探求の話

第九章 祖国

 アデルとファルティノ司祭はテーブルを挟み、薄い野草のスープをすすり、固いパンをかじっていた。

 何を話すでもない。司祭室の窓の外では時折、春になっても暗い空から射さぬ光を待つ鳥の声が寒々しく聞こえてくる。

 アデルが教会で暮らすようになってから半年が経つ。

 クリノが魔道師狩りにつかまったとの知らせを聞いて、それまでの楽しいだけの日々は一転した。

 クリノは魔道師などではないと田舎町の小娘が誰にどのように叫んでも、クリノが帰ってくることはなかった。

 町の人々も皆、クリノについては口を閉ざした。アデルと違って大人たちは皆、クリノについての全ての言葉は更なる災いを呼ぶと知っていたからだ。捕えられたクリノがその後どうなったのか役場で働く者や王都へよく出かける叔父に聞いても、一向にわからない。

 家の中では別だった。クリノをアデルの夫にと見込んでいた父と母は諍いが絶えなくなった。アデルはクリノ以外の男と夫婦になることなど考えもしなかったが、もう嫁のもらい手もないと両親は散々に嘆き、クリノを罵った。

 家にいるのが辛くなり、クリノの無事を祈りに、毎日教会へ通った。

 ファルティノ司祭は管轄内の住人、それも自分が育てた者が魔道士であった責任を問われ謹慎処分中であったが、修道士たちと話し合い、アデルを教会の離れに一人住まわせて孤児たちの世話をさせた。

 クリノは帰ってくる――誰もそう言ってはくれない。アデル自身もそう周囲に訴え続けるのが辛くなった頃、突如ラスケスタは他の町との交易を禁じられ、一切の出入りを遮断された。

 町外れの辻にも、抜ければ隣町に続く森や牧場にも、黒装束の魔道師狩り小隊が見張りに立っている。

 同じことはラピナ国との国境近くの村スーシェフでも起きていたのだが、ラスケスタの人々がそれを知る術もない。

 例年より寒く秋の収穫も少なく、春に蒔く種の買い付けにも行けず、家畜は子を産まず、冬空のまま、町は寒さと飢えに怯えながら暦だけの春を迎えていた。


 異端審問所監察官長は食事中であったが、タキムの来訪を告げられると通せと命じた。

「飢饉になりかねない状況はは全国的ですが、封鎖中のラスケスタとスーシェフではその気配が強く出ています。近く、病人や、死者も出るかと」

 タキムは同情している様子もなく淡々と話す。

「まさに神の怒れに触れたということだ」

 監察官長はかぶりついている肉の脂で口回りやその手を光らせ、ワイングラスに指紋をつける。

「首隊長の任には慣れたか」

 ベダリウ牢が破られ、魔物が飛び去った事件の責任を負い、魔道師狩り首隊長だったケルマンは僻地へ飛ばされた。ウルファ平原のベダリウ壁の管理に当っているらしい。事実、スーシェフの青年とラスケスタの少年を同じ牢に入れたのはケルマンである。

 首隊長の任を継いだのはタキムであった。

「事件の後、災いを怖れる者たちが駆け込みで数件密告してきましたがそれも落ち着きました。やはり、あの二人の事件だけが何か特殊だったのでしょう」

「一人の、事件だったのだ」

「一人、ですか?」

「我が国に潜伏していた一人のスパイが引き起こした事件だったのだ、と言っている」

 できる限り問題を小さく収め、異端審問所への風当たりを弱めたいのであろう。

「……スーシェフと、ラスケスタ、同時に一人ずつ存在していた時期があるのはまずいですね」

 反対する訳ではないが、監察官長の言葉の奥をもう少し探りたいと思い、タキムは迷うようなそぶりを見せた。

「私の意思だけではない」

「異端審問所として、ということですか?」

「やはり若いなお前は。この国の信仰による治世が揺れてはお困りになる方々がいらっしゃる、ということだ」

 信仰と治世、その先には教会と王族がいる。タキムは危険を感じてすぐに意見を引いた。

「では、口止めも含めて引続き閉鎖を続けます。そうですね、あと半年程現状のままとし、魔道師狩りと異端審問所は一年間かけて十分な調査と審議を重ねた、その結論、ということでいかがでしょう」

「あと半年か……長いように思うが、これ以上の不審を買うよりはいいだろう、任せる」

 監察官長は自分の顎の肉を震わせて獣の肉を咀嚼しながら言った。


 その年、トラピスタリアの夏は昨年にまして気温が上がらず、飢饉の気配に物価が高騰した。

 国力が弱まる中、王家と隣国ティクリートの交渉が決裂したとの噂が追い打ちをかける。國民の心までもが全土に渡り曇天に覆われた。

 しかしその中で、密やかに微弱ではあるが現王家の二百年にわたる治世に反する動きがあった。胎動のような若さと可能性を秘めたこの動きの中心にはクリノの血縁者がいるのだが、今はまだ本人たちも互いを知らぬままである。

 夏がやって来ぬままに早すぎる秋が訪れた。

 タキムの言う所の調査と審議を重ねた一年が経ったのだ。それはアデルが悲しみの祈りを捧げた一年でもあった。

 ある晩、近隣の村や町の者が全く気づかぬうちにラスケスタは黒装束の魔道師狩りに包囲され、一晩の内にラスケスタは無人の町と化した。

 町の人々がどこへ消え去ったのか、誰も知らぬ。

 翌晩、同じ事がスーシェフでも起きた。

 魔道師の祟りであると近隣の人々は怖れるだけであった。


 トラピスタリア領内ウルファ前線駐屯地を訪れた者がまず目にするのが、高々と築かれた黒い城壁である。

 ベダリウ鉱石を大量に埋め込み、戦場から魔道師を寄せ付けぬためのこの壁は二百年をかけて補強に補強を重ねられ、ベダリウ山麓近くから黒牙森に向かって延々と続いている。

 ケルマンはこれを初めて目にした時、築いた者の脅えのような感情を見たように思った。反対に自分が出会った三人の魔道師はこの壁を怖れるどころか登ることを楽しむのではないか、そんな不謹慎な思いすらあった。

 三人とは、翡翠色の目をしたエーレイ親子と、スーシェフの青年である。自分がこの僻地に飛ばされる原因となった二人がどうなったのかわからないが、少なくともエーレイの息子は生きているという不思議な確信があった。

 もちろんそれについては誰にも告げず、城壁の補修箇所を見回るだけの日々である。

 ここに赴任したばかりの頃、城壁に対してその兵舎や武器庫があまりにも粗末であり、ここが本当に戦場前線なのかと疑問に思った。前線へ出て行くような士気の高い士官も兵士も一人としておらず、兵舎の見張りだけが充実している。

 その謎はすぐに解けた。

 ウルファ平原は、戦場ではなく、処刑場であった。

 それも公平な裁判を受けての処刑ではない。王族や一部貴族、教会にとって危険と見なされ、不都合な存在とされた者がさらわれるようにして集められ、抹殺される場所であった。

 兵舎は兵士の宿舎ではなく、処刑を待つ者の牢獄である。連れて来られた者たちはこれから自分の身に何が起きるのかわからず、外へ出ることも許されず、その日が来るまでただ、生かされる。

 一定の人数が集まると、ある日彼らは突然、粗末な装備で壁の外の戦場へ放り出されるのだ。

 異端審問所と同じだと思った。

 国の平安を保つため、無実の者を抹殺する。

 だがその数の多さには散々無実の者を狩り処刑してきたケルマンでさえ寒気がする程であった。

「俺はね、もう慣れたんですよ、もう自分が軍人なんだか人間なんだかもわからない、こんな状況にはね、慣れるしかないんですよ」

 酒を交すようになった軍の士官は言った。

「あんただってそうですよ、一等兵ですら、この戦場の秘密を知ってしまった者は生きてここを出られない。一生ここで腐るか、あいつらと同じく羊みたいに壁の向こうへ追い立てられて死ぬか、どちらかしかないんですよ」

 その通りであった。

 十六年前エーレイに会っていなければ、その言葉を覚えていなければ、ケルマンはその士官と同じように腐ったか、自ら壁の向こうへ出て行ったかもしれない。

 人でなし。もはや自分は人間ではない何かに成り下がった。それでも、エーレイの目が忘れられず、エーレイの言葉が実現するのか見届けたいという欲が、ケルマンをだらだらと生かしている。

 ある日、この堕落した駐屯地にいつもよりも多くの牢馬車が到着した。二十人が定員の十ある兵舎に倍の四百人程が詰め込まれた。数時間おいて更に百人。政治や宗教的な思想とは無縁であろう子供もいる。

 何事かと軍士官に尋ねてみると驚きの答えが返ってきた。

「ラスケスタとスーシェフの住人全員です。何でも、ラスケスタは長いこと住民ぐるみでラピナからの魔道師のスパイを匿っていたそうで。そのスパイがラピナと行き来するのに、国境近くのスーシェフ村も皆で協力してたらしいです。みんなで不老の薬飲んで、ラピナとの秘密の交易で旨いもん食ってたらしいですよ」

 皆一様に痩せこけて、うつろな顔をしており、不老だとかうまい食べ物とはほど遠い見てくれであった。軍士官も上から聞かされた話を鵜呑みにはしていないのだろうが、質すつもりもないようだ。

 ケルマンは、身につけていた家に代々伝わる家紋の入った指輪と、宝石が埋め込まれたグラディスタ神のペンダントを外し、軍士官にそっと渡した。

「酒代くらいになるだろう。ラスケスタに、俺がここに飛ばされた理由の真相を知っている者がいる」

 軍士官はいつもに増して小汚い表情を浮かべて言った。

「へえ、しかし魔道師がまだ混じってるかもしれんので一切口をきくなって、上から言われてましてね」

「……町役人いや、司祭一人でいい」

 ケルマンは更に両袖から魔道師狩りのエンブレムのついたカフスボタンを外して渡した。

 軍士官はにやついて答えた。

「久しぶりにうまい酒を取り寄せられそうだ。夜、十一時過ぎに兵舎の囲いの裏へ来てください」


 幸いにして、月のない夜だった。

 ケルマンははやる心を抑え、牢である兵舎の裏へと回った。

 軍士官は、一人の男に頭から黒布を被せて後ろ手に縛り、腰紐をつかんで待っていた。

「半時程で戻ります。俺が見えなくなってからそいつの布袋をとってくださいよ」

 言われた通り軍士官が塀の角を曲がり見えなくなってから、男の頭に被せられた袋をとってやった。

 やつれた、皺深い、老いた厳しい顔が現れた。やや震えていたが、何かを覚悟したように一文字にぐっと結んだ口元は、男の威厳を保っていた。

「ラスケスタの、司祭殿か」

 老人は答えない。時間はない。ケルマンは切り込んで尋ねた。

「エーレイという男をご存知か」

 老人が目を剥いた。

 当りだ、とケルマンの心がざわつく。

「十六年前、エーレイという男が異端審問にかけられ処刑されました。そして昨年、成人後には同じくエーレイという姓を名乗る予定の少年が」

 老人はかすれた声を絞り出すようにして声を出した。

「しょ、少年は、処刑されたのですか」

「……いいえ。生死はわかりませんがこの国を去ったかと」

 ベダリウ牢から魔物が飛び去ったことは目撃した者に箝口令がしかれていた。牢は老朽化によって壊れた、夜空に響いた咆吼は見世物小屋の獣である、ということになっているが、田舎町まで伝わりはしなかっただろう。

 ケルマンの言葉を聞くと老人は嗚咽を抑えて目を潤ませ、天を仰いだ。

「……星よ、彼の者を護りたまえ……これで、もうこれで私は、明日死んでも何の悔いはない」

 ケルマンは違和感を覚えた。この場合、この老人が司祭であるからにはグラディスタ神に祈るのが自然である。だが、「星よ」と司祭は加護を祈った。

「十六年前のエーレイも、昨年の少年もご存知なんですね」

 老人はゆっくりうなずいた。

「私の死に際に心休まる知らせをくださったあなたは、何をお知りになりたいのか」

 自らが死に行く運命であることを老人は知っていた。そしてケルマンは何を、と改めて聞かれると、おかしなことに戸惑った。自分は一体何を探ろうとしていたのか。

「十六年前、エーレイを処刑したのは私です。私は昨年、少年が去るまでは魔道師狩りの首隊長でした」

 老人は再びゆっくりとうなずいて言った。

「そして、何か疑問を抱えておられる?」

「……」

「あなたも、この星に運命づけられた一人なのでしょう」

「運命?」

「エーレイとその息子、両方に出会った者は皆、何かを疑問に感じそれを探求すべく、運命づけられているようです。私も含めて。私の役割は終わりましたが、あなたはいかがされますかな」

 老人は、ひどく穏やかな目をしてケルマンを見つめていた。

 気づくとケルマンは老人に尋ねるのではなく、自らが堰を切ったように話し始めていた。

「十六年前、エーレイという男に会うまで、魔道師狩りの職に何の疑問もありませんでした。無実の者を手にかけるのも、代々、我が家系で継承してきた人々の平安のための大切な役目であると信じていました。

 エーレイは私が捕縛の任にあった間で捕えるのに最も時間のかかった男です。情報があっても捕縛する直前に煙のように消えてしまい、探索が難航していました。ところがある日、自らヴァリヒタルの魔道師狩り隊舎へ出頭してきたのです。

 すぐに異端審問が開かれ、即、聖水へ沈めよと処刑が決まりました。

 異端審問にかけられた者は皆、自分がなぜ異端と見なされ、なぜ処刑されるのか、混乱の内に死を迎えます。

 ところがエーレイは違いました。最後まで自らの生と死に威厳を失わなかった。

 あなたが先程頭から被せられていた袋のせいで、人々は目を開けていても暗いという状態に脅えるのですが、エーレイは袋の中から誠にからりとした口調で、私にこう言ったのです。

『首隊長殿、一つお願いがあるのです。誰のことも呪ったりはしませんから、私が死ぬ時、この袋、外していただけませんでしょうか? 死ぬ時はできるだけお手間を取らせないよう努めます。でも、この星をしっかり目に焼き付けて逝きたいのです』

 処刑される直前の者がそんな口調で私に話しかけてきたのは、初めてのことでした。

 私は審問所に、今後の対策のために逃亡の経緯を尋問させて欲しいと願い出ました。エーレイの口調があまりにも朗らかで、どんな男なのか知りたくなったのです。牢の中で被せていた袋をとると、翡翠色の目でまっすぐ私を見て、こんな事を言い出しました。

『世界は不平等にできています。多くの不条理による死をその手で積み上げてきたあなたはよく知っているはずだ。

 その不条理は、世界に本当に必要な不条理でしょうか。その死に意味はあるのでしょうか。

 ねえ首隊長、死は、この星の一部です。生も同じです。

 人間に限らず全ての生命は、死ぬことでも生きることでも、この星のために意味を成すべきです。

 たった一部の人間のために、都合良く積み重ねられてもよい無意味な死など、決してあってはならない。

 でもね、そんな世界はもうすぐ終わります。人間の世の歪みは一度全てを破壊して、まっすぐにすればいい。

 人間はこの世界ともっと調和して生きてけるはずです。

 今すぐには無理でしょう。私もここで終りですから。

 でも、十六年後、私と同じ目をした者がこの歪んだ世界を破壊しますよ、どうぞお楽しみに。

 ああ、その時はちょっぴり、力を貸してやってもらえませんでしょうかね、首隊長?』

 死ぬ間際だというのに、翡翠色の目をきらきらさせて本当に楽しげにそう話したのです。

 狂信者の目ではなかった。私の心にはしっかりと、あの目の色が焼き付いてしまった。

 その後、再び袋を被せて刑場へ連れて行きました。その足取りの軽さは恋人との逢瀬に出かける者のようだった。

 異端者の刑は聖水を張った水瓶に重りをつけて沈めることとなっています。私は言われた通り袋をとってやりました。通常は水瓶へ突き落とすのですが……エーレイはくるりと私を振り返り、晴れ晴れとした笑顔で

『ありがとう』

 と言って、空を仰ぎ見ると、背中から自分で瓶に落ちてゆきました。死後、引き上げた死顔も、良い夢を見て眠っているかのようでした。

 エーレイを死なせてしまったことを後悔しました。自ら瓶に落ちていきましたが、処刑台まで連れて行った私が、殺したのです。

 神のために、王の治世のために、罪のない者を殺すのは本当に平安のためになるのか。エーレイは私を否定しませんでしたが、私は職に就いて以来ずっと、不条理による死を積み上げている。

 そしてあの少年です。エーレイの言った通りに、十六年後に現れた。威厳や朗らかさはありませんでしたが……しかし私は、彼が一部の人間のための無意味な死を正す者なのだとしたら、殺してはならないと思ったのです」

 一気に話した小さな声は昂ぶり掠れた。

 静かに、穏やかに、老人は口を開いた。

「あなたは、あの少年が何を成すのか知りたいのでしょうな。しかし、それは私にもわからんのです。

 私もエーレイから同じ話を聞きました。あなたと同じく神に使える職である私も、大変に戸惑い、自らの今までとこれからをどうしたらよいのやらと迷わされました。

 実はエーレイの思想は、わずかな者の間で密かに、それは密かに、語り伝えられています。あなたはまだお立場上、その者たちとは関わらぬ方が良いでしょう。

 町の人々が皆、エーレイの言った所の無意味な不条理のもとで死ぬのは残念なことです。それを見ていなくてはならないあなたもさぞ、辛いことでしょう。

 しかし、あなたが殺さなかった希望が必ずや、このような世を変えるでしょう。私はそう信じています。

 おや、軍人が戻ってきた。はやく、私に袋を被せてしまいなさい」

 ラスケスタとスーシェフの住人全員が、翌日の夜、壁の外へ、望まぬ出撃をさせられることに決まったとケルマンは戻ってきた軍士官から聞かされた。

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