享受の話
第五章 反転
さくっと裁ちバサミは柔らかい生地へと入り込み、その後はすうっとハサミが動かされるだけで生地が裁断されていった。
仕立職人のヨーギスは生地に印もつけずに、するすると生地を裁断していく。
先程からクリノはずっと、ヨーギスの仕事を見つめていた。奥ではお針子たちが時折クリノを盗み見ては、クスリクスリと笑っている。
アミに連れられてやって来たのは仕立屋だった。
サヘリア家は職人や商人を屋敷に呼びつけて買い物をするのだが、この店の女将とアミは親しく、クリノに貴族以外の人々の暮しを見せるのもよいとアミは考えた。
当のアミは階下で女将とお茶を飲んでいる。クリノは寸法を測るために連れてこられた部屋で、ヨーギスの職人技に見とれていた。
「そんなに俺の仕事が面白いかい?」
気さくな職人は手を休めずにクリノに問う。
「はい、とても」
ラスケスタにも仕立屋はいたが、格が違うのはクリノの目にも明らかだ。ヨーギスは笑い、話しながら手を動かすがその動きには全くの無駄がなく布はあっという間にその姿を変えていく。
そしてクリノにはもう一つ、ヨーギスの仕事を見つめ続ける理由があった。しかし見つめ続けても解けない謎は問うしかない。
「あの……そのハサミと布には、魔法をかけてあるのですか?」
ヨーギスがなめらかな動きを止めた。
「いいや。へえ、君には俺の仕事が魔術のように見えているのか」
「いいえ、職人技との区別がつかないというか、魔術そのものがどういうものなのかわからないのです」
「区別か。そうだな……俺たちには当たり前のことだけれど、どう説明したら君にわかるのか……」
ヨーギスは少し考えて、裁ちバサミをクリノに渡した。
「こいつで、この布を切ってごらん」
クリノは言われた通り作業台の上の布に少しハサミを入れた。
「そのままここを押さえて、ハサミには力を入れずに前へ動かす」
ヨーギスのようになめらかにはいかないが、布地に切れ目が入っていく。
「ハサミから自分の手に布が切れていく感触が、伝わってくるだろう?」
意識すると、布の目地がハサミの刃に触れて裂ける細かな振動が伝わってくる。
「布やハサミの種類によってこの感触は変るし、生地の質の善し悪しや正しい方向へ裁断しているかもわかるんだ。でも」
ヨーギスはハサミをクリノから受け取って作業台へ置き、その上の空中で、指で何かを描いた。すると、ハサミは生き物のように動き出し、誰も触れていないのに生地を裁断し始める。
「……すごい!」
「俺は魔力が弱いし施設でも簡単な術しか覚えられなかったんだ。道具を操るくらいのことはできるけれどね」
ヨーギスが両手をパンと打ち鳴らすとハサミは動きを止め、ごとん、と音を立てて作業台の上に倒れた。
「君にはすごいことに見えるんだな。でもこうして魔術で裁断してしまうと俺の手には何も伝わってこない」
はっとしたクリノは自分の手を見て、ハサミから伝わってきた生地が切れる感触を思い出した。
「俺は仕立職人だ。大切なことは自分の手で一つずつ確かめながら仕立てた方が良い物ができる。もちろん、魔術が便利なことだってある」
ヨーギスは仕立て途中の新しい服をクリノの体に当ててみる。
「お客様にはこの生地もお似合いですが、こちらはどうでしょう?」
指先で宙に何かを描くと、壁一面の反物の中から美しい青い反物がふわりと浮かび、ゆらゆらとクリノの顔の横へと飛んできた。
丸い目を更に丸くしているクリノを見て、ヨーギスは笑って言った。
「ああやっぱり、君の髪は灰色がかっているからロイヤルブルーもよく似合う。サヘリアの奥様に伝えておこう」
初めて目にした魔術。しかしそれに反するような職人の言葉。
お針子の一人が階下から皆にお茶を運んできた。
「一息入れて、お茶にしましょう。クリノ様もどうぞ」
「様、はやめてください。僕は貴族ではありませんし。でもそのお茶、いい香りですね、いただきます」
お茶は穀物の香ばしい匂いがした。聞いてみると、茶葉と煎った雑穀を混ぜているそうで、クリノには初めての味だった。
少し欠けた茶碗で飲む仕立職人とお針子たちとのお茶は、サヘリア家で飲むものと少し違った雰囲気であったが、どこか懐かしさを感じた。気取らずに無駄で愉快な話を生活の中で楽しむ、慎ましくあたたかい時間である。
「ねえ、トラピスタリアからラピナへ来られてよかったわね」
お針子の一人が言う。
「マロウ様に助けていただいたことは感謝しています」
「それもそうだけれど、戦争が激しくなったらトラピスタリアにいない方がいいじゃない」
「戦争が、激しくなる?」
お針子たちがはっと口をつぐむ。ヨーギスが心配そうにクリノを見る。目の前の疑問は解きたい性分の少年は皆に問うた。
「……僕は、トラピスタリアでも小さな田舎の街で生まれ育ち、国のことや戦争のことをよく知らないままこの歳になってしまいました。でも、当面はこの国で生きていかなくてはなりません。教えていただけますか」
ヨーギスの隣で、白髪の職人頭が、古ぼけた眼鏡を拭きながら、うん、とうなずき口を開いた。
「ラピナとトラピスタリアが、二百年の間戦争を続けているのは、知っておるね?」
クリノはうなずいた。
「その戦争はずっと、たった一カ所で続いとる」
ラピナ国の北西には、富炎山脈が連なり、その一番南東に位置するのがベダリウ山である。ベダリウ山の東の麓にはウルファ平原が広がり、更にその東には深い黒牙森がある。
山脈と平原と森がラピナとトラピスタリアを、更に森は東のティクリート国をも隔てている。
富炎山脈は人が越えることは難しい。尾根は延々と噴煙を巻き上げてる活火山脈で、その北を目指すには西か東から迂回するしかない。山脈は西へ西へと続くため、自然と東にルートをとれば、二百年間続く戦場であるウルファ平原か、更にその東の黒牙森を抜けなくてはならない。
黒牙森もまた、人が立ち入ることは難しい。未開の暗黒森で、その名の通り「黒牙」と呼ばれる精霊の王が治めていると言われていた。
「戦争と言っても、我々ラピナはずっとトラピスタリアからの侵攻を防いでいるだけだ」
「え? 互いに攻め合うのではなく、トラピスタリアだけがラピナを攻めているのですか?」
職人頭はうなずいた。
「今まで、ラピナにはトラピスタリアに攻め入る理由がなかった。
見ての通りここは豊かな国だからね。農作物も他国に売る程穫れるし、我々職人は魔術との合わせ技でどこよりも質の良い品をいくらでも作ることが出来る。だから、ラピナよりも国力の貧しいトラピスタリアに攻め入っても良いことはないんだ」
「では、なぜ戦争はこれから激しくなるのですか?」
「東国のティクリートがラピナとの同盟を破棄して、トラピスタリアを支配下に置こうとしているんだ。その目的はラピナへの侵攻だ。トラピスタリアは、ティクリートとラピナの戦場になるだろう」
故国が戦場になる。故郷の一大事を初めて知ったクリノは息が詰まるような気がして、窓の外を見た。
延々と続く町の屋根の遙か遠くに、赤黒い富炎山脈、手前に尖ったベダリウ山、そして東には黒々とした森が続いている。
ヨーギスがクリノを気遣ってその肩を叩いた。
「君は運がよかったんだ。サヘリア家の後ろ盾もある。のんびりラピナで暮せばいいさ」
お針子たちも口々にクリノを励ました。
「そうよ、クリノさんはきっとすぐにラピナに馴染むわ」
「早く魔術を覚えられると良いわね」
ほんのひとときで、クルクルとした翡翠色の丸い目は、無意識のうちに職人たちとお針子たちの心を捕えてしまっていた。
魔術師を悪しき者として育ったはずの敵国の少年が、わからないこと恥ずかしがらずにわからないと真っ直ぐ聞いてくるのと、素直に魔術にも職人の技術にも感嘆するのが、嬉しかったのである。
「戦争だけじゃない、クリノさんは魔術を学ぶのにも良い時に来たと思わない?」
「そうだ、丁度転換期に入るのだから、新しいことを始めやすい」
「転換期、ですか?」
「魔術界は、千年に一度転換期を迎えるの」
「『ラピナ魔術創史』を、私たちは施設の初等科でみんな勉強するのよ。
魔術界の新たな千年に星歓び、清き風吹き、水豊かに流れ、火に温もりし大地より命新たに再び生まれる。
転換期を経て星の上、全て繋がり流れゆく。
揺るぎなき大四司と二賢に星は新たなる千年、更なる豊穣を約束す。
転換期には良いことが沢山起きて、みんなの暮らしがもっと豊かになるの。今年で千年の暦が終わって、来年から新しい千年が始まるのよ!」
お針子達は話すだけで良いことが起きているかのように嬉々としている。
「そうだな、今の内にラピナをよく知って転換期とともに君の新しい魔術師人生を始めたらいい」
「そうね、転換期前なのにラピナは国の力を持て余しているの。戦争が激しくなっても安心していていいのよ」
「戦争はラピナの力を示すいい機会なのよ。ね、クリノさんもラピナ人になってしまえばいいわ!」
クリノはうまく笑うことができなかった。
その晩クリノは寝付けずに、庭園を一人さまようように歩いた。
――トラピスタリアが戦場になる。きっと、ラスケスタだって、無事ではいられない。けれどきっとみんな、僕と同じように、何も知らずにいるに違いない。でも知らせる方法が……何もない。敵国なんだ、手紙も出せないし、第一トラピスタリアに行く人などいないじゃないか。僕自身が帰れば捕まって殺されてしまう。本当に、本当に何もできないのか、僕は……。
なぜ、何も出来ないこのような場所にいるのだろう。なぜ、暖かく自分を育ててくれた街を、人々を、守りに帰ることすら許されないのだろう。
守る? 一体どうやって?
たとえ自分が魔道師として追われていなかったとしても、国同士の戦争から大切な人々をどうやって守るんだ……。
庭園の人工的な小川が規則正しくせせらぐ。
上弦の月がクリノをやさしく照らしている。
月の光を浴びていると、少し心が落ち着くような気がした。混乱して考えたくなかったことを整理しようと、クリノは決めた。
――僕には今、わからないことが多すぎる。
なぜ、魔道師の疑いがかかったのか。
なぜ、ファルティノ司祭は僕を捨て子と偽っていたのか。なぜ、父の名を教えてくれなかったのか。
なぜ、黒いマントの男は父について、そして僕の姓について尋ねてきたのか。なぜ、僕を助けようとしたのか。
なぜ、ファルティノ司祭もアミも、クリノが首から下げている小刀についてはっきりと話そうとしなかったのか。
果たして僕には、本当に魔力があるのか。
ずいぶんと沢山の「なぜ」が放出されて、ため息が出た。
遠くから子供の笑い声が聞こえてくる。
この庭園では時々子供の声が聞こえてきたが、こんな夜更けにはしゃぐ子供がいるなんてやはりここは暗黒の国なのだろうかと思う。
しかし、アミ、サヘリア家の使用人、ヨーギス、職人たちやお針子たちは皆、ラスケスタの人々と同じ様にクリノにやさしい。
大きなため息をもう一度つくと、また子供の笑い声が聞こえる。それは一人や二人ではなかった。無邪気な声は、幾重にもなり、何十人もいるように聞こえた。何かおかしいと思った時、
「トリエル、おい、トリエル!」
野太い声が聞こえて、どきりとする。
「トリエル、こっちだ、おい!」
声は足下から聞こえている。クリノの好奇心が恐怖に勝利した。
「……誰だい? トリエルという人は、いないよ?」
「何言ってるんだトリエル、いつまで俺を無視する気だ」
声の主はどうやらクリノを呼んでいるらしい。
「どこ?」
「どこってトリエル、ひどいじゃないか、俺は水の中に決まっているだろう、相変わらずお前は本当にひどい奴だよ」
足下の小川をそっとのぞいてみた。
そこには丸々と太った魚が一匹。小川を造る青い石と全く同じ色をしており、ぎょろりと大きな目でじっとクリノを見上げていた。
「お前が一人の時に何度呼びかけても無視しやがって、ひどい、ひどい、ひどい」
魚はぽかりと頭を水面から浮かべて、太い声でしゃべりながらぽろぽろと涙を流した。
「……君が、話しているのか?」
「あああ、トリエル! どこまでお前は意地悪なんだ!」
「僕はトリエルじゃないよ! 僕の名はクリノだ」
「トリエルじゃないならなぜトリエルの目玉を持っているんだ? お前はトリエルの目玉を奪ったのか?」
「ええと、人は、人の目玉を奪わない」
「トリエルお前、俺との契約を忘れたのか?」
魚をこれ以上悲しませてはいけないと思い、クリノは返答に詰まった。
「サヘリアの奴ら俺の霊力を散々使い倒しやがって、見ろ、俺はこんな情けない姿に成り果てた。俺はもうここで朽ちていくしかない。トリエル、今こそ契約を果たしてくれ」
「契約?」
「お前に精霊の秘密を教えた代わりに俺の望みを叶えると、ラナイの名にかけて誓っただろう」
「……君の望みは、何?」
魚は一度水面に顔を沈めてからもう一度ぽかりと浮かび、突然口をその体の何倍もの大きさにがばりと開いた。
喰われる、と思ったが、逆に魚の口から水風船のような物がぽっかり吐き出された。
両手で抱えきれない程大きい水風船は宙に浮かび、ゆっくりとクリノの顔の前まで来て止まった。よく見ると中で一匹のオタマジャクシのような生き物がちろちろと動いている。クリノが顔を近づけると水風船は徐々に小さくなった。リンゴ程になったので思わず両手で受けると全く重さがなく、手の平に当って、ゆあん、と跳ね、やがて片手に収まる程の大きさになった。
「そいつを黒牙森の川へ放ってくれ」
「こいつは君の子供?」
「選りすぐりの奴だ、必ず、黒牙森だぞ」
よく見ると青い魚の周りには同じようなオタマジャクシが群れている。子供の笑い声はその小さな者たちからだった。
「その子たちはどうなるんだ」
「トリエル、お前は案外馬鹿だな。こいつ等全部が放たれたら世界が終わるぜ」
魚は初めて、笑ったように見えた。
「……ここで育つのか? それとも、お前と一緒に死んでしまうのか?」
「人間は『死ぬ』と言うが俺たちは、星に帰ると言う」
星に帰る魚の望みを、少年は叶えてやりたいと思った。
「明日、黒牙森に行ってくるよ」
「トリエル、お前は人間の中でも相当にひどい奴だが、お前の力を俺は信じている」
ポチャリと、魚が跳ねた。
「お前、良い物を手に入れたな、アウスグスの羽じゃないか」
クリノのポケットから、セルゲイの羽がのぞいていた。
「死んでしまったセルゲイの羽だよ」
「やっぱり馬鹿を言う! セルゲイが死ぬはずないだろう!」
野太い魚の声と共に、小さなものたちが一斉に笑い声をあげた。クリノがセルゲイについて問う間もなく、彼らは嬉しそうに尾を振り、泳ぎ回り、突然にふっと、青い石に溶けるように消えてしまった。
翌日。
馬車が揺れる度に身につけているものがジャガジャガと音を立てる。窓の外、カルヤラの街中をゆっくり眺めたいのだが、何枚ものローブやマント、帽子、スカーフが、どのような姿勢でいてもどれかが邪魔になってとても快適な道中とは言い難い。
しかしその邪魔くさい幾重もの服や装飾はアミとサミ、そして館の使用人たちの好意であったため脱ぎ捨ててしまう訳にもいかず、クリノはのぼせ気味で息を吐いた。
昨晩、魚が消えてしまってから、水風船のオタマジャクシをどうしたものかと悩んだ末にそっと台所へ忍び込んで、空いていた小さなジャムの瓶を借りることにした。瓶に入れても、風船は壊れることなく瓶の形に収まっていたが、念の為に緩く蓋をして部屋へ持ち帰った。
翌朝、黒牙森へ行くとアミに伝えると館中が大騒ぎになってしまった。
魔物が多く住む未開の森で、立ち入った者は生きては出られない、力の強い魔術師でもたちまちにその力を奪われ喰われてしまう、サミとそれに使用人たちも加わり、皆でクリノを行かぬよう説き伏せようとした。
クリノが元気になってからというもの、使用人たちは皆クリノの人懐こさや、礼儀正しさ、貴族の保護を受けているからと言って奢らない態度と、くるりとした翡翠色の丸い目に親しみを感じていて、魔術について何の知識も持たないため余計に小さな子供のように世話を焼いていた。
大騒ぎの中、クリノは昨晩の魚のことは話してはいけないような気がしていた。しかし何故だか心躍る楽しいひとときであり、また、黒牙森に行くなと言われれば言われる程、魚の願いを叶えてやりたくなってしまった。
ここしばらく災難続きであったが、本来この少年の性格は好奇心が強い。皆が騒ぐ程に、魚の願いを叶えるだけでなく、見たことも出会ったこともない「魔物」とやらに興味が湧いてきていたのである。
「では、森の入口の木立にだけ立ち入ることにします。薬師として、この国にどのような薬草が生えているのかが見てみたいのです」
と言うクリノに、アミとサミと使用人全員は館中の魔除けの品をかき集め、全て身につけさせた。
マント、コート、帽子、スカーフ、手袋、ブローチ、ネックレス、ペンダント、指輪、ブレスレット、イヤリング、ベルト……これらをいくつもいくつも全て身につけさせられ、一歩踏み出すのも重く、アクセサリーがぶつかってジャガリと音がする。
数日かけて歩いて行こうと思っていたのだが、仕方なしにアミに言われるまま サヘリア家の馬車に乗せられた。
馬車が走り出してすぐに、サミが走って追ってきたのを見て、御者が一度馬車を止めた。
扉を開けると、サミが小声で言った。
「もう一つだけ、これを持って行って」
サミから手渡されたのは、小さな黒い玉石だった。よく見ると細かい光りが石の中で渦を巻いている。
「とても高貴な品で強い魔除けの力があるのよ。
「ありがとう。必ず返すよ」
サミから受け取った玉石は、そっとマントのポケットに入れた。
思うように窓の外を見られないまま街を抜け、田舎道になると馬車の揺れが増し、魔除けの品々はいよいよジャガジャガと音を立てる。
街が遠ざかり、魔の森が近づくにつれて、御者のかけ声が元気がなくなっていった。
どうやらこの国の人々は心底、黒牙森を恐れているらしい。
クリノは御者に声をかけた。
「あのう、すみません!」
「何でしょう、クリノ様」
「森に一番近い村で僕を降ろして頂けませんか?」
「はい、そりゃ構いませんが、どうするおつもりで?」
「良い天気なので、ちょっと歩きたいんです。ずっと街の中にいたので、田舎道が嬉しくって」
そうは言ったが、クリノは御者をかわいそうに思って一人で歩くことにしたのだ。
「黒牙森」というその名や、人々から魔物だけが住む森と聞いていたことから、常緑樹や蔦がうっそうと生い茂り、光の射さない暗い森だと思い込んでいた。
しかし、クリノは今、輝く木漏れ日の中、暖かさを待ちきれない萌黄色の柔らかい葉に導かれ、重たいマントやローブに負けず、軽い足取りで森を歩いていた。
風は山桜の花の香りを自慢げに抱えてそよいでいる。
鳥は長くなった陽を歓び、あちこちで様々な恋の駆け引きの歌をさえずり続けている。
凍てつく寒さから解放された土は、少しずつ暖かさを蓄え、目覚めたばかりの小さな草があくびをするように二葉を広げている。
クリノは思わずジャムの瓶のオタマジャクシを取出して言った。
「お前、これからずっと水の中からこの世界を見るんだろう、今の内にしっかり春を楽しむといいよ」
森の光に瓶をかざすと、オタマジャクシはチロチロと尻尾を振った。
辺りを見回し、ここはラスケスタからそれ程離れていないのではないかと思う。
なぜなら、木々や草の種類がラスケスタの森とそう変らないからだ。夕凪草の新芽を見つけたが、亜種には見えない。他の植物も新芽が出る時季が同じである。
白いつぼみが開きかけている
オタマジャクシも食べるかと、瓶の蓋を開けてパンの欠片を入れてやろうと思ったが、薄い膜が水風船を作っていることを忘れていた。はじけてしまうだろうかとそっと触れてみるとクリノの指はすっと膜を通り抜けて水に触れた。
パン屑をつまんで水の中へ落としてやるとオタマジャクシはあっという間にそれを食べてしまった。
その時、オタマジャクシの真っ黒だった体の尾だけが、ふっと銀色に色を変えた。尾びれも光り輝くようになり、オタマジャクシが尾を振ると銀の粉がきらめいて水風船の底へ落ちていく。
「へえ、綺麗な尾っぽだ。お前は、お父さんみたいな魚とは違うものになるのか?」
オタマジャクシは嬉しそうに瓶の中をくるくる回る。
「もうすぐお別れだけど、お前にギンビって名前をつけよう。銀の尾のギンビ」
オタマジャクシはいっそう尾を振って、銀の粉を瓶の中にまき散らしていた。
更にしばらく森の奥へ進むと水音が聞こえてきて、やがて渓流に当った。
苔むした岩、倒木、水草が陰を作り、小さなギンビが身を隠せる場所が沢山ありそうな小川だった。そこでギンビと別れることにした。
瓶から水風船を取出して、そっと水面に浮かべる。水風船の膜がゆるん、と溶けると、ギンビは流れの中へと泳ぎ去り、すぐに見えなくなった。
「さようなら。喰われないように、うまくやれよ」
クリノは呟き、流れのほとりに腰を下ろした。
ギンビは父親に聞いていただろうか。なぜ自分だけが全く知らない世界へたった一人、行かねばならないのか。
クリノは、誰にも理由を告げられていない。何かを知っているだろう人々は皆、問いかけても口を閉ざしてしまった。そしてこうしろああしろと、指示だけを与えられた。
ギンビの嬉しそうに消えていった姿を見てクリノは思う。自身もこのラピナで、知りたいと思うことを、謎に包まれていることを探求する歓びを得られるであろうかと。
逃げ、追われ、悲しみ、心配に打ちひしがれているだけではなく、反転して知ることを欲し、運命に挑めるだろうかと。
風がそよぎ、陽が瞬き、水はせせらぎ、大地によって億千もの命が育まれる森は、国が変れども同じ。ならば自分もフラスコの中の光りの謎を解こうとした時と同じように、前へ進むことで生きていると感じたい。
そよぐ風に頬を撫でられていると、突然、身につけている数々の魔除けの品がバカらしく思えてきた。マントを脱いで、ローブを脱ぎ、その上にいくつものアクセサリーも全部かなぐり捨てて丸めたら、体も心もすっと、軽くなった。
ほっとした時、側の茂みがガサリと揺れた。
獣だろうかと繁みを見る。だが、姿を現した者を見てクリノは呆然とした。
そこにはアデルが、立っていた。
「ああ、ずっと会いたかったのよ!」
アデルはクリノに飛びついてしっかりとクリノを抱きしめた。
「アデル! ……どうしてここに」
「ずっと、ずっと、あなたに会いたかった!」
クリノは違和感を感じた。謎は解きたいと思ったばかりだ。
「アデル、誰と一緒にここまで来たんだ」
「そんなことはどうでもいいの、二人きりで会えたのが嬉しいわ」
「……君は、アデルではないね?」
「何を言っているの、私よ」
「いいや、その手を放してくれ」
アデルの腕はやけに強くがっちりとクリノの首に巻き付いている。クリノは目の前の顔に向かってはっきりと言い放った。
「君は、アデルでは、ない」
アデルの姿をした何者かは、本物のアデルが見せたこともないような仏頂面でクリノから体を離し、そしてぞんざいに言った。
「何だよ、せっかくゴリニチの代わりにお前を喜ばせてやろうと思ったのに」
「ゴリニチ?」
「お前、あれが何なのか知らずに川に放ったのか?」
「ああ、ギンビか。あのオタマジャクシ、何になるんだ?」
「ギンビ? お前、あれに名をつけたのか!」
アデルの姿の何かは、心から楽しそうに高らかに笑った。
「君が何者かわからないけれど、とりあえずその姿はやめてくれ。アデルはそんな笑い方しないよ」
するとアデルは、今度はクリノに姿を変えた。
クリノとクリノが向き合っている。
「魔物の住む森で、ゴリニチを放つだけじゃなく、魔除けを捨てるみたいに外してしまうなんて、お前は面白い人間だ」
声までもクリノと全く同じだった。
「ゴリニチは森の川で育って、少し大きくなると海へ行く。沢山の生き物を喰らい、尻尾一振りで人間の舟を沈める程の大きさになるんだぜ。沈めるだけじゃない、人間の舟なんてひと飲みだ。人間のくせに人間の邪魔をするのかお前?」
「……どうだろうか。ギンビは生き物だ。人間も生き物だ。互いに喰らうことがあっても、それは命の流れの一つじゃないか?」
「じゃあ、今俺がお前を喰らっても文句はないのか」
「……僕を喰ったら、君は元気になるのか?」
もう一人のクリノは、ひどく顔色が悪かった。
「ふん、お前を喰ったらゴリニチが怒りそうだ」
顔色の悪い方のクリノは、少し離れて土の上に座った。左足を少し引きずっているように見えた。
「僕を喰いたい程、お腹が空いているのか?」
クリノは昼ご飯の残りのパンと、チーズを切って、もう一人のクリノに差し出した。もう一人のクリノはふんふんと匂いをかいでからぺろりと食べた。
「ああ、美味い。こんなに美味い物、初めて食べた」
クリノは残っていたパンとチーズを全てもう一人のクリノに食べさせてやった。そしてくちくなって満足げな様子を見てから聞いてみた。
「君は、この森で何をしているの?」
「身を隠していた」
「誰から?」
「人間から」
「僕は、人間だよ」
「お前はゴリニチを放ったから、俺を捕えないと思った」
「人間はなぜ君を捕えるんだ?」
「力が欲しいんだろう。人間などに俺の力を与えてやるものか。精霊などになるものか」
「脚を、怪我しているね」
「毒を練り込んで呪いをかけた銀の矢尻が、脚の肉の奥深くに入り込んでとれない。もうすぐ脚が腐り始める。俺は生まれた役割も果たせずにこのまま森で腐って、星に帰る」
「脚を見せてくれるか」
もう一人のクリノの脚には穴の様な傷があり、黒ずんだ血が出ていた。
確かに矢尻は奥深くにあるようで外から見えない。しかし傷はまだ新しく、膿んでいる様子もなかった。
「僕は医者ではないけれど薬師見習いだったんだ。薬草を探して、それから矢尻を取出してみよう。君の脚に傷をつけるけれど、頑張れるか?」
もう一人のクリノは、一体クリノが何を言っているのかわからない、といった顔をしていた。
怪我をしているクリノを置いて、本物のクリノは薬草を探した。
止血のための
春、夏、秋にかけて、薬師は薬草を集めて煎じたり乾燥させたりし、他の季節にも使えるように保存する。ラスケスタの自分の小屋へ行けば効き目のよい調合済みの薬もあるのにと悔やまれる。
小川に戻ると、もう一人のクリノは居なかった。代わりに、真っ白な子馬が地面に座り込んで眠っていた。子馬の額には小さな角が生えている。左の後ろ脚はもう一人のクリノと同じように矢による怪我をしていた。
クリノはその横に座って、石で薬草をすりつぶした。やがて子馬は目を覚ましたが、傷が痛むのか、座ったまま半開きの目でクリノを見ていた。
「さてと」
薬ができて、クリノは首から提げた小刀を取出した。矢尻を取り出せそうな刃物はこれしか持ち合わせがなかった。
ファルティノ司祭から受け取ってから初めて鞘から抜いたが刃こぼれも錆びもない。峰の側には鞘、柄と同じように細かな紋様が彫られている。しかしそんなことは今、クリノの目に入っていなかった。
「ここからここまで切って、矢尻を取出す。とても痛いと思うけれど、痛みを麻痺させる薬草が見つからなかったんだ。頑張れよ」
子馬の脚の腱を傷つけないよう慎重に、刃を矢尻に向けて皮膚と肉を切り裂いていく。
子馬は痛がりもせず微動だにしない。クリノの姿をしていた時は足を引きずっていたので、痛くないはずはないのだが。
――腐って死んだりなんか、させない。
必死で矢尻を取出し、止血しながら化膿止めを使う。幸い傷は大きくなくて済んだ。
「傷を縫い合わせる物はないから擬朱草で塞いで縛るよ。しばらく動かずにじっとしているんだ」
すると子馬は首を振って言った。
「その銀の矢尻は俺を封じ込める呪いがかけてあった。お前が取出してくれたから、俺は力を取り戻せる」
みるみるうちに子馬の傷は塞がり、痕もなくなり、なめらかな白い皮に純白の毛までふさりと生えた。
目を丸くしているクリノをよそに子馬はすっと立ちあがって、カツカツと歩いた。痛みはないようだった。
「お前に礼を言わねばならない。名を教えてくれるか」
「……クリノ」
「全ての名は?」
「クレイユノ・トマ・エーレイ」
「違う、違うな、クレイユノ。それはお前の正しい名ではない」
「正しい、名?」
「その小刀を見せてくれ」
小刀に鼻面を近づけて子馬は匂いをかいだ。
「これは親から譲り受けたのか?」
「そうだと聞いた」
「では、お前の正しい名はクレイユノ・トマ・ラナイだ。ありがとうクレイユノ・トマ・ラナイ」
クリノは子馬の鼻面に触れてみた。温かく艶やかな肌だった。
「ゴリニチのように、俺にも名をくれないか」
「いいのかい?」
子馬はすっと、甘えるように鼻面をクリノに寄せてきた。
「白く美しい者、ハクビ」
ハクビはそれを聞くと喜んでクリノの回りを飛び跳ねた。
「クレイユノ、一つ目だ、水の霊ゴリニチ、ギンビの礼を伝えよう。瓶の底に銀の粉が残っている。なくさずに持っているといい」
ジャムの瓶をのぞいてみると、確かにギンビの尾が振りまいた銀の粉が水風船の膜を通り抜けたのか、うっすらと積もり残っていた。
「風の霊ユニコ、ハクビから二つ目だ。お前が捨てた微力な魔除けの中には、強力な魔呼びが一つ混じっている」
「魔呼び?」
「それに呼ばれて俺はお前を見つけた。一つずつ見せてみろ」
帽子、スカーフ、ローブ、指輪……一つずつクリノはハクビに見せてみた。最後に全てを包んでいたマントを広げると、ポケットからサミに渡された玉石がころりと転がり出た。
「それだ」
玉石をハクビに見せるとハクビはふっと鼻息を荒げた。
「これをお前に渡した者は、お前を憎んでいる」
「……その人のお兄さんを、俺は死なせてしまった」
「クレイユノ、お前、人間に気をつけろ。ラナイの名も人間には言わない方がいい」
「僕だって人間だよ」
「その石、何かが封じられている。俺の角に当ててみろ」
クリノはサミから渡された黒い玉石をハクビの角にコツン、と当てた。
玉石はぱらりと割れ、中から煙が生まれ出た。煙は俊敏な燕のようにするすると宙を舞い、クリノのすぐ足下の地面へさっと潜り込んで消えた。
その途端に地鳴りがし、大地が揺れてクリノは立っているのもやっとだったが、ハクビはまた高らかに笑った。揺れがおさまってもハクビの笑いは止まらなかった。
「何だ今の、どうしたんだよハクビ!」
「グノムスじゃないか! 大地の霊だよ。そんな石ころに閉じ込められていたのか。クレイユノ、お前はたった一日で我等、四の霊司の内、三霊司を救った。大業だよクレイユノ!」
「四の霊司?」
「クレイユノ、グノムスの代理で、礼の三つ目だ。何か知りたいことはないか? 一つだけ答える」
ハクビの大きな黒い目は、何を問うても答えられそうな知性に満ちていた。
一つだけ、と言われて迷ったあげく、クリノは問うた。
「僕に、魔力はあるのか」
答えるハクビの瞳は、少し悲しげに見えた。
「お前は強大な魔力を持っている。今は固い殻の呪いがかけられていてすぐには使えない。クレイユノ、人間に気をつけろ」
そう言うと、ハクビは少し後退りした。
「クレイユノ・トマ・ラナイに出会いし三霊司、ゴリニチ、ユニコ、グノムス。我等解放されし恩を決して忘れぬ。クレイユノ・トマ・ラナイ、背負いし星の光強き者」
そう言うと、ハクビは高くいなないて空へと舞い上がった。すると強風が吹き荒れ、ハクビは瞬く間に風となり空の彼方へと駆け去って行った。
馬車と御者を残した村へ帰ると、御者だけでなく村人にも囲まれて騒ぎになった。何も話していないのにいつの間にかクリノは森の魔物と闘って打ち負かしたのだと話が勝手に作られそうになったため、慌てて逃げるようにしてカルヤラへ戻った。
サヘリア家に着くと今度は家中の使用人がクリノと御者を取り囲んだ。皆、村人たちと同じ様にクリノが生きて帰ったのに驚いていた。
その輪の外で、サミがじっとクリノを見ていたが、すぐに姿を消してしまった。
白い子馬、ハクビの言葉を思い出す。
――これをお前に渡した者は、お前を憎んでいる。
――クレイユノ、お前、人間に気をつけろ。ラナイの名も人間には言わない方がいい。
サミの兄、マロウを死なせてしまったのは自分である。はっきりしたのはサミは間違いなく、それを恨んでいるということだ。
ひどく気は重いが、返すと言った以上せめてそのことについては詫びなくてはならないと思い、サミの部屋を訪れた。
「サミ、いるかい?」
ドアの外から声をかけるとすぐに返事が在り、ドアがすっと開いた。
「クリノ、お帰りなさい。無事で良かったわ」
「……ごめんよ、もらった黒い玉石、森でなくしてしまったんだ」
「そう」
「大事な物、だったんだろう。今の僕には弁償することも出来ないけれど……本当に済まなかった」
「いいのよ。ねえ、マロウお兄様はあなたに魔力があったから帰って来られたって言っていたらしいけれど、本当?」
「わからない。覚えていないんだ。本当に魔力があるのかどうかも、僕は自分ではわからないんだ」
「じゃあ、どうして帰って来られたの」
「……」
「森でなくしたということは、入口だけでなくて、森に入ったのでしょう? あの黒牙森で、魔物に出会わなかったの?」
サミは大きな目でじっとクリノを見ている。口元はうっすらと笑っているようにも見えた。
心の中で、チリリと音がしたような気がした。
玉石をサミは間違って魔除けだと思ってクリノに渡してしまったのか。それとも戻らないものとして、クリノに渡したのか。
サミが自分に問うているのは魔力についてではない。魔物に出会ったかではない。生き残ったことの是非であると感じる。
それに答える義務は、ないと思った。
好きでこの国に来たわけではない。自ら進んでマロウの代わりに生き延びたわけではない。だが生きている以上、誰であってもそれを「非」と言われる筋合いはないと思う。
「……魔物っていうのは、人を喰らうんだろう? 森には動物がいたけれど僕を喰らったりはしなかったよ。だから出会わなかったんだと思う。
君の大切な物をなくしてしまって、本当に済まなかった」
そう言ってクリノはサミの部屋を後にした。
アミにも魔除けの品を持たせてくれた礼を言おうと思って部屋を訪ねたが、アミを呼ぶ前に使用人がそっとクリノに教えてくれた。
「奥様は今、珍しくお気を荒立てていらっしゃいます。なんでもクリノ様の通える施設を探していた所、無礼な返答をされたそうで」
アミはクリノの姿を見ると駆け寄って言った。
「お帰りなさいクリノ。よく戻ったわね。まあまあ。私はあなたがきっと生きて帰ると信じていましたけれど、まあ、本当によく帰ってきたこと!」
「持たせていただいたお守りのおかげかもしれません。魔物には、会いませんでしたから」
「そう、良かったわ。でも、今日は気が気でなかったのよ。何もしていないとやはり心配で。それで、今日はいくつか、あなたの通う施設を探してみたんだけれど……」
言葉に詰まったアミを見て、クリノはおおよそを察した。
「僕はトラピスタリアの人間です。ましてや魔術についてはこの国の幼子よりも何も知りません。受入れてくれる施設はないかと思います」
「……ええ、残念ながらあなたの歳で魔術の基本から学べる所はなかったの。でも、ああ、思い出しても腹立たしい!」
確かに、いつも穏やかなアミが珍しく興奮していた。
「軍直轄の訓練施設のひとつだけれど……施設長の代理とやらがあなたを使用人としてなら受入れると言ったの! サヘリアの客人のあなたを、使用にとしてなんて!」
立腹しているアミとは裏腹に、クリノはその話に興味を持った。
聞いてみると、ヴァレリアン国軍幹部候補生訓練施設という所で、国軍の士官施設のような場所らしい。「幹部候補生としては受入れられないが使用人としてなら空きがある。春から夏の終わりまでの働きを見て、秋から訓練に編入できるか判断する」と言ったという。
アミと違って、クリノは自分には良い話だと思った。
「アミ様、ヴァレリアンはサミ様、サウ様が通う施設とは別なのですね?
では、そのお話、ぜひ進めていただきたく思います。僕はこの家のお世話になっていますが、トラピスタリアでは平民です。貴族として優遇されることは望んでいません」
「でも、クリノ、あなたは貴族としても申し分なく礼儀も作法が身についているし、私はもう息子のように思っています。それなのに使用人だなんて」
「ありがとうございます。でも、この国で生きていくにはこの国を知らなくてはなりません。この家に守っていただくくだけでは、僕は僕を見失いかねません。それから」
クリノは言葉を選んで、アミに申し出た。「ヴァレリアンでの仕事、できれば住み込みでお願いしたいのです。
僕がこの家にいることで、アミ様も、サミ様も、サウ様も……マロウ様の死を心から悲しむことができずにいるのではないでしょうか。僕のために、無理をしていらっしゃるのではないでしょうか」
突然のクリノの言葉に、アミははっとした。
マロウが死んで以来、アミはクリノを何とかしてやりたいと必死だった。必死になることで自分を保っていた。
だが思い返してみるとサミとサウは、兄を心から好いていたにも関わらず、二人が嘆き悲しむ姿をアミは見ていない。
「……あなたの言う通りかもしれません。でも、あなたは少しずつですが、この館の光のような存在になっていたのよ。放り出すような真似はできません」
「ありがとうございます。でも、この館の光は、サミ様と、サウ様であるべきです。
置いて下さったこと、僕のこれからの道筋を開いて下さったこと、本当に感謝しています。
また、この館へ、庭園を散策に来てもよいでしょうか?」
アミはうなずくしかなかった。
翌日の朝早く、クリノはサヘリア家の三人と使用人たちに別れを告げて、ヴァレリアン国軍幹部候補生訓練施設へ向かった。
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