたかもしれないし、そうしたら勉強時間が少しでも減っていたのに。

 事態は伊吹の望むものとは正反対の方向に進み、ここから一番近い伊吹の家で勉強することになった。その方がぎりぎりまで教えられるだろうという目論みもあることを伊吹は分かっている。

 結局逃げられるわけもなく数学英語共に範囲の五分の一をみっちり教えてもらい、夜はちゃんと自分で暗記科目を進めておくことという宿題を与えられて伊吹達四人は解散した。


 翌日。寝ずに朝から六時間分の授業を受け切り、伊吹は部活とは違う疲れを感じながら三人との待ち合わせ場所に向かった。

 部活の疲れはすごく好きだ。決してマゾということではなく。

 元々運動することが好きで、バレーを始めたのは中学から。何か人と違うことをやりたくて、男子の運動部としては花形の野球部やサッカー部には見向きもせず、覗いてみたら案外人数の多かった陸上部とバスケ部も諦め、最後に行きついたのが男子バレー部。廃部寸前といわれた男子バレー部は確かに人数が少なく試合にもぎりぎり出られる人数しかいなかったが、その分一年の頃から試合には出放題だったし、上下関係のいざこざもなく練習もし放題で楽しかった。

 高校でも入ったバレー部は流石に中学より人数も多くて上下関係もしっかりしていたけれど、そこまでお堅いものでもなかったからやりやすい。特別強いチームではないが、伊吹自身プロを目指しているわけではないので今くらいがちょうどよかった。

「いーぶーきー!」

「汐。清春と千洋は?」

「まだ来てない。掃除じゃない?」

「そうかもしれない。てかそーだろ」

「いや訊いてきたの伊吹じゃん」

 伊吹も汐も、今月は掃除がない月である。クラスが一緒だと出席番号の関係上休みが被ることは早々ないが、クラスが違うため一緒になる確率が上がる。というのも、クラスによって班編成や掃除の期間が違うからで、四人とも休みの時もあった。

 どんくらいかかるかな、と思いながらも伊吹は自分一人でできる日本史の暗記を進めることにする。昨日少し頑張りすぎたお陰で、今日は少し辛い。元から勉強は好きな質ではないため、運動と違って勉強の疲れはいつまでも慣れないもので、伊吹にとって嫌な疲れでもあった。

「……あのさあ、伊吹」

「あー?」

「ちょっとガラ悪い。……じゃなくて、昨日のさ、清春のもしもの話」

「なんだよ汐、昨日からやけにひっぱんのな。清春が移ったか?」

「うるさい」

 ぱたん、と教科書を閉じた伊吹は不思議に思って汐を見た。どこか違うところでもあったか、と昨日からの様子を思い返してみるが、特にそう感じたことはなかったように思うし、今もそういう感じはしない。

 例えば明日、誰かがいなくなったら、という問い。汐のもしもの話はきっと二つ目の方を指しているのだということはすぐに分かった。だって、一つ目は全員が答えを出している。二つ目の例えば明日に答えたのは、伊吹と清春の二人だけだ。

「伊吹は、どうしてこうやる、こうするってのがいつもはっきりしてんの? ものすごく今更だけど」

「確かにものすごく今更だな。二つ目の例えば明日、だろ?」

「うん。あたしには、はっきり言えない。どうするかなんて考えられない。というか、考えても仕方なくないかな、って」

 考えたくないわけではないらしい。伊吹がわかっているのだから、汐だって当然いつかは四人でいられなくなる日が来ることはわかっている。それが明日なのか一週間後なのか、それとも年齢からしてもっと先のそれなりの歳になってからなのか。それは誰にもわからない。

 ぐいっと身を乗り出して、伊吹は汐の瞳を覗き込んだ。反射的に後ろに身を引いた汐が、壁に頭をぶつけて悶絶する。いい音がした頭を汐が抱えて唸るのを見て、伊吹は思わず吹き出した。

「ぶはっ!」

「うるさい! 痛い!」

「知らねーよ!」

「伊吹のせいだから!」

 確かに伊吹がいきなり近づいたせいではあるだろう。

「つか、汐お前考えすぎ。今汐がどう思ってんのかでいいだろ」

「伊吹に怒ってる」

「それは悪かった」

「……辛いし、苦しいし、信じたくないって思うけど、信じないといけない。伊吹が言ったみたいに、それでも生きてかなきゃいけない。でもきっと、傍に行きたくなる。……全部、受け止められたらの話だけど」

 受け止められたとしても、死んだ誰かの傍に行きたいと思ってしまうだろう。汐ひとりだったら、きっとそうする。それを伊吹も否定できず、その答えについて特に追求することはやめた。

「それが答えだろ」

「それ?」

「受け止められたら、って。受け止められるかわかんねーってことだろ。それが汐の答えなんじゃねーの?」

 え、と汐が視線を上げて真っ直ぐに見つめてきた。それを伊吹も真正面から受け止めて、よく理解していない汐に言葉を付け足す。

「そもそもこの質問に答えなんてねーだろ。国語の文章題と一緒じゃねーの? 考え方は一つじゃない。俺の出した答えも清春の出した答えも、まあ千洋も言ってねーけどきっと答えあんだろ? そういうの全部、答えじゃね? 正解なんてねーんだから、どんな答えだっていいんだよ」

「国語の文章題は一応答えあるからね?」

「そこ突っ込むなよ!」

 清春だって決まった答えがあるわけじゃないのを知っていて訊いている。それは答えを探しているのではなくて、考えを聞いているだけに過ぎないのだろう。そもそもああして突拍子もなく投げてきた清春の問いは、しっかりとした決まった答えがあった試しがない。

 どうやら突っ込めるくらいには通常のテンションに戻ってきた汐に少しだけ安心して再び教科書を開いた。今日は早く寝たいからその分昼間のうちに進めておかなければならない。でないと汐と清春に怒られる。千洋には無言で微笑まれる。それに補習になって部活に行けないのはごめんだ。

「……伊吹、ありがと」

「おー。今度奢って」

「なんでそこでそうなるかな?」

「えーいいじゃん」

「じゃあ百円あげるから自販ゴー」

 汐に百円玉をもらい、やりぃと思いながらすぐそこにあった自販機の前で何を買うか思案する。悩むのが面倒臭くなってきた伊吹はアラカルトにして、出てきたヨーグルトの飲み物にストローをさして飲み始めた。これは当たりだ。

「あ、ごめん二人とも!」

「遅くなった。今日はどこ行く?」

「お母さんが家来れば、って言ってたけどどうする?」

「じゃあ汐ん家行こうか。伊吹、教科書」

「ちゃんと持ってる! 抜かりはない!」

「いや、今頃持って帰る時点で抜かりはありすぎ」

 スポーツバッグいっぱいに詰められた教科書を見せると、清春に苦笑された。せめて主要五教科くらいは持って帰るのが当たり前であると思うのだが、伊吹にはそれが通じない。

 汐の鋭い突っ込みと共に張り手が飛んできて、呑気にヨーグルトを飲んでいた伊吹は吹き出しかけた。

「こんのっ!」

「汐も伊吹もじゃれてないで早く行くよー?」

「じゃれてない!」

「おー! 今日も頼んだ!」

「伊吹は自分で頑張ろうとしてよ少しは」

 伊吹と汐のじゃれあいが始まる前に、千洋からの牽制が入った。歩き出した清春と千洋を追って、伊吹も昇降口へ向かう。誰にも拾ってもらえなかった反論を抱えて、汐はもー! と声を上げて三人に横をすり抜けていった。その後ろを、抜かされたことに気付いた伊吹が追いかける。

 汐の家は学校から歩いて行ける距離にある。ひいては家の誓い他の三人の家も徒歩通学圏内。遅刻しそうなときはチャリを飛ばすような距離だ。

 競っていたのはどこかへ忘れたのか、喋りながら歩く伊吹と汐に清春達はすぐに追いついた。そのまま何となく二列に並んで四人で取り留めのないことを話し始める。

「そういえば伊吹、昨日の宿題やった?」

「やった。とりあえず埋めはした」

「まあそれでいいや。今日それからね」

「はーい清春せんせー」

「大学入ったら家庭教師のバイトしようかな……」

「向いてると思う」

 清春と千洋がわざわざ作ってくれた問題プリントをやらないわけがない。早くテストを終わらせてバレーボールに触りたい、と思考を飛ばしながら伊吹は歩く。清春と千洋は今日の勉強の予定を立てていて、汐は横で何かを考え込んでいた。

 だから、気付くのが遅れたのは仕方ないのかもしれない。

 清春の千洋、と叫ぶ声が聞こえた時には伊吹は反射的に汐を歩道側に思い切り突き飛ばしていた。汐だけでも助けなきゃと身体が動いていた。直後、自分の身体に重い衝撃が走って、意識が途切れそうになる。それでも。

 汐の無事を確かめようとした伊吹の視界には、伊吹を掠めて針路を歩道に変えた、車が見えていた。

 汐、と叫ぼうとするが、声が出ない。左腕が熱い。

 耳に届いた誰かの悲鳴を最後に、伊吹はぱっと意識を手放した。


 目が覚めるとそこは二人部屋で、隣のベッドには頬に大きめの絆創膏を貼られている千洋が寝ていた。その頬に微かに涙の跡が見えて、なんで泣いたのだろう、と不思議に思う。

 生きてたんだ、と思って手をぎゅっと握ったり開いたり、足を動かしたりしてみる。足は何とか動いたが、腕は骨折しているのか、左腕は固定されていて動かしにくかった。

「――――っ!」

 ぶわっと、記憶が一気に戻ってきた。

 部屋には、伊吹と千洋の二人だけ。

 汐は。清春は。そもそもあれからどのくらい経っているのか。今は何時だ。どうなっている、一体何がどうなっているのだろう?

 力の入らない足を無理やり動かし、半ば落ちるようにしてベッドから降りた。大きめの音がして千洋が起きてしまうのではないかと思ったが、暫く見ていて起きる様子はない。痛みに息を詰めながら、伊吹は病室のドアを開けて廊下に出た。

「っ! 何してるんですか!」

「清春と汐は? どこにいるんですか?」

 ドアの持ち手に掴まりながら外へ出ると、運悪く直ぐに巡回中らしい看護師に見つかった。どうやら今は朝、らしい。

 とにかく汐と清春のことが知りたかった。自分のことなんてどうでもよかった。隣で寝ていた千洋もちゃんと無事なのか知りたかった。何よりも、二人の無事が、知りたかった。

 それなのに、目の前の看護師は沈痛な表情を浮かべる。右腕で、看護師の腕を強く掴んだ。やめてくれ、と思う。

 そんな顔するな。知りたくない答えが、合っていてほしくない解答がまるで合っているかのようなそんな、でも。

「汐と清春はっ!」

 知りたくないけれど、知らなければならない。

 何も言わない看護師の身体を揺らし、俺はちらほらと人の居る廊下で叫んだ。頼りなく揺れる身体に自分の身体が支えられなくなって、危うく一緒に倒れかける。はっとした表情の看護師がぐっとこらえて踏ん張るから倒れなくて済んだが、伊吹は近くにあった壁をがん、と殴った。

「瀬川さんっ! ……病室、戻りましょう」

「汐と清春っ、」

「戻りましょう。ちゃんと、お話しますから。……先生、呼んで来てくれる?」

 伊吹の叫び声と壁を殴った音で気付いたのか、他の看護師がすっとんできて病室に入るように促してくる。その看護師の手を借りながら自分のベッドに戻った伊吹は、千洋の頬にあった涙の跡を思い出した。

 もしかしたら、千洋はもう既に知っているのかもしれない。

 その涙が何を表すかは、まだ確信が持てないし多分一生持ちたくないことだと思う。けれどその反対の可能性だって、ないわけじゃない。だってまだ伊吹は、事実を聞いていないから。せめて真実を知るまでの間くらい、可能性を捨てたくない。

「瀬川さん、身体の調子はどうですか」

「……そんなのどうだっていいんで、早く教えてくれませんか」

「先に診察しますよ。話はそれから、ちゃんとお話ししますから。ね?」

 診察を突っぱねるが、そうはいかずに伊吹は黙り込む。その間に物腰の柔らかそうな医者が一通り診察を済ませ、怪我の説明をされた。

 左腕の複雑骨折と全身の軽い打撲。擦過傷が酷いのは左足。左腕は昨日のうちに手術をして固定しているということ。退院は少しかかるかもしれないということ。

 説明中、一言も口を挟まなかった。自分の身体なんてどうでもいい。未だに起きる様子のない隣の千洋をじっと見つめる。瀬川さん、とそれまでとは違った声のトーンで伊吹を呼んだ医者に、漸く千洋から視線を引っぺがした。

「澤山さんは、手足と顔の細かい擦過傷だけで特に大きな外傷はありませんでした」

「……じゃあ、千洋は大丈夫なんですね」

「そうですね。……それで、瀬川さんの知りたがっている前島さんと高橋さんのことですが」

 汐と、清春。

 ぐっと握る手に力を込める。逃げたい。逃げない。しっかりと医者と視線を合わせると、医者はゆっくりと口を開いた。

「……高橋さんは、運ばれた時にはもう心肺停止の状態で、まもなく亡くなりました。ほぼ即死、だったので痛みを感じる間もなかったのではないかと思います」

「……きよはる……っ、汐は」

「前島さんですが、彼女運ばれた時にはまだ何とか息があったのですが……残念ながら、失血が多かったために昨夜、亡くなりました」

 今は事故のあった翌日の朝で、千洋はこのことを知っていると残して、医者はいなくなった。

 理解することをやめたくなった。理解したくなんてなかった。理解なんて出来なかった。

 だって、伊吹は二人の姿を見ていない。

 まだ生きているのではないか。医者や看護師を巻き込んで、時々とてもいたずらっ子になる汐と清春が共謀していたずらを仕掛けているのではないか。

 そう、思えたら、どれだけ楽だったのだろうか。

 伊吹には、まだ千洋がいる。自分がしっかりしなければ、千洋が立ち直れなくなるかもしれない。

 そう考えて、伊吹は堪えきれなくなった嗚咽を漏らした。

 手には汐の体温が残っている。突き飛ばしたのに、汐を助けたかったのに、結局生き残ったのは伊吹で汐を助けることができなかった。

 今だけは、許してほしい。千洋が寝ている今だけは。

 噛みしめた唇の端から、殺しきれない嗚咽が漏れる。次から次へと流れ落ちてくる涙を止める術は知らない。

 汐を起こさないように、それだけに気を付けながら、ひたすらに泣いた。

 泣き疲れた伊吹がうとうとし始めた頃、隣から伊吹、という声が聞こえてすぐに目が覚めた。下手に動いた上泣き疲れて重い身体を片腕で支えて起こし、千洋の表情を窺う。目の赤い伊吹を見た千洋はきょとん、とした顔をして、何事もなかったかのようにどうしたの、と問いかけた。

「……伊吹なんで泣いたの? え、泣いたの? なんかあった?」

「なんか、……あった、って」

「そういえば、汐と清春は? 一緒じゃなかったっけ? あれ、ここどこ?」

「……ちひろ」

 何事もなかったかのようにではないのだと、瞬時に理解した。千洋の中では、本当に何もなかったことになっているのだった。

 きっと受け止めきれなくて忘れてしまったのだろう、と。汐を守れなかった代わりに、せめて千洋だけは守り通してやる、と決めて、伊吹は手を伸ばして千洋の手と繋いだ。


 それから、伊吹はできる限りの時間を千洋と一緒に過ごした。伊吹の入院中は千洋もそうしてほしいと千洋の親に頼み込んで、離れるのはトイレとお風呂くらいにした。

 汐と清春のことは、事故に遭って入院していて、面会謝絶だと嘘を話した。二人の葬式に伊吹と千洋が出ないわけにもいかないから、その日までは、というのは伊吹と四人の両親の想いだった。

 事故を起こした車の運転手は、寝不足で半分寝ながら運転していたのだと警察が言っていた。しかしあの事故で運転手もなくなっている。

 気持ちを持て余しながら迎えた清春と汐の合同の通夜の日。会場に着いた伊吹は千洋の手を引いて二人の遺影の前に連れて行った。

 伝え方は伊吹に任せると、千洋の両親から言われている。伊吹もそのつもりだったから異論はない。けれどどう伝えればいいのか考えても考えても、答えは出なかった。

「千洋、よく聞け」

 それでも、もう隠しておくわけにはいかない。

 きょとんとした千洋にしっかりと視線を合わせて、伊吹はおもむろに口を開いた。

「二つ目の例えば明日、覚えてるか?」

「……俺達の誰かが、いなくなったとしたら?」

「そうだな。じゃあ例えば明日、汐と清春がいなくなったとしたら、どうする?」

「……考えたく、ない」

「千洋、考えろ。今、何となく分かってんだろ?」

 痛い。怪我をした腕より足より、何よりも心の傷が酷く痛い。

「ここは、どこだ?」

「……葬式の会場」

「写真は、誰が写ってる?」

「……汐と、清春」

「じゃあ、誰と誰の葬式だ?」

「……しおと、きよはる?」

 千洋の声が震えていた。つられて伊吹の声も震えそうになるのを、必死に抑える。

「汐も清春も、事故のあった日に死んでる」

「……しらない」

「今日は、二人の葬式だ」

「……しらないよ」

「千洋、聞け!」

「うそだ!」

 いやいやをするように、千洋が両手で耳を塞いだ。千洋、とその腕を掴もうとするのを振り払って、何かから逃げるように式場を飛び出す。

「っ、ちひろ!」

「伊吹くん!」

「絶対連れ戻してきます」

 千洋の行先は予想がついていた。自己の前日から一回も言っていない、あの第二の家。千洋は多分、あそこに行く。

 いくら男と女でも、今の伊吹は入院して体力が落ちているただの怪我人だった。いつもと同じようには動けない、それでもひたすらに足を動かし、目的地へと駆ける。

 例えば明日、と問いかけてきた清春の言葉が耳の奥で響いていた。例えば明日、俺達の誰かがいなかったら。

 あれはただの清春のマイペースな問いで、本当にそういうことが起こったら、なんて考えてみてもあくまで考えでしかなかった。でも実際に汐も清春もいない。残ったのは伊吹と千洋だけ。

 問いかけてきた清春に、自分は何と答えたか。自分の出した答えを思い返して、伊吹は滲むほどに唇を噛んだ。

 生きなければならない。だって言ったから。

 けれど、伊吹にも限界があるのだ。

「千洋、ちひろ!」

「何で? ねえ伊吹、どうして汐も清春もいないの?」

「……千洋」

「いやだ! 別れたくない! 私も、一緒にっ」

「ふざけんなバカ野郎!」

 伊吹の怒鳴り声に千洋がびくっと身体を揺らした。

「誰がお前のこと庇ったと思ってんだ折角生きてんのに折角助かったのに死ぬつもりかよ! 清春の気持ち考えろ! てめぇは庇った人間が自分から死を選んだら嫌じゃねえのかよ!? なあおい!」

「……い、やだ」

「あ?」

「やだっ、!」

「よくできました」

 大声で泣き出した千洋の腕を引いて、自分の腕の中に閉じ込めた。とんとん、とその背を叩きながら、やりきれない気持ちを押し殺す。

 できることなら、こうなってしまった千洋だけでなく、そもそも事故から清春も汐も助けたかった。

 あの日に戻れたら、別の行動をとるのに。何とかして二人を助けるのに。

 ――――もし、あのひにもどれたら、

 そう考えた瞬間。腕に閉じ込めていた温もりが、ぱっと消えた。

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