第13話 魔獣がやって来てさぁ大変②
「マー君、ご飯だよ」
「みゃー」
「…………」
「ほらほら、毛糸だよマー君。遊ぼ~」
「みゃー」
「…………」
「やんっ!? そんなに顔を舐めないでよマー君。くすぐったいよ」
「…………っ」
「マー君、今夜は私と一緒に寝る?」
「すぎょごさみゃんぐげどす!」
「――――!?」
今の声はマー君ではない。……俺だ。
突如奇怪な声を上げた俺にティアラは飛び上がらんばかりに驚き、青い顔をしたまま部屋の隅まで一瞬で後ずさってしまった。
今のは何語だって? 俺も知らん。
気付いたら心の
だってティアラがマー君と呼ぶ度に、俺が呼ばれている錯覚に陥るんだよ! 違うってわかっていても反応してしまうんだよ! でもティアラが呼んでいるのはあの魔獣なわけで。優しい声をかけているのは、俺じゃなくてあの魔獣なわけで。
そこで軽く絶望。俺絶望。俺のガラスのハートはもうひび割れまくり。
しかも、今夜ティアラと一緒に寝るだって!? 彼女と一緒のベッドに入るだって!?
俺の名前の一部を取ったあの魔獣が、彼女のネグリジェに下から進入してあんなところやこんなところをペロペロしちゃうわけだろ!?
それで『ぁん。そ、そんなところ……や、やめてマー君……』とかティアラに言わせちゃうんだろ!?
許せねーッ! 断じてそれは許せねええええぇぇッ!
もう我慢ならん! お前はたった今から俺のライバル認定だ! 俺だって本当はペロペロしたいんじゃコンチクショー!
鼻息荒くティアラの腕に抱かれたままのマー君に掴みかかろうとした矢先――。
突然後ろから回されてきた腕に、俺の首はがっちりとホールドされてしまった。
「落ち着け。何で目が血走っているのかは――まぁ大体想像はつくが、とりあえず落ち着け」
「く……首……。し、締め……すぎ……」
俺はアレクの手によって、危うくあっちの世界へと旅立ってしまうところだった――。
次の日も前日と同じく、ティアラに密着するマー君に嫉妬し、俺はハンカチをギリギリと噛み締めたい衝動を押さえながら過ごしたのだった。
異変はその日の夜――。
俺がベッドに入り、まさに目を閉じようとした瞬間に起こった。
ずんっ――。
それは部屋どころか、城全体が下から突き上がるような感覚だった。
ずんっ――。
地震? いや、この音は地鳴り? それにしては何かがおかしい――。
とにかく普通ではない事態ということだけは確かだ。
俺はすかさず枕元に置いていた剣を取ると、ジャケットを羽織らずそのまま部屋を飛び出した。
ティアラの部屋の前まで駆けて行くと、ちょうど廊下の向こう側から槍を手にしたアレクが姿を現した。
アレクも就寝直前だったらしく、いつものマントや頭の布は身に着けていない。
互いに無言で頷き、俺は扉をノックする。
そして解錠の音と同時に部屋の中に飛び込んだ。
「ティアラ! 大丈夫か!?」
「あ、二人とも。うん。私はなんともないよ。でも……」
ネグリジェ姿でマー君を抱いたまま、ティアラは顔を青くしながら窓の外に視線をやる。
今はマー君を羨んでいる場合ではない。
すぐさま窓に駆け寄った俺は、その光景に思わず大きな声を上げてしまった。
「何だアレ!? でかっ!」
俺の目に映し出された光景――。
夜の闇の中に浮かぶ大きなシルエット。
それはティアラが胸に抱いている存在を、何十倍にも大きくしたものだった。
同じく俺の横でそれを見ていたアレクが、落ち着いた口調で語り始めた。
「ランドルブルムムルブキャットは、大人になるとおよそ四階建ての建物と匹敵するくらいの大きさになる」
「うん……。見りゃわかる……」
「そして仲間意識が非常に強い。仲間内だけで通じる超音波みたいなものを発するらしいが、かなり離れた場所からでもそれを聞き分けることができるそうだ」
「えっ!? ちょっと待て。それって――」
「この国に一番近い所にいた成体が、子供の発した超音波を聞いて迎えにきたみたいだな。そういえば密猟をする時は常に眠らせて、超音波を発する器官を取り除いているという話を今思い出した」
「そういうことは先に言ええええッ!」
無表情を崩さす涼しい声で言い放つ同僚に、俺は堪らず声を張り上げる。
とにかく、あいつを城下町のある南側には絶対に行かせてはいけない。
大惨事になってしまうことは明確だ。
幸い今は森の上を移動しているし、森の向こう側もだだっ広い草原が広がっているだけなので、人的被害は出ていなさそうだ。
手を打つなら城の北側にいる今しかないだろう。
「マー君を連れて屋上に行くぞ! 子供の存在をとにかくあのデカイ奴に知らせるんだ!」
「う、うん!」
俺達は慌ててティアラの部屋を飛び出す。
とそこで寝巻き姿のタニヤと出くわした。
どうやら彼女もティアラの様子が心配でやって来たらしい。
「えっ。どこかへ行くの?」
「とりあえず屋上へ行く! 説明は後だ!」
俺の雑な扱いに一瞬眉をひそめるタニヤだったが、緊迫した状況というのは理解したらしく、その後は黙って俺達の後に着いてきていたのだった。
屋上に出た俺達は思わず息を呑んだ。
既に城の兵士達が何人か集まり、巨大ランドなんとかに向けて弓を構え、矢を放とうとしていたからだ。
屋上だけではない。
城の下に目をやると、警備隊の連中も大勢集まっており、既にそれぞれの武器を構えていた。
これヤバくないか!? ここで下手に刺激をすると暴れてしまう可能性があるのでは!?
「弓部隊! 合図で一斉に矢を放て!」
「やめて! あの子を攻撃しないで!」
兵士長の言葉に被せるようにティアラが悲鳴に似た声を上げる。
武器を構えていた城の兵士や警備隊の者達は彼女の声に咄嗟に腕を下ろすが、皆一様に困惑した表情を浮かべていた。
「しかし姫様! このままでは町に被害が!」
「あの子はこの子供を迎えに来ただけみたいなの! 子供を渡したらきっと帰ってくれる!」
「ですが……」
マー君を兵士達に見せながら、ティアラは必死に訴える。
しかし兵士長は目前まで迫った脅威と、王女の言葉、どちらを優先させるべきなのか決めあぐねているようだ。
だがその間にも巨大ランドなんとかは森の木々を踏み潰しながらこちらに近付き、ついには城の真ん前まで着いてしまった。
巨大ランドなんとかはその大きな顔を屋上まで近づけると、低い声でグルルル……と喉を鳴らした。低音が腹に響く。
その声を聞いた兵士の誰かが小さく悲鳴を洩らすが、威嚇のような雰囲気は感じなかった。
マー君に話しかけているのだろうか。
闇夜に浮かぶ大きな瞳が少し不気味だが、どこか神秘的でもある。
まるで夢を見ているような、時間が止まっているような変な感覚だった。しかし頬に吹き付ける夜風の感触が、これが現実なのだと僅かに訴えてくる。
俺を含め、誰もその場から動くことができないでいた。
一人を除いて。
ティアラは恐る恐る屋上の端まで移動すると、抱いていたマー君を巨大ランドなんとかに見せるため上に掲げた。
「あ、あの。あなたが探している子供は、ここにいます」
巨大ランドなんとかは、まるでティアラを見定めるように大きな空色の瞳をギョロリと動かす。
だがティアラはそれに臆することなく、その場に佇み続ける。
灰色の大きな顔がゆっくりとティアラへと近付いていき、
そして次の瞬間――。
いきなり大きな口を開けた巨大ランドなんとかに、ティアラはばくん! とひと呑みにされてしまった。
「ひ、姫様!?」
俺の横でタニヤが腰を抜かし、屋上の床にへたり込む。
酷く冷えた感情が瞬く間に俺の全身に広がっていくのがわかった。
……許さない。許せるはずがない。
ぶっ殺す。絶対にこいつをぶっ殺す! よくもティアラを――!
俺は手に持っていたままだった剣を鞘から引き抜き――かけたのだが、最後まで抜くことができなかった。
アレクが横から俺の手首を掴んだからだ。
「落ち着け。姫様は子供を抱いていた。ランドルブルムムルブキャットは子供を姫様ごと『保護』しただけだ」
アレクの言葉通り、少し開いた口の隙間からティアラの細い足首が見えた。どうやら体勢的に座っているらしい。
「あ、私は大丈夫だよー。かなりびっくりしたけれど……」
状況に似つかわしくないほわっとした彼女の声に、屋上に張り詰めていた緊迫した空気が一変した。
良かった……。無事だった……。無事で本当に良かった……。
思わず俺もへなへなとへたり込んでしまいそうになってしまったが、まだ安心してはいけない。
なんとかして彼女をあの口の中から連れ出さないと。
「でも、どうしよう……。もっとお口を開けてもらわないと、狭くて出られないよ」
「姫様! 子供を口の中に置いてください。オレ達が今から何とかします!」
「うん、わかった。――きゃあっ!?」
アレクがティアラに叫んだ直後、僅かに開いていた口が再び閉じられてしまった。
さらに巨大ランドなんとかは、そこでゆっくりと森の方角へ体の向きを変えやがったのだ。
「ねぇ。もしかしなくても、帰ろうとしているんじゃ……」
「おい、待ちやがれ! ティアラは置いていけ!」
俺の叫びは虚しく夜空に響くばかりで、巨大ランドなんとかを止めることはできない。
大きな足音を響かせて、城から遠ざかる巨大ランドなんとか。
だが城の兵士も警備隊の連中も、ただそいつを見送ることしかできなかった。
下手に刺激をしたらティアラの身が危なくなると皆考えているからだろう。
そして俺も同じことを考えていた。衝撃を与えてしまうと、ティアラが巨大ランドなんとかの腹に落ちてしまう可能性がある。
だがこのまま大人しく見送るわけにはいかない。
くそっ。どうすればいいんだ!?
ギリッと奥歯を強く噛んだその時、アレクが俺の肩に手を置いた。
「マティウス。お前なら姫様をしっかりと支えられるな?」
「は? どういう意味だ?」
いきなり意味不明なことを言うアレクに俺は首を捻る。
『彼女の人生をお前が支えろ』という意味ではなさそうだが……。
いや、もしかしたらそういう意味なのかもしれないが、なぜ今このタイミングでそれを――と悩んでいると、アレクの左手が俺の首元の服を掴んでいた。
「おい、何しやがる」
「オレがあいつの動きを止めるから」
「へ? お?」
俺の視界に映る世界が、そこで突然九十度横に傾く。
「お前は姫様の所に行ってこい!」
自分の身に何が起きているのかを理解した時には、俺の身体は巨大ランドなんとかに向かって既に飛んでいた。
「うぞだろおおおおおおおおおっ!?」
アレクに
あいつの馬鹿力は本当に反則気味だろ!?
っつーか俺はボールじゃねえ! 投げるなああぁぁッ!
心中でそんな文句を並べていると、俺は巨大ランドなんとかの頭の後ろに激突してしまった。
何とか毛を掴んで頭に張り付こうとしたのだが、毛並みが良いせいかツルツルと滑ってなかなか毛を掴めない。
おおおお落ちる! 落ちたら死ぬ! この高さから落ちたら絶対に死ぬ!
何でこいつ野生のクセにこんなに毛並みが良いの!?
「あの、すみません。私、お城に帰らないといけないので、降ろしてもらえませんか?」
その時、ティアラの戸惑った声が俺の鼓膜を通り抜けた。
彼女の声に、俺は少しだけ冷静さを取り戻す。
巨大ランドなんとか…………いい加減この呼び方面倒くさくなってきたな。
もう巨大ネコでいいか。
巨大ネコはティアラの声などまったく無視して、ずんずんと森の上を歩き続ける。
このままではあっという間にこの国から出てしまうぞ。
絶対に何とかして彼女をあの口の中から連れ出さないと。
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