ありふれた日常と数学の世界

 期末試験まで後一ヶ月切ったある日のことだった。教室にミヅキと菜実がお昼を誘う為に遼太郎を呼ぼうとしていた。ちょうどそのとき赤井先生がその場に割って入った。

「上条くん」

「はい」

「今度の期末テストで赤点とったら夏休み補習だから覚悟しておいてね」

「…………」

「わかった?」

 遼太郎は黙って頷くしかなかった。

 赤井先生が去ったあと、遼太郎は二人に話を聞かれ少し気まずい雰囲気になった。意味ありげな含み笑いをした菜実が遼太郎をお昼に誘う。三人は中庭の脇にある木陰へと移動した。そこにあるベンチにはすでに女子生徒一人が座っていた。

「こんにちは」

 その女子生徒が遼太郎に向かって挨拶をした。

「結衣。場所取りご苦労さん」

 そう云って菜実が手を振る。

「今日は暑いわね」

「ほんともう、喉、カラカラ」

「紹介するねこちら横山結衣ちゃん」

 ミヅキが彼女の方へ手を差し出して紹介する。

 彼女は身長が百六十七センチほどで、すらっとしたスレンダーな体躯をしていた。肩甲骨の位置にあるほどのロングヘアーを白いシュシュで纏めており、美人だが一見近寄り難そうな顔貌をしていた。

 遼太郎は「こんにちは」と軽く頭を下げた。

「へー、こちらがミヅキの彼氏?」

「いや、彼氏っていうか、なんていうか……。私の大切な人かな」

「何それー。まるで白馬に乗った王子様みたいな云いかたしてー。なんだかムカつくわ」

「いや、あの、その」

 結衣の言葉にどう対応していいかわからずミヅキは口籠ってしまった。

「結衣はね、ちょー奥手のミヅキに彼氏が出来たってことを全然信用しなくて、だからこうして直接会ってもらうことにしたの」

 なぜか得意満面な表情で説明する菜実。

 ミヅキが耳まで紅色させて俯いていると、結衣は「大切な人、なんだもんね」と揶揄うように云った。

 そしてミヅキを挟んで菜実と結衣がベンチに座り、遼太郎は芝生の上へ腰掛けた。その遼太郎に対し結衣は顔をぐいっと近づけて睨め付けた。彼女に対抗してミレイが強い眼差しで彼女と対峙する。その様子を見て遼太郎はミレイという存在が改めてファンタジーな存在であることを認識した。

「まぁー、顔は合格ね。で、性格は?」

 結衣は評論家のように上から目線で云った。

「うーん。性格ね……」

 菜実は腕組みをしたかと思うと小難しい顔をしてこう云った。

「一言で云えば、根暗かな」

 菜実の発言に対し、ミヅキはムッとした表情で頬を膨らませた。

「かわいい。ミヅキちゃんたらフグみたいに頬を膨らませちゃって」

 そう云って結衣はミヅキの頬をツンツンする。

「でも、ミヅキちゃんを不良共からやっつけたヒーローだし。ほんとミヅキちゃんにとっては大切な人なんだよね」

(やっつけたというより、一方的にやられたんだが……)

 遼太郎は気恥ずかしく感じられ、下を向いてしまった。

「そう、ミヅキにとってはすごく大切な人何だよね。私たちもそう云う人に巡り会いたいよねー」

 菜実が後頭部に手を組んで少し冷やかしムードで云った。

「ほんと羨ましいわ」

 結衣も賛同する。

「みんな、お昼食べましょうよ」

 ミヅキが気恥ずかしさを紛らわす為、お弁当を広げた。

「はい、これ」

 皆が弁当を広げるなか遼太郎がタッパーを三人に差し出した。

「えっ? なにこれ」

 菜実が双眸を見開いて驚きの表情を作った。

「いつも、もらってばかりだから、ほんの気持ち」

 差し出されたタッパーをミヅキが開けると、そこには鳥の唐揚げとキンピラ。そして茹でたアスパラガスに胡麻ドレッシングが掛かっているおかずが入っていた。

「これ、もしかしたら手作り?」

 菜実が聞いた。

「うん。自分はいいから三人で食べて」

 そう云うと遼太郎は自分で握ったツナをマヨネーズと佃煮の海苔を和えて具にしたおにぎりを頬張った。

「ありがとう」

「へー、凄い女子力」

 結衣が意外そうに遼太郎のことを見た。

「遼太郎さんは一人暮らしをしているの」

「一人暮らし?」

 またも結衣は驚きに満ちた表情で、感情を表に出さない遼太郎に意外なまでに関心を示した。

「なんでまた?」

 遼太郎はしばしの沈黙のあとこう答えた。

「なんとなく」

「なんとなくで、一人暮らしをしてるのー。なんかすごく気に入ったわ。あなたに俄然興味が湧いてきた」

 その結衣の言葉にミヅキは目を見開いて表情が能面のように固まってしまった。

「こら、結衣。ミヅキが固まってしまったじゃないの」

「固まってしまったらしょうがない。遼太郎くん、もっと話をしましょ」

 結衣はまるで猫が鼠を弄ぶかのように不敵な笑みを漏らした。

「結衣、ミヅキが困っているじゃないの。いい加減に揶揄うのはやめたら」

「だってなんか羨ましいんだもの」

「羨ましいって、あなた彼氏いるじゃない」

「うーん。なんて云うのかな。この二人を見ていると、ドラマチックで何ものにも変えられない真っ直ぐで純粋な想いがすっごく羨ましい」

「結衣も純粋に彼のこと好きなんじゃないの?」

「最初はそう思っていたんだけど、今はなんか違う気がする」

「それって、もしかして倦怠期なんじゃないの?」

 菜実の言葉に結衣は反論をせず、黙ったままだった。

「でも、確かに羨ましい。ミヅキの純粋さが」

 菜実はコンビニで買ってきたサンドイッチを頬張りながら云った。

「私は別に、そんなみんなが思っているほど純粋じゃないよ」

「へー。どう云うところが純粋じゃないって云うの?」

 菜実が続ける。

「人を羨んだり、嫉妬したりすることだってあるもん」

「普通誰だってあるよ」

 結衣が口を挟んだ。

「でもなんとなくわかるんだミヅキは純粋だって。そう思うでしょ、りょうちん」

 菜実が遼太郎に問いかけた。その問いに遼太郎は静かに頷いた。

 ミヅキは心なしか嬉しそうに顔を綻ばせた。

 そしてしばらく菜実と結衣を中心に会話が進められていると、遼太郎は上の空でそれらを聞き流し、自分にとってミヅキという子はどういう存在なんだろうと改めて考えていた。

「そういえば立ち聞きするつもりはなかったんだけど、期末テストで赤点とったら夏休み補習だって?」

 菜実が遼太郎にさっきの先生とのやり取りを聞くと、遼太郎は黙って頷く。

「赤点なんだ。大変だね。なんなら私が教えてあげようか?」

「何云ってるのさ。まだ赤点だって決まっていないし、結衣だってそんなに勉強は得意じゃないだろ。そんな事より、勉強を教えるにあたって最適な人がすぐ側にいるでしょ。ね、ミヅキ」

「へっ?」

「へっ? じゃないでしょ。この子、学年でいつもトップを争うほどの実力なんだから」

 菜実はまるで自分のことのように得意げに話した。

「私は別にそんな……」

「そんなってなに? 謙遜しちゃって」 

 菜実の言葉にミヅキは顔を赤らめ下を向いてしまった。

「そんじゃ、決まりね」

 菜実は強引に話をまとめ、ミヅキは遼太郎に勉強を教えることとなった。

 昼休みを終え、教室に戻る途中、ミヅキは遼太郎に「あの、菜実が勝手なことを云っちゃって迷惑じゃなかったでしょうか?」

「いや、ありがたいと思うよ。ほんとに」

「ほんとうですか。じゃー、一緒に頑張りましょう」

 そう云ってミヅキは内に秘めた闘志を燃やした。

 その日の帰路の途中、バスの中でミヅキはできる限り放課後、図書室で遼太郎に勉強を教えることを約束した。

 家に帰宅した遼太郎はパソコンが置いてある机に向かい沈思黙考した。両親に一人暮らしをしたいと嘆願し、我儘を云ったのだから、成績が悪く、補習など受けていることがばれれば立つ瀬無いことになりかねない。遼太郎は教科書をパラパラめくり自分の置かれている状況に気力を見出すしかなかった。


 次の日の放課後、遼太郎が図書室に向かうとすでにミヅキは窓際の角の席に座って待っていた。遼太郎の姿を見つけたミヅキは軽く微笑み、手招きした。

 席に着いた遼太郎はやる気に満ちたミヅキの表情に気圧されたが自分の為に勉強を教えてくれることを思い改めて気持ちを切り替えた。

「それじゃ、始めましょうか」

 ミヅキは参考書に目をやって云った。

「うーんと、遼太郎さんは苦手な科目ある?」

 しばしの沈黙のあと、遼太郎は「数学が苦手かな」と答えた。

「そう、なんだ」

 ミヅキは一呼吸置いて、何か小難しい顔をしたあと、何かを吹っ切るみたいに笑顔を作り、一言こう云った。

「数学の赤井先生が担任なんだよね。羨ましいなぁ」

「なんならクラス変えようか?」

 遼太郎の冗談ともとれる一言にミヅキは戸惑いを隠せなかったが、ミヅキは微かな微笑を浮かべ「赤井先生はほんといい教師だよ」と付け加えた。

 遼太郎は自身の云った冗談ともとれない言葉に少し恥ずかしさを覚えた。

 ミヅキは参考書をパラパラめくり遠い視線を落とし語り始めた。

「前の私は数学に対してただ公式を覚えて、それに数を当て嵌めれば答えが出るからそれでいいと思っていた。確かにテストの点は取れたし、日常的に計算が出来ればそれで困らなかった。だから、なんの為に数学を勉強するのか、数学を学ぶ本質が全くわかっていなかった。そんなとき赤井先生の授業を受けて目から鱗が落ちたような衝撃を受けた。数学って、私が思うに森羅万象の理を表記した言葉のような気がするの」

 遼太郎は情熱的で饒舌に語るミヅキに圧倒されながらもミヅキの内から溢れている生命力に羨ましさを感じた。

 ふと遼太郎はミレイの横顔を見ると寂しげな表情を浮かべているのが気になった。

 ミヅキは弁舌のたつコメンテーターみたいに話を続けた。

「それまで私は勉強って、ただ暗記していい点取れば、それでいいんじゃないかと思うところもあった。もちろん読解力も必要だし、国語や、社会とかは暗記するにしても意味がわかるからまだ身になっていた。けど数学は違った。ただ数式を暗記して答えを導き出すだけでは数学のほんとう意味を理解できていないってことに気づいたのよ。赤井先生のおかげで」

 遼太郎にとってミヅキはまるで地表に降り注ぐ太陽の光みたいに眩しかった。

「ごめんなさい。勉強を教えるつもりが前置きが長くなってしまって……」

「いや、いいんだ。話したいことがあったらもっと話して。僕でよかったらいつでも聞くよ」

「ありがとう。それじゃ、始めましょっか」

 そう云うと彼女は中学の数学の参考書を開いた。

「ほんとうはある程度試験に出る所を山を張って丸暗記した方が早いんだけど、数学を好きになってもらいたいから、基礎的なことから数学の雑学なども交えて教えていくね。まだ期末試験まで二十八日あるからなんとか大丈夫だと思う」

 ミヅキの指導のもと二人は黙々と机に向かった。ミヅキは一次方程式、二次方程式を丁寧に教えていく。

「数の軌跡を視覚的に表した座標はデカルトが考案したの」

 時々、数学に雑学を交え、生き生きとした表情を見せる。そのことが遼太郎にも伝わり、真面目に頑張ろうという気力が湧いてきた。

「数学は数と記号の羅列だからその意味を理解しないことにはさっぱりわからなくなってしまうの。だから意味を見出さないと」

「意味?」

「そう、数学の発展は生活する上で必要だから発展してきたのよ。ただの丸暗記だと意味がわからなくてつまらないじゃない」

(自分にとって生きる意味とは何だろう。それに対し答えがあるのか。それともやはり自分で探し出さなくてはならないものなのか)

 遼太郎はふとそんなことを考えた。

「ねー、知っている? ゼロの概念が定義され数字として使うようになったのはインドでなんだって。本場のスパシスの効いたインドカレーを食べたときみたいな衝撃だよね」

 遼太郎はなんて言葉を返したらよいかわからず、その場に固まってしまっていると、ミヅキは例えがうまくいかなかったと思い俯いてしまった。すかさず遼太郎は「へー、そうなんだ。あたりまえに使っている数もそう云う歴史の上で成り立っているんだね」と関心を示した。

「そうなのよ。ゼロという数字を取り入れたことで飛躍的に数の概念が発達したのよ」

 遼太郎が食いついてきたことでミヅキは興奮しきったように云った。

 遼太郎はふと彼女の顔をじっくりと見つめた。こうしていると不思議と生きている実感が湧く。それはミレイに感じたものとは少し違ったが同じように雲間から降り注ぐ光の筋のようにも思えた。

 それから二人は静謐な図書室で黙々と机に向かった。

「今日はこれくらいにしましょうか」

 ミヅキは参考書を閉じ、椅子の背にもたれかかりながら背伸びをした。

「ほんと助かるよ。ありがとう」

「いいの。遼太郎さんの役に立つなら。それに一緒に勉強するの楽しいし」

「これからも、よろしくお願いします」

 遼太郎は改めて感謝の意を込めて頭を下げた。

「はい」 

 そう返事した彼女の屈託のない笑顔は透明な湖のようで、そのまま、どこまでも沈んでしまいそうな錯覚を覚えた。

 

 家に帰宅すると遼太郎は晩御飯を食べ、風呂に入ったあとダイニングキッチンで普段食事をしているテーブルに向かった。(ここは普段、食事をする以外使うことのない部屋である)今日のミヅキに教えてもらった箇所を復習する為、カバンからノートを取り出した。辺りは静かだった。マンションの部屋も十階にある為、車の騒音もほとんど聞こえない。遼太郎はこんなにも静かな場所だったのかと改めて感じた。

 遼太郎はインスタントコーヒーに沸かした牛乳を注ぎ、一口飲んで椅子にもたれかかった。目を瞑るとミヅキの生き生きとした表情が浮かんでくる。そんな遼太郎の姿を無垢な瞳で見つめるミレイがいた。

 小一時間、ミヅキから借りた参考書と向き合ったあと、遼太郎は歯を磨き、ベッドに潜り込んだ。そしてそのまま眠りについた。

 スマホのアラームによって目覚めた遼太郎は学校へ行く前の気だるさがほとんど感じないことに気づいた。

 その日も朝から日が照り出して暑さと湿気が肌に纏わりついてくる。

「おはよう」

 バス停に着くとミヅキの爽やかな挨拶と共に爽やかな笑顔が心地よく迎えてくれる。

 放課後。昨日と同じ席で二人は机に向かい合い勉強の続きを進めた。問題を解き始めてその意味や、答えがわかると俄然その行為がやる気へと変わっていく。そして遼太郎はミヅキの指導のもと刻刻と問題を解いて行く。

「数学ってあれだよね。曖昧さがないよね。だからかな、前はすごく冷たく感じていた。でも今は少しだけど美しいと感じるようになった」

 そう言葉にミヅキは顔をパッと明るく綻ばせ「そうなのよ。数学ってとてもエレガントで美しいのよ」と声を張り上げた。すると周りの生徒が一斉にミヅキの方に注視した。ミヅキはハッと顔を赤らめ、身体を屈め小さくなった。顔を上げたミヅキはチロっと舌をだし、右眼を瞑った。そんな彼女の一連の様子を見て遼太郎は可愛いと素直に思った。

 それから毎日、二人は放課後、欠かさず図書室で過ごすこととなった。


 遼太郎たちは菜実の誘いで、この間と同じ場所で結衣と交えてお昼ご飯を食べていた。

「どう、勉強の方は?」 

 結衣が遼太郎に聞いてきた。

「まぁー、なんとか」

「まぁー、なんとかって、二人きりの濃密な時間が過ごせて、とてもデリシャスだわ。とか云えないの?」

「普通は云わんわ!」

 結衣の歯が浮くようなセリフに菜実は思いっきり突っ込んだ。

「冗談よ。冗談に決まっているじゃない」

「あんたなら本気で云いそうだわ」

「てへっ」

 結衣は可愛子ぶって舌をチョロっと出した。

 一連のやりとりをミレイはどうのように感じているのだろうか。ふと遼太郎は疑問に思った。

「もう、早くしないと昼休み終わっちゃうよー」

 二人の漫談を制止し、ミヅキはお茶を飲み干した。二人は腕時計で時間を確認し、慌てて昼食を済ませた。

 遼太郎が教室に戻るとクラスでも素行の悪い三人組が突然遼太郎の前に立ち塞がった。

「存在自体、無に等しいお前が意外とモテるんだな」

 古池が高圧的な気を醸しながら嫌味を交え絡んできた。古池の後ろには彼の舎弟である吉川と松川が同じように不遜な態度で立っていた。

 遼太郎は何も云い返すこともなくただ黙っている。

「たくっ。こんな根暗がなぜモテるんだ?」

 取り巻きの二人が笑った。

 そのときである、二人の間に漆黒の影のような存在が滑り込んできた。

「だれ、なんだてめーは」

 古池は一瞬、「誰だてめーは」と云いかけたような気がした。

 その姿を見たとき遼太郎は目を疑った。古池と対峙していたのはなんと道影零であった。

(どういうことだ。これは……)

 激しい脈動が全身を打ち震わせた。

 静謐でそれでいて恐ろしいほどの嵐が吹き荒れているような磁場に立っているようであり、まるで静と動が入り混じっているかのように感じられた。

 古池はまるで得体の知れない何かに呑み込まれそうに、一瞬たじろいだ。

「貴様は関係ないだろ。おまえ、こいつの友達なのか?」

 そう云って遼太郎を指差した古池だが、先ほど遼太郎に食ってかかった威勢はなかった。

 道影零はなんの(彼の周りでけが音が消えたみたいに)言葉も発せず、ただ相手と対峙しているだけであった。その存在はまるで全てのモノを畏怖させるかのような独特な気を放ち、三人は硬直し、相手の気鋭に呑まれていた。そして、深淵の穴に水滴が一粒落ちて行った間があったかと思うと、そのあと三人は何事もなかったかのように無言でその場を立ち去った。

 遼太郎はその光景をスローモーションのように見ていたが、道影零が立ち去ったあと刹那のような感覚に陥り、彼になんの言葉も発せず、その場に佇むしかなかった。

 しばらく頭から離れていた“道影零”と云う存在が再び影のように忍び込んできた。


 放課後、図書室でいつものようにミヅキに勉強を教えてもらっていた。

(道影零という存在がわからない。なぜ彼はぼくを助けるようなことをしたのか。いったいどういうつもりだったんだろうか)

 遼太郎は道影零という存在に畏怖の念とは別に畏敬の念さえ感じていた。

「どうしたんですか。遼太郎さん」

 不意に声を掛けられ、現実世界に引き戻されたみたいに頭のなかに日差しが舞い込んだ気がした。

「いや、別にちょっと考え事を……」

「そうですか。今日は国語をやりましょう。私、山を張ってきましたからそこだけ集中して覚えましょう」

(数学を教えるときとは逆のことを云っているよな。よっぽど数学が好きなんだな)

 そんなミヅキのことを微笑ましく思い、道影零に対する感情は薄れていた。彼女から漂うほんのり甘い香り。そのときだった遼太郎の脈動が跳ねた。

(ミレイのものとは何か違うけど、同じような心地よさを感じる)

 ミヅキは、試験に出そうな所を蛍光ペンで印をした教科書を開き、ペンを顎にあて思索している。遼太郎はミレイに視線を移した。ミレイの姿は薄絹のようにその身体が薄く見えた。

 遼太郎は脈動が跳ねた。今度は不安な思いから来たものだ。

(ミレイは、ぼくとミヅキに対して何らかの感情を抱いているに違いない)

「どうしたんですか?」

 ぼーっとしている遼太郎を心配し、ミヅキが聞いてきた。

「えっ、あ、いや……」

「今日は勉強会やめときます?」

「いや、大丈夫だから。その、ごめん。身を引き締めてやるよ」

 自分の為に勉強を教えてくれているミヅキに対して申し訳なく、遼太郎は少し気恥ずかしい気持ちになった。

「いつもありがとう」

 勉強会を終え、遼太郎は殊勝に礼を云った。

「私も楽しいし、それに復習にもなるから、なんて云うか、こちらこそありがとう」

 そう云う健気なミヅキの気持に遼太郎の心は揺り動かされる。

 自宅に帰宅すると遼太郎はミレイに話しかけた。

「言い訳になるかもしれないけど君の存在を一時も忘れたことはない」

 その言葉は真実ではなかった。ミヅキと接しているときミレイの存在は頭から離れていた。

 ミレイは悲しみの微笑を浮かべると、スーとベランダにそっと立った。遼太郎も彼女を追いかける。窓を開けた夏の湿った暑さが肌に纏わりつく。しばらくミレイの隣に佇んでいると心地よい風が通り抜けた。

 ミレイは微動だにせず、ずっと空を見ていた。

 遼太郎は思った。

(彼女はいったい何を見ているのだろう。ただ空を眺めているだけなのだろうか。それとも空の向こう側を見ているのだろうか。彼女の瞳にはいったい何が映っているのだろうか)

 遼太郎は汗でベタベタになった身体をスッキリさせる為にシャワーを浴び、部屋に戻ってきた。ミレイはまだベランダにいる。

 彼女の存在は認識できる。だが、彼女の存在を知るすべを持っていないことに歯がゆく思いながらも深く入り込んではいけない神秘の森のようなそんな思いに駆られた。


「おはようございます。今日も暑いですね」

「うん」

 朝から照る太陽の光は肌に突き刺さるかのようであった。期末試験もあと一週間後に迫っていた。真剣な面持ちで二人は机に向かった。もう、どれくらいの刻がたったのであろうか。遼太郎は真剣な面持ちのミヅキのかんばせを見つめていた。そのときである。不意にミヅキが顔を上げた。絡み合う視線。静止した刻の中で二人は見つめあった。 

「あっ、あの。遼太郎さん、三桁の好きな数字を云ってみて?」

 頬を赤らめたミヅキが突然言葉を切り出した。

「三桁?」

「そ、三桁の数字」

「二・三・五かな」

「二三五を二つ並べて、二三五二三五として千一で割ると幾つになると思う?」

 遼太郎は首を少し傾げ、ポケットからスマホを取り出し計算して見た。

計算結果は二三五であった。遼太郎は少し驚いた様子でスマホの画面を見続けた。

「ね、面白いでしょ」

 遼太郎は頷く。

「あと、私の一番好きな数式は、eのiπ乗+1=0で、一番美しい数式と云われているの。数式はシンプルであるほど美しいの」

 そう云ってミヅキはうっとりとした恍惚な表情を浮かべていた。それを見ていた遼太郎がクスッと笑った。

「ヒヤッ。私、変な顔してました?」

 遼太郎は首をゆっくり横に振りこう云った。

「いや、とっても素敵な顔をしていたよ」

 そして今度は反対にミヅキがクスッと笑った。

「なんか初めて見ました遼太郎さんが笑っているの」

 そう云われて遼太郎は心の内でどう表現すべきかわからず、ミヅキを真顔で見つめた。

「なんかすっごく嬉しい!」

 ミヅキはこれまでにも見たことのないとびっきりの笑顔で喜びを表現した。そして、なぜこれほどミヅキがこの数式に惹かれているのか興味が湧き、この数式がどんなものなのか聞いてみた。

「この数式はいったいどういう意味なんだい? もちろんぼくには理解できないだろうけど、君がそこまでして好きな数式だから気になって……」

 ミヅキはノートを開き、そこに数式を書いて説明した。

「この数式はね。eというのが自然対数で対数関数の導関数を求めれば出てくる数なの。その上にあるiπは指数で、iは虚数と云って二乗したら-1になる数でπは知っていると思うけど円周率ね。まず式を導くには三角関数が必要でcosxとisinxの複素数をべき級数展開して足した数式と、自然対数のeのix乗の指数関数をべき級数展開した数式が一致するの。その指数のxの部分をπにするとeのiπ乗=-1が導かれるのよ。そして-1を左に移行するとあの数式になるの。ね、すごいでしょ!」

 遼太郎は小難しい顔をしたあと、感心したようにこう云った。

「なんかよくわからないけど、すごく数学ってロマンがあるね」

 その言葉を聞いたミヅキはパーっと顔を破顔させ頷き「そうなのよ。数学ってロマンなのよ。そうなのよロマンなのよ……」と繰り返した。

 遼太郎は彼女の喜びように心を綻ばせた。

 ミヅキの饒舌さは止まらなく、自分の数学における主観を話した。

「この数式はね。数学における一番美しい定理と呼ばれているの。自然界には素数蜩や、対数螺旋はオウム貝の模様にも現れるし、ひまわりの種にも見られるし、自然界は数学で溢れているのよ。私が思うに、あくまでも私の意見ですけど、数学者というのは、この世の真理から数式を発見する考古学者みたいなものじゃないかと思うんです」

 遼太郎はミヅキの思いに圧倒された。それと同時にミヅキの存在が神々しく眩しくて仕方なかった。まるで孤独の影に支配された自分を照らす太陽のような存在だと思った。

「すごいね。なんか自分の考えをしっかり持っていて前を向いて生きているって感じがする。その点、ぼくはなんとなく毎日を生きてしまっている」

 遼太郎の言葉と裏腹に、ミヅキは不安気な気持ちを吐露した。

「遼太郎さんて、時々、ふと遠くの方を見ているでしょ。それがいつも気になってしまって……。だからふと思うことがあるんです。遼太郎さんが、いつか私の前から姿を消してしまうんじゃないかって……」

 遼太郎はどう言葉を返したらよいかわからなかった。自分でもよくわからないのだ。

 長い沈黙のあとミヅキはこう云った。

「私が遼太郎さんを繫ぎ止める力になりたい」

「ありがとう。嬉しいよ」

 ミヅキの言葉は言霊となって遼太郎の心に突き刺さった。

 

 その晩、遼太郎はベランダに佇むミレイを目で追いながら物思いに耽っていた。遼太郎はミレイになんて言葉を掛けたらいいのかわからず、ミヅキの存在が心に膨れ上がっているのを止めることができずにいた。

 月が彼女を照らしていた。その姿に遼太郎は少し違和感を感じていた。彼女の姿は薄く透けていたはずだったが、今はその度合いがわからないでいた。元からそうだったのか、それともやはり身体が薄く透けたようになってしまったのか。記憶が曖昧だった。

 遼太郎はいつものようにミレイの横に立って空を見上げた。空を見上げると月暈げつうんが神秘的な雰囲気を醸し出し、その光景がミレイの存在そのものにも思えた。

 布団の中に身を委ね、思考に耽る。ミレイとは自分の中にある意識が創り出す存在なのではないかという思いを巡らせていた。しかし、現実に見える存在として目の前にいるのを頭の中で想像したからというだけでは説明がつかない。それに彼女を想像するというきっかけや動機なども思い当たらないのだ。もしかしたら自分が記憶をなくしたことと何か関係があるのではないかと思った。その晩はなかなか寝付けず、いつの間にか浅い眠りに落ちた頃、スマホの目覚ましが鳴った。

 遼太郎は気だるい身体を起こし学校へ行く支度をした。バス停に向かうとミヅキが遼太郎を見つけ手を振っている。

「おはようございます」

 ぼんやりと霞かかった脳にミヅキの挨拶は新鮮な空気を送り込んでくれる。

「期末試験まで残り六日。頑張っていきましょう」

「うん」

 ミヅキとの出会いの中で遼太郎は虚無で空っぽの心の中に生の鼓動と温もりを感じるようになっていた。そしてミレイという存在が心の奥に染み込んでいた。

 遼太郎たちは定期的にいつもの場所で昼食をとるようになっていた。

「さすがに暑くて木陰に入っても辛くなってきたわ」

 そう云って菜実は炭酸飲料を喉を鳴らしてラッパ飲みする。

「まったくだわ」そう云って胸元をパタパタさせながら結衣も釣られて菜実と同じように炭酸飲料をラッパ飲みした。

 普段、涼しげな顔のミヅキにも額に汗が滲み出ていた。

「大丈夫、もうすぐ我が青春の夏休みが訪れるじゃん」と云って結衣は目を輝かせた。

「そうだね。待ち遠しい夏休みがそこまで迫っているんだからがんばろ!」

 菜実が乾いた喉を潤し、テンションが上がったのか、輝いた笑顔で自分に云い聞かせるように声を張り上げた。

「その前に期末テスト頑張らなきゃね」

 ミヅキのその言葉に現実に引き戻されたのか菜実と結衣は目の前に立ちはだかる高い崖を見上げるみたいに深い溜息をした。

 その日の放課後。二人は机に向かい最後の追い上げに取り掛かっていた。ふと彼女の真剣な表情を見続けていると、この瞬間がいつまでも続けばいいのにと考える自分がいた。

「お互い、期末試験頑張りましょうね」

 ミヅキはやりきったという達成感に満ちた表情でこちらを見ていた。

「うん。頑張ろう」

 遼太郎は力強く答えた。


 そして期末試験の日を迎えた。

 遼太郎はミヅキに教えてもらったことを頭の中で復習しながら問題を解いていった。テスト中、妙に心神が落ち着き、その時の流れは居心地よささえ感じた。そして後日、採点された答案用紙が配られた。いつものことだがクラス中が一瞬、騒めく。

 遼太郎は受け取った答案用紙をぱっと目を通すと、予想以上の出来に驚きを隠せなかった。中間テストがあまりの出来だったので余計にそう思えたのかもしれない。

「はい、騒がない。今回、赤点だった人は夏休み補習を受けてもらいますから承知しておいてください」

 赤井先生の言葉にわかっていたことだが再びクラスが騒ついた。

 遼太郎のテストの結果は五教科、平均点数七十五点という結果で夏休みの補習は免れた。

 放課後。ショートホームルームが終わったあと帰り支度をしていた遼太郎に赤井先生が声を掛けてきた。

「やれば出来るじゃない。先生見直したわ」

 遼太郎は黙って赤井先生の大きな双眸を見つめた。

「それじゃ、これからも精進を怠らないように頑張るのよ」

 そう云って赤井先生は遼太郎の頭をポンと撫ぜた。

 遼太郎は微かな充実感を覚え教室をあとにした。

 帰路の途中、遼太郎はミヅキに改めて感謝の意を伝えた。

「ありがとう。おかげで夏休み補習を受けなくてすんだよ。ほんとなんて云ったらいいか、補習を受けなくてよかったというより、生きる達成感を感じられた。ほんと、ありがとう」

「いえ、私は、その、とにかく遼太郎さんの役に立ててよかったです。」

 ミヅキは顔を綻ばせながら照れ臭そうに云った。


 その日の夕暮れ時、いつものようにミレイと共にベランタでしばし昼と夜の境を眺めたあと、夕飯を食べ風呂に入った。湯船に浸かりながら遼太郎はふと思いを巡らせた。ミヅキの照らす光は今までの自分の凍えた魂を温めてくれる太陽のような感じがした。それとは対照的にミレイは儚く、神秘的な月を思わせた。その月は暗闇を照らす月光のような存在だった。

「ぼくという存在はいったいなんなんだろか?」

 ぽつりと出た独り言にアイデンティティーの収斂が含まれていた。

 部屋に戻った遼太郎はベッドで横になっているミレイの姿を椅子に腰掛けながら眺めていた。

 改めてじっくり見つめていると、ミレイの姿が薄絹のように透けている気がした。しかし、前の姿がどうであったか確信が持てないでいた。

 混沌の迷宮に迷い込んだように遼太郎の心は不安を帯びた。

 ミヅキとの関係が深まって行くなかミレイの存在が自分の中で希薄になっていたのは否めなかった。

 遼太郎はミレイをずっと見続けた。まるで失われた記憶を探すように深く深く静止した刻の流れの中に身を委ねた。

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