第45話 彼女と俺の、何でもない一日

 今日の午前中のティアラの予定は、町外れにある牧場の視察だ。

 なんでも数日前に魔獣の襲撃を受け、家畜と宿舎に被害が出たとか。


「今までも何度か襲撃はありましたが、ここまでではなく……」


 首に白いタオルをかけた牧場の主人が、無残に破壊された柵に触れながらティアラに説明をする。

 良く日に焼けたその顔は、俺達が着いた時からずっと曇ったままだ。


「この柵、何度も修繕した形跡がありますね。以前からこのような……?」


「そう、そうなんです! 奴らも意外と頭が良くてですね、何度直しても同じ所から侵入してくるのですよ! 罠も仕掛けているのに、それすら潜り抜けて……!」


 ティアラの言葉に主人の顔色が変わった。


 よく気付いてくれた、もっと話を聞いてくれという心情がこれでもかと言うほど滲み出ていた。

 どうやら相当参っていたらしい。

 だが今まで、それを誰にも相談することができなかったみたいだな。


 ティアラはそこで主人の土にまみれた無骨な手を、両手でそっと包み込みながら続けた。


「今まで大変だったでしょう……。柵の外側にさらに頑丈で高めの防護柵を設置するように、帰ったら早急に手配致します。堅牢の女神の力も込めるよう、教会の方にも声をかけておきますね」

「おぉ!? そこまでして頂いて本当によろしいのですか、姫様!?」


「もちろんです。できるだけ早く手続きを致しますので、もう少しだけご辛抱ください」

「はい! ありがとうございます! ……正直、もう打つ手無しと諦めていたところなのです。本当にありがとうございます!」


 主人は二回りは歳が離れているであろうティアラに、涙ながらに感謝の弁を述べる。

 ティアラはそんな主人を、ただ優しい眼差しで見つめていた。


 こうして『姫』として外に出る時は、ティアラの恥ずかしがり屋も鳴りを潜める。


 あぁ、彼女は王女様なんだよな。普通の女の子じゃないんだよなと、俺の心に冷たい波が押し寄せる瞬間でもあった。






 城に帰ってから、すぐにティアラは昼食の時間になった。


 俺は彼女の食事が終わってから入れ替わりで食堂へ行き、昼食を取る。

 そして俺と交代で、今度はアレクが昼食を取りに行く。

 タニヤも同じく昼食の時間なので、他の侍女達と共に飯を食べるために席を外す。


 これが俺達の昼食事のローテーションだ。


 そして今だけが一日の内で僅かに訪れる、俺達二人だけの時間――。


 本棚から一冊の本を手に取ったティアラはテーブルに本を置き、引き出しの中から紙とペンを取り出す。

 そういや今日は彼女の教育係(結構なおばちゃんだ)からテストをすると言われていたっけ。


 俺は無言のままティアラに近寄り、彼女が椅子に腰掛ける直前に、真正面から彼女を抱擁した。

 腕の中でティアラの全身が強張るのがわかった。

 おそらく今その顔は、真っ赤に染まっていることだろう。


「マティウス……?」


 俺はティアラの呼び掛けに返事をせず、小さな身体をぎゅっと抱き締め続ける。

 できるだけ力を込めて、でも、壊さないように。


「あの……。ど、どうしたの?」

「何も」


 ただ、こうしたくなっただけ。離れたくないだけ――。


 本当はそう言いたかったのに、俺の返答は随分と素っ気無いものになってしまった。

 心に余裕がなくなっていたからだ。


 身分違いの恋に落ちて。

 叶わないと思っていたその恋は、どういうわけだか叶ってしまって。

 毎日彼女の隣で過ごせて――。


 幸せだ。幸せなはずなのに、さっきから胸の辺りが膿んだようにじくじくと痛む。

 その理由は、嫌というほどわかっていた。


 この恋が、期限付きだと知っているから――。


 それは目を逸らしたくても、逸らすことができない現実。

 変えることなどできない、身分というくだらなくて、それでいて大きなモノが日々俺の全身を蝕んでいたからだ。


 俺はいつまで、こうして彼女を抱き締めていられるのだろう。


 とめどなく心の奥底から湧き上がってくる不安を腕で潰すかのように、俺はただ彼女を強く抱擁し続けた。


 俺の方がティアラより遥かに上背があるので、彼女の全身はスッポリと俺の中に納まっている。

 それでも他人から見れば、今の俺は彼女に縋っているように映ったかもしれない。


 ティアラはそんな俺の態度に何か感付いたのか、ゆっくりと背中に手を回し、そっと俺の背を撫で始めた。

 まるで小さな子供をあやすように――。


 何だか無性に、泣きたくなった。

 それでも涙を溢れさせなかったのは、カッコ悪いところを見せたくないという、変なプライドがあったからだ。


 しばらくの間、俺達はずっとそうしていた。

 無音に近い状況が、俺の中から時間の感覚を奪っていた。

 聞こえてくるのは、互いの僅かな息遣いのみ――。


 そこで部屋の外から聞こえてきた小さな足音に、俺は彼女の身体を離す。

 あのせわしない感じの足音は、タニヤだ。


 今日の二人だけの時間は、これで終了――。


「……大丈夫?」


 ティアラが俺の顔を見上げながら、小さな声で問う。

 だが俺はその彼女の言葉に、何も返すことができなかった。

 代わりに笑って安心させたかったのだが、口角が上手く上がらない。


 いびつな俺の表情を見たティアラが、不安そうに眉根を寄せた。

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