もう一つの出会い
その日の帰り際。どっちが影だかわからないような漆黒の猫が、ピアノの鍵盤を踏むかのような足取りで横断歩道を歩いていく。遼太郎はその様子をしばし眺めたあと、その黒猫のあとを追った。なぜ猫のあとを追うとしたのかはわからない。魂が引き寄せられるとしか云いようがなかった。
学校を出て三十分位歩いただろうか。バス停を過ぎ去りさらに東へ進む。帰り際によく寄るコンビニの方へ軽やかに黒猫は歩いていく。不思議なのは周囲の人は黒猫の気配すら感じないのか目に留めようともしない。そして黒猫はコンビにの裏手にある路地へ消えていった。そこは人通りがほとんどなかった。遼太郎は黒猫を見失わないように慎重にあとを追った。
そして目の前に学生らしき人物たちが
よく観察すると他校の数人の男子が、一人の女子を囲んでいる姿が確認できた。辺りには他に人気は見当たらない。
鶯色のブレザーに灰色のズボン。全員がワイシャツをズボンから出し第二ボタンまで外した格好をしている。
その黒猫はなぜかその人だかりの方へ向かって歩いて行った。
(おい、どこに行くんだよ)
遼太郎はその黒猫に導かれるように少女を囲む野郎の群れへと突き進んだ。するとさっきまで目の前にいた黒猫は雲散霧消するかのように消えていた。そして目の前には縋るような視線で助けを求める少女の姿があった。その少女の視線が遼太郎を射抜く。遼太郎は一瞬目を逸らしたが抗うことが出来ない衝動を感じ、再び少女の方に視線を戻した。
「ねー、君たち。黒猫見なかった?」
少女を取り囲んでいた五人の少年が一斉に遼太郎の方に振り向いた。その中の一人、面長で髪を明るくブリーチし、キノコを思わせる髪型をした少年が近づいてきた。
「おまえ、鈴乃宮高校の生徒だな。彼女と同じ高校だけど知り合いか?」
遼太郎は軽く首を横に振る。
「関係ないなら、さっさとあっち行けよ」
そいつはがんを飛ばしながら言葉を吐き捨てた。
少女の縋るような視線がさらに向けられる。
「はぁーあ」
遼太郎は深く溜め息をついた。
「ところで、うちの学校の生徒が困っているみたいなんだけど」
「おまえには関係ないだろ!」
遼太郎はその喧噪とは無縁に空を仰いだ。そして、虚ろで感情の色をなくした瞳で彼等を見据え、こう云い放った。
「どう見ても君たち悪役にしか見えないよね。その子が困り果てているじゃないか。はっきり云ってダサいよね君たち」
その瞬間、右瞼に熱い痛みが走った。後ろに一歩よろめきざまに左の頬にもう一発パンチを食らった。何発か顔面にパンチを食らうと遼太郎はアスファルトに倒れ崩れた。その瞬間、腹部に鈍い衝撃が加わり、少女を取り囲んでいた他の四人も加わり、両手で顔をガードしながら踞る遼太郎を四方八方から蹴りが浴びせられた。
いつの間にか野次馬が集まりだしてきていた。そのうちの誰かが、「早く、警察を」という声がしたとたん不良どもは蜘蛛の子を散らすようにその場からいなくなっていた。
口の中にどろっとした感触がある。アスファルトには紅い鮮血が滴り落ちていた。遼太郎は鼻と口を手で覆ったが、覆った掌の隙間から血が滴り落ちて行く。どうやら鼻血と口の中を切り血が止まらないらしい。
滴る鮮血に波打つ鼓動。熱い血潮が脈動するにしたがって生という実感が湧いてくる。全身に拡がる血を沸騰させるかのような鼓動が心身を昂揚させ熱くさせていた。
「大丈夫ですか?」
少女は遼太郎に駆け寄ると、そっとレースの白いハンカチを取り出し、血まみれになった顔面をそっと拭ってくれた。彼女のハンカチに赤い蝶々のような染みが拡がっていった。
遼太郎は泣きそうにながら必死に血を拭おうとする彼女の姿を第三者的視線で観察していた。
「ごめんなさい。私のせいでこんなことに……」
「別に……。そのハンカチ洗って返すよ」
「それより病院へ……」
「別に大丈夫だよ。これくらい」
「でも、血が……」
遼太郎は片袖で顔に付いた血を拭い、彼女の憂いた双眸を見た。そして彼女の内心を探ろうとした。それに気づいたのか、彼女はことの顛末を話し始めた。
「実はこのハンカチをコンビニで落としてしまい、たまたまさっきの人たちが拾ってくれたのですが、そのあとお礼の代わりにと強引にカラオケでも行こうかと誘われて困っていたんです。そしたらあなたが現れて、私を助けてくれて……。ほんとうにありがとうございました」
そう云って彼女は涙を拭いながら何度もお辞儀をした。
遼太郎は彼女が手にしているハンカチを手に取ると「これ、綺麗にして返すよ」そう云って、数人の野次馬たちを尻目にその場をあとにした。
「あっ」
彼女の何か云いたげな言葉が微かに耳の奥に残った。
マンションの部屋に付くなり遼太郎は洗面台に向かった。鏡に映し出される姿は、右目の瞼が腫れ、一番出血が酷かった口腔内の傷口はべろんべろんに皮が剥げている。
口を濯ぎ赤い液体が排水溝に吸い込まれて行く。
鏡越しの自分の姿に感慨深げに漠然と眺めていると、ミレイが鏡を覗き込んできた。
「あれ? そこにいたのか」
(幽霊って鏡に映るのか)と云う疑問が頭に過ったが、自分だけが彼女を認識出来ているのかもしれないと思い納得した。
彼女は鏡越しにしげしげと痛々しい姿の遼太郎を見つめていた。
口腔に拡がった血の味を確かめながら、その唾液を飲み込み、舌で傷口を確認するが、また傷口から血が滲みだしてくる。体中を駆け巡る血が心臓の鼓動と相まって熱く、激しく、猛ていた。
遼太郎は何かを吹き飛ばすような勢いで顔を洗った。
(血の味も悪くないな)
鏡越しに映るミレイがファイティングポーズをとっている。そして鏡に映る遼太郎めがけジャブを一発繰り出す。
「‥‥なにしてんの?」
ミレイは少し微笑んだかと思うと、悲しい顔つきになり、そして後ろから遼太郎を抱きしめた。その感覚はやはりなかったが不思議と毛布に包まれているかのような温もりを感じた。
「なんなんだいったい……」
遼太郎は困惑したが、内心、湧き上がる鼓動と安らぎを抑えることが出来なかった。
次の日。遼太郎は学校に(風邪で休みます)と連絡を入れ、トレーナー姿でベッドの上に寝転んでいた。その顔にはいくつかの絆創膏が貼られ、右の瞼の痣が痛々しく試合後のボクサーのような顔つきになっていた。まだ残る痛みの感覚はまるでベッドに沈んでいるかのようで身体は宙に浮いているかのような不思議な体感だった。遼太郎の視線の上を浮遊しているミレイを眺めていると夢の間にいるかのような感覚に落ち入り、いつしか眠りへと誘われた。
いくつもの脳が浮遊している。遼太郎はあの夢の間に引き込まれたのだと直感した。
遼太郎の視界に突然、光が差し、そして光が漆黒の空間と交互に並んでいるかのように見えた。その白と黒の空間は交互に遼太郎の脳へ浸食し、光と闇を心に映し出させた。
白い空間に影の半身浮き上り、もう一方の半身は影に沈んでいるように見えた。
『血の味は君に何を感じさせた?』
相変わらず不気味な影は遼太郎の心を覗いているかのように尋ねた。
『‥‥‥‥』
遼太郎が沈黙していると影はこう云った。
『現実の痛みは君に生を感じさせるようだね』
何もかも見透かされているかのような影の言動にたとえ夢の中であるとわかっていても薄ら寒いものを感じる。
ドク。心臓の鼓動が感じられる。脈動が全身の血液を沸騰させる。
『この感覚はなんなんだ。今あるこの世界が現実なのか? どっちの世界が現実なんだ?』
『そう思うのはただの認識の違いに過ぎない』
『そうか、おまえに云わせると全てが量子の波の揺らめきに過ぎないということか』
影は静かに頷く。
遼太郎は自分自身を納得させようとしたが、それでも夢と現実を一緒だと認識するには違和感を覚えた。
影は云う。
『君が現実と思っている世界も、過ぎてみれば、
遼太郎は黙って影の言葉に耳を傾けた。自身の影が共鳴したのかもしれない。
『くぅ、は、は、はははー。全てが泡沫の夢か。確かにそうかもしれない。だが、ぼくはそこに生きる意味を見出す』
『そう、それでいい。生きるとはそういうことだ』
そういうと影は光へと浮き上がっていた上半身を影に吸い込まれるかのようにその身を隠し、気配を消した。
夢から覚めると遼太郎はしばし遠い目をして動かなかった。
そんな遼太郎を俯瞰するかのようにミレイの姿が目に飛び込んできた。その光景はまるで蒼穹に白い雲が綿菓子のように浮かんでいるのを連想させた。
「ミレイ」
遼太郎はミレイの名を呼ぶと、右手の指先まで伸ばし、彼女をその手に掴みとろうとした。が、その感触は虹をつかむが如くすり抜ける。掌で水を掬い零れ落ちていく水をただじっと見ているだけの空虚な感覚しか残らなかった。
遼太郎は空を切ったその掌をじっと見つめた。
(これが現実?)
遼太郎は夢の残骸を引きずるように夢と思しき現実に深々と瞑想し、しばらくして心を閉じた。
宙に浮かぶミレイは遼太郎の無の視線を絡みとり優しく微笑んだ。
(今ある現実はこれでいい)
ミレイの存在は遼太郎の心に沁み込んでいく。
学校を休んでいることを担任の赤井先生から聞いた母親がマンションに訪ねてきた。遼太郎の顔の痣を見て開口一番「どうしたの、その傷?」と聞いてきた。最初は寡黙を貫いていたが、あまりにもしつこく問いただすので、「他校の不良とちょっと、いざこざになっただけだ」と、説明した。それでも一人暮らしをさせているぶん、自分の息子が倫理に反する道に進まないか心配になったのだろう、あれこれと世話を焼いて三日間居座り、母親が来て四日経った朝。遼太郎は「今日はちゃんと学校へ行くし、もうこのようなことはしない」と力説し、母親には帰ってもらった。
(やはり、母さんは、ミレイにはまったく気づいてなかったな)
そう思いながら一息つくと学校へ行く支度をした。母がクリーニングに出した制服に袖を通し、いつも通り学校へ向かった。
学校の空気は相変わらず変わらない。しかし、赤井先生は風邪で休んでいることになっていた遼太郎の顔の傷を見てショートホームルームが終わったあと職員室へ来なさいと促した。
職員室へ入ると赤井先生が腕組みをしながら待っていた。
「一応、お母さんから連絡はもらったわ。君らしくないわね。喧嘩するなんて」
無表情で聞いている遼太郎に対して赤井先生は、含み笑いをし、こう云った。
「うちの女子生徒を守ったんだって。やるじゃん。その女子生徒は事を
そう云って赤井先生は遼太郎の肩をポンと軽く叩く。
「その調子で勉強にも身が入ってくれたらありがたいんだけどなぁ。なかなかすぐに理解できないかもしれないけれど勉強はただ高い点を取るのが目的じゃなくて、その問題をいかに解くかによって生きる力を磨いていくものなの。わかった? でもよかったって云ったら変よね。あなたにも生きる血潮が流れていんだもの。先生、ほんとうは少し嬉しく思っているのよ」
赤井先生は喧嘩をしたことをあれこれ云うつもりが人生の哲学みたいなことを熱く語った。
「この件は私が全て責任を持つから安心しなさい」
そう云って遼太郎を教室に帰した。
教室に向かう廊下で遼太郎は空っぽの心にほんの少し血潮が湧き出すのを身体に感じていた。今までの人に対して無関心だった自分が他人を助けた行動をとったことに生きる実感を感じたからであろう。ミレイの放った笑顔に微笑み返しで遼太郎は答えた。
帰路に至る時間。バス停でバスを待っていると、同じ学校の制服姿の少女が小走りで近づいてきた。
「この間は、ありがとうございました」と、ベコリと頭を下げる少女。背は遼太郎とほぼ変わらない。その容貌は凛とした透き通るような大きな黒い瞳に、セミロングの髪。そして小さな顔の輪郭はまるでリスやハムスターなどといった小動物を思わせるような雰囲気がある。
「君は……」
「あっ、えっと。じゃー、また明日」
恥ずかしそうに彼女は、そそくさとバスに乗り込んでしまった。
左側の席の中央に座っている彼女を一瞥すると、遼太郎は奥の席に鎮座した。しばらく窓辺の流れる景色を眺めながら、殴られた記憶がフラッシュバックして、血が沸騰するような熱いモノが全身を駆け巡る。
そしてまた次の日、今度は学校の校門の前で、例の少女と、もう一人友達らしき人物が遼太郎を待っていた。
「ハンカチは綺麗にならなくって‥‥」そう云いかけたとき、いきなり甲高い声が割り込んできた。
「付き合ってあげてください」
友永菜実は、突然遼太郎に向かって言葉を切り出した。その少女は、闊達で、鼻梁にソバカスがあり、ツインテールの髪型をし、身長は百五十五センチほどの小柄な子であった。
「…………」
「ちょっとなに云ってるのよー」
遼太郎が呆気にとられていると、例の少女が慌てふためいて両の掌を開いて左右に振っている。
(付き合ってくださいって、云われているのか?)
呆気にとられている遼太郎を尻目に、友永菜実は「勘違いしないで、付き合って欲しいのは彼女だから」と勝気な態度で云った。
(だったら初めからそう云えばいいのに)と遼太郎は思ったが口には出さない。
「だからそういんじゃないってば」
「じゃ、好きなのは嘘なの?」
友永菜実はまるでこの場の空気を楽しんでいるかのようにはしゃいでいた。
そして「じゃー、考えといてくださいね」と云い残し、恥ずかしそうに顔を覆う彼女を強引に引っぱり昇降口へと消えていった。
それらの行動を興味深そうにミレイは眺めていた。
その日の授業中、遼太郎は図らずもミレイに対して恋人とはどういうものなのか夢想を繰り返していた。
放課後になり教室の後方のドアの入り口の前にちょこっと顔を覗かせ、例のツインテールの友永菜実が手招きをしている。
遼太郎は仕方なく彼女の方へ向かった。その彼女の後ろに隠れるように例の彼女がいた。
「ねー。返事は決まった?」
「…………」
「ほら、ミヅキ」
友永菜実がミヅキと呼ばれた少女を前に押し出すと、彼女は「ちょっと」と云って後ずさりをした。その瞬間、友永菜実は身を翻して彼女の背中を押した。
「あっ!」
ミヅキは萎縮した子犬のような表情でこちらを見据えた。
遼太郎は彼女の視線に応じるかのように黙って見つめ返した。その時間がどれくらいだったかはわからないがカメラが永遠の一瞬を切り取るような、そんな一瞬だった。
ミレイは二人の少女を交互に見比べている。
「私、あの……。一年D組の凛堂美月といいます。この間はほんとうにありがとうございました。なんてお礼を云ったらいいのか。ほんとうにありがとうございました」
彼女は何度もお礼を述べ、頭を下げた。
「ミヅキは、あなたに助けられてからずっとあなたのことが気になってしょうがないみたい。ミヅキは男性と付き合ったことがなくて、この通り奥手だから、私の勇気ある行動に免じて、ね、おねがい」
「何を?」
「何をじゃないでしょー」
「付き合って云ってるの。この子と」
人差し指で遼太郎を指しながら強引に話を持っていく。
「ごめんなさい。菜実が変なこと云って」
そう云ってミヅキは興奮している友永菜実を制止して彼女の手を引っ張り、その場をあとにした。
「ねー。これでいいの?」
菜実が不満たらたらにミヅキに云い寄っている。
遼太郎は面食らったまま頭を掻いていた。
次の日の朝も、菜実はミヅキを連れて校門の前に立っていた。
「ねー。返事は決まった?」
遼太郎が返事に窮していると菜実はこう云った。
「こんなに可愛くて、優しくて、清楚な子は、あなたの人生の中で二度と出会うことが出来ない逸材かもしれないんだよ」
菜実の言葉にミヅキは「ちょっと、やめてお願い」と恥ずかしそうに顔を赤らめ菜実の袖を引っ張った。
「ごめん。ハンカチ綺麗にならなかったんだ」
そう云って遼太郎はポケットから純白のレースのハンカチを取り出した。
「別にそんなに気にしなくてもいいのに」
「ごめん。それじゃ」
ハンカチをミヅキの手に渡し、遼太郎は昇降口へ向かって行った。
そんな二人の言動をぼんやり見つめるミレイ。ふと寂しそうな横顔を見せ、ミレイは遼太郎のあとを追う。
授業中、相変わらず空気が抜けたような思考で遼太郎は空を眺めていたが、その視界にミレイが飛び込んでくると、一瞬、ミヅキの顔がフラッシュバックし、脳裏に焼きついた。遼太郎はかぶりを振りミレイのかんばせを見つめ直した。
ミレイは童女のように無垢な瞳をこちらに向けた。
ミレイとの邂逅。ミヅキを助けた行い。それらが遼太郎の心に血を通わせることとなった。
学校から帰宅すると、遼太郎はしばらくダイニングキッチンで椅子に深々座りコンビニで買ったあんパンを齧りながら調整豆乳のストローを加えパンを喉へ押し流した。そして瞑目した。
遼太郎は失われた記憶を辿ろうとしたが真っ暗な闇の中に手探りで進もうとしても、どう進んだらよいかわからないでいた。しばらく惚けたあと、風呂に入った。湯船に浸かるとまだ傷が染みるが、それがいっそう生を感じさせる。風呂を出たあと冷蔵庫から炭酸飲料を取り出し一気に飲み干した。そのあとリビング兼寝室へ戻り灯りをつけた。そしてシーリングの光に照らされた薄い影を見つめた。影は普段と何も変わらぬ姿をしていた。物理現象で直進性の性質(重力によって進行方向を歪められるが)を持つ光を遮る為できる暗い領域である。その影に夢の間の影と照らし合わせても何も見いだせない。
自分はいったい何者なんだ。内なるイデアに照らし合わせても答えは見つからない。そんな遼太郎を包み込むような視線でミレイは見つめていた。
遼太郎は気分転換にノートパソコンを開きスリープを解除した。そしてネットの情報をながら見しながら、事件、事故などの自分とは関係ない日常を神視点で俯瞰した。生きるとことは何か? 自分はどうしてここにいるのか? 哲学的な思考が駆け巡った。
遼太郎は自分が生を意識するようになったのか、今までと違い人の世の無常さを考えるようになった。
(記憶を失う前はこんな気分だったのだろうか?)
遼太郎は深く溜息を吐くとノートパソコンを閉じ、ベッドに身を投げた。ミレイが水槽の熱帯魚みたいに部屋の中を泳いでいる姿も、もうあたりまえの景色として捉えていた。
「なー。ミレイ。君はいったいどんな少女だったんだろうね」
とりとめなく浮遊しているミレイに話しかけた。答えはもちろん返ってはこない。
ミレイは遼太郎と向かい合い遼太郎を見下ろしながら、木漏れ日のような微笑を湛えた。
「君が望むならこの命くれてもいい」
感情の
そう遼太郎が叫ぶと、ミレイは
「ミレイ! どうしたんだ!」
ミレイの反応はない。遼太郎はベランダや部屋中を探し回ったが、ミレイの姿は見当たらなかった。そのまま外へ飛び出し走り回って探したがやはり彼女を見つけることは出来なかった。疲れ切って自分の部屋に戻った遼太郎がベッドに横になり、自分の放った言葉の意味を反芻し、ミレイの切ない心を思いやった。
どれくらい時が経ったのだろう。ベッドに横たわり物思いに耽っているうちに遼太郎はそのまま眠りの世界へ落ちて行った。
目の前に広がる世界に遼太郎はしばし目を細めた。
光が乱舞する緑の草原。その小高い丘の上に遼太郎は立っていた。
見渡す限りの青い空とのどかに浮かぶ白い雲。風が囁きあっているかのように心を揺さぶる。
タンポポの綿毛が風に運ばれてくるように目の前にミレイが舞い降りた。
ミレイは陽光のように微笑み、両手いっぱい広げ、風を感じている。
その神々しい姿を見て遼太郎はこう云った。
『ぼくは君を知っているような気がする。でも、どうしても思い出せないんだ。なんでだろうこの、胸に支えたこの思い。君のことが知りたい。なのにどうして不安に感じるんだろう。君を知ることに強い不安を感じるんだ』
彼女はやはり何も語らない。その澄んだ双眸で見つめてくるだけである。
やがて彼女は目を細め、空を見上げた。彼女は全身全霊で自然と会話しているようだった。
(彼女が誰だっていい。ただ、今、この瞬間が永遠に続けば‥‥)
『私を見つけて』
その声は脳内に深く刻まれたものだった。
『その声はミレイなのか?』
そう云って遼太郎が腕を伸ばした瞬間、ミレイは風に巻かれて空へ飛んで行った。
『待て、ミレイ!』
遼太郎はパッと目を覚まし、辺りを見回す。身体には汗が纏わり付いていた。
「ミレイ!」
彼女はまだ部屋に戻ってはいなかった。遼太郎は強い衝動に駆られベランダに出た。突然、突風に煽られ遼太郎は空を仰いだ。空には薄曇りに隠れた月があやふやな姿でこっちを窺っている。
「ミレイ。すまない。軽々しく命を差し出すなんて云って。ほんとうにすまない‥‥」
すると風が止み、左肩の方に気配が感じられた。いつの間にかミレイが遼太郎の隣に立っていた。
「ミレイ」
感情の迸りが胸に熱いものを湧き上がらせ、涙が頬を伝わった。
「すまない。もうどこにも行かないでくれ」
それから遼太郎はミレイと肩を並べ、真夜中の月を眺めた。風に流れ、雲が舞い、月が見え隠れしている。時折照らされる月影にミレイの姿が浮かび上がるように見えた。ミレイは遼太郎の方を振り向き憂いを帯びた表情で微笑みかけた。彼女を掴み取りたいそんな欲望に駆られが、その昂りを抑えた。届きそうで届かない想いに翻弄されているかのように遼太郎はその場に立ち尽くした。
永遠かと思えるような刹那の刻が胸に焼付く。
その日は五月晴れの気持ちのよい朝だった。ゴールデンウイークの初日、遼太郎は青空に誘われて散歩がてらコンビニで買い物をしようと出かけた。学校の通学路を三十分ほど歩いた頃、影が地面を縫うように移動している。よく注視するとその影は黒猫であった。遼太郎は思わず黒猫を追い、駆け出していた。黒猫を追いかける間、なぜかミレイの気配が頭から抜け落ちていた。通学路よりだいぶ南の方向へ来ていた。遼太郎は辺りを見回す。街路樹の緑が陽光に洗われ目に沁みた。閑静な住宅街が立ち並び、公園では親子が遊具で遊んでいる。するといつの間にか例の黒猫の姿は見当たらなくなっていた。
そのときだった。一陣の風が吹き荒れ、白い蝶蝶が舞い降りるかのように遼太郎の足下に、白い朱に染まったハンカチが目の前に落ちた。遼太郎はそのハンカチを拾い上げる。
「あっ、ごめんなさい……」
息を切らせ少女が駆け寄ってきた。凛堂美月であった。
遼太郎はそのハンカチをミヅキに手渡す。
「ありがとうございます。これは私にとって、とてもだいじな物なんです」
そう云って、彼女は祈るような形でハンカチを包み込み胸に充てた。彼女の手にしている白いレースのハンカチは蝶々のようなシミが残ってしまっている。
「あのときのハンカチだよね」
「はい……」
遼太郎は戸惑った。代わりに新しいハンカチをあげたほうがいいのか、一瞬、思索したが、彼女がだいじそうに手にするそのハンカチを見てその考えをやめた。
彼女と視線が重ね合った。
沈黙が二人の刻を止めた。
ミヅキは頬を朱に染めながら、「この間のお礼に、お茶でもいかがですか?」と聞いてきた。遼太郎は別段断る理由がないので頷いた。そしてちらりミレイの方に視線を移す。
二人は、通学路から南に移動し、小さな橋を渡り、そこから十五分位歩いた商店街の入り口にある喫茶店へ入った。
カウンターには常連客らしき人が三人いて二人はカウンターから三段ある階段を登り、窓際の丸テーブルに二人分の椅子がちょうど空いており、そこへ向かい合って座った。
「ほんとうにあのときはありがとうございました」
ミヅキは改めてお礼を云うと「そんなに高いものはごちそう出来ませんがいいですか? 私から誘っておいてすみません」と云って申し訳なさそうに苦笑いする。
「別に構わないよ」
「よかった」
そう胸をなぜ下ろしてミヅキはブレンドコーヒーと、チーズケーキ注文し、遼太郎は同じくブレンドコーヒーを頼んだ。
中の雰囲気はクラシックな音楽と共に落ち着いた橙色の照明がしっとりとした静かな空間を醸し出す。
そんな中、ミレイが空中浮遊をしながら二人を俯瞰した形で様子を伺っていた。
「あのよかったらこのケーキ半分こにしません?」
頬を赤らめ彼女は云った。
「そんな、いいよ」
「ごめんなさい、迷惑ですよね。何かもっと他のものを頼んでください」
「別に、迷惑って思ってないから。せっかく君が頼んだのに悪いと思って」
「私の気持ちです。今、思っている素直な気持ちだから‥‥」
しおらしい彼女の振る舞いを見て遼太郎は「じゃー、いただくよ」と云った。
「よかった。私、初めてなんです。こうして男の人とお茶するの。何かすごくドキドキしちゃって」
「ぼくも初めてだよ」
クラシックな音楽からジャズに曲が変わっていた。
「あの、私もう半分食べたから、あと全部食べてもいいですよ」と云って、残りのチーズケーキと、フォークを差し出した。
「あと、そのスプーンじゃ、食べにくいでしょ。フォークを使ってください」
そう云って彼女は俯きながらさらに頬を紅色させた。以外と大胆な行動をする彼女の顔を伺い、遼太郎はフォークを手にし、残りのケーキをいただいた。
「ありがとう。ごちそうさま。美味しかったよ」
「いえ、どういたしまして……」
そのあとミヅキは言葉を繋ごうとしたが口を濁した。
「どうしたの?」
「えっと、あの‥‥」
「遠慮なく何でも云って」
「あの、連絡先を‥‥」
遼太郎はズボンのポケットからスマホを取り出し、連絡先を開いてミヅキに渡した。
「あ、ありがとうございます」
ミヅキは震える手で連絡先を入力した。
「ほんとうにありがとうございました」
ミヅキは深々と頭を下げた。そして会計を済ますと二人は喫茶店をあとにした。
「今日は楽しかった。また学校で」
遼太郎の言葉にミヅキは瞳を輝かせた。
そんな出来事があってから、二人はバスに乗るとき自然と隣同士の席に座るようになっていた。ミヅキが何気ない日常の会話を演出し、遼太郎はその話に耳を傾ける。そんな二人をミレイは興味深く観察するという日常の一齣が出来上がっていた。生きる陽光を照らしてくれるミヅキと、月明かりのようなミレイという存在が、遼太郎にとって自分の存在意義を浮き立たせてくれるのを、心神の奥に小さな萌芽を感じとっていた。
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