空から降って来た少女

(ぼくは、なにを無くしたのだろう)

 自分の存在さえ、不確かなモノと認識してしまいそうな気怠午後であった。

 上条遼太郎は流れる雲を眺めながら物思いに耽っていた。飛ぶことを忘れた鳥のように空を仰ぐ。

 虚空の心は何処まで行っても空虚であった。

「こら、またぼけーと、空を眺めて。そんなに空が好きなら鳥として生まれてくればよかったのに」

 教室中が笑いに包まれる。

 担任の赤井葵先生が叱咤する。

 遼太郎は動揺もせず彼女の動向を見守った。

 赤井葵先生が遼太郎に詰めよって来る。彼女の盛り上がった白いブラウスが妙な威圧感を与えた。遼太郎は担任の豊満な胸を気に留めることもなく。ぼんやりと視線をまた窓際の景色に移す。

「あまり授業に身が入らないなら、最前列の真ん中の席に移すよ」

 窓側の最後尾から二番目に位置する遼太郎は「だからなに?」と面倒くさそうな表情を浮かべ、虚ろな視線を教科書に移した。

「はーあ」

 やる気のない生徒にどう対処したらよいかわからなく、ため息をついて赤井葵先生は教壇に戻った。

 赤井葵は名前から、赤井先生。一部の男子からは、葵ちゃんと呼ばれているが、影では色物先生、色物から転じて、敷物先生などと云われている。が、それらの呼称は愛称であり、けして悪い意味での渾名ではない。彼女は容姿端麗で飾らない人柄、男女共にわけ隔てなくフレンドリーな性格から生徒達に慕われていた。公然とファンクラブまであるのはその証拠といえよう。

「じゃ、授業を続けます」

 遼太郎はフンと鼻を鳴らすと、授業を聴く体裁だけは繕った。

「……こうして数学は宇宙の真如しんにょを解き明かす知の道具として使われているのです」

「先生! しんにょってなんですか?」

 一人の女子生徒が質問する。

「えーと、真如とは仏語で、『永久不変の真理』などという意味です」

「ふーん」

(真理か……)

 遼太郎はまた窓辺から空を眺めた。

 心の深淵で忘れた記憶を求めようとしている。夢見の間の出来事が遼太郎の思考を、夢、うつつの間を揺らめかせていたが、自分が誰であるかという問いを深く追うことに対して触れてはならない禁断の扉のようなモノに思えてならなかった。

 夢見の間の残滓を振り払おうと空を眺めていたが、空は平凡な日常の一コマを映すだけであった。

 それでも遼太郎にとって空を眺めるということは、生きていることの苛立ちと厭世えんせいからの現実逃避を表していた。

 赤井先生の真理を探求する授業は続いている。が、遼太郎にとって生きる意味とはの問いかけに数学が役に立つとは思えなかった。

 

 遼太郎は入学早々、女子から声を掛けられることが多かった。背丈は一六十二センチとけして大きくないが、小顔で均等のとれた顔立ち、奥二重だが黒目がちな瞳には母性本能をくすぐるものがあった。しかし、相手が話しかけてきても表情ひとつ変えずに応答しないので、少しずつ彼の周りから人が遠ざかっていった。

(自分という存在意義を定義したところで何か答えが見つかるのか?)

 遼太郎はそう思いながら微睡む視線を赤井先生に向けた。

 赤井先生は「数学の本質を理解できるものはこの世を制覇できるのよ」と高々に述べた。それは数学愛からくるものだが、大半の生徒が授業に付いてこられないのを嘆いているようにも思えた。

 しかし、赤井先生に従順な生徒は多いので形だけはやる気を見せていた。(特に男子にその光景は目立つ)

 授業が終了するチャイムが鳴るとからすが騒ぐように教室は喧騒に包まれた。

 そしてまた次の授業のチャイムが鳴り、自分とは関係ないところで授業が行われていく。

 お昼になっても遼太郎は一人窓辺の席で学校の通学路にあるコンビニで購入した牛乳パンとサンドイッチを齧り、時折、紙パックのカフェオレを飲みながら、一人黙々と昼食を機械のように口に運ぶ。

 周りの喧騒は電波の悪いラジオを聴いているみたいでイライラしたが、頭の中でボリュームを下げ、気にならないような雑音にしていた。

 その日も、自分という抜け殻をその場に脱ぎ捨てて、学校生活の一日が終わっていった。

 遼太郎は部活動をしていないので、さっさと帰り支度をし、誰にも声をかけられることなく学校をあとにした。

 帰路の途中。周りの喧噪から取り残された空間に一人ぼっちの影を引きずり、いつもの癖でぼんやりと空を見上げていた。

 蒼穹に飛行機雲の白線が気持ちよく映えている。五月晴れとはまさにこのことだろう。清々しい景色とは反対に遼太郎の空虚な瞳に空が映し出されていた。

 そのときである双眸にありえないものが映った。

(うん? なんだあれ?)

 空から人らしき物体が遼太郎めがけて迫ってくる。その刹那、雨粒のように空から降ってきた少女と目が合ったような気がした。

「うわー」遼太郎は叫び声を上げ、身動きがとれず原子の動きさえ静止したような空間で、頭を抱えしゃがみこんでしまった。

(なんだ今の……。空から女の人が降ってきた。そんなバカな……)

 遼太郎は恐る恐る顔を上げ、辺りを見回した。が、しかし辺りには人らしきモノは存在しなかった。

(なんだろうこの感じ……)

 身体に一陣の風が吹き抜けたような、それでいて乾いた身体に潤いが満たされていくみたいな感覚を覚えた。

「空から少女が降ってきた……。なんだったんだ今のは……」

 見上げた空はなんの変哲もなく、安寧な青空が視界に広がっていた。遼太郎はしばらく空を見上げたあと、気を取り直して誰も待つことのないマンションへ帰った。

 

 上条遼太郎は今年の春に隣町の私立鈴乃宮すずのみや高校へと進学し、通い始めた。記憶喪失ではあるが普段生活するぶんにはなんの支障もない。高校へ進学出来たのも今まで蓄積していた知識と生活する上での情報は失われてはいなかった為である。中学のとき同じクラスだった生徒も数人いるのだが、彼等はあえて遼太郎に接しようとはしないし、彼が記憶喪失であることに対して、まるでその事実さえないように黙認している。その為か、学校側は校長先生と一部生徒以外は、彼が記憶喪失である事実を知らない。

 それはとある事件がきっかけで、心神しんしんが瓦解し、脳が混沌の闇に包まれてしまい、そして遼太郎は記憶を失くしてしまった。その記憶は思い出を巨人がその大きな手で土を掴み取るように奪っていき、溢れた土は生きていく為に必要な知識として記憶として残った。

 空虚な心は何を持ってしても埋まらない。自分が何者なのかという問いに両親はアルバムを見せたり、思い出話をしたりして、必死になって失われた記憶を取り戻そうと手を尽くした。しかし最初は記憶を取り戻そうと一生懸命だった両親だが、常に不安げな表情を抱え、遼太郎の記憶を取り戻すことに執着しなくなっていった。両親はいつも遠い目をし、いつも心ここに在らずといった感じで容貌ようぼうに暗い影を落としていた。そんな両親を見て遼太郎は息子が記憶喪失になった以外に、他に心配事があるのではないかという疑念を二人の気配から感じ取っていた。

 なんとか学校へ行く手続きを終えた頃、遼太郎は、「一人になって強く生きてみたい」そう両親に嘆願した。母は反対したが、父はすんなりとその想いを受け入れた。そう進言したのには己と向き合う時間を多くし、なるべく自分の力で生きてみることで、自分とは何かを見出そうとしたのかもしれない。

 とりあえず父は自分の管理するマンションの一室を息子に与えた。遼太郎は閑静な住宅街の一角にある十階建てのマンションの一番西側の4LDKの部屋に居を構える事となった。偶然にも一番人気のある部屋がちょうど開いていて、そこに滑り込むかたちとなる。

 遼太郎のマンションの部屋は、吹き抜けのフロアにダイニングキッチン、南側にはベランダがあり西にも視界が開けている。そこは日当り良好の環境で、ここからの眺めは市内の夜景も眺望出来き、特に日が沈む方向のベランダからの眺めは最高のサンセットスポットでもある。高校生が一人で暮らすにはあまりにも贅沢すぎる空間であった。

 十五畳の寝室兼リビングが彼の主な生活空間である。その部屋にはベッドと三十インチの液晶テレビ。本棚には櫛の歯が欠けたように揃っていない漫画が並んでおり、ベッドの周りにも漫画が散乱していた。部屋の真ん中にはガラステーブルがあり、そこで座布団に座りテレビを見ながら飲食をすることが多い。そして脱ぎっぱなしの衣服とコンビニで買ったお菓子類が雑然と置かれている。右隅にパソコン机と椅子があり、その机の上にノートパソコンが置いてある。普段からテレビを見るよりもパソコンでネットをしている時間の方が長い。テレビはいわば気分転換する為の道具であった。部屋のコーディネイトに一役買っている群青色のカーテンはアイボリーの部屋の色を浮き立たせている。辺りを見渡せばエントロピーの増大の法則に従うような雑然とした部屋である。しかし、他の部屋はまるで人の住んでいないモデルルームのような佇まいであった。

 

 そんなマンションの玄関のドアの前で遼太郎はふと足を止めた。

(疲れているのかな。人が空から降ってくるなんてありえないし……)

 さっきの出来事が頭を過る。そして一瞬、自分の影に呼び止められたような気がした。

(なんだろう、この感覚は‥‥)

 遼太郎はオートロックの暗証番号を入力し、寝室兼リビングに向かった。部屋に入ると水滴が空中で静止したかのような空間に足を踏み入れたような感覚に落ちいった。そして自分の生活空間に、一人の少女が眠るように倒れていた。

「…………。今のはいったい…………」

 制止した鼓動が早鐘を打っている。

(なぜ見知らぬ女性がぼくの部屋で寝ている)

 遼太郎は辺りを見渡し、自分の部屋だと再度確認すると、未確認物体を恐る恐る観察した。

 学校の制服(冬用のブレザー)に身を包んだ一人の少女がガラステーブルがある手前のフローリング床の上で横たわっている。

 白のラインの入ったネイビー色のブレザー。深緑の生地に紅のチェック柄のスカート。そのスカートから伸びる透き通るような太もも、メイビー色の靴下とブラウンのローファーを身に纏っている。その少女が身に纏っている制服は記憶にないものであった。

 横たわっている少女はまるで、童話の世界から抜け出した白雪姫のように思えた。

 周りの空気がひんやりと冷たく感じられる。

 遼太郎は、緊張と鼓動の高まりから咽喉を鳴らす。

(なんなんだいったい。この非現実的な現実は……)

 しばしの静謐が刻の脈を打った。

 遼太郎は意を決し眠っている白雪姫を起こそうと近づいた。雪のような白い肌。蛍のように仄かな光が発光している。まるで神秘の宇宙に包まれたかのような光華こうかしている彼女に、遼太郎はしばらくその場に佇んで、目の前の不思議な光景をしばらく見つめていた。

(これは夢、なのか‥‥)

 不確かなアイデンティティーを巡る夢ばかり見ている遼太郎にとって今思っている夢という概念は全く別の物語のフィクションとしか思えなかった。

 目の前に繰り広げられる光景を遼太郎は、ただ見つめるしかない。遼太郎は無垢な寝顔に吸い込まれるかのように彼女をじっと観察した。

 全体的に小ぶりで整った顔立ちで、髪型は風に煽られてもすぐ元に戻りそうなサラサラのショートボブスタイルである。

「うん? どこかで見たような顔だな…………。あっ、そうだ。空から落ちてきた少女だ」

 遼太郎は、驚天動地の脳内ビッグバンが起きたような衝撃を受けた。

(空から降ってきた少女がなぜぼくの部屋で寝ている……。っていうか、いったいなんなんだこの状況は‥‥。現実は何処へ行ったんだ)

 脳内ビッグバンから混沌の宇宙が頭の中で渦巻いていた。

 そのときだった突然彼女がむくって起きだし、その美麗たる唇が遼太郎の唇に重なった……ような気がした。

(へ? 今のはいったい……)

 遼太郎は驚いて後方へ身を退けた。

「君はいったい何者なんだ」

 心の声がそのまま言葉となって発せられていた。

 しばらく沈黙の間があり、彼女の双眸が遼太郎を捉える。その双眸は宇宙の深淵を覗くかのように黒く、星の輝きのように瞬いていた。

 遼太郎はその視線に身動きが取れず、その場に固まってしまった。

 彼女の双眸は、あなたは誰? と、云いたそうに見返してくる。憂いたる瞳を湛えたその視線がまっすぐ遼太郎を射抜いている。

 静謐な空間に遼太郎の鼓動だけが鳴り響いているみたいであった。

 とりあえず遼太郎は質問を変えてみることにした。

「君は何処からきたの?」

 ぼんやりと霞みが掛かった雰囲気を纏い、質問の意味すら理解していないように彼女は周りを見回した。

(君はいったい誰なんだ……)

 遼太郎の思考は脳に反響した。

 今、目に見える現実だけは本物だと思うしかないが、この状況を理解できるほど頭は落ち着いてはいなかった。

 彼女はゆっくりと部屋の西側の窓辺に立ち、昼と夜の境界線をじっと見つめている。西日が永い眠りから覚めたかのような彼女のかんばせを朱に染めていた。

 自分はなにかの幻影を目にしているのか、そう思った遼太郎は思わず彼女の方にそっと手を伸ばした。実体のない感触。その現実に遼太郎の思考は彼女が現実の人ではないということを認識した。

 云いようのない事実を突きつけられ、混沌とした深き森に迷い込んだような気がしたが、彼女の神秘的な姿を垣間みると、不思議と恐怖という二文字は浮かんでは来なかった。

 自分は自分の部屋で見知らぬ女性と夕日を眺めている。しかも彼女は生身の人ではないらしいのだ。

 消えゆく太陽と朱に染まる周りの景色。切なさと心地よい安らぎが波をうち、遼太郎は思わず涙を零した。

 その感情がいったいなんなのか知り得ぬままに……。


 少しずつ落ち着きを取り戻した遼太郎は制服(グレーのブレザーとスラックス、白いワイシャツに紺のネクタイ)を着替え、ベッドに座り込んだ。

(どうしたものか……)

 目の前にある現実から逃れるはずもなく、沈思黙考していたのだが、空腹という生理現象に抗うことも出来ず、遼太郎はキッチンに向かった。買い溜めてあったカップ麺を戸棚から取り出し、お湯を注いだ。未だ夢と覚えし少女の姿が脳裏に浮かぶたびに、かぶりを振りながらも空腹を満たした。すると少し汗ばんだので風呂に入ることにした。いつもより熱めの湯船に浸かり、心身共にリラックスしてくると、さっきの出来事がやけに現実離れしていて、ただの幻想ではないかと思索するようになった。が、しかし……。そんな思惑に捕われていたそのとき湯気に紛れて薄いレースのカーテンを引いたように彼女が立っていた。

「わあぁぁー」

 遼太郎の叫び声が湯殿に木霊した。

 その叫び声にどうしたの? とでも云いたげに彼女は小首をかしげる。彼女は湯船に浸かった遼太郎をただ無表情に見つめていた。

 奇妙な空間だった。自分は裸で湯船に浸かり、空から降ってきた見知らぬ幽霊(そう納得するしかないが)が、制服姿で目の前にいる。いったいこの状況はなんなのだと狐につままれたように遼太郎は呆然とした。

 湯を掌で掬い雑念を振り払うように顔をゴシゴシと洗った。すると彼女は視界から消えていた。

 部屋へ戻ると彼女はさっきと変わらず窓辺から見える景色を眺めていた。夜の闇に染まり、街の灯りが各家庭の生活を映し出すなか、彼女のかんばせは能面のように無表情であった。遼太郎はカーテンを閉めなくてはと思ったが、彼女の存在に思いをとどめ、そのまま照明を消してベッドに潜り込んだ。

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