日常に潜む影
六月に入り、梅雨の季節を迎えていた。
日曜日、停滞前線の影響で朝から絹糸のような雨が降り続いている。遼太郎は雨音が周りの音を飲み込みながら地面に消えていく静けさを満喫していた。
静謐な時間の流れに酔いしれながら、視線はミレイの姿を追う。その視線がミレイと絡み合う。
(君のことが知りたい)
手に延ばせば届きそうな位置にあるのに、その手は空を切り、まるで雲のようにすり抜けてしまう。届きそうで届かないこのもどかしさに、遼太郎は云いようのない切なさを覚えた。
ミレイはなにも語ろうとはしない。しかし、彼女の存在が普通に感じるほど、非現実的であるミレイの存在が遼太郎の日常生活の一部としてなくてはならないものになっていた。
週の初めの月曜日、朝から降り続いている雨は、他の人ならば鬱陶しくも感じるが、遼太郎は傘の中から街の喧騒が消えゆく空を見上げていた。
「おはよう。遼太郎さん」
遼太郎の肩越しから声がした。振り向くとそこには赤い傘を差したミヅキが立っていた。なんとなく二人の間に万有引力の働きのように自然と距離が縮まっていた。ミレイとは別の重力がそこには働いているみたいであった。
昨晩観たドラマの話をきっかけに話題作りをするミヅキ。それをただ相槌によって受け止めて言葉としては返さない遼太郎。それでも彼女は軽やかな笑顔を交え楽しそうに話す。
(ぼくと、一緒にいて楽しいんだろうか?)
ふと、遼太郎はそんなことを考えてしまう。
遼太郎とミヅキが一緒に登下校するようになり、時々、菜実は二人を前に「今日も暑いわー」と冗談めかし、突っ込んでくる。
その日は梅雨の中休みで朝から青空が広がっていた。
遼太郎は教室に入ると妙な違和感を感じた。しかし、それがなんだかわからずに昼休みを迎えた。自分で料理した弁当を広げ一人食する。その光景をミレイは頬杖をつきながらながら見ている。もう、慣れた光景だ。
午後の微睡んだ刻、榊原教諭の発する英語がお経のような羅列でいっそう眠気を誘う。うつらうつらと頭の思考回路が停止し始めたそのとき教室のドア側の最後列の方角から妙な視線を感じた。
遼太郎は視線の主に確かめようと振り向いた。が、視界に入ったのは誰であるのか見当もつかない人物であった。
(見覚えがないな。あんな奴、このクラスに居たっけか?)
一年B組には、三十八名の生徒がいる。登校日初日のロングホームルームで各自、自己紹介をした筈だが彼の印象が全く記憶にはなかった。今の今まで気づかない筈はないのだが……。
その気配はまるで深海の光さえ届かない空間でひっそりと生きている深海魚みたいであった。
その日から遼太郎は彼の存在が気になるようになった。
「皆さん。おはようございます」
赤井葵先生がハキハキした通る声で挨拶をする。
「おはようございます」
このクラスは赤井先生の人徳・魅力もあってか男女共に赤井先生には従順である。
そんな中、遼太郎は深淵の影を確認するようにあの席を注視した。彼は明らかに周りの空気とは違う何かを纏いそこに存在していた。遼太郎はなぜか云い知れぬ不安を感じ、そして頭の中を覗かれているような奇妙な感覚に陥った。
クラスメイトの他、誰もが彼の存在にまるで気づいていないかのようである。彼の周りを孤独な影が覆い尽くしているかのように見える。
遼太郎はしばらく彼に注視した。端から見ればクラスに溶け込んでいるように見えるが、内実、彼に話しかけるクラスメイトは誰もいないのである。
昼休み。烏の群れが騒ぎだすように、それぞれが昼食に取り掛かるところ、遼太郎は思い切って彼に声を掛けようとした。彼は焦点の合わない視線を、虚空の彼方に向けていた。そのときだった開いたドアから友永菜実が手招きしているのが見えた。遼太郎は緊張の糸が弛緩したように彼女の方へ足を向けた。
「ねー。一緒にお昼食べない?」
「はっ?」
「お弁当作ってきているのよ」
「…………!?」
「何勘違いしてるの? ミヅキが君の為にお弁当作ってきてくれたんだよ」
遼太郎がキョトンとした表情でミヅキの方を見ると、彼女は照れくさそうに、顔を赤らめていた。
「ほら、なにしてんのミヅキ」
そう云って彼女は後ろに隠れていたミヅキを手前に押し出した。
「あの……。お弁当多く作りすぎちゃって、よかったら食べてもらえないかと……」
「そういうことだから、行こ」
友永菜実はそう云うと強引に遼太郎を連れ出した。
遼太郎たちは中庭の噴水がある芝生へ移動した。(ここは、昼休み生徒達が多く集まる憩いの場である)そして三人は青く茂り程よく刈られた芝生の上に腰掛けた。
「あの、これどうぞ」
遼太郎は、気恥ずかしそうに渡されたチェック柄の風呂敷を開き、弁当箱の蓋を開けると、そこには、ご飯と、出し巻き卵、鳥の唐揚げ、ゴーヤの佃煮などが行儀よく詰められている。遼太郎は一人暮らしをするようになって自炊することが多くなったが、弁当に関しては気が向いたときに作る程度で、大抵は校内の売店か、コンビニで購入したおにぎり、パン、お茶などで済ませていた。その為か目の前に広がる光景が眩しく思えた。
「ミヅキのお弁当美味しそうー。ねー、この卵焼き一口もらってもいい?」
「うん」
「出し巻き卵かー。うん、旨い。これならいつでもお嫁さんにいけるよ」
菜実の言葉に、一瞬ミヅキの視線は遼太郎に向けられ、二人の視線が絡まったあと彼女は俯いて気恥ずかしそうに頬を赤らめた。
遼太郎は初めて他人の作った弁当を口にした。出し巻き卵はあっさりとした味付けだが出汁が効いていて豊潤な味が口腔に広がった。
「美味しいでしょ」
菜実が遼太郎に聞いてきた。
遼太郎は素直に頷くと「美味しい」と言葉を洩らした。
「でしょう」
何故かテンションの上がる菜実にミヅキは「そんなことないよー」と謙遜してみせる。
そんなほのぼのとした光景に、遼太郎だけが認識できるミレイがしゃがんでお弁当を覗き込んでいる。
(欲しいのか?)
そんな思いが心に浮かぶ。
「今日、天気になってよかったね」
自分の弁当を平らげた菜実が何気ない一言を発する。
「うん」
ミヅキは軽やかな笑顔で答えた。
「ごちそうさま。ほんと美味しかったよ」
そう云って遼太郎は弁当箱を風呂敷で包み、ミヅキに差し出した。
「こちらこそありがとう。残さず食べてくれて嬉しかったです」
この何気ない日常の一齣が現実のリアルさと、非日常的な存在のミレイに挟まれて心だけがなぜか俯瞰した場面を切り取っている。それは自分ではない何かが、今ある光景を眺めているような気がしてならなかった。
そんな想いに耽っている遼太郎に対して「私はお邪魔虫かな」と云って菜実はそそくさとその場を立ち去ろうとする。そのあとをミヅキが「待って〜」と声を上げ、去り際に一例をして校舎に戻っていった。
最近、遼太郎の母は偏った食事をしていないか心配でわざわざスーパーでいろんな食材を買ってきては勝手に置いていく。初めは料理を作って帰って行ったのだが、遼太郎は自活したいという思いから自分で作るからと云って母が料理を作るのを頑なに断った。それでも母は息子のことが心配で、週に一回は食材を買って届ける。そんな親心に感謝しつつも、鬱陶しいと思う自分がいた。
遼太郎は晩飯の用意をする為に、母が買って届けてくれた食材を冷蔵庫の中から取り出す。鶏肉、ジャガイモ、玉葱、人参、舞茸などを用意し、下ごしらえをする。鍋にオリーブオイルを引き、玉葱を杓文字で飴色になるまで炒めるたあと。オリーブオイルを足し、下ごしらえをした材料をを全部鍋に放り込んだ。しばらく炒めてから水を入れて、中火でグツグツ煮込む。遼太郎は椅子に腰掛けミレイの姿を追いながら、しばらく鍋の中の具が煮えるのを待った。
ミレイは、一連の手さばきを注意深く見守っている。具材が煮えたのを見計らい、二種類の中辛のカレールーを適量入れ、冷蔵庫から牛乳を取り出し、鍋に適量入れ掻き混ぜた。カレールーを二種類入れるのはネットで見てたまたま知っていたからだった。最後の仕上げにガラムマサラを少量振りかけたあと、よくかき混ぜて味見をし、少し味が薄かったので、カレールーをもう一欠片投入して、また満遍なく掻き混ぜた。豊潤で香ばしい匂いが立ち込め食欲をそそる。
出来上がったカレーライスを部屋に持ち込み、テレビのバラエティ番組を観ながら食べていると、ミレイはガラステーブルの上に頬杖を付きじっと見つめている。もう慣れた光景だが、なぜか見られているという安心感が心に横たわる。
しばらくしてミレイはキッチンに向かい、もの寂しそうな表情で佇んでいた。その愁いを帯びた表情に遼太郎はミレイの実体のない身体に手を伸ばそうとした。が、やはりその手は空をすり抜けた。
実体のない存在。彼女の存在が深く、深く、遼太郎の心にしとしと降る雨のように心に沁み込んでいく。
日曜の朝は特にその気怠さが輪をかけて脳の思考回路を鈍らせる。トイレへ一旦起きたあと、遼太郎はまたベッドに身を沈めた。その身体はまるで水の上に漂う一枚の葉のように朝の微睡みの中に浮かんでいた。
そこは、なにもない広い丘の上で、蒼穹に漂う白い雲が、緑薫る草花に覆われていた。その丘は永遠のサンクチュアリにさえ思えた。その空間に遼太郎は大の字になって寝転んでいた。
一陣の風が吹き抜けた。白い蝶は風にまかれ、空から舞い降りた。遼太郎は記憶の破片を拾うかのようにその白い蝶に手を伸ばした。その瞬間ミレイの残像が見えた気がした。
『ミレイ?』
『あなたは心の影をどう感じる?』
声が深淵の底から聞こえる。
『心の影ってなんだ?』
『あなたの心に潜んでいる影』
そのときであった。
『待ってー』
ミレイは悲痛の叫び声を上げた。
白い蝶が消えた空間に亀裂が走り、影が染み込んできた。
その光景に遼太郎の心は軋み、内なるものから何かが溢れ出しそうになる。
『やめろー。この世界から出て行け!』
遼太郎は両腕を目一杯広げ叫んだ。雲間から光の帯が差し、影は鳴りを潜めた。
『ミレイ!』
ミレイの姿を探したが彼女の姿はもうどこにも見当たらなかった。
遼太郎はただその場に立ち尽くすしかなかった。
意識から遠のいていた思考が泡のように水面に浮いて弾けて消えた。そして世界が入れ替わる。
夢から醒めた遼太郎は目の前にいるミレイの存在を確認して安堵した。
ミレイは憂いた表情で窓の外を見つめていた。その視線の先にはどんよりとした雲が視界を覆っていた。
ミレイが存在する夢が影に侵食されていく。心神の奥深くに潜む別の生き物が心の扉をこじ開けようともがいているような気さえした。
(あの影はいったい何なんだろう。影‥‥。あの夢に見る影の世界が侵食してきているのか)
遼太郎は云い知れぬ不安を覚えた。
ミレイが存在する夢ではあの影の存在は忘れている。いや、全然記憶にない。しかし、現実の世界では二つの夢は鮮明に記憶している。いったい二つの夢は遼太郎に何を語りかけるのだろうか。遼太郎は腕組みをし、瞑目した。
重たい雲によって閉ざされた青い空。影が侵食するミレイの世界に不安を覚えながも遼太郎はミレイの隣で彼女の視線を追うことしか出来なかった。
数日間、遼太郎はなぜミレイが自分の元に舞い降りて来たのか、そのことだけを考えていた。ミヅキと会っているときも心ここに在らずで、自分の意識はミレイに向けられていた。そして色々考えを巡らせていた。そもそも自分が意識しているから彼女はここに存在しているんじゃないかと。しかし現実に目をする彼女の姿を追うと、その考えがそもそも正しいのかさえわからなくなってしまった。
遼太郎は気分転換をしようと思い、黒のトレーナーとジーンズに着替え、触れることの出来ないミレイの掌を掴み、彼女の意思を自分に向けようとした。やがてミレイはピンと張った糸がきれるかのようにその場から遼太郎の挙動に合わせ動いた。
「散歩に行こう」
遼太郎はミレイを連れ立って意識を外の世界へと向かわせた。どんよりとした雲は切れ切れになり薄日が差していた。遼太郎は足元の影に視線を落とした。影は飼い主に従順な犬のように主人の後をぴったりと付いてくる。その影がいつミレイを襲わないかと遼太郎は夢の幻影に怯えていた。それを察してかミレイも不安げな表情で俯いている。
(ぼくは何を怯えているんだ。彼女にも不安をさせてしまっている)
遼太郎はミレイの隣に寄り添うと無理やり笑顔を作った。ミレイもそれに答えるように笑った。
二人は近所を
やがて窓辺の景色が移り変わり、また今日という日の昼と夜の境界線が訪れた。遼太郎は思いっきり伸びをし、ベランダに出た。眼下に広がる街の景色を見下すと、そこには色んな人の人生が存在するのだなと感傷に浸っていた。しばしその光景を眺め、感傷に浸っていると空は群青色に染まり夜が忍び寄ってきた。そろそろ部屋へ戻ろうと窓に手を触れた瞬間のことである。突然気配を感じ、ベランダの角の方向へ視線を移した。そこにはなんと闇に浮かび上がるかのように金色に輝く瞳がこちらを捉えていた。遼太郎は背筋に冷たいものを感じながらその物体をよく注視した。その物体は闇に紛れるような漆黒の闇を纏っているかのように見え、金色に光る目が見るものを離さないような怪しげな光を放っていた。
遼太郎はしばし漆黒の闇に浮かぶ金色の瞳に意識を奪われ、我を忘れていたが、やがてその物体を注視しているうちに、それがなんなのか頭の中にイメージが形作られてきた。それはあの黒猫の姿だった。やがてその黒猫はベランダの縁から暗闇にすうーと溶けるように落ちていった。その光景に遼太郎は心胆を奪われ、しばらくその場に立ち尽くした。
「な、なんなんだ。今のは……」
自失茫然とその場に固まっていた遼太郎は恐る恐る黒猫がいた場所に近づき、その付近を見回した。やはり黒猫の姿はどこにも無く、眼下に望む街灯が薄暗闇の茂みを照らしていた。
遼太郎は部屋に戻ると、ミレイはフローリング床に横たわっていた。
(自分の周りでいったい何が起きているんだ)
薄気味悪いほどにあの黒猫が漆黒の闇に溶けていく感覚が脳裏に焼き付いている。
ミレイを含め、自分の周りの世界が異世界に引っ張られて混ざり合っているようなそんな気がしてならなかった。
目覚まし時計がいつもの朝を知らせる。目を覚ました遼太郎は昨日の出来事がまるで夢であるかのように黒猫の金色の瞳がこちらを見据えるのをうすら寒く感じていた。遼太郎は頭を切り替え、ミレイの姿を確認すると学校へ行く支度をした。バス停に着くと、いつものように穏やかな笑みでミヅキは「おはよう」と声をかけてきた。
「ああ、おはよう」
遼太郎は頭の中が靄のかかったような状態で返事をした。
「どうしたの?」とミヅキは心配した面持ちで声をかけたが、遼太郎は「ちょっと、寝不足で」と覇気のない返事をした。
バスに揺られる中、二人の間にしばしの沈黙が漂っていた。
「寝不足って何かあったの?」
「たいしたことではないんだ。たまたま夜、寝れなかっただけだから」
「そう」
ミヅキは心に引っかかるものを感じながらそれ以上聞いては来なかった。
教室に入ると射抜くような鋭い視線を感じた。遼太郎はすぐさまその視線の主を垣間見る。その視線の主は例の彼であった。教室の隅っこにまるで風の吹きだまりのような、その空間に彼の存在は実体のない影のように鎮座している。
慣れてきたミレイの存在を放ったらかしにして、遼太郎は実体のない影のような存在に注意を奪われていた。
その日はチリチリとした不快な威圧感を感じずにはいられなかった。
放課後。遼太郎は彼の行動を確かめる為にあとをつけることにした。学校の校門を左へ曲がると、いつも遼太郎が通う通学路のバス停を通り過ぎ、駅前の商店街をも超え、やがて閑静な住宅街に入る。さらにその先を進み、段々人気の少ない民家が点在する場所に辿り着いた。周には畑などが点在していて、のどかな風景が広がっており、街並みの景色がすっかり変わっていた。都会の喧騒に紛れ緑の園が存在することに目を奪われていると、不気味なクラスメイトの姿を見失ってしまった。と、そのとき遠目に黒い一匹の黒猫が、黄昏時の長い影を連れて、軽やかに人気のない路地を横切って行く。遼太郎は昨日の夜の出来事が脳裏にフラッシュバックし総毛立った。そして慌てて、その黒猫を追いかけた。しかし、すぐにその姿を見失ってしまった。全く見知らぬ場所に身を置き、途方に暮れ、もときた道を引き返そうとしたとき、黄昏時がひしひしと胸に刺さった。そして頭から置き去りにしていたミレイの姿を確認しようとしたとき、一人ぼっちの影を引きずった幼少の頃の自分の姿が頭に浮かんだ。その記憶は失われたものであったが、空想の産物として脳が創り出したものであることは理解していた。そして、ミレイの姿を確認できると堪えることができず涙が溢れてきた。
(泣いているのか? なぜ、ぼくは思い出を無くしてしまったというのに泣いているんだろう……)
遼太郎は空を仰いだ。
帰路の途中、いろんな考えが頭の中を巡る。そしてあることに気づいた。あの黒猫と遭遇するときなぜかミレイの存在が頭の中から消えているのだ。そして混沌と郷愁。思い出そうにも記憶の欠片が抜け落ちたみたいに、何かが思い出せない。遼太郎は切なさを抱え家路に向かった。
家路に着くとミレイがまたベランダに立ち空を見上げていた。遼太郎は安堵するとともに緊張がほぐれたのかそのままベットに腰掛けた。しばし天井の一点を見つめたあと、軽めの夕食を摂り、風呂に入った。風呂から出てくるとミレイはフローリングに横になっていた。ミレイの安らかな寝顔を見ていると遼太郎は心身ともに緊張からとき離れた感覚に陥り、そのまま眠りの世界へ落ちて行った。
そして、またあの世界が遼太郎の脳に侵食してきた。
いくつもの脳が浮遊し、その脳から思考としての影が創られ、幾つもの意識の集合体としての影が遼太郎の目の前に林立していた。そしてその影たちが遼太郎の目の前で一つの集合体となった。禅問答を問いかけるあの影だ。
『ああ、ボクのほんとうのイデアはいったいなんなのであろうか?』
遼太郎はその影に対して心情を投げかけた。
『君の内に潜む影は君自身を呑み込んでしまうかもしれない』
『いったいどういう意味だ』
『君の心に潜む感情がそうさせる』
『感情?』
『全てに気付いたとき君は……』
影が語ろうとしたとき遼太郎はとっさに耳を塞いだ。なぜそうしたのかはわからない。ただただパンドラの箱を開けてはならないとそう直感したからであった。
そして、いつの間にか遼太郎は合わせ鏡が作る無限回廊にいた。無限の世界が自分の姿を幾重にも映し出している。そしてその無限回廊にゆらゆらと揺らめきながら影が己の存在意義を誰かに認めてもらいたいかのように鏡に映っていた。
幾重にも見える影の像が一つに結ぶと例の影が遼太郎の意識に語りかけてきた。
『君のほんとうの像はいったいどれなんだろうね』
『ぼくはぼくだ』
『ほんとうにそう云い切れるのかい?』
影は意味深げな言葉を投げかける。
『どういう意味だ?』
『君の心の奥底にある影に聞いてみるといい。それが君の望んだ答えだ』
その言葉は雨水が岩に染み込むようにじわじわと心の奥底に届く。
遼太郎は何かに打ち震えるようにその場に佇み、無限回廊に映し出される影をじっと見つめた。そして鏡に映る自分の姿に腕を伸ばそうとすると鏡の世界の自分も同じくこちらに腕を伸ばした。鏡が水の波紋のように揺れる。二つのイデアの邂逅は喜怒哀楽、憧憬、嫉妬、畏怖など、いろんな感情が全身に流れ込んできた。
そして遼太郎はそのまま意識を失うように夢から覚めた。
『ぼくはいったい誰なんだ?』
梅雨が明け、本格的な夏が到来した。
遼太郎は喉の渇きを覚え、コンビニに清涼飲料水を買いに出かけた。
「落ちましたえ」
後方から雲雀がさえずるような甲高い声が聞こえた。意表を突かれたように遼太郎は振り返った。するとそこには巫女の
少女は遼太郎と同じぐらいの歳に見えた。ミヅキより背が高く威圧的で、長い黒髪を赤い装飾がついたポニーで後を束ねている。そして強い意志を持った大きな双眸がまっすぐ遼太郎を射抜いていた。
「ほらそこ、財布が落ちてますえ」
遼太郎は慌てて財布を拾った。
「あんさんついてなはるわ。いろんな意味で」
「いろんな意味。どういうことだ?」
「ほな、さいなら」
その少女は意味深な笑みを浮かべ、その場をあとにした。
(なんだったんだ今のは……)
遼太郎は狐に化かされているような奇妙な感覚に落ちた。そのあと、気を取り直し、コンビニで買い物を済まし部屋に着くなり砂漠のように乾ききっている喉を潤した。喉を刺激する炭酸飲料は乾いた喉には、細胞が充溢した感覚を味わった。
その日は朝からねっとりと纏わりつく暑さであった。教室に入ると纏わりつく感覚が異質なものと変わり遼太郎は教室の隅に存在する人物にプレッシャーを感じていた。
赤井先生の数学の授業で場合の数について淡々と解説していた。この頃にはもう遼太郎は数学の授業に付いていけなくなっていた。
「二つのサイコロを振ったとき出る目の組み合わせは何通りになるでしょう」
赤井先生に気に入れられたく男子が競って数学の授業に取り組むようになると、それに引きずられて女子も数学の授業に身を入れるようになっていた。
「後藤くん。答えて」
「はい。三十六通りです」
「これはノートに全部書き出していって数えれば簡単に答えがわかりますね」
後藤は照れ臭そうに後頭部を掻いた。
「数を数えるという一見単純そうに見える課題もそれ自体が数学の分野においてとても大切で奥が深いものなのです。素数にしたって、素数ぐらいわかるわよね。じゃー、素数とは何か答えて。はい、菊池くん」
当てられて菊池は目をしどろもどろさして固まってしまった。それを傍目に宮藤が勢いよく手を挙げた。
「それじゃ、宮藤さん」
「一と自身の数でしか割り切れない数です」
「そうですね。もう少し詳しく云うと、一より大きい自然数で正の約数が一と自身の数のみであることです」
赤井先生は一呼吸置くと物語を伝承する語り部みたいに話始めた。
「素数を数えるにあたってそこに何らかの法則があるのか未だわかってないのよ。その素数にある法則が隠されているかもしれないってことがリーマン予想を解くことによって解明されるかもしれないのです」
「先生。リーマンショックなら知っていますが、リーマン予想とは何でしょうか?」
宮藤が聞いてきた。
「リーマン予想というのは、ゼータ関数の虚数領域のゼロ点は無限に存在し、全て一直線上に並んでいる。その位置は実数部分の二分の一となる場所であるというものよ」
教室が水を打ったように静まり返った。
生徒は皆、それ以上深い沼地に入らないよう質問をすることはなかった。
自分という存在も方程式で解ければいいのにと遼太郎は何気に聞いていた先生の話からふとそう思った。
ショートホームルームのあと、遼太郎は思い切って赤井先生に話しかけた。赤井先生はあまりにも珍しい出来事であったので一瞬戸惑って目を瞬かせた。そして遼太郎が真剣の面持ちを見て先ほど話した数学の話に興味を持ったものと思い、瞬かせた目を輝かせた。遼太郎は先生の期待する表情に一瞬たじろいだが、勇気を出して「クラスの名簿を見せて欲しい」と聞いた。
期待に目を輝かせていた赤井先生は突然の申し出に怪訝な表情になり腕組みをした。
「見てどうするつもりなの?」と云う問いかけに「どうしても確認したいことがあります」とだけ答えた。
遼太郎の熱意のこもった視線から赤い先生は根負けしたように「職員室へ来なさい」と云って承諾した。
遼太郎は一人になりたいとき本を借りるわけでもないが図書室でぼんやり過ごすことがあった。そして今はクラス名簿を凝視していた。そしてふと気づいたことがある。端からクラスメイトの名前を追っているのだが、かなり頭の中から抜け落ちている名前があった。いや違う。はなから覚えていないのだ。中にはうろ覚えでわかる名前もあったが、名前と顔が一致しなかった。クラスの誰一人会話したことのない遼太郎はクラスメイトたちの話し声から、誰々であるとしか記憶にないのだ。それもまばらに覚えているだけでクラス全員の名前を知っている訳ではなかった。夏休み前、一学期も終わろうとしている時期であったのに、遼太郎にとってクラスメイトはただの空気でしかなかった。なんとなく名簿を見ればわかるのではないかという憶測は外れてしまった。
仕方なく借りた名簿を先生に届ける為職員室へと向かった。職員室の前で遼太郎は深く息を吸いノックをした。
「失礼します」
職員室の中に入ると遼太郎は赤井先生の席に向かい名簿を返した。
「今回は特別だからね」
そう云って軽く溜息をつくと「あなたにしては生気あるし、なんていうか情熱というか、そういうのが感じられたから思わず承知しちゃったけど何か知りたいことでもあるの? 答えられる程度なら教えてもいいけど」
そう云って赤井先生は真剣な面持ちで聞き耳を立てる。
「はい。実は……、聞きたいことがありまして。あの、クラスメイトの名簿をお借りして確認したのですが結局知りたい情報は得られませんでした」
「知りたい情報ってなんなの?」
「はい。ぼくの反対側の、ドア側の一番後ろにいる人のことなんですけど。その、名簿を見ても席順ではないのでわからないんです」
「えっと、教壇側から見て左側の一番後ろの生徒ね」
「はい」
「…………」
担任の先生だから一年B組の生徒のことを把握しているはずなのに、すぐに返事が返ってこなかった。
赤井先生は人差し指を顎に軽く充てる仕草をして視線を上に向けて、しばし沈思黙考したのち、名簿をパラパラとめくった。
「道影零……君ね」
「ミチカゲ、レイ?」
名前を聞いてもその存在があまりにも不確かであった。そして何より不思議なのが担任である赤井先生が担当の生徒をすぐに思い出せなかったことである。
「それで彼はいったいどんな人物なんですか?」
「どんな人物って……。そうね。上条くんみたいにあまり存在感がないというか、なんていうか……。特にこれっていう特徴がないっていうか……。あっ、ごめんなさい」
「いえ。別にいいんです」
遼太郎は殊勝に返答した。
「彼がどうしたっていうの?」
「いえ、ただなんとなく気になってしまって……」
「ただ気になってしまった割には、あなたにしては積極的なのね」
「なんとなく自分と雰囲気が似ているからかな」
「ふーん」
赤井先生は顎に人差し指を添えると何か考えている風であった。
「すみません。ありがとうございました」
「悩みがあるならなんでも聞くわよ。成績も落ちていることだし、もっと積極的にやる気を見せて欲しいの。勉強をすることは将来の自分にとって必ずいい方向で返って来るものだから、ね」
赤井先生の云いたいことはわかっていた。自分を心配していてくれることも。しかし、今の自分にとって生きる意味というのが
「それでは失礼します」
そう云って遼太郎は一礼してその場をあとにした。
色んな想いが釈然として言葉では云い表せないような混濁としたモノが心に渦巻いていた。
その日の夜、遼太郎はベランダに出て街明かりを眼下に見据えて想いに耽っていた。自分が何者であるか、夢で見る影の存在が真実を知っているのではないかと考えたりした。しかし、自身の問いも、影の存在も、何もかもが、その手で掴めないホログラムのような存在に思えた。
遼太郎が感慨深げに空を仰いでいるとベランダの手摺に置かれた手にそっと手が重ねられた横に振り向くとそこにはミレイがそっと立っていた。その横顔は、憂い、物憂げな寂しさを湛えていた。
ミレイとの出会い。そして夢で語りかけてくる影の存在。黒猫、不気味なクラスメイト。
それらは自分という存在に何ら意味を持つものなのかと思考する。それにさっき出会った少女の意味ありげな言葉が耳に残る。そんな思索に耽っていたが、ミレイというこの世のものではない存在に逆に生きている実感を味わっていることに感慨深さを覚えた。
そして訳もわからなく涙が頬を伝った。
ミレイはその涙を手で拭う仕草をした。その行為に遼太郎は温かみを感じた。
「おはよう」
いつもの明るい笑顔でミヅキは挨拶をしてくる。遼太郎はいつものように返事を返し、二人はバスに乗り込んだ。遼太郎にとって彼女の存在が自分を非日常的事象から普通の日常に導いてくれる道標であると感じていた。彼女との取り留めない会話がなぜか心地いいと思う反面、その心の視線はミレイに向けられていた。
教室に入ると遼太郎は道影零に対して意識を集中する。道影零はまるで物質が振動を止める絶対零度の領域にいるかのように微動だせず虚ろな眼差しを正面に向けたままであった。遼太郎は一瞬、凍り付くような寒気を覚え、自分の席に座った。
授業中、不安に駆られる遼太郎を思ってかミレイが机の上に向かい合って座り暖かな笑みを作ってくれた。そのおかげで気持ちが不安に縛られずに済んだがやはり彼の存在から頭から離れることはなかった。
道影零の正体を知りたいと思う遼太郎だったが、この間の出来事もあり、彼の正体を見極めようという気概が落ちていて今日は彼のあとを付けようという気力はなかった。
その日放課後。昇降口前で待っていたミヅキと帰路を共にした。ありふれた会話でもなぜか心が和むのだが、その日は気が奪われたように、道影零のことを考えていた。
「どうしたんですか?」
ミヅキが心配そうに声をかける。
遼太郎は「なんでもない」とぽつり呟いた。
ミヅキは不安そうな表情で遼太郎を見つめる。ミヅキの切なげな表情と昨晩のミレイの顔が一瞬重なり合った。その刹那、空間が歪められたような感覚に陥り、心の深淵に記憶の水滴が波紋となって拡がった。
今の遼太郎の気持ちは夢と現が交互に交わるかのような、そんな空間に漂っている一枚の葉っぱのようであった。
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