彼女と現実世界

 いくつもの揺らめく脳が宙を浮いている。またいつもの夢だと遼太郎は第三者的な視点で認識していた。

 遼太郎の目の前にある影は茫洋とした実態がゆらゆらと揺れていて、いくつもの影の分身が見えた。遼太郎がその影を凝視していると、やがてその分身はひとつの影に重なり一塊の実態になった。影を目で追うことが出来るようになったのは漆黒の闇が薄れたのか、目がこの空間に慣れてきたのであろうか。そんな思索に捕われながら遼太郎は目の前の影を凝視した。

『ボクの与えた影はどうだい?』

『あの影はいったい何なんだ?』

『あの影は君が現実と認識する世界に必要なもの。影がないと何かと不都合だからね。君に似合っているといいんだが‥‥』

 影は、洋服店の店主が客の服の好みから、それに似合った服を見繕うみたいに云った。

『現実の世界?』

『そう。君が認識する現実の世界。前にも云ったが、ここの世界では夢もうつつも同じ現象に過ぎない。でも、君が認識する世界は現実と夢を区別する。ボクにとっては夢もうつつも同じものだと認識しても、君はそうとは限らないのさ』

『ちょっと待って、云っている意味がよくわからない』

『わからなくても構わない。その身で体現するはずだから問題はない』

 そう云うと影は遼太郎の視界から消えていた。

 意識が薄れ、世界が入れ替わる。

 ふと目を覚まし、意識の感覚が現実に引っ張られ遼太郎は目を覚ました。

「‥‥‥‥な、なんなんだこの光景は‥‥‥‥」

 瞼を開け飛び込んできた光景に遼太郎は驚いた。目の前、わずか数センチにも満たない位置に彼女のかんばせがあった。唇と唇が今にも邂逅しそうな距離である。

 彼女は仰向けになった遼太郎の上に浮遊する形で目を見開いてこっちを凝視していた。

 遼太郎は一瞬、顔を背けたが、その瞳に吸い寄せられるように彼女の双眸を直視した。

 宇宙に吸い込まれるかのような瞳。わずか数センチにも満たない距離に彼女の瞳が目の前にある。その瞳を見つめていると小宇宙に抱かれた気持ちになった。

 その彼女は宝石の原石を見つけたかのように遼太郎を食い入るように見つめていた。心臓の鼓動が身体中に鳴り響く。遼太郎は思わず彼女の頬に手を触れた。が、指先には感触は残らなかった。やはりこの世界のものでは無いということを実感せずにはいられなかった。 

(君はいったい、誰なんだ‥‥) 

 ニューロンが同じ疑問を脳内で処理する。

 そのときであった遼太郎は枕元に何気に読みかけていた詩集の一ページになぜか目が止まった。

『儚し夢の残骸に残る君への想い』

 遼太郎は詩の題名に目をやった。この詩集は遠い昔からそこにあるかのように存在していたような気がした。もちろん遼太郎は無理を云って、最近この部屋に越してきたのだが、引っ越しをするときに自然と実家から持ってきたものであった。なぜそうしたのかはわからない。思い出のない記憶が感覚的にこの本を手に取ったのだろうとしか推測できないでいた。遼太郎はたまにこの詩をベッドに寝転びながら読むことがあった。

 そして今、目にしたページの詩に視線を走らせた。


『太陽がその姿を隠し、そして闇が世界を覆う。

 君は泣いていたね。盗まれた夢が君から希望を奪ってしまわないかって。

 君は怖がっていたね。盗まれた夢が君の存在を消してしまわないかって。

 だからぼくは君の夢を探しに出かけたんだ。

 荒野の闇も月がぼくを照らしてくれた。道に迷っときは星が導いてくれた。

 でも、どこを探しても君の夢を見つけることができなかったんだ。

 ごめんよ。

 涙は流れるのに君の想いには答えられない。

 でも、ほんとうは知っている。君が夢の残骸で泣き明かしたことを。

 だからぼくは君の夢を盗んだんだ。

 夢の残骸と共にぼくは消え去るよ。

 さよなら‥‥。

 名もなき君の見る夢がぼくは好きだった』


 遼太郎は一通りまたこの詩を読んで瞑目した。そして仄かな彼女の存在を鑑みて、それは自分自身の心の声なのかはわからなかったが、とても懐かしくて、この詩の想いを彼女に重ね合わせた。そのときハッと気付いた。懐かしいという感覚に脳が反応したのだ。思い出をなくした遼太郎にとってその感覚は甘美な蜜のような味わいであった。

 興味津々な瞳で見つめてくる彼女に対して、遼太郎はこの詩を読み聞かせた。彼女はしばらく目を閉じ、遼太郎の朗読に耳を傾けていた。そして詩を読み終えたあと彼女の双眸は遥か彼方の深淵の宇宙そらを見ているかのように視線が宙を漂っていた。 

 その彼女の吸い込まれる瞳を見ていると、まるで宇宙に吸い込まれてしまったように心神しんしんは宙を舞った。

 彼女は喜怒哀楽を持たない人形みたいにそこにいる。しかし、遼太郎という存在に対してまるで心を欲しているかのような雰囲気でその場所にいた。

 ベッドの横にある小物入れの上にある置き時計に目をやると、時計の針は真夜中の一時十五分を指していた。最近は特に眠りのリズムが狂っている。眠気が四六時中襲ってくるときもあれば、真夜中の中途半端な時間に目が覚めてしまうこともある。

 思い出をなくして以降、不規則な睡眠に付き合わされることとなった。しかもまるで現実と錯覚するような影と対峙する夢はアイデンティティーをえぐり出そうとするような影との会話に遼太郎は己の存在意識を保つこともままならなかった。

「ふうー」

 遼太郎は深い溜息をついた。

 妙な緊張感を解きほぐす為、パソコンを開き、動画投稿サイトを気分転換に視聴した。しばらく彼女の動向を観察しながら動画を流し観していた。

 その内に、この非現実に向き合っている自分が妙に落ち着いていられることに何の違和感を感じなくなっていた。そして、しばらくして眠気が襲ってきた。ベッドに深く沈み込むと、遼太郎は眠りの世界へ落ちていった。

 またいつもの景色が目の前に広がっている。浮遊する脳の中の細胞、ニューロンが電気信号を送信・受信している様は人の思考や意識の塊が活動しているようにも思えた。

 遼太郎はこの脳のどれかの意識が自分ではないかと思うようになっていた。

 ふと目を凝らすと空がオレンジ色に染まる景色が目に飛び込んできた。

 鮮やかなオレンジ色は太陽がその身が隠そうとしていたときに黄昏を連れて来た。そのとき遼太郎は誰かに呼び止められてような気がした。遼太郎はそっと後ろを振り返る。足元から長く伸びた影が打ち上げられた難破船のように刻を止めたまま昔からそこにいるかのようであった。遼太郎の心は吹きすさぶ冷たい風に晒されているようで思わず身をすくめた。

『その影には慣れたかい?』

 いつの間にか遼太郎の目の前に姿を現した例の影が聞いてきた。

『わからない』

『そう。確かに感覚としてわかりづらいかもしれない。でも君の世界の現実にはよく馴染むはずだ』

『そういうものなのか?』

『そういうものさ』

 影は黄昏た景色に目を細め、しばらく沈黙した。まるで物思いに耽っているかのように影は遠くを見つめている。

 遼太郎の心の中にある疑問が浮かび上がる。自分と対峙している影はいったい何なのだろうと。しかし、その疑問を口にするには禁断の呪文を口にするかのように憚れた。

(またあの世界の夢か‥‥)

 夢と現実の境界線を超えぬまま遼太郎は目覚めた。現実と肌で感じるこの世界。そして夢であるあの世界。遼太郎は時間が経っても夢の世界の出来事を覚えていた。そのことが現実世界でも遼太郎の磁場を狂わせているような気がした。

 遼太郎は彼女の姿が見当たらないことに気づいた。朝の陽光はカーテンを明るく染め、朝の時間帯を告げていた。遼太郎はカーテンを開いた。するとそこ彼女の姿があった。彼女はベランダに立ち、外の景色をゆっくり眺めていた。その光景に遼太郎は目を奪われた。彼女の佇まいは、まるで絵画を見ているように清廉で可憐であった。

 その晩も彼女はいつものようにベランダに立ち、外の景色を眺めていた。遼太郎は彼女の隣に立ち、真夜中の景色を眺めた。街の明かりが点々として、六割位が眠りについている。現実世界の街並みと非現実である彼女の存在が交互に入れ替わり、それはまるで夢とうつつが交互に体感しているような感覚に陥った。眠気を覚えた遼太郎は彼女を残しベッドに沈む。

 スマホの目覚ましが、けたたましく朝を告げる。遼太郎は寝ぼけた眼で時間を確認した。学校へ行く支度をしなければと思考するが眠気が身体をこわばらせている。しばらくその場に固まっていたが、気を振り絞りベッドから起き上がった。昨夜見た幻想的な彼女は床で丸まった形で寝ており、まるで猫と見間違うような姿だった。

 彼女が目の前に現れたあと、二日間、学校を休んだ。その間、スマホに母から連絡が入っていたが、風邪を引いているがそんなに辛くはない。少し寝ていれば大丈夫だと話した。

 遼太郎は目の前にいる少女のことはひとまず置いといて、学校へ行かねばと思惑した。これ以上、母親の介入は好ましくないと思ったからだ。そして学校へ行く準備に取り掛かった。トーストにマーガリンを塗り、ホット牛乳で喉に流し込む。ポテトサラダを平らげ、洗面所に向かい顔を洗い、歯を磨き、制服に着替えた。

 徒歩二十分位のところにある交坂町駅のバス停に向かう。そこから隣町にある私立鈴乃宮高校近くのバス停で降り、校門へ向かって行った。

 いつもの変わらぬ風景。すれ違う人々。そして背中に感じる気配。わざと視界に入れぬよう努めてきたが遼太郎は自分のあとを付けてきている気配をずっと感じていた。彼女が背後霊のようにそこにいるのだ。彼女の存在は遼太郎の身長とほぼ変わらず、後ろをゆったりと舞いながら付いてきている。

 周りの人たちにはどうやら彼女の姿は見えていないようだ。誰も遼太郎の方を気にすることなく普段と変わらない生活習慣を送っていた。

 遼太郎は校舎の一階にある一年B組の教室に入って行き、自分の席に着いた。そして彼女の姿をしっかりと確認すると、どうしたものかと掌を後頭部で組んで状態を反らした。

 ショートホームルームの時間が始まりクラスは朝の始まりを迎える。

 彼女は、遼太郎の机の上に座り足をブラブラさせている。自分だけが異世界にいるような不思議な光景が目の前に広がっている。ていうか、彼女の背中で前が見えない。壇上から赤井先生の声がするが、それどころではない。

(くそー。前が見えん)

 遼太郎の瞳孔は彼女の姿をはっきりと捉えている。しかし、周りにはまったく見えていない。

「おい。そこをどけ」

 小声で話しかける。彼女は音のリズムで弾けるような髪を揺らし、遼太郎の方へ振り向き微笑んだ。そして今度は机の上で正座するかたちをとると、向かい合う姿勢となった。

「何でこっちを向いているんだよ。これじゃ落ち着かないじゃねえか」

 遼太郎は気恥ずかしくなり小声で注意した。

 前の席に付いている眼鏡をかけた小柄な(遼太郎とは一言も会話したことのない)佐藤英美香が不振な目で振り返った。遼太郎はとっさに窓辺に視線を移し、いつもの生気の感じられない虚ろな目をした。

 結局、その日、一日中、彼女は机の上に座ったり遼太郎の周りをうろうろしたりしながら、童女が退屈を持て余すように刻を過ごしていた。

「はぁー。疲れた」

 下校途中、校門を過ぎた辺りで自然と独り言が漏れた。

「ほんといろんな意味で疲れて『憑かれ』ているよ」

 柄にもないジョークを混ぜ、自称気味に笑う。しかし不思議とらくという感情が湧いて来ていた。

 部屋に着くなり学生鞄を放り投げ、ベッドに身を投げ出す。その様子を興味津々で見ている彼女。

「君はいったいほんとうに誰なんだ? 黙ってないで答えてくれー」

 彼女はぼんやりと遠くを見つめながら沈黙を守った。

 幽霊少女を目の前にして遼太郎の思考は堂々巡り繰り返していた。

(君はいったい誰なんだ……)

 そう思う思考が、ふと寂しさを湛える彼女の雰囲気が脳裏から離れない。

 その夜、遼太郎は眠気を押さえながら彼女の動向を見守った。彼女はベランダに立ち、空を眺めている。彼女の視線の向こう側になにがあるのだろうか。いや、なにを想って佇んでいるのだろうか。静謐な時間がただ流れていく。

 ここ数日はあの影が潜む世界には引っ張られないでいる。そのせいか睡眠のリズムが整ってきたようにも思えた。そして彼女の存在が日に日に増していく。彼女はまるで飼い犬のように自分のあとをくっ付いてきては物珍しそうに遼太郎の日常を観察している。彼女という存在がだんだんと日常に溶け込んでいくと同時に彼女のことを知りたいという欲求が胸の内にさらに膨らんできた。しかし彼女はなにも答えてはくれない。

 彼女の思考を言葉として感じ取りたい、胸中に渦巻く感情が押さえきれない。

(喋れないのか……。どうすればいいんだ)

 ベッドに横たわって物思いに耽っていると、彼女は遼太郎の横にくっ付き、添い寝するようなかたちで顔を覗き込んでくる。遼太郎は顔を赤らめ彼女に背を向けた。

 そんな遼太郎は今までに感じたことのない胸の苦しみを覚えた。しかしそれは痛みというよりも生きている鼓動を感じ取っている気がしてならなかった。

 それから遼太郎は毎朝起きる度に彼女の姿を確認するようになった。彼女が、夢、幻ではないかと不安にかられ、彼女の姿を認識する度にその思いは稀有に終わり安堵した。

『彼女の存在が自分だけにしか認識できていない』そう思うことで遼太郎は彼女の存在理由がより深く心に刻まれていくのである。

 ある日、遼太郎は彼女に向かって語りかけた。

「君のことをなんと呼べばいいかな? 人代名詞ではなく、名前で呼びたいんだ」

 彼女は遼太郎の問いに微笑みかけると興味深そうな双眸で見つめ返してくる。

「それじゃ、ミレイはどうかな。君の名前。美しい霊って感じだからミレイ」

 彼女は微笑を湛え、コクンと頷く。

 その日から彼女は名前を持った。名前を持つことでより彼女の存在が親密で実体のあるものと感じ取られるようになった。虚無の心に命の息吹が芽生えたように思える。

 一日が終え、眠りにつく前のひととき、窓辺に佇むミレイの姿に、月明かりが溶け込んでほんのり光を放っているかのように見える。その神秘的な佇まいに遼太郎はしばし刻を忘れ、その幻想的な光景を見つめる。その瞬間、この刻が遼太郎にとっての至福の時間となっていた。

 

 その夜、遼太郎は夢を見た。それは今までの引っ張られる感じから吸い込まれる感じに近かった。

 何処までも深く、まるで永遠に続くかのような深淵の湖の岸に遼太郎は立っていた。風が騒ぐ。湖にさざ波が起ち、風の声にまぎれて誰かが呼んでいる気がした。遼太郎はその声に導かれ湖の中へと身を投じる。永遠に続くかのようなディープブルーに落ちて行く中で一筋の光が射した。その光は白く透明な手に変わり遼太郎に差し出された。

『私を見つけて』と脳に直接響く声がした。

 遼太郎は差し出された手を掴もうと、目一杯腕を延ばす。しかしそれ以上手は届かない。そして、その声は深く脳内に刻まれていく。

 遼太郎はがばっと起き、周りを見回した。

「夢か……。それにしても私を見つけてとは、いったいどういうことだろう……」

 傍らには童女のような寝姿のミレイの姿があった。

 現実世界すら纏わりつくあの影はしばしなりを潜めていた。そのことを思考するとミレイという存在が自分の世界に入ってきているからではないかと思うようになった。

(今はこの非現実を失くしたくはないな)

 そう、心の声が聞こえた。

 

 その日は朝から雨模様だった。春の冷たい雨の下、傘を差し学校へ向かう遼太郎。そのあとをミレイが付いてくる。彼女の存在にはだいぶ慣れてきたが傘を差さない彼女が気になり何度か後ろを振り向く。彼女の身体をすり抜けていく白糸模様。すり抜けていくというか溶けて混じり合っていくかのようにさえ見える。

 遼太郎はミレイの横に並び、傘をそっと差し出す。ミレイは紺色の傘を、しげしげ見つめ、ニコッと微笑んだ。さっきまでミレイの身体をすり抜けていた雨は止み、傘の下、二人の空間が刻を止めていた。

 

 授業中、彼女は遼太郎の周りをうろうろしなくなった。遼太郎は彼女にじっとしていてくれと諭したのだ。ただ、時折、膝の上に座るのは勘弁してほしいと思った。

 担任の赤井先生が黒板に数式を書き込んでいく。

「さてこの問題を解いてもらおうかしら。上条君」

 黒板には二次方程式の解の公式を求めよという問題だった。遼太郎は黒板の前に立つこともなく「分かりません」と答えた。

 赤井先生はなかば呆れ顔で膨よかな胸を押さえつけて腕組みをする。

「はーあ。まるっきりやる気が感じられないわね。とりあえず、ここまで来なさい」そう云って赤井先生は黒板の前まで促す。

 仕方なく遼太郎は黒板の前まで出て行き問題と向き合う。

「授業をちゃんと聞いていればわかるはずなんだけどなー」

「先生、そもそも社会にでて数学はどれほど役に立つんですか? 今はパソコンや、計算機もあるし、それほど困らないと思うのですが」

「いい、上条君。パソコンや、計算機があるから数学を勉強しなくても困らないと思っているかもしれませんが、数学の答えを導きだす過程がだいじなの。それは論理的に物事を思考することに繋がるのよ。微分積分は物事の予想をたてるのにとっても役に立つし、例えば、天気予報とか、GPSとかね。三角関数でいえばサインカーブは波を表しているし………。つまりテレビやラジオなど送受信する電波がそうよね。医学で言えばCTスキャンや、MRIとかの技術に使われているものは三角関数、細かくに云えばフーリエ理論によって成り立っているのよ。フーリエと云えばフーリエ変換を使えば波の特性を知ることができるわ。でも私たちは有限の時間でしか生きられない。無限の波を観測できないわけね。それが波の不確定性といって、量子の世界で波の不確定性というのが重要な要素になってくるのよ」

 先生の脱線した話に誰も付いていけず教室は水を打ったように静まり返っていた。そして遼太郎の目には長々と講説を垂れた赤井先生の前に腕組みをして仁王立ちしているミレイの姿だけが異彩を放っていた。

(ぼくが怒られているとでも思っているのか?)

 遼太郎は深い溜息をすると黒板に向かって二次方程式の問題を解いた。

「やればできるじゃない」

 赤井先生の発した言葉と共に遼太郎は席に着いた。

「葵ちゃんは、なんで数学の先生になったんですか?」

 すると突然、闊達な性格で赤井先生のファンを豪語する今田剛が先生に質問した。

「この世の正義、悪。神、宗教。人の抱えている業など関係なく、ひとつの真実としてこの世に存在する真理を見てみたかったから。かな」

「ふーん」

 今田剛はわかったか、わからなかったような気の抜けた返事をした。

(真理か……)

 遼太郎は自分の真理が何処にあるのかふと考えた。しかし、その思考はすぐに影を潜めた。わからないのだ。

 開かれない扉。その扉の向こうにほんとうの自分の心があるのだろうか。遼太郎はふと思いを巡らす。人に対して心を開かない。いや、そうではないのだ。人に対して興味がないのだ。それは自分自身に関心がないとも同意義であった。だがいったいなにに対して心を閉ざしているのだろう? ふとそんな疑問が心神に湧いてくるのだ。

「こら。ちゃんと人の話を聞いているの?」

 自分の世界に入っていた遼太郎を赤井先生が咎める。

「じゃ、席について」

 遼太郎は自分の席に戻った。仁王立ちしていたミレイも彼のあとを追う。

「ふぅー」

 遼太郎はため息をつき、再び虚ろな視線を窓辺に移し思惑した。真理とはなにか。自分はいったいなぜここにいるのだろうかと‥‥。

 そんな遼太郎の思惑とは別にミレイはまるで空に浮かぶ雲のように漂っている。そんなミレイの姿を見て遼太郎は少し羨ましく感じた。

 流れる雲。流れる刻。遼太郎はいつもここではないどこかに自分の存在する場所があるのではないかという漠然とした夢想を抱いていた。しかし今は、彼女の存在が自分を現実というリアルな感触に触れさせてくれている。窓の向こう側に広がる蒼穹の空に一筋の飛行機雲を見て、心なしか気持ちが羽のように浮かぶような心地よさを覚えた。

 ホームルームが終わったあと、遼太郎は担任の赤井先生に呼び止められた。

「上条君。なにか悩みごとがあるならなんでも先生に相談して」

「別に悩みなんてないですよ」

 遼太郎は自分の周りを浮いているミレイに気を配りながら返答した。

「なんか、いつも上の空で、なんていうか心ここにあらずというか。魂が抜けているというか……。それにクラスでも孤立しているみいだし」

 そう云って赤井先生はぐいと遼太郎の方へ身を寄せた。白いシャツのボタンが弾けそうなほどの胸の隆起がさらなる圧力を掛ける。

「聞いているの?」

「あっ、はい」

 そんな遼太郎のありさまをよそにミレイは皿の目で赤井先生を見ている。

「悩みなんて、ありません。それじゃ、ぼくはこれで」

 遼太郎は、そそくさと教室をあとにした。

 赤井先生のもとには、他の男子が甘い物に引きよさせられる蟻のように群がってくる。悩みがありますと……。

 彼らの悩みは青春という名の欲望に過ぎなかった。

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