賢王記外伝 双子のサヘリアの夜

 月も星もない夜を、サミは背にして立っていた。

 一人、亡き父の部屋にいる。片手には魔術書。片手には魔術杖。

 明りはない。サミの手の上で、闇に向かって広げた古びた本の上を、丸い、闇よりも黒い何かかが這うようにうごめいている。

「そこはもういいわ。次は、第二十八章、四項」

 黒い何かはにょきりと四本の手脚の様な物を伸ばし、両腕で犬が穴を掘るような格好でわらわらとページをめくる。

 やがて一つのページに行き着くとまた丸まって、そのページの上を這いずり回る。

 サミは、暗い部屋の中で本を読んでいるのだ。

 本のタイトルは「北方における闇魔術伝説」。一般の書店では購入できず、図書館でも閲覧することは許されていない本である。

 もしも手に入れたとしても、全てのページは漆黒に塗りつぶされており、各本に封じ込められた「本の闇虫」を使役しなければ読むことができない。そして本の闇虫は、闇魔術でしか使役することができない。

 このラピナ国で闇魔術を使うことを許されているのは闇の賢者、只一人。同じく、光魔術を使うことを許されているのは光の賢者、只一人である。

 だが、サミは闇魔術をほんの少し扱うことができる。

 もっと多くの術を覚えたいと思う。もっと大きな力を手に入れたいと思う。自分ならそれが可能だと信じている。


 闇魔術に触れるきっかけを作ったのは父である。父は闇の賢者の秘書官だった。

 サミが十五歳になってから少し経った頃、父から他の家族には内緒でこの部屋に呼ばれ、一冊の本を渡された。黒い皮表紙には黒い文字でタイトルが刻まれており、読まれるのを拒否しているような装丁だった。ページも、全て黒く塗りつぶされていて読むことができない。

 だが、本に触れているのに、本ではない、意思あるものに触れているような感覚がした。

 ――何か、いる。

 本に触れている手のひらや指先から、命あるのかどうかもわからないが、動きたくてたまらないという意思が伝わってくる。

 サミは迷うことなく本に向かって杖を振り、現しの呪文を唱えた。そして姿を現したのが「本の闇虫」であった。

 使役の契約魔術で縛るのは簡単だった。魔力が弱く言葉は話さず、思念で本の内容を伝えてくる。

 暗闇の中で父は言った。

「本の闇虫は闇魔術の基本書に封じ込められているが、誰にでも見つけられるものでも、使役できるものでもない。闇魔術の才覚がある者だけがこの下等霊によって闇魔術の入口に立つことができるのだ。サミ、お前はやはり、特別な子だ」

 やはり、と思った。自分はやはり、特別であったと。

 成績優秀な兄ではなく、このところ自分よりもずっと体格のよくなった双子の弟ではなく、やはり自分が、特別なのだと。

 その後も父は新しい闇の賢者が、長く闇魔術の本山「陰翳の城」を留守にしているのをいいことに、禁忌本を持ち出してはサミに与えた。

 ――この特別な力を密かに高め、軍に入ったらすぐに闇の賢者の目に留まるよう揮ってその弟子になろう。そして若くして賢者となった今の闇の賢者、光の賢者のように、私も国中から憧れの的となる魔術師になる。

 そう、サミは、自分の未来を思い描いていた。

 しかし父は、サミが軍に入るのを待たずに、転換期に入る今、サミの闇魔術の力を多くの有識者の前で披露しようと考えていた。

 サミはそれに従いたくなかった。それでは自分が禁忌を犯した罪人になりかねないと父に言ったが、聞き入れられなかった。

 サミは気づく。父が自分に闇魔術の書物を盗んで与えるのは、サミが特別だからではない。

 父が、特別であると示すためなのだと。

 新任の闇夜の賢者は、秘書官を全員別の別の職に就け、全く陰影の城には帰らなくなった。父は別の職を拒んで陰影の城に居座っているのだと、学友から聞いた。

 父は、自分を利用して、賢者に近い特別な職にしがみつこうとしているのだ。

 そうとわかれば、迷いはなかった。自らと、思い描いた未来を守る為に、あの時サミは迷わず杖を振った。

 今でも後悔は一切ない。その場にいたのはサウだけだった。母は何も言わないので、やはり何も知らないのだろう。

 だが、兄マロウが、すべてを見抜いていた。

 

 本の闇虫がぴたりと這いずり回る動きを止めた。一所で停まったまま、むくり、むくりと、大きくなる。

 それを見てサミは小さく舌打ちをした。

 本の闇虫が、自分の心の何を食っているのか、わかったからだ。

 最近、闇魔術をこめて杖を振ったあの時よりも、兄について思いを巡らせている時の方が、サミの中で闇が育つ。

 あの異国人のせいだと思う。兄が、あの異国人のために死んだからだ。

 ――サミは特別な妹だ。もしも『今度』があったなら、まずは俺に話してくれ。

 兄はそう言った。

 それなのに特別な自分のためではなく、あの、下等霊よりも弱い魔力しか感じられない異国人のために死んだ。

 わざわざ魔呼びの玉を持たせてやったのに、黒牙森からは無傷で帰ってきた、あの異国人。使用人も母も、あの異国人を英雄のように思っている。この館を出ていった後も話題にならない日はない。

 時よく出て行ったものだと思う。あと数日あれば、跡形なく消す準備が整っただろうに。もう一度、闇魔術を杖に乗せて人に向かって思いきり振ることができただろうに。

 黒い本の上で、また、本の闇虫がうごめき始めた。それは食らう闇を探し漁る姿のようでもあった。


 月も星もない夜を、サウはにらんでいた。

 一人、亡き兄の部屋にいる。手には兄の日記。

 届かぬ場所へと進み行く双子の姉を守るには、自分がそれよりも先に力を届ければよいのだと信じて、あの時サウは迷わず、サミよりも、父よりも先に杖を振った。

 今でも後悔は一切ない。全てを見抜いた兄マロウに対してもいつでも杖を振る覚悟だったが、兄は言った。

 ――俺たちは一緒に、サミを救わなくては。

 その兄は、自分たち姉弟のためではなく、通りすがりの異国人のために死んだ。つまらない死だったと思う。

 闇魔術は、他者を攻撃する魔術の基本と言われている。しかし、ラピナは軍事魔法国家でありながら、攻撃魔法の基本を兵士に使わせることをしない。

 父はそれに、強く矛盾を感じていた。

 転換期に乗じて禁忌である闇魔術を広く開示し、それを以って他国を攻めれば国土は一気に広がると信じ、サミのような少女にも闇魔術が仕えるのだと示そうとしていた。

 ――自分勝手だ。

 闇魔術をサミに覚えさせる父に対して、サウは反感を抱いた。サミから秘密を打ち明けられた時からずっと、父の心臓に狙いを定めて続けていた。

 実際に振ってしまえば、何と容易いことだったか。

 サウの放った魔術によって父の心臓は即座に凍てつき動きを止めた。後から父に届いたサミの魔術は既に魂の失せた父の体を粉砕し、跡形なく消し去った。

 今回も同じことだと思っていた。サミよりも先に自分が、異国人の心臓を止めてしまえばいいのだと。

 ――それなのに。

 異国の少年が館から出て行った時、なぜ自分はほっとしたのか。

 それに気づいた今、なぜ、亡き兄の部屋で一人夜をにらむのか。兄の死は、一体何であったのか。

 兄の日記の表紙に、そっと手を当てて、サウは一人、夜に耳を澄ませた。

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