日常に潜む不確定要素

 一学期の終業式が終わり、夏休みに入った。

 カーテン越しに暑い日差しが部屋に射す。夏休みという気の緩みから遼太郎が目を覚ましたのは午前十一時を回っていた頃だった。寝ぼけ眼を擦りながら、洗面台に立ち顔を洗う。

 小腹が空いたのでバターを塗ったトーストを頬張りながら、牛乳をコップに注ぎ、喉を鳴らし飲み込んだ。そのときだったスマホの着信音が鳴り響いた。画面を覗き込むとミヅキからの着信だった。

「おはようございます。あの……、サンドイッチ作ったので一緒に食べませんか?」

「りょうちん家行ってもいいかな? いいよね」

「ちょっと、だめ。もう、私のスマホ返してよ」

「今から行くから楽しみにしといてねー」

 電話の向こう側から聞こえる声は、ミヅキと菜実ともう一人結衣のものであった。

「あのー。すみません菜実と結衣ちゃんが勝手に話を進めちゃって……」

「ちょうどお腹が空いていたところなんだ」と、体裁を繕うかのように遼太郎は返事をした。そして通学路に使うバス亭の向かい側にあるコンビニまで迎えに行くことになり電話を切った。

 時計を見ると、時計の針はもう十一時三十分をちょっと回っていた。遼太郎は慌てて着替え、普段、遠乗りする為の自転車にまたがり、待ち合わせ場所のコンビニまで向かった。自転車を走らせていると、この間会った妙な少女が遼太郎の行く手を大の字になって遮っていた。 遼太郎は自転車を止め「そこを退いてくれ」と云った。

「奇遇やね」

 云うことを聞かない彼女に対して憮然とした表情で遼太郎は睨みつけた。

「そんな睨まんといてーな」

 彼女のことを無視し、自転車を走らせようとしたその刹那、彼女は自転車の前にいきなり飛び出して来た。そして、その光景は目を疑うような事象だった。自転車の前輪は彼女の身体をすり抜けてしまっていたのである。

「君は? いったい……」

 巫女の格好をした少女は驚きを隠せない遼太郎を尻目にこう云った。

『うちが知りたいのは、後ろにいる子や、いったい誰なん?』

「えっ!」

 遼太郎は驚いて思わず声を上げてしまった。

「君は……。その、ミレイと同じ幽霊なのか?」

『うちが幽霊? ハハハハハー』

「君はいったい誰なんだ?」

『誰って……。そう云えばうちは誰やろ?』

(何を云っているんだこの子は……)

『ただ……』

 巫女の格好をした少女は間を溜めてこう云った。

『うちは知りたいんや。君のことも、後ろにいる少女のことも』

「どういう意味なんだ。それは」

『うちはただ自分の夢を取り戻したいだけなんや』

「答えになっていないじゃないか。いったい何が云いたいんだ?」

 遼太郎は腕時計で時間を確かめると、待ち合わせの時間が押し迫っていた。遼太郎は、この変な状況を振り払うように自転車を走らせた。

『あんたならなんか知ってはるやろ』

 巫女の格好をした少女が後ろから叫んでいた。もちろんその声は周りの人には聞こえない。

 コンビニに着くとミヅキはサンドイッチの入ったバスケットを持ち、菜実はコンビニの袋を抱えていた。

「さー、これで準備は万端」

 そう云って結衣はペットボトルの入ったビニール袋を遼太郎の自転車の籠に入れた。

「ちょっと、遼太郎さんに断りもなく勝手に荷物を籠に入れてー」

 ミヅキが結衣の勝手の振る舞いに叱咤した。

「別にいいよね」 

 そう云って結衣は懇願するような視線で遼太郎を見つめた。

「うん。別にいいけど。どうせぼくが持つことになるんだし」

「わかっているじゃん」

「もう、そういう問題じゃないの」

 ミヅキそう云って結衣の言動をたしなめた。

「はい。はい」

 結衣は相変わらず軽い調子で返事をする。

 二人の諍いをよそに遼太郎は背後に二つの気配を感じていた。一人はミレイ。もう一人は巫女の姿をした少女であった。彼女は遼太郎のあとを付いてきたのだ。

 遼太郎が心ここに在らずといった表情をしていたので、ミヅキは「どうかしたんですか?」と聞いてきた。

 遼太郎は「いや、別になんでもないんだ」と、平静を装った。

「ああんもー。早くりょうちん家、行こうよ」と、菜実が急かす。

 遼太郎は自転車を押しながらもと来た道に踵を返すと、家へ向かって歩き始めた。ミヅキたち三人のおしゃべりをよそに遼太郎はもう一人の幽霊少女の存在が気になって仕方なかった。

 一行は遼太郎のマンション向かいまで到達した。

「へー。これがりょうちんの住むマンションかー」

 菜実がマンションを見上げ感嘆していると結衣が「ほげ〜。ここに住んでいるのか羨ましいなぁ」と云ってしばらくマンションを見上げていた。

 とりあえず三人を部屋に上げ、ダイニングキッチンに通した。二人は並んで椅子に腰掛け部屋を隅々まで見回していた。遼太郎がインスタントコーヒーと茶菓子を用意すると、菜実がコンビニの袋からお菓子とペットボトルのオレンジジュースを出し「お構いなくー」と得意満面な笑みで云った。

「それにしても羨ましいー。こんなところに一人で暮らしているなんて」

 菜実はモデルルームのようなリビングキッチンを隅々見回して云った。

 遼太郎はミヅキの隣の椅子に深く腰掛けた。

「いいなぁー。私、りょうちんと一緒に暮そうかな」

 結衣は親しげに菜実と同じくりょうちんと呼ぶと、両手を組みお願いするようなポーズで得意の可愛子ぶって懇願するような視線を遼太郎に送った。

「ああん。もうー。ミヅキが今にも気絶寸前に固まってしまったじゃない。ミヅキもお地蔵さんみたいに固まっていないで何か云い返しなさいよ。遼太郎さんは私のモノですとか」

「りょうちんはモノじゃないよ。一人の人間として見なくちゃ」

 菜実の言葉に対して結衣はぼそっと呟いた。

「そんな揚げ足取らないの」

「私は……。私の想いはずっと変わらないから」

 ミヅキの真剣な面持ちに結衣は「もうー。冗談だってばー」と、おちゃらけてみせた。

 遼太郎は自身のことで話している三人を尻目に巫女の少女のことが気になっていた。

『なんか周りが騒がしいけど、そんなこと叶わへん。あんたいったい誰やの』

 巫女の少女が腕組みをしながらミレイに向かって威圧的な態度をとっていた。

(誰って……。誰かもわからずにあの高圧的な態度はなんなんだ)

 遼太郎は巫女の少女の存在に気が気でならなかった。

「あの、これ。よかったら食べてください」

 不意に声を掛けられた遼太郎はミヅキの声に現実を切り替えられて、しばしミヅキをじっと見つめた。

「もう〜、りょうちんたらミヅキに熱い視線を送って、奥手だと思っていたら、なかなかやるじゃない。ちなみに送ってと奥手は洒落だかんね」

 菜実がニタニタしながら二人を見て冗談めかした。

 遼太郎はフゥーと軽い溜息をついた。

「もう、変なちゃちゃ入れると菜実にはあげないよ」

「そうだ。そうだ」

 結衣がミヅキに同調すると、菜実は「おまえが云うな」とつっこみを入れた。

 ミヅキがテーブルの上にバスケットを置き、それを開くと中にはぎっしりと詰まったサンドイッチが並んでいた。ハムと卵。レタス、トマトをチーズで挟んだ物などや、ヒレカツサンドなど、どれも見た目からして美味しそうな品々であった。

「うわー。美味しそう〜。特に太めのチェダーチーズがいかしてるわ」

 菜実は自分が買ってきたコンビニのお菓子に目もくれず、ミヅキの作ってきたサンドイッチに目が釘付けである。

「ちょっと、わたくしが味見おば」

 そう云って手を伸ばそうとする結衣に菜実も「私の方が先よ!」と応戦する。そんな二人の光景を見ていたミヅキは「ちょっと二人共いい加減にして」と間に入った。

「もう、二人共お行儀が悪いんだから。遼太郎さん引いてるわよ」

「うん? そう? いつもと変わらないポーカーフェイスだけど」

 菜実はサンドイッチを口に含み、もぐもぐしながら云った。

「あの、遼太郎さん。いっぱいあるから遠慮しないで食べてね」

ミヅキは遼太郎がこれ以上いじられないように次の行動を促した。

 「これもどうぞ」と菜実はコンビニで買って来たスナック菓子の袋を開け、結衣は遼太郎が運んで来たペットボトルのオレンジジュースをどかっと置いた。遼太郎は四人分のコップを用意した。

「さっ。落ち着いて食べましょうか」

 ミヅキが号令を出し、改めて各々がサンドイッチに手を伸ばした。

「うん。美味しいー。さすが私が見込んだだけのことはあるわ」

 菜実がサンドイッチを頬張りながら、なぜか上から目線で感想を述べる。

「ありがとう。フフフ」

 謙虚に答えるミヅキ。

 結衣はいつものキャラらしくなく一言も発せず、ただ、ひたすらにサンドイッチを頬張っていた。

 遼太郎はマイペースにヒレカツサンドをかじっている。

「遼太郎さん。どうですか」

「ほんと美味しいよ」

 朴訥な話し方だが心がこもっていた。

 ミヅキたち女子三人はとりとめのない話題で盛り上がり、遼太郎はその話に耳を傾けたいた。そんなとき巫女の少女はミレイに対してさらに質問を浴びせていた。

『あなたは、なぜこの世界にいるん?』

 巫女の少女の言葉に、ミレイは物珍しい動物を見るように巫女の少女の瞳を覗き込んだ。

『な、なに? うちの云っている意味わかる?』

 まるで巫女の少女の言葉が彼女をすり抜けるようたように、ミレイは小首を傾げるばかりであった。

『拉致があかんわ。あんた、うちの話、聞こえているん?』

 ミレイの瞳はまるで童女のように見つめ返してくる。

 巫女の少女の言葉は三人には聞こえない。この空間は、まるで遼太郎を境界線として現実と虚構の世界が混ざり合っているかのようであった。

「どうしたんですか? あまり美味しくないんでしょうか?」

 ファンタジーな世界の住人である二人のことに気を取られていたらミヅキが心配そうな目つきで伺ってきた。遼太郎は咄嗟にサンドイッチを口いっぱいに頬張り喉につまらせそうになる。それを見たミヅキは自分のオレンジジュースを差し出した。遼太郎は口の中のものを咀嚼して、ミヅキから渡されたオレンジジュースを飲み干した。

「ふぅー」

 一息ついた遼太郎に菜実が一言。

「あっ。間接キスだ」

 その言葉にミヅキは顔を赤らめ、ちらり遼太郎に視線をやった。

 遼太郎も気まずい素振りを見せ、次のサンドイッチに手をつけた。

 ミレイと巫女の少女の不安定な磁場の領域はひとまず置いといて、遼太郎はミヅキたちと何気ない食卓を囲んだ。菜実と結衣が勝手に話を進め、ミヅキがそれに答える。遼太郎はその様子をときには相槌を打ちながら聞いていた。そんなとき遼太郎はふとなにかの視線を感じた。視線の先に目をやったがその先は穏やかな青空が広がっているだけだった。と、そのとき窓越しに見えるベランダの縁に黒い影が見えたような気がした。遼太郎は伸びをするような仕草をしながら窓際に立ち黒い影のようなものを確かめた。すると、その影のようなものはあの黒猫だった。幻影でも見ているかのようにその物体を注視していると、その黒猫はニヤっと、笑った。いや、そう見えた気がしたのかもしれない。そして、その黒猫はそのままベランダらか何気ない仕草で飛び降りた。

(まただ。ここはマンションの最上階だぞ。いったいどうなっているんだ)

 この間、夜に見た光景とは違い、昼間のはっきり見える物体の驚愕の行動を目にし、この世のモノではないかのように畏怖した。

 遼太郎は総毛立ち、黒猫が居たその場所から視線を外せないでいた。

「どうしたんですか?」

 ミヅキが聞いてくる。

「ちょっと、外の空気を吸ってくる」

 そう云って遼太郎は南側に位置する窓に近づきベランダに出た。周りに高い建物がないので、市内が見渡せる。遼太郎は不安な浮遊感と暑さで眩暈を起こしそうになった。

 真昼の夢でも見ているかのように黒猫の幻影がフラッシュバックする。

『漆黒の空が、うちに覆い被さってくるんよ。いやー。うちの夢、返してー』

 突然、巫女の少女の叫び声が聞こえた。彼女は遼太郎が見ていたベランダの方を注視して怯えた表情をしている。

(あの黒猫を見たのか。しかし、あの怯えようはなんなんだ)

 そして遼太郎はミレイのいないことに気づく。遼太郎は思わず「ミレイ」と声に出して呼んでしまった。

「ミレイって誰ですか?」

 うしろから菜実の声がした。

「あっ、いや……。実は、野良猫が懐いちゃって、仕方なくうちに連れて来ちゃったんだ。姿が見当たらないものだからどうしたんだろうと思ってね」

「それじゃ、一緒に探しましょう」

 ミヅキが云った。

「いや、いいんだ。もともと野良猫だったし、自分で勝手にどっかに行ったのかもしれない」

「でも、ここ、マンションの十階ですよね?」

 ミヅキがそう呟き、心配そうに辺りを伺っている。

「きっと他の誰かに付いていっちゃったんだろう。多分もともとが飼い猫だったのかもしれない。だから他の人に付いていってもおかしくはないと思う」

 ミヅキは遼太郎の咄嗟のいい訳に納得したようだった。こんないい子を騙していることに心が少し痛んだ。

「ここ、ペット飼えるんだ。羨ましいなー。うちの社宅じゃ無理だから。こんな部屋で、しかも一人暮らしでペットも飼えるなんて、私もりょうちんの部屋に住もうかしら」

 菜実の言葉にミヅキが硬直し、目が点になった。

「さっき私を叱咤しといて、菜実は私と同レベルじゃないの。ねぇ、ミヅキ。目が点になるなっているけど大丈夫?」

 結衣はミヅキの定まらない視線に手をかざして振ってみせた。そして、白々とした目つきで菜実を見据えた。

「冗談だって。友達の彼氏を取るほど私はあくどくないって」

 そう云って菜実は無邪気に笑った。

 菜実と結衣のおちゃらけた会話によって場の空気は和んでいたが、遼太郎の頭の中はミレイと巫女の少女、そして黒猫の存在が混沌の闇のように渦巻いていた。

「それじゃー。どうもご馳走さまでした」

「いえ、こちらこそご馳走さま。ほんと美味しかったよ」

「そう云っていただけるとほんと嬉しいです」

 ミヅキはそう云って破顔すると持ってきたバスケットにお菓子のゴミを入れようとした。

「いいよ。そこまでしなくても。ぼくが捨てるから」

「あっ、ありがとう」

「ご馳走さま。それじゃー、帰りますか」

 菜実が伸びをしながら云った。

 三人に対してここは送るべきかと思案しているとき、菜実と結衣が玄関に向かっていくと、そのあとを慌ててミヅキが一礼して菜実たちのあとを追いかけて行った。

 静まる空気。今までとは打って変わって静寂が支配しているかのような空間。しかし、それはいつもの遼太郎の部屋となんら変わりはない。遼太郎は心の不安を払拭しようと慌ててミレイを探したが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。釈然としないまま寝室兼リビングに戻るとベランダに人影が見えた。

「ここにいたのか」

 遼太郎は安堵の気持ちが湧いてくるのを抑えきれずミレイの隣に立った。

「どこへ行っていたんだ? 心配したんだぞ」

 ミレイは空を指差し微笑んだ。

 ベランダから部屋へ戻ると、巫女の少女が床に横たわっていた。

『うちの夢を返してー』 

 彼女がぼそり呟いた。

「寝言か? 夢を返してっていったいどういう意味なんだ」

 空を見上げていたミレイはいつの間にか遼太郎の隣におり、巫女の少女の寝顔を興味深そうに覗き込んでいる。

 二つの非日常的存在に翻弄されながら現実と非現実の境界線にいる自分が今ここにいることがさっきまでの自分とまるで別の事象であるような気がしてならなかった。

 

 その晩は蒸し暑く、エアコンの風にあたりながら、いつの間にか眠りの世界に落ちて行った。

 黄昏時、友達と鬼ごっこをしている。それを俯瞰的な眼差しで見ている自分がいる。いつしか日が暮れ、刹那の群青が辺りを覆い尽くすとき、一人また一人と友達が帰っていく。泣いているひとつの影。その影に寄り添うもうひとつの影。遼太郎は手を伸ばし、その影に何か言葉をかけようとするのだが、口をぱくぱくさせているだけで何を云っているのかさっぱりわからない。しかし、よく見ると、もうひとつの影は鏡に映った自分であった。鏡に映ったもうひとつの影が何か云おうとしたとき夢から覚めてしまった。

「夢か……」

 久々に夢(のようなもの)を見た気がした。しかし、その夢は今まで見ていた夢とはなんとなく感覚が違うような気がした。

 まだ覚醒しきっていない脳で辺りを見回すと、巫女の少女の姿はなく、代わりにミレイがその場所に目を閉じ横たわっていた。

 シーリングライトの灯りは付けっぱなしで、カーテンの隙間から朝の光が溢れていた。遼太郎は灯りを消し、カーテンを開いた。夏のじめっとした空気が肌に絡みつきバスタオルで汗を拭いた。

 時間指定で消えていたエアコンを入れ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して来て一気に喉に流し込む。

「ふぅー」

 何気なしにスマホの通信・メールアプリをチェックしたが、ミヅキからのメッセージはなかった。ミレイは横になって目を閉じている。生きているのと変わりないような寝姿を繁々眺めていると、ふと透き通った肌に思わず手が伸びてしまった。生と死の境界線を跨いで人差し指で軽く触れるも、触れた感覚はやはりなかったが、なんとなく温もりみたいなものが感じられた。

「はーぁー」

 遼太郎は深い溜息をついた。

 ミヅキと過ごす現実世界は充実している。しかし、ミレイと云う存在が現実と虚構の狭間で揺れる一艘の船のようにどちらの港へ向かうべきか迷っている自分がいた。

 

 次の日はゆったりとした微睡みに時間を預け、一日中ノートパソコンで音楽(今流行りのJ-POP)を垂れ流していた。ノートパソコンに繋がれている外付けのスピーカーからは程よい音量の音楽が流れ、ゆったりとした波の繰り返しのように空間を演出していた。

 夕暮れどきになり遼太郎は涼みがてら散歩に出た。真昼の暑さも残っているが風が幾分の涼しさを運んできてくれた。ひぐらしの音色がなんとも寂しく感じられ遼太郎はふと足を止めた。何気ない薄暮の景色なのになぜか胸が締め付けられる。そして後ろから自分にピタリと付いてくる影をじっと見つめ、無くした思い出が揺らめき、切なさを誘った。

 部屋に戻ると、どこかへ消えていた巫女の少女が、ぼーと佇んでいた。

『うちの夢を返して』

 彼女はそう云って遼太郎に詰め寄った。遼太郎が怪訝そうな表情を浮かべていると、彼女はこう云った。

『夢が見られるようになったら、何か思い出せると思うねん』

 巫女の少女は真剣に訴えかける。

「思い出せるって、何を思い出せるんだ?」

『ようわからへん。何となくや。何となくそう感じるんや。うちの中に眠っている“何か”がきっと思い出せる』

「だから、その何かってなんなんだよ」

『うちは、ただそう感じるんだけなんよ。……うちにもようわからへん』

「何を云っているのかさっぱわからない」

『うち、寂しい』

 彼女は憂いを帯びた表情を受けべ、窓の外に視線を浮かべた。ひぐらしの鳴き声が哀愁を誘い、群青色に染まる空が郷愁を誘った。そして彼女の視線の先には星が煌々と輝いていた。

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