告白

 夏休みが明け、二学期が始まった。その初日は湿気が纏わりつくほど暑く、そして朝からどんよりとした雲が覆っていた。

「おはようございます」

 いつものようにバス停でバスを待っているとミヅキが声を掛けてきた。相変わらずミヅキは清々しい笑顔で遼太郎を迎えた。

 いつものようにバスに乗り込み、二人は隣同士に座った。遼太郎の心の奥でミヅキの存在が大きくなり、いつもと違う感情で彼女の横顔をチラチラと垣間見た。

「旅行、楽しかったですね。また思い出作りしましょう」

 ミヅキの笑顔は軽井沢の高原の風よりも爽やかに思えた。

「ああ」

 遼太郎は彼女の屈託のない笑みが太陽のように思われ、地球が太陽の引力に引かれるように遼太郎の心もミヅキという太陽に引かれていくのを感じ取っていた。

(ミヅキが太陽なら、ミレイは月なのか?)

 遼太郎の思考にぼんやりと月影に映し出されるミレイの姿が浮かんだ。

「どうしたんですか?」

「なんでもない」

 遼太郎はミヅキが自分に対して鋭い観察眼を持つことに少し驚いた。それと共にミヅキという存在が自分の心の中で大きくなっていくことに一抹の不安を覚えた。それはミレイという存在を自分の世界から消したくないという思いがそうさせたのかもしれない。

 ミヅキという光り輝く太陽が照らせば照らすほど、夜空のミレイという月も輝く。しかし昼間の月のように儚いミレイは幻夢の輝きにも思えてならなかった。

 久々の教室に足を踏み入れると、一瞬、背筋がゾワゾワするような感覚を覚え、忘れかけていたなんともいえない不安が心を覆った。

 今までの遼太郎の心に覆っていた影の世界はミレイとミヅキによって光へ導かれたが、未だに道影零という存在が虚ろな闇の世界に連れ戻そうとしているように思えた。

 

 三時限目、赤井葵先生の数学の授業が始まった。遼太郎はわざと気を引くかのように顔を机の上に伏せて狸寝入りをしていた。それに気づいたのか赤井先生は遼太郎の方に近寄ってきた。

「こら! 上条くん起きなさい」

 そう云って肩を揺すぶられた。

 遼太郎はおもむろに顔を上げると、小声で囁いた。

「先生。ほら、ドア側の一番うしろの席。彼はいったい誰なんですか? 確かに、こうしてぼくらには見えている存在なんだけど……。なんていうか実体のない影のような存在に思えてしまうんです」

 赤井先生は眉間に皺を寄せると、道影零の方に視線をやった。

「誰って……」

 少しの間があり、赤井先生は無表情な顔つきでこう云った。

「うちのクラスメイトの道影零君じゃない。なぜそこまで彼にこだわるの?」

「いや、それは‥‥。いいです。なんでもないです」

「だったら授業に集中しなさい。せっかく期末テストはよかったんだから、これからも頑張るのよ」

 そう促すと赤井先生は教卓に戻っていった。

(くそー)

 心の中でそう呟くと、道影零にふと呼ばれたような気がした。遼太郎は心胆を寒からしめる思いにかられ、クラスメイトの視線を一身に集めていることに気づいた。彼等の視線に戸惑いながら、気持ちを空にし、ぷいと窓辺の景色に視線を移した。窓の向こう側の景色は重たい雲が今にも雨を降らせようとしていた。

 まるで彼の存在は、そこに存在するのだけれども、人々の記憶に残らない影法師のような存在に思えてならなかった。云い換えるなら、そのさまはまるで掌で掬った水が人々の記憶から雫となって落ちていくような感じである。


 その日の放課後。遼太郎は驚天動地の思いがけない光景を目にした。昇降口でミヅキと菜実が道影零と親しげに談笑していた。視線の先にある光景を直視していたら心が軋む音がした。虚ろいだ視線を向けていると、ミヅキと目が合ってしまい、遼太郎は思わずもときた廊下を走り去っていた。

 今まで感じたことのない感情。いや、ただ忘れてしまっただけなのかもしれない胸の苦しみが全身を貫く。

「遼太郎さん!」

 背後から声がした。

 遼太郎は脚を止め俯いた。廊下のシミに視点がぼんやりと注がれ、胸中に去来するミヅキの顔を思い浮かべた。

「先日、傘を忘れた私に道影さんは何も云わずに傘を差し出して、そのまま走り去っていったの。今日、その傘を返そうと思ったんだけど、その傘は傘を忘れた人に使ってもらえるよう傘立てに置いといてと云われて、それでその傘、結局彼に返しそびれて……。だから私……」

 ミヅキはめいっぱいに言葉を捲し立てると、そのまま黙り込んでしまった。

 背中越しに感じる張り詰めた空気に耐えられなくなって遼太郎はミヅキと向かい合った。

 遼太郎は黙ったまま彼女を見つめ冷たい感情と向き合っていた。その表情は嫌悪するような険しい表情だった。ミヅキは遼太郎に何度も頭を下げ謝った。

「ミヅキが謝ることないよ。行こ!」

 そう云うとミヅキの後を追っかけてきた菜実がミヅキの手を取り、その場から立ち去ってしまった。

 一人取り残された遼太郎は、煙るほどアスファルトを叩きつける雨の中を一人、黙々と歩き帰路の途についた。

(なんなんだこの気持ちは……)

 苛立ちを隠せない遼太郎は枕を壁に投げつけると枕めがけて拳を何度もふりかざした。

 外は空虚の心がずぶ濡れになるほどの豪雨が地面を叩きつけていた。

 どれくらい時が経ったのだろう。ベットに横たわっていた遼太郎は空腹を感じ、とりあえず空腹を満たす為に冷蔵庫へ向かった。ふと、キッチンに目を向けるとミレイが忘れられた影のように立っていた。注意深くミレイを観察すると、ミレイは母が置いていった健康的レシピブックという本と、自身の掌を交互に視線を落としていた。

(料理を作ろうとしているのか)

 ミヅキの作ってきたサンドイッチを楽しそうに囲む様子が遼太郎の脳裏に浮かんだ。

(そういうことか)

 遼太郎は得意のカレーを作り、二皿分盛り付け、キャビネットからスプーンを二つ取り出した。それぞれをテーブルの手前と向かい側に起き、次に冷蔵庫で冷やしてある麦茶を二つ用意した。

 戸惑う様子をみせるミレイに対して、椅子に座るよう促すとミレイは椅子に腰掛けじっとカレーライスが置かれたテーブルを見つめている。そんな様子を見て遼太郎は掌を合わせ「いただきます」と云ってカレーライスを掻き込むように食べた。しばらくミレイは遼太郎の所作を見つめながら同じようにカレーライスを食べる仕草をした。その様子を伺いながらカレーライスを頬張る遼太郎は目を細め、心の奥が熱くなるのを感じ取っていた。そして遼太郎はミレイの柔らかな表情を確かめるかのように麦茶を飲み干した。彼女も向かい合わせの鏡を見ているかのように同じ仕草をした。

「ごちそうさま」

 ミレイの声は聞こえなかったが、その唇の動きから『ごちそうさま』と読めた。

 夜のしじまに二人の空間(世界)だけが、そこにはあった。


 次の朝、遼太郎はミヅキの姿を確認できないまま、バスに乗り込んだ。

「すみません。バス乗ります」

 そう声を張り上げ肩で息をするミヅキがバスに乗り込んで来て、遼太郎の隣に滑り込んできた。

「今日はバスに間に合わないかと思った。でもよかった間に合って」

 ミヅキは努めて明るく振舞うような素振りを見せると、愛嬌よくはにかんだ。

「ごめんなさい」

 ミヅキはさっきと打って変わって陰鬱な表情をして殊勝に謝った。

「君が謝ることないよ」

「私、遼太郎さんの気持ちわかるの。だから……」

「こっちこそ、ごめん」

 遼太郎も殊勝に謝った。

「私、遼太郎さんに助けてもらう前からずっとあなたのことを見てたの」

 遼太郎はバスの窓から流れる街の景色をぼんやり眺めながら聞いていた。

「どう、表現したらいいんだろう。そう、なんていうのか遼太郎さん空ばかり見ているでしょ、私も同じだから。無くしたものをずっと探し続けているような感じに思えたの」

 隣に座っている彼女の肩が触れ体温を感じる。

「ごめんなさい。私なに云ってんだろ」

 遼太郎はバスのガラスに反射して映っている彼女のかんばせを見た。彼女はその視線に気づいたのか、気恥ずかしくはにかんだ。

「自分でもわからないんだ。この、心が空っぽな感じ。でも、君と出会ってから空虚な心に何か温かいものが注ぎ込まれたような、そんな感じがした」

 遼太郎は素直に心情を吐露する。

「そう、なんだ。こんな私でも遼太郎さんの心を癒すことができるなんてとっても嬉しい」

  彼女は無理やり微笑んだように見えた。が、彼女は急に顔を曇らせ語り始めた。

「実は……。私、仲のよい友達を亡くしてから、夢を見なくなったんです」

「夢?」

「はい。よく、夢を見ていないときって深い眠りに落ちていて、ただそれを覚えていないらしいんだけど、なんていうか感覚的にわかるんです。まったく夢を見ていないんです。もちろん朝になって忘れてしまったとかじゃなく。なんていうかなぁー。眠っている間、深い何もない闇に包まれているというか……」

「ぼくも……」

「はい?」

「ぼくも、いつしかほんとうの夢を見なくなった。あの日から……。ちゃんと説明すると、なんて云ったらいいか自分を彷徨い求めているかのような夢のようなものを見ている感覚で、直感的にこれは夢ではないなとわかるんだ。それはなんて云ったらいいんだろう。夢とは違う何か脳に直接伝えてくるメッセージみたいなものなんだ」

 遼太郎は浮遊して定まらない焦点をミヅキに向けた。

 ミヅキはしばらく口を閉ざし、沈思黙考した。

「何か私たちの意思ではない何かの力が働いているってことでしょうか?」

「わからない。でもなんとなく君が夢を見ないことについて、ふと思ったんだ。何か見えない力が干渉しているんじゃないかって。全くの憶測に過ぎないけどね」

「私もそんな気がするの。もしかしたらなんらかの関わりがあるのかもしれない」

 そしてミヅキはしばらく黙り込んだあと瞑目し、目を見開いたかと思うと独白をし始めた。

「美琴ちゃんは中学生になったときに私に初めて声を掛けてくれた人だった」

 バスはバス停に止まり、人が入れ替わっていく。学校まではあと十五分ほどある。

「私は凄く人見知りで、中学校に上がったときも、小学校のとき友達だった人が違うクラスになってしまって、私にとっての中学高生活はとても不安なものだった。そんなとき声を掛けてくれたのが、倉内美琴ちゃんだった。彼女は屈託のない笑みで「なにしてはんの?」と、私に語りかけてくれた。とても嬉しかった。彼女は寂しそうにしていた私をほっておけなかったんだと思う。そんな彼女は、何気ないことをすごく楽しそうに話し、私を楽しませてくれた。今思うと、私にとって太陽のような存在だったのかもしれない」

 遼太郎越しにバスの窓の向こう側を遠い目で見つめるミヅキ。彼女の瞳は潤んでいた。

「あれは中学を卒業して春休みの出来事だった。彼女は……」

 ミヅキは一呼吸置いて全てを語った。

「彼女は交通事故に遭い、病院に緊急搬送されたの。そして、彼女は五日後、天に召されたの」

 ミヅキは鼻をすすりながら、ハンカチで目元を抑えた。

 遼太郎の脳裏をかすめたのは、あの巫女の少女であった。

 バスは学校の向かい側に泊まり独白の時間が打ち切られた。


 放課後。昇降口でミヅキが両手を後ろに組で、遼太郎を待ちこがれるように佇んでいた。

 帰りのバスの中、二人は朝の会話の続きをした。

「そもそも夢ってなんなんでしょうね。夢を見なくなる前はいろんな夢見ていた。色んな出来事を体験した。例えば空を翔ぶ夢とか。何かに追いかけられる夢とか。なんかとても、ときめく夢とか。朝起きたときに夢だとわかると、もっと夢を見ていたかったとか、夢でよかったなんて思うんですよね。でも、今は何も感じない。まるで夢を誰かに奪われたかのように虚無で真っ暗な感じなの」

 憂いを帯びたミヅキのかんばせが、その想いを物語っていた。

「時々、自分ってなんだって思うことがある。そんな想いを夢は代弁してくれているのかもしれない」

 遼太郎は自分に云い聞かせるように呟いた。

 ミヅキは遼太郎の瞳をまっすぐにみすえて「なんとなくわかる」と言葉を返した。遼太郎は彼女の瞳に映った自分の姿に自分の心を投影している姿を垣間見た。

 そして思った。(ぼくは確かにここにいる。でも夢を失った彼女と、ぼくという存在を問いかける影になんらかの因果関係があるのだろうか? わからないが、不思議と見えないが干渉しているんではなかろうか。その答えをミレイが知っているような気がする)


 深夜、無性に心の渇きを覚え、遼太郎は目覚めた。時計の針は午前二時十分を指している。

 頭を抱え、焦点の合わない視線を落とし、しばらく同じ姿勢のまま動けないでいた。

(ぼくはいったい誰なんだ)

 深淵の彼方から呼ぶ声が聞こえた。遼太郎は内なる心を解放し、自分の心の声に耳を傾けた。

(自らのアイデンティティーはあの日から無くしていたものだと思っていた。しかし、なにかが心に語りかけてくる気がする。それは自分の心の声を借りた不確かな何かだ。もしかするとあの漆黒の影なのかもしれない。そして、それは合わせ鏡に映った自分の姿にも思える)

『どないしたん?』

 その声は巫女の少女のものだった。

「君か。君にちょっとだいじなことを伺いたいんだけど、いいかな?」

『なんなん?』

「もしかしたら君の名前はミコトって云うんじゃないか?」

『ミコト……?』

「ああ」

『うちの名前、ミコトって云うん?』

「多分、そうだと思う」

『うちミコトって云う名前なん?』

 そう呟くと、巫女の少女は感慨深げに宙を仰いだ。

『なぜ、うち、涙が勝手に流れているんやろ』

 彼女の瞳は潤いを帯び、一筋の涙の軌跡が頬を伝わり、幾重にも涙の軌跡が重なった。

「やっぱり君はミコトなのか」

 そう云って遼太郎は、ミヅキの独白を彼女に聞かせた。

 彼女の涙はサラサラとして透き通っていた。

『ミヅキ……。うちの友達……』

 呼び覚まされた記憶の邂逅がミコトを襲い、彼女はうめき声を上げながらどこかへ消えていった。

「おい、待って。聞きたいことがあるんだ!」

 彼女の気配は消えていた。そして別の気配がベランダから何かを射抜くような強い視線が感じられた。遼太郎は意を決し、カーテンを開けた。すると、そこには金色の瞳を輝かせたあの黒猫がいた。黒猫は潭心たんしんから覗くような視線でこちらを見ている。遼太郎は一瞬脚をすくわれた感覚に陥ったが、腹に力を込め踏ん張りながらベランダの窓を開けた。黒猫は前と同じように地上十階のベランダから軽い足取りで落ちていった。遼太郎はその姿を眼で追ったが、黒猫は時空の狭間に吸い込まれるかのように消えていた。

「おい! おまえは誰なんだー!」

 遼太郎は叫ばずにはいられなかった。しかし、その声は空しく虚空へと掻き消された。遼太郎が部屋へ引き返そうとしたそのとき、背中に気配を感じた。振り向くと月影に照らされたミレイの姿があった。彼女はベランダの縁にあの黒猫のように軽やかに立っている。

「ミレイ……」

 ミレイは遼太郎のもとへフワァと舞い降りた。

「君は、あの黒猫なのか?」

 その問いにミレイは遠い視線で遼太郎を見つめ、やがてベッドに滑り込んで隠れてしまった。

 遼太郎は深い溜め息をつき、深慮に浸る。

 ミレイとミコト。そして、黒い猫。見えない糸で繋がっているかもしれないという思考が心の中を駆け巡る。ミコトの親友だったかも知れないミヅキのことも、もしかしたらミレイたちとなんらかの繋がりがあるんじゃないかと思索した。

 ミレイの居場所を奪うのも気が引けたので、遼太郎はフロアにブランケットを轢き、バスタオルを上掛けにしてその晩は眠りについた。

 

 朝、目覚めると自分のベッドの上にミレイの無垢な寝顔があった。部屋に光を取り込もうとカーテンを開くと、窓辺の向こうは、どんよりとした黒い雲が空を覆っていた。その雲はなにもかも呑み込もうとしているかのような重たい雲だった。遼太郎はスマホでその日の天気を調べた。その日の降水確率は、午前中二十パーセント、昼近くになって四十パーセント、午後は九十パーセントであった。

 そして遼太郎は寝ているミレイを起こさぬよう支度し、学校へ登校した。いつもの登校時、ミヅキはいつもと変わらぬ笑顔で接してくる。彼女が独白した親友の出来事が思い出される。彼女を見ていると、心の奥に仕舞い込んでいた辛い記憶を告白し、その思いを打ち消すように彼女はいつも以上に明るく振る舞っているように思えた。

 遼太郎はミレイが側にいない不自然な感覚を覚えた。

 授業中、今にも降り出しそうな空を眺めていたが、胸騒ぎを感じ、道影零の方に視線を送る。彼は鬱蒼とした深い森の奥にいる深淵の主のような佇まいを纏っているように見えたが、その姿はいつもと変わらなかった。

 授業が終わり、さっさと帰り支度をして、昇降口に向う。雨が音を立てて降っているのがわかる。ミヅキが遼太郎の下駄箱の前で待っていた。

「すごく雨降ってるね」

「うん」

 遼太郎は先に歩き始めたがミヅキはその場に留まったままだった。

「どうしたの?」

「傘、忘れちゃって……」

 今日の天気予報だと午後から雨が降ることは間違いなかった。ミヅキが傘をうっかり忘れるような性格ではない。遼太郎はミヅキがわざと傘を忘れたことを察した。

 バス停までの少しの間、白糸に煙る中を二人は寄り添いながら歩いていた。

 静謐なる刻の中、雨音だけが二人を包む。

「私、怖いんです。夢を見ないのが」

「…………」

「自分の実態が存在しないような感じがして……」

「…………」

「ごめんなさい。私なに云っているんだろう」

「なんとなくわかるよ」

 二人が話していると、前方に傘を差さず、ずぶ濡れの姿で誰かが立っているのが見えた。遼太郎は云い知れぬ不安を覚えた。

 雨に濡れて立っていたのは道影零であった。道影零はミヅキの方に視線を送ると、軽くお辞儀をした。

 云い知れぬプレッシャーが遼太郎を襲う。

 道影零が目の前に迫ってきた。そしてミヅキの方に向きこう云った。

「この間は傘、ありがとう」

 ミヅキはキョトンとした表情で「いえ」と言葉を返した。そして「ずぶ濡れじゃない。早く家に帰らないと風邪をひいてしまうわ」と、気遣った。

「この頃、君の夢をよく見るんだ」

 道影零はミヅキの双眸を見据えてそう云い放つとその場を離れていった。

 遼太郎の心神にさざ波が立った。今まで感じたことのない心を揺さぶる衝動。波紋が衝撃波のように広がる。

 ミヅキはどうしてかわからず、俯いたままだった。

 雨に煙る中を一人歩いて行く道影零の姿が夢に見るあの光景と重なった。あの影だけの存在が脳裏をかすめる。

「君はいったい誰なんだ?」

 遼太郎は聞いた。

 道影零は振り返り、そして微笑を滲ませた。

 雨は激しさを増し、刻のしじまを呑み込んでいった。


 重い足取りで自宅へ戻ると、遼太郎はミレイを探した。すると彼女は朝見たときと同じ姿でベッドに横たわっていた。まるで深い眠りについた白雪姫のようにそこに佇んでいる。

「ミレイ!︎」

 彼女を起こそうと声を張り上げた。しかし、ミレイはピクリともしなかった。よく目をこらすと彼女は透き通った発光体のようなほんのりとした光を放っている。

 遼太郎はミレイの隣に寝転び、横顔をじっと見つめた。彼女の掌にそっと手を伸ばしたが、案の定手は空をかすめるに過ぎなかったが、不思議と温もりを感じた。やがて、眠気に襲われ遼太郎はそのまま眠りの世界に落ちていった。

 風が心地よかった。そこは牧歌的な懐かしい風景のように思えた。遼太郎は小高い草原の丘に立ち、天空を眺めていた。青空に星の白い瞬きが見える。東南の方に目を向けると白き月が儚い光を輝かせていた。そこはまるで昼と夜の交差点に立っているような景色が目の前に広がっている。

 地に目を向けると、くさむらにミレイがベッドで寝ているときと同じようにほんのり光を放ち横たわっていた。そしてミレイの寝顔を舐めている黒い猫が一匹見受けられた。遼太郎はそっと近づき、その様子をしげしげ眺めた。黒猫はピクリともせず一心不乱にミレイのかんばせを舐めている。そのとき背中越しに奇妙な気配を感じ振り向いた。そこには主のない影が立っていた。

 遼太郎は感じていた。その主のない影の視線が愛憐あいれんに満ちた視線をミレイと黒猫に差し向けていることを。

 その影がミレイに近寄って行く。その気配に気づいたのか、黒猫はミレイのかんばせを舐めるのをやめ、実体のない影に寄り添った。

 忘却の彼方、遼太郎は在り日しの光景を見ているような既視感を感じた。

 しばらく影はミレイの側に寄り添っていたが、やがて夜の気配が濃くなるとその姿が闇に紛れ、やがて姿を消してしまった。それと共に黒猫の姿 もいつの間にか見えなくなっていた。取り残されたミレイの身体は、朽ち果てた難破船のようにそこに漂っている。

 遼太郎はミレイの身体に手を当て、叫んだ。

「ぼくは、君を失いたくない! 戻ってきてくれー」

 この刻がすべてだった。

 遼太郎の声にミレイの身体が真昼の月から夜の青い月のようにくっきりと姿を現し、ミレイの瞼が開いた。その瞬間、遼太郎は現実の世界に引き戻された。

 遼太郎はぼんやりとした思考からミレイのかんばせを見つめた。すると彼女の瞼は見開いていた。ミレイは遼太郎を無垢な童女のような瞳で見つめ返し、そして微笑んだ。

「ミレイ!」 

 遼太郎はミレイを抱き起こし、そのまま強く抱きしめた。遼太郎の想いに応えるかのように実体のない身体は遼太郎の腕の中に収まっていた。 

 ミレイは遼太郎のかんばせを覗き込むように顔をぐっと近づけた。ミレイの瞳に自分が映り込んでいる。一瞬それは合わせ鏡のように見え、魂が無限鏡に迷い込んだような気がした。

 黒猫を引き連れて去っていった主のない影。ミレイの瞳に映る自分。記憶の深淵に潜むもうひとつの影が重なって見えた。

 不確かな、夢と現の間に自分という存在意義が交差する。

(ぼくはあの影を知っているような気がする)

 夢見の幻影が記憶の奥底を探り当てるようなそんな感覚を覚えた。


 次の日の夕方、ミヅキが遼太郎の部屋に訪ねてきた。遼太郎は部屋へミヅキを招き入れ、紅茶とチョコレートをガラステーブルの上に差し出した。

 リビング兼寝室となっている遼太郎の部屋をミヅキは少し落ち着きのない様子で観察している。前にお邪魔したダイニングキッチンとは違い生活空間が広がっていることに興味を抱いたのだろう。

「ごめんね。急におしかけちゃって。なんか急に逢いたくなっちゃって」

「そうなんだ」

 遼太郎は何気なく返事をしてミレイの方を見、ぽつり呟いた。

「ぼくってどんな存在なんだろう?」

「えっ?」

 ミヅキは虚を突かれたような表情をして、しばらく声を発することが出来ずにいた。

「ごめん。変な質問しちゃって」

「いえ。その、なんて云うか漠然とした質問だったのでどう答えたらいいかわからなくって。でも、自分の存在意義ってふと考えてしまうことって私もあります。大抵の人はあるんじゃないかな」

 遼太郎は右隣にいるミレイの姿をじっと見つめた。それは彼女に自分の存在意義を説いているようにも思えた。すると主のない影が夢の残骸を引き連れ脳内に侵食してくるような感覚を覚えた。その感覚は不安であり、例えようのない恐怖でもあるが、どこか懐かしく、しかも温かい。云い知れぬ感情に耐えられなくなり、遼太郎は涙を零した。

「ぼくはいったい誰なんだ……」

 ミヅキは突然の出来事に戸惑ったが、遼太郎の両手を握りこう云った。

「遼太郎さん。私はここにいます。ずっとあなたの側にいます。だから、だから、泣かないでください」

 ミヅキの姿にミレイの姿が重なって見えた。

「ぼくは君のことを……」

 遼太郎はそう云いかけ言葉を閉じた。

「遼太郎さん……」

「ありがとう。こんなぼくの為に……」

「なにかあったらすぐ私に相談してください。なにも出来ないかもしれないけど、あなたの側にいて話を聞くことは出来るから」

 ミヅキは殊勝に言葉をかけ遼太郎を元気づけた。

「ありがとう。みっともないところを見せちゃったね」

「私でよければなんでも話してください」

 遼太郎は気持ちを落ち着かせる為、紅茶を口に含んだ。静謐な空間に二人の想いが交差する。

 

 ミヅキとミレイの存在が心神の中で交差し、まるで太陽と月が交互に遼太郎の世界に光を充てているようであった。

「それじゃ、私はこれで」

 ミヅキは紅茶を飲み終え席を立とうとした。

「何か用事があったんじゃないの?」

「うんん。ただ顔が見たかっただけ」

「そう、なんだ」

 その間、遼太郎はずっとミコトの視線を感じていた。

「どうしたの?」

 ミヅキが聞いてくる。

「いや、なんでもないんだ」

「それじゃ、また、ね」

「ああ、また」

 手を振ってミヅキは玄関を出て行った。

 そこへミコトが現れた。

『ミヅキ……。うちの大切な友達。ミヅキはうちの大切な友達……』

 ミコトはブツブツ独り言を唱えながらミレイの前に塞がった。

『ミヅキは遼太郎のことが好きなんや。なのにあんたの存在はなんなん?』

 ミレイはキョトンとした顔でミコトを見つめている。

 ミコトは深い溜め息をつき、『ミヅキはうちの大切な友達や。泣かしたらうちが承知せんから』とミレイに迫った。そんな二人の間に遼太郎は割って入った。

「ちょっとまった。さっきからなんでそんなにミレイに突っかかるんだ?」

『それは……。あなたが一番よくわかっているはずやろ』

「ぼくは‥‥」と云いかけたところで遼太郎は逆にミコトに質問をぶつけた。

「ミヅキは君のことを太陽のような存在だと云っていた。ぼくに話してくれないか。君という存在を」

 遼太郎はミコトの瞳の奥を覗き込んだ。彼女は瞳孔の開いた双眸で身を震わせた。そして自分とミヅキとの思い出を語り始めた。

『うちはとっても寂しかったんや……』

 ミコトが小学校を卒業するのを待って両親は離婚した。母親に引き取られたミコトはそれまで生まれ育った京都から、東京にある母方の実家へ引っ越してきた。実家は神社を営んでいた。祖父母はとても優しく、すぐに母の実家には慣れた。が、父のいない寂しさはなかなか拭えなかった。それでも祖父の勧めで年末年始は巫女の格好をして神社の手伝いをするようになっていた。

 地元の中学校に入学してミコトは自分と同じ雰囲気を纏った子を見つけた。ミコトは人見知りで自分をうまく表現できず、自ら積極的に行動しようとはしない奥手な子であった。そんな今までの自分の性格を変えようと、その子に対して明るく振る舞った。その子はまるで鏡越しに映る自分を見ているような気がしてならなかった。だから余計彼女のことが気になった。その子は凛堂美月という名前だった。

 ミコトとミヅキはすぐに親友になった。二人はお互いが自分という存在意義を無意識のうちに問うて、お互いを求めあった。

 あるとき、ミコトがこんなことを呟いた。

「うちの言葉使い変かなぁ?」

「どうしてそんなこと云うの。全然変じゃないよ。ミコトちゃんの京都弁、私だーい好き」

「おおきに」

 ミコトは男子生徒に方言を揶揄われたことをミヅキに打ち明けた。その放課後、あの、おとなしいミヅキがその男子生徒を捕まえて、ミコトの方言を揶揄ったことを謝って欲しいと頼んでいた。が、男子生徒は謝る気もなく、そそくさとその場を去っていった。その一連の行動を見ていたミコトは、去っていく男子生徒に「あほんだらー」と、言い放った。

 二人は顔を見合わせて笑いあった。

 そんなこともあって、二人はお互いを補完するように想い合い、結果、二人の内向的な性格も外に向くようになっていった。

 その年の年末年始ミヅキは巫女の姿を纏ったミコトを憧憬の念で見つめていた。 

「うらやましいなー。ミコトちゃんは」

「うちが?」

「うん。だって京都弁話せるし、巫女さんの格好もできるし」

「そうかなぁ……。そうや、うちがおじいちゃんに頼んであげるぅ。ミヅキも一緒に巫女やろ」

「えっ。私が? 出来るかなぁ」

「うちが付いているから大丈夫や」

 その年の大晦日から元旦にかけ、ミヅキは初々しい巫女の姿でミコトと共に神主の祖父に付き従って手伝いをした。

 そんな折、祖父から二人で初詣をしてきなさいと云われ二人はお賽銭を片手にお参りをした。

「ミヅキ、なにをお願いしたん」

「ミコトちゃんが、幸せになれますように」

「えっ。うちのこと願ったん」

「うん」

「ほんまおおきにやわ」

「ミコトちゃんは?」

「うち? うちはミヅキがいつまでも友達でいてくれますように……」

「決まってるじゃない。私たちいつまでも友達よ。ね?」

「うん」

 ミヅキの言葉にミコトは微笑み返した。

「これあげる」

「え?」

 ミヅキはミコトに自分で引いた大吉のおみくじを渡した。

「おみくじは引いた人に意味があるんよ」

「そっか……」

「でも、ありがたくもろとくね」

「うん」

「ところで、ミヅキは好きな人おるん?」

「えっ。なんで急に……」

「ミコトちゃんは好きな人いるの?」

「うち。うちは……」

「うちは、って、好きな人いるんだ。いったい誰?」

「どうせ叶わぬ恋や。このままそっと胸に閉まっておくんや」

 そう云ったミコトの横顔を見たミヅキは「ミコトちゃんには私がいるじゃない」とミコトを元気づけた。

「うん。そうやね」

 そして二人は笑い合った。

 父のいない寂しさがたまにミコトに影を落とすが、ミヅキの笑顔がそれを振り払ってくれた。二人にとってはお互いの存在がすべてだった。そう、このときはずっとその瞬間が続くものだと思っていた。

 

 それは二人が中学を卒業し、春休みの出来事であった。白糸の雨の中、二人は傘を差し帰路に着く途中のことだった。

「最近変なのよ。夢を見た記憶がまったくないんよ」

「夢を見ないの?」

「うん。前はよく見ていたんやけど、最近みいへんなーと思うて」

「深い眠りだと夢を見たことを覚えたないって聞いたことがあるけど、ぐっすり眠っているってことじゃないかな」

「そっか。そうだよね」

 その言葉と裏腹にミコトは陰鬱な表情を見せた。

「どうしたの? なにか不安なことでもあるの?」

「夢ってなんやろなーって、ふと思うて」

「うん。確かに不思議だよね」

「なんやろ、真っ黒な闇に囚われているような不思議な感覚に落ちるんよ」

「そんなときは、寝る前に楽しいことを考えればいいんだよ」

 ミヅキはミコトを元気づけた。

 それから一週間したある日、ミコトに突然悲劇が舞い降りた。自転車で買い物を終えたミコトが曲がり角に差し掛かったときだった。車が突然、ミコトの視界に入ったかと思うと漆黒の闇が、ミコトを覆い尽くした。

『そしてうちの命の灯火は燃え尽きてもうた』

 そう言葉にしたミコトの視線は深淵の深い闇に囚われたように固まっていた。そして一言ミコトはミレイを睨んでこう言い放った。

『ミヅキはうちのかけがえのない存在なんや。だから……』

 そう云いかけてミコトは遼太郎の方をちらっと見てミレイに対し指をさしてこう云った。

『だから、ミヅキを泣かしたら、うち承知せんから』

 ミレイは微動だにせず、他人事のようにミコトの言動を受け流した。

『あんた、感情があらへんの?』

 そしてミコトは遼太郎にまた視線を合わせ、何か云いたげな素振りをしたかと思うと霧が晴れるかのように消えって行ってしまった。

 ミコトの想いは感じ取っていた。ミレイという存在とミヅキという存在に挟まれ彷徨い続けていた。それは好きという感情とは別に魂がより深淵なる事象を求めているように感じた。

 夜のしじまが訪れた。ミレイはベランダに降り立ち物憂げな表情で夜風にあたっていた。遼太郎は言葉が見つからず黙ってミレイの側にそっと佇み、感じ取ることが出来ないミレイの手握りしめた。

 


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