第十章 守るべき者

 ラピナ領のウルファ平原前線基地では、新兵訓練が日々行われていた。

 基地は人工的に作られた高台の上に在る。毎年秋になると入軍したての新兵が各地方から集められ、「敗戦があり得ない」この不思議な前線基地で訓練が行われていた。

 訓練といっても最初は全員、太鼓の音に合わせて隊列を組んだり、太鼓のリズムが何を意味しているかを覚えたり、高台から敵のいない平原へ向かって遠距離魔術攻撃を撃つ、その程度であった。

 クリノも毎日他の新兵たちと共に、回れ右をし、進撃、撤退、散開、攻撃開始の合図を覚え、平原に向かって魔術の矢を放ち、攻撃距離を揃える。

 辛いことは何もない。あれほどに厳しかったセルゲイの訓練は一体何だったのだろうかと拍子抜けする程に穏やかな日々であった。

 新兵たちの階級は既に分かれており、階級によって徐々にその訓練内容は異なっていった。

 クリノがいたヴァレリアン国軍幹部候補生訓練施設や他の軍事養成施設の出身者は、士官候補生で、貴族や富裕商人、大農場の子が多く、数はそれほど多くない。軍事教育を修了し戦闘魔術の基本が出来ている者として、整列や遠距離魔術だけでなく、高度な魔術や兵法の机上訓練時間が増えていく。

 一方、一兵卒もいる。軍事教育を行わない高等学校や職業学校の出身者で、職人の子や小作農家の出身者が多く、数も圧倒的にこちらの方が多かった。戦闘魔術の訓練もそれほど受けておらず、休憩中の遊びで行うクパピルハールツムビでも士官候補生との差は歴然としていた。

 士官候補生の中でも、クパピルハールツムビ大会で特待編入枠を得た者は特に優遇される。給与は一般の士官候補生の倍以上、与えられる部屋も、一兵卒は十人部屋、士官候補生は二人部屋なのに対し、特待編入枠の者は広々とした個室だった。ヴァレリアンの図書館の屋根裏部屋とは大違いである。

 特待編入枠の者は他国の歴史や情勢について、過去の戦争についての机上訓練も受ける。これらの知識は更に上の階級になるための昇級試験にも必要で、訓練を受けられない者は独学で学ぶしかない。

 この机上訓練で初めて、クリノはセルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフがこの国にとってどのような存在なのかを知った。

 軍の方針や戦争の進め方を決めているのは軍議会だが、その決定をいつでも独断で覆すことができ、議会の決定は関係なしに自らの意思で赴く戦場を決めることができる人物がこの国に二人いる。

 光暁の賢者レリディア・レビオルと、闇夜の賢者セルゲイ・キヴイ・シュワルツニコフである。ただし、この二人も大四司議会の決定には従わなくてはならない。

「じゃあ、この国で一番魔力が強いのは、大四司の四人なの?」

 この国の当たり前がまだ身についていないクリノは、しばしば自習室で二歳年上のカティスリー・ヒルに補講をしてもらっていた。

「いいや、それが違うんだ」

 カティスリーはあたりを見渡して小声になった。

「……おそらく、大四司より光暁と闇夜の二賢者の方が強い。そして攻撃魔術の基本は闇魔術。最強は、シュワルツニコフだろうな」

「待ってよ、二賢者の上に大四司がいるんだろう?」

「最も強いから、最も上の立場にしないんだ。どんなに魔力が強い者でも独裁になってしまわないように同じ立場の賢者がもう一人いて、その上から四人で押さえ込む」

「カティスリー、僕はとんでもない人の弟子だったんだなぁ」

「全く君は、そんな上等の軍服を着てよく言うぜ!」

 新人仕官は皆、軍から支給された同じ紺色、新品の軍服を着ている。クリノの軍服も紺色で型もほぼ同じなのだが、生地の質や仕立てがずっと良い。金糸の飾りもクリノだけだ。だがヴァレリアンに入って以来、同年代の者たちと色々なことで違っている自分にクリノはすっかり慣れていた。

 特待編入枠には、クリノに負けた後の試合を全部優勝し続けたサミ・サヘリア、サウ・サヘリアもいた。

 サミとサウにどのように接したらいいのかクリノは迷った末に、自分からは接しないことにした。

 試合とはいえ、人をずぶ濡れにしたり、吹っ飛ばして壁にぶち当てたりしたのは初めてだったので謝るべきかとも思ったのだが、カティスリーがその必要はないと断言した。

「気にするな。あの双子に他の選手は散々ぶちのめされてきたんだ。クパピルハールツムビは武道だ、勝った者に謝られたりしたら傷つくだろう」

 カティスリーはわざと大きな声で言う。その場にサミもサウもいなかったが、聞いていた他の者たちがまったくだと同調し、難しい立場のクリノには同情気味に笑う。

 そもそもクリノの立場の特殊さは際立っている。

 敵国トラピスタリア出身で、数ヶ月前まで全く魔術を使えなかったにもかかわらず闇夜の賢者唯一の弟子なのだ。だが、カティスリーは上手に他の新人たちに溶け込ませてくれた。

 それに加えて、家柄にとらわれないクリノの本来の人懐こさと、平民の出でありながら貴族の子を吹っ飛ばす魔力とセルゲイ仕込みの戦術は一兵卒たちをも喜ばせた。

 特に、休憩中の遊びとしてのカティスリー主催クパピルハールツムビはいつも大いに盛り上がる。

「俺は君に感謝してるんだ。君が双子をぶちのめしたおこぼれで特待枠が決まったんだから」

「そんなことないだろう、双子とは練習で五分だったって料理長が言ってたよ」

「一人相手なら引き分けだ、でも相手は必ず二人いるんだ、かなわないよ。君は一人で二人ともやっちまっただろ」

「ねえ、試合の時も言っていたけれど、カティスリーはそんなに軍に入りたかったのかい?」

「おいおい、軍に入りたくない学生なんていないよ」

「僕は、軍に行くのは僕にとって良いことなのか疑問だって言われて師匠に目玉を潰されそうになった」

「それは、シュワルツニコフが正しいかもしれないな。あの壁の向こうから人が出てきたら、君が攻撃できるのか確かに疑問だ」

 クリノたちが基地に来てから、敵兵が平原に姿を現したことは一度もなく、前線にいるという緊張感もない。逆に、たくさんの同年代の仲間とすごす、楽しい日々が続いている。

 空き時間、クリノは時折、一人で平原を眺めていることがあった。

 焼け焦げた煉瓦のように赤黒く、草一本生えない不毛の平原。

 前線であるのに投石機も塹壕もなく、丘陵すらない。隠れたり砦を築く要素が一切ないただひたすら真っ平らな平原に、魔術を持たない祖国トラピスタリアはどのようにして進軍してくるのか。それについてはまだ、訓練では教えられていない。

 赤い平原の向こうには、黒い線が横一本に伸びている。ベダリウ鉱石でできた城壁だと習った。

 その向こうに、祖国がある。

 帰れぬ祖国を眺める新兵を心配した教官が、クリノに声をかけた。

「おい、賢者の弟子、クパピルハールツムビの名手!」

「ああ、いえその、名手という訳ではなく、師匠に散々殺されかけたので上達しただけなんです。あの、教官、質問があります」

「何だ」

「平地が延々と続くここでの戦いは、どのように展開するのでしょうか」

「こちらは展開しない。毎回毎回、遠距離の殲滅戦だ」

「遠距離魔術の中、トラピスタリア軍は、どのように進撃してくるのですか?」

「ここが新兵訓練基地になっているのは、敵からの攻撃がないからだ。こちらからの一方的な攻撃で毎回戦いは終わる」

「トラピスタリアからは攻撃が、ない? えっと、どういう意味でしょう」

「敵はあの壁の向こうから、一団になって歩兵だけがやって来る。それだけだ」

「それだけ? それだけなのに、なぜ戦場になるんですか、ここ」

「長年の謎だよ。ろくな装備もなく、子供の玩具より粗末な武器で魔術に向かって来る。なあ、悪気があって聞く訳じゃないんだが、トラピスタリアにとって、ただただ兵士を死なせるために城壁門を開くのはどんな意味があるんだ。トラピスタリアにとっての戦争とは、一体何なんだ?」

「……わかりません。自分はここに来るまで、戦争や政治についての知識を求めずに生きていました」

「そうか……。エーレイ、忠告しておく。いかなる戦いをこのウルファで見ても、疑念を持ってはならん。それを誰かに問うてもならん」

 自分をを目にかけてくれているはずの教官の言葉が、理解できなかった。

「あのう、そのご忠告についての問いは、許されますか?」

 教官は目を伏せて息をついた。

「なあ、敵国出身の新兵よ。お前がここへ来ると聞いて俺たちはずいぶん警戒しなくてはならんかったのだが、今は全く別の心配をさせられているのだぞ。『敵国の回し者』から『虫も殺せぬ息子の代理』に大昇格だ」

 裏切り者の可能性を否定してくれた言葉はありがたかったが、先程の忠告についてはやはり理解できない。

「教官、この目で見る前に、もう少しここでの戦いについて教えて下さい」

 少し考えてから、教官は口を開いた。

「壁の向こうから、敵兵は一団となって歩兵のみが向かって来る。大抵、夜だ。その無防備さに我が軍は何度か投降を呼びかけてきたが、応じることは一切ない。魔術を使わないので、試しに土壁を築き物理的に包囲して捕縛を試みたこともある」

「捕縛できましたかた?」

 教官は首を横に振った。

「土壁に囲まれた敵兵は、手にした粗末な武器で味方同士殺し合いを始めた」

「そんな……でも、殺し合う前に魔術で動きを封じてしまえば捕縛できますよね? 尋問はしてみたのですか? なぜそのような出撃をさせられているのか、兵たちは知らなかったのですか?」

「エーレイ、ここまでだ。ここへは定期的に指令本部から『必ず敵を殲滅せよ』との命令が重ねて下される。

 お前と同じ疑問を持ち、軍指令本部にそれを訴えた者は皆、南部の激戦区へ飛ばされた。

 お前はまだ若い。それにもうこの国の魔術師で軍人なのだ。他の新兵が感じることのない疑念には蓋をしろ。俺はお前を南部に送りたくはない」

 危険を冒さず静かにしていろという教官の厚意を否定することもできず、かといって素直に従う気にもなれない。

 クリノにとっても、マロウに出会うまでラピナは悪しき魔道師ばかりの暗黒の国だった。魔道師に投降を呼びかけられてもグラディスタ神の教えに背けば、死んだ後は神の御許へ行けず暗黒を彷徨うと言われて皆育つ。

 この場所で起きることを、実際に自分の目で確かめなくてはならない、今はその時を待つしかない。

 教官は苦しげなクリノの肩に手を置いて言う。

「あまり深く考えるな、お前の性分でもないだろう。そうだエーレイ、今夜は自室で待機していろよ」

「何かあるのですか?」

「光暁の賢者がお出ましかもしれん。闇夜の賢者とは旧知の間だ、呼ばれたら来い」

「わかりました」

 もう一度改めて赤黒い平原を眺める今のクリノは、本当の戦争をまだ知らない。


 教官に言われた通り、その晩は仲間とのカード遊びや馬鹿騒ぎには付合わず自室にいた。一人、部屋で周辺国の歴史書を読もうとした時。

 ドアをノックする音が聞こえて出てみると、教官ではなくサウ・サヘリアが立っていた。

「遅くにすまない」

「いや、どうしたんだい」

 サウは何か、言い出しにくそうにしていた。

「よかったら、中で話す?」

 クリノはサウを部屋の中へ招き入れた。

 ドアが閉まるとサウは少しほっとした表情になり、話し始めた。

「実は……ここへ来てからずっと、サミの体調が悪くて」

「どんなふうに」

「本人は大丈夫だと言っていたんだが、ずっと疲れているみたいで顔色が悪かった。でも何とか訓練に出ていられる状態だったんだが、さっきから熱がひどい」

「軍医は何て?」

「軍医には……その、話せないんだ。サミにはちょっと事情があって。それで薬師だったエーレイに見てもらえないか頼みに来たんだが」

 何やらサウの言葉の歯切れが悪い。クリノはサウに申し出た。

「僕に何ができるかわからない。薬師の見習いだっただけだから。でも、まずは様子を見せてくれ」

 サウに案内されてサミの部屋へ行ってみると、サミは真っ赤な顔をしてベッドで寝ていた。呼吸が苦しげで、ひどい咳をしており、熱が高い。

「なぜ軍医に診せないんだ」

 このようにひどい状態の姉を医者に診せないサウがわからなかった。

「……この近辺は、光暁の賢者が結界を張っているのを知っているか」

「賢者の結界? 何だいそれ。光暁の賢者が今日来るかもしれないとは聞いていたけれど」

「エーレイ、君は、何ともないんだな? その……闇夜の賢者の弟子は、闇魔術を使わないのか……?」

「闇魔術については何も知らない。そんな暇もなかったし。でも第一それってこの国で使えるのは賢者だけの禁忌魔術じゃないのか?」

 サウはおかしなことを聞くと思った。

「ああ、使うのは大罪とされている。軍の施設は、大四司の指示で賢者が兵士を守るために結界を張ることがあるんだが、ここは、国境に近いし光暁の賢者の拠点、閃燿城に近い。サミの具合が悪いのは、光魔術の結界に反応している可能性がある」

「味方の結界が原因で具合が悪いって、おかしいだろ」

「ああ。普通はあり得ない。でも、サミは……」

 サウは口ごもったが妹の苦しそうな顔を見て決心したかのように言った。

「サミは、闇魔術を使う」

 クリノは師の言葉を思い出していた。

 十六歳だったセルゲイと学友は、互いに会うことができなくなった。光暁の賢者と、闇夜の賢者になったからだ。光暁の賢者と闇夜の賢者はそれぞれが使う魔術の特性から、持っている魔力そのものに属性が備わり、望まなくても結界を張り合って互いを傷つけてしまうと言っていた。

 闇魔術を使うサミの具合がしばらく前から悪いということは、お互いがその場にいなくても、相手の結界が張られている場所にはいられないということだろうか。

 禁忌だとか大罪だとかはクリノにはどうでもよかった。育った国が違うために、倫理的価値観のずれは当然である。

「他に考えられる原因はないか? 風邪をひいたり、何か、毒になるような物を口にしたりは?」

 サウは首を振る。

 確かに闇魔術が原因であれば、今、容態が悪化したのも理解できる。光暁の賢者本人が基地に向かっているか既に到着しているからだ。サミの力はセルゲイ程強くないだろうから、光暁の賢者の心配は全くしなかった。

 クリノは考える。「魔術の結界によって傷つく」とは、人の体にとってどのようなことなのか。光魔術と闇魔術について、師は全く教えてくれなかった。自分も知識を必要とせず求めなかった。

 まずは自分の知っていることに、置き換えてみることにする。薬草学の時と同じように、わからないことを単純化してみようと思った。

 光の中に闇が存在する場合、それは陰である。陰は光の中に何か物質があることによって生まれる。それはとても自然なことだ。

 光暁の賢者はこの近辺に結界を張っている。この国では光魔術と闇魔術を賢者以外が使うのは大罪とされているので、光暁の賢者は闇魔術を使う者が基地にいるとは思わずに結界を張るだろう。

 その結界の中に、存在するはずのない陰として闇が存在した場合、結界はどう働くか。異物や敵兵とみなして、守りの役目を果たす結界が攻撃的になる可能性はある。

 サミは発熱している。人の体が発熱するのは、体と、病気や毒物などとの戦いが起きているからだ。つまりサミの体の中で光と闇が喧嘩をしていることになる。

「サウ、軍医にサミが風邪をこじらせて熱を出しているからってごまかして、解熱薬をもらってきてくれ。あまり熱が高いと、後で耳が聞こえなくなったり、目が悪くなったりすることもある。まずは高すぎる熱を下げなくては」

「わかった」

 サウはうなずいて部屋を出て行った。

 更にクリノは考える。サミの体内の喧嘩をやめさせるには光と闇のどちらかを排するしかないだろう。しかし本人にも闇を排することができなかったに違いない。

 光の結界の中で光からサミを守るにはどうしたらいいか。

 ――異質ではなく、当然あるべき陰をつくり、サミを隠してしまえばいい。

 考えた末にクリノは、杖を振った。


 その頃、輝く白銀の馬車が基地に到着していた。馬車と言っても生きた馬ではなく、光が集まってできた姿のあやふやな何かが鋼鉄の鎧をまとい、車を引いている。

 白銀の馬車からは、白く輝くドレスをまとった貴婦人がにこやかに降り立った。プラチナブロンドの髪がドレスの上に羽織ったマントの肩で輝く渦をくるりとつくる。透き通るような滑らかな肌と微笑みを絶やさぬ形のよい唇に、迎えに出た基地司令官の大佐を始め、全員がうっとりしていた。

 光暁の賢者はそのような様子にお構いなく大佐にたずねた。

「クレイユノ・トマ・エーレイはどちらに?」

 使い走りにされたのはカティスリーである。部屋に居ろと言ったのにクリノの姿は部屋にも、遊技室や仲間の誰の部屋にも見当たらない。

 走り回っていたカティスリーが見つけたのは、薬瓶を持って歩くサウであった。

「サヘリア! クリノを知らないか?」

 サウは仕方なしに、カティスリーをサミの部屋へと連れて行った。

 二人はサミの部屋に入って、呆然とした。部屋の中を壁や天井ぎりぎりまでの大きさの土でできた丸い球体が占領しているのだが、ドアを開けた二人には土壁しか見えない。

「何だ、これ」

 カティスリーの声に、中からクリノが答えた。

「下の方に出入り口を作ってある。今開けるから素早く入れよ」

 二人が床近くを見ると、這いつくばって一人がぎりぎり通れる程の隙間がぽかりと空いた。

「早く!」

 急かされ慌てて二人は隙間をくぐり中に入る。

 球体の中はサミが寝ているベッドを中心とした空洞になっており、クリノが杖の先に炎を小さく灯している。二人が中に入ると、クリノはまた隙間を閉じた。

「驚かしてごめん。光の中に、異物ではない陰を作ってサミを隠してしまえばいいと思ったんだ。土魔術は光魔術にとって異物でも敵でもないだろう」

 カティスリーは眉をひそめた。

「クリノ……光暁の賢者がお前を呼んでいるんだ。教官にも部屋にいろと言われただろう」

「ああ、そうだった」

「今すぐにだ」

「無理だよ。サウ、解熱薬は?」

「おい、サヘリア、お前の妹は禁忌を……」

 クリノはカティスリーをさえぎった。

「カティスリー、今それはどうでもいい。熱を下げるの先だよ」

 カティスリーはクリノの人のよさにため息が出た。

「クリノ、こいつ等大罪を犯したんだろう、関わるな。早く光暁の賢者に」

「カティスリー、悪いんだけど、光暁の賢者に僕は会えないと言ってくれないか。お世話になった家の人がひどい熱を出して苦しんでる。看病していたいんだ。だいたい光暁の賢者本人を僕は知らないし、会わなくちゃならない義理なんてないよ」

 カティスリーはこの事態を教官にどう話すべきかひどく悩まされながらも、仕方なしにまた土壁の隙間をくぐって部屋を出て行った。

 クリノはサウがもらってきた薬の匂いを嗅いでいる。

「エーレイ、いいのか」

「いいんだ。それよりこれ、何だい?」

「干したトカゲの尻尾を白ワインに漬けた薬だよ。熱、下がるだろ」

「……何だって?」

 この時、クリノは初めてこの国の薬学がひどく遅れていることを知った。サウによると、転んで傷を作ったら蜘蛛を潰して体液を塗る、頭痛がひどい時はネズミの髭を額に貼り付ける、医者にかかっても同じ処方だという。これらは魔術どころか、トラピスタリアの田舎でも遙か昔に廃れた迷信にすぎない。

 一年間、風邪をひく間もなく、薬と無縁で健康だったことを後悔した。

「サウ、僕は基地の外へ出てモナモミの木を探してくる。ちょっと季節が遅いけど実がいくつか残っていれば薬は作れる。サミに水を飲ませて、それから首筋と脇の下を冷やしてくれ。氷造るの得意だろ? あとは、光暁の賢者が早く帰ってくれることを祈るしかない」


 光暁の賢者は、クリノの言葉をそのまま聞いた。

「セルゲイは良い弟子を持ったようです。病の恩人を置いてこの場へ来るようでは、打ち据えて軍から放り出すところでした」

 そして、微笑みを絶やさず帰って行った

 クリノは明け方に森から戻ってきた。土の球体の中で火魔術と風魔法を使って、探しだしたモナモミの実を乾燥させて煎じ、サミに飲ませる。少し熱の下がったサミを、二人はそっとサウの部屋へ運び、球体を壊し土を外に運び出した。部屋には泥汚れが残ってしまい、翌日二人は寮長に「夜通し土魔術だけでクパピルハールツムビをしていた」と嘘をついて叱られた。

 数日後、サミは少しずつ回復していたが、今後のことを考えてサウは親族としてサミの退役を願い出た。体調不良が原因であれば仕方ないと受理され、サミは首都カルヤラに帰ることとなった。サウはすぐに戻ることを条件に、サミに付き添い一時帰宅を許可された。

「クレイユノ、と呼んでもいいか?」

 サウは出発前にクリノに会いに来た。

「クリノでいいよ」

「ありがとう、クリノ。姉の恩人。君がこの先助けが必要な時、俺は命を尽くす」

「大げさだよ。第一、僕は君たちの兄上に救われて、母上に世話になってここにいるんだから」

 サウは、初めて会った時と同じラピナの正式な礼をした。今度はしっかりとクリノの翡翠色の目を見て。

 後でカティスリーに聞いた所によると、サミの闇魔術に気づいていながら黙っていてくれたことに、やはりサウは丁重な礼を言って帰ったのだそうだ。カティスリーは傲慢な双子という認識を改めたという。


 サミとサウが基地を去った翌日の深夜。

 戦闘配置につけというリズムで太鼓が鳴った。訓練だと思った新兵たちは寝ぼけ眼をこすりながら決められた配置についたが、教官の言葉に初めて緊張が走った。

「これは訓練ではない。敵兵が城壁を出て進軍してくる。お前たちにとっては初めての実戦だ。よく、見ておくように」

 だがここ、ウルファ平原は「敗戦があり得ない」基地である。

 新兵たちは死を怖れるよりもクリノを心配して様子を見ていた。

 だが皆の予想に反して、クリノは自ら進んで最も平原がよく見える位置につく。

「教官、もう少し前に出ても良いでしょうか?」

「ここまでならいい」

「はい」

 重い雲に覆われた夜が覆う平原は、ひたすらに黒い。どのようにして見張りは敵兵の進軍を知るのかと教官に問うと、定時に火魔術を夜空に打ち上げ、平原を照らすのだという。

「上がるぞ」

 教官が火が打ち上げられるタイミングを教えてくれた。

 クリノはじっと、目をこらす。

 ひゅぅ、と頭上で音がした。そちらには目を向けず、平原を見つめる。わずかに、遠くの闇の中に隊列が見えたように思う。だが遠すぎてはっきりとわからない。

「あまり早くにこちらから攻撃すると敵の進軍がひどく遅くなるので、できる限りこちらまで引き寄せてから撃つ。お前たちは今日は見ているだけでいい」

 夜の冷気の中で、じっと待った。目が慣れてくると、確かに四角い隊列ががこちらに向かってきているのがわかる。

 隊列の進み具合はひどく遅かった。大型の投石機等を引いている様子もなく、歩兵のみである。

 もっとよく見ようと、クリノは杖を出して顔の中心にまっすぐ縦に当てて先端を眉間に合わせる。師に教わった夜目と望遠視の合わせ技である。

 やがて見えてきたトラピスタリア兵の姿に、クリノは愕然とした。

 皆、粗末な木の板の盾と木刀を手に、鎧も着けず、布の平服である。腕を組み合い、盾を前に出し、頭を下げるようにして歩く。その足取りはひどく弱々しい。盾をつかむ腕は痩せこけて震えている。泣いている者がいる。女もいる。老人もいる。ちいさな子供もいる。

 ラピナ軍の攻撃の合図の太鼓が鳴った。

 クリノたち新兵が見ている場所より更に高い位置から、火魔術が放たれる。

 燃えさかる火の玉は次々と夜空に弧を描いて哀れなトラピスタリア人たちに降り注いだ。

 泣き叫ぶ人々が、燃える。木の盾は更に火を広げ、隊列は乱れ、子供たちは脅えて抱き合い、逃げることもままならない。

「待って下さい! あれは、あれは軍隊ではありません! 攻撃をやめて下さい!」

 叫んだクリノに教官が立ちふさがる。

「エーレイ、言っただろう。この場所ではこれが戦争なんだ」

「あの人たちに戦う意思なんてありません!」

「武器を持って侵攻してくる敵だ」

「あんな物、武器ではありません!」

「武器を持たぬ者も死に逝くのが戦争だ! 皆、よく見ておけ! 別の戦場へ行った時自分があのように焼かれて死なぬように!」

 教官の言葉に平原を振り返ると、魔術で強めた視線は更に恐ろしい現実を突きつけた。

 焼かれているのは、クリノがよく知った人々、自分を育てたラスケスタの人々である。

 クリノによくパンを焼いて持ってきてくれた農婦が盾を持って座り込む。季節ごとのジャムを分けてくれた靴屋の主人は地に這いつくばり、他の薬師よりもクリノの薬が良いと笑った老人が燃える家族に覆い被さる。クリノを笑顔で慈しんでくれた人々が、燃えている。服に、髪に火がつき、転がりながら燃えている。その上から更なる火の玉が降り注ぐ。

 ファルティノ司祭が、祈る修道士たちの中心で祈りもせずに空を仰ぐ。

 アデルが、うずくまるちいさな子供たちを抱きかかえて震えて泣いている。

 

 クリノは杖を振った。教官の制止も、カティスリーも振り払い、クリノは杖を振った。何度も杖を振り、人々の上に局所的に雨を降らせ、水の魂で火の玉を追撃して消して落とす。

「エーレイを止めろ!」

 一斉に飛びかかってきた新兵たちを杖の一振りでなぎ倒し、教官たちの捕縛網を風で切り裂き、クリノは基地を飛び出した。

 自分に向けられた攻撃に防御を張りながらクリノは高台から駆け下り、水を放つ。

 珍しく戦闘中に姿を現した大佐が、側にいる者に言った。

「あの狂った新兵を撃て」

「しかし、何かあった際は、出身や賢者の弟子であることを配慮して欲しいと、教官たちから申し送りがありました」

「賢者か。その上からの指令が降りている。賢者の弟子に何かあった際は、殺せと」

 ラピナ軍に、エーレイを敵と共に抹殺せよと命令が下された。

 火の玉の砲撃は勢いと数を増す。水だけで防ぎきれなくなり、クリノは土壁を築いた。しかし火の玉は今度は高度を上げて、空高く打ち上げられて燃え盛るまま壁を越える。

 一つ、思いついたことがあった。しかし、師には心を落ち着けなければ危険だと注意されていた。できるだろうか、いや、今、できなくてはならない。

 そのためにまず、高々ともう一度土壁を築く。

「クレイユノ、まだ力の弱い私ですが、お手伝いします」

 ささやき声が聞こえて、クリノが築いた土壁は更に高さと厚さをぐん、と増した。誰の声なのかわからないが手伝ってくれるのなら誰でもよかった。

 壁に、固く結びつきのまじないをかけ、杖を見えぬよう懐に隠してから走り出した。

 人々は脅えきって攻撃が壁によって防がれていることも、駆けつけたクリノにも気づかない。クリノは一人一人の顔を全て、その目に焼き付け、姿と人数を把握する。クリノの知らない者も大勢いるが、時間はない。

「クリノ? クリノなの?」

 アデルの声が聞こえる。駆け寄って抱きしめてもう大丈夫だと言ってやりたいが、術に専念しなければこの全員を救うことはできない。

 アデルを見ずに全員を見ながら、クリノは言った。

「皆さん、グラディスタ神がお守り下さいます」

 無意識のうちに師の落ち着いた低い声を真似ていた。

 ファルティノ司祭もクリノに気づく。

「今から、神が皆さんをラスケスタへ帰してくださいます。さあ、私の近くへ」

 攻撃が防がれていることに気づいた人々は、よろよろとすがるようにクリノのもとへ集ってきた。

「司祭様、同じことが繰り返されてはなりません。ラスケスタへ戻ったら、全ては神のご加護の奇蹟であると、然るべき方々へお伝え下さい」

「クリノ、クリノでしょう?」

 アデルがクリノに手を伸ばしたのを、司祭は止めた。

「……グラディスタ神のお使いだ。神使様だ。触れてはならん」

「司祭様! あれはクリノです!」

 クリノはアデルを見て、ゆっくりと瞬きをし、そして言った。

「アデリア、お前の側にいる子供たちの顔を、私に見せてくれ」

 アデルははっとしてかがみ、子供たちの顔を上げさせた。クリノは涙に濡れて呆然とした顔を、一つ一つ、心に刻む。

 杖をこの人々の前で振ることはできない。代わりに両手を握り合せ、念を込めた。師、セルゲイの教えを思い出しながら。

――心を落ち着けて、移動する物体の形を明確に把握する。それができたら移動する先の場所を思い描く。知っている場所の方がいい。風の音、水の匂い、土の色、時刻によって変わる光……。

 今の時間のラスケスタ中心広場を思った。風にそよぐ木の枝、流れる雲の黒さ、人々の生活に踏み固められた地面、新月の薄い輝き。その周りには町の家々が、更にその周りは金色の麦畑が広がり、夜風に乗って波になる。

「……行け」

 クリノが握り合せていた手をふわりと放した時、生きていた人々は一人残らず、その場から消えた。

 クリノと、既に死んだ者たちだけが残った。

 同時に築いた土壁のまじないが解けた。土壁はラピナの攻撃に崩れ、その勢いにクリノは吹き飛ばされる。

「クレイユノ、逃げてください! これ以上は防ぎきれない!」

 ささやき声が聞こえていたが、クリノは何百人もの瞬間移動に、魔力を消耗しすぎていた。

「誰だかわからないけどありがとう。お陰で、間に合った」

 巨大な火の玉が落ちてきて、クリノの姿は炎に包まれ、消えた。

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