幽しな存在に眠る夢

永遠(とわ)ミツキ

量子の海の微睡み

 いくつもの脳がまるで真っ白な空間に海月のように浮遊している。その様を第三者的な視点で何かの意識が思量として捉えていた。その意識は自分の存在を認識し、光ある方へ、意識の手を伸ばした。

 意識とは何であるか。脳という物質は一千億個以上の細胞があり、ニューロンと、グリア細胞と云う二つの細胞によって構成されている。ニューロンにより運ばれる伝達物質が情報を処理し思考を司る。脳が作る意識とは自我という存在を映し出す鏡なのであろうか? 意識した存在は答えを知る由もなく、ただ立ち尽くして意識としてそこに漂うだけであった。

 自分と意識したモノは云う。

『ぼくという存在はいったいどこから来たんだろう』

 その思考が情報の波となって周りの空間に伝播する。

 すると空間の歪みから黒い粒子状のものが現れひとつの塊となった。その塊は漆黒の闇を纏った影となった。

 影が口を開いた。

『情報の塊が意識を生み、己の存在を意識する。君の思考は君自身を生んだ。自分自身が何者で、どこから来たのかはときの流れに身を任せ、己に問い続けなければならない。それが意識を得たものの定めだろう』

 自分と意識したモノはその言葉を呑み込み、なんども反芻して得た情報を記憶した。

 しばしの沈黙が静寂をいっそう漂わせた。この世界は意識という情報の集合体であるのかは内側からはわからない。

『夢を見た』

 自分と意識したモノは長い眠りから覚めたように呟いた。

『どんな夢を見たんだい?』

『誰かの夢の中に自分は存在し、そのモノが夢から覚めるとぼくという存在は現実の世界と切り離されてしまう。そのことをぼくはなぜか理解しているんだ』

 影は黙って彼の云うことを聞いていた。そして自分と意識したモノはさらに言葉を続けた。

『ぼくは誰かの見ている夢にすぎないのか?』

 影は茫洋とした海を渡る一隻の船のように空間に揺らぎながら云った。

『現実も、この世界にとっては夢にすぎない』

『夢?』

 その問いにその影はゆっくり頷いた。

『今、思考しているこの感覚も夢だというのか?』

ゆめうつつが同じ意味であるとボクは認識している』

 海月のように漂ういくつもの脳は量子の海に漂う意識の塊なのか。意識という名の情報なのか。それすらもわからないままでいた。

『夢とはいったいなんなんだ?』

 その質問に影は微笑し、こう答えた。

『意識の深層に潜むもの。いわば情報の一種だ』

『君が思う世界は夢と現実も一緒なのか?』

『そうだ。全てが量子の波の揺らめきに過ぎない』

 ぼくと意識した存在は混乱した。今、この現実に対して夢ならば醒めて欲しいとも思った。が、しかし今、意識しているこの感覚も夢ならば夢から覚めた現実も影が云うには同じことなる。

『うわー!』

 ぼくと意識した存在は絶叫し、混沌の海に投げ出された一艘の船のように荒波に揉まれ、船から投げ出されそうになった。

『あがけ。もがけ。自分という存在を掴むまであがき続けるのだ』

 影は全てを呑み込むようにその空間を覆いつくしてしまった。漆黒の闇さえが夢の残骸のようにその世界を覆い尽くした。

 

(ここは現実か?)

 夢と現実の境界線を引けないままに少年はぼんやりとした思考を咀嚼するかのように、そこに佇んだ。

 周りの景色がだんだんと具現化してくると少年は夢から醒めた自分に問うた。

「なぜ、ぼくはここにいる?」

 夕闇迫るこくに窓辺から差し込む光が赤く部屋を照らす。いつ位から眠りに付いたのかはよくわからない。ただ意識の影が、自分にそっと忍び寄り自分を夢の間に引きずり込んだ気がした。

(夢か)

 少年は息を深く吸うと無機質な息を吐き出した。いつの間にか眠っていたらしい。

 少年は窓辺に立つと、夕日が照らす街の景色をただひたすら眺めていた。そこにあるものは無の感情しか存在せず、森羅万象のことわりに身心をすべて預けるのみだけであった。

 少年は夢から抜けきれない身体をノートパソコンが置かれている机の椅子に深く預けた。

 しばらくアイボリー色の天井の一点を眺めていたが、やがて瞑目した。

 時折、自分という存在が空虚な傀儡に思えることがある。

「ぼくはいったい誰なんだろう」

 ぼくという存在をここにある心の意識を俯瞰的に眺め、常に自問自答していた。自分という存在意義の意味をみいだせない。しかし、それぐらいならば生き甲斐を見つければいい。

 少年は生きている自分の魂さえも受け入れられないほどの空虚で蝉の抜け殻のような存在であった。

 部屋の色が薄闇色に染まっていく。少年は目を見開き、窓の外を再び眺めた。窓から見える景色は赤く染まった空に群青色が空の景色を塗り替えるように降りて来て永遠に続くかのような昼と夜の境界線が刹那のとききざんでいた。

 少年はその一瞬、脈動がうねるのを感じとっていた。

 そこには、季節は巡り、生きるものは育まれ、そしていつか死んでいく刻の流れというものがあった。

 少年は無くした何かを求めるかのようにベランダに出て空を見上げた。しかし自分という存在を埋めてくれるモノが何なのかわからない。少年はふと薄れゆく自分の影を見、対峙した。夜の幕が押し迫っている中、影は自我というものを持たず闇と同化しようとしていた。そのとき脳裏に自分を呼ぶ影の姿が浮かんだ。

 少年は自分を欲する感情というものが何なのかわからずにいた。眼下に見える街並みにいろんな人々が笑ったり、泣いたり、怒ったりしていることを想像しながら気持ちはなぜが宙に浮いたまま、空っぽの心で物思いに耽っている。

 自分自身と、この世界の有りようを問うても答えは返ってこない。空っぽの心をどうすれば埋められるのかもわからない。ただ自分がここにいることだけを現実として捉えるしか今はなかった。

 少年はベランダをあとにするとノートパソコンのスリープを解除してネットで昨今のニュースを暇つぶしに眺めた。ネットに広がるニュースは人のエゴが渦巻いたように混沌とし、拾い集めた情報は記憶に止めることもなく流れ落ちた。そのあと、何気ない日常の一齣を演出するかのようにキッチンに向かい、夕飯の支度をした。朝から作り置きしていた鍋に入った味噌汁を冷蔵庫から出し、電子レンジで温める。それと同時にレトルトのハンバーグを湯煎する。そして一人の夕食を済ませたあと、面倒臭いと思いながら肌に纏わりつく汗を拭おうとシャワーを浴びた。水という物質に肌を洗われていると生きているという実感が無意識に身体の中に染み込んできた。心に染み込んでいた夢の残骸は洗い流せたわけではないが、生きているという実感は戻った。そして洗濯をしておいた下着とトレーナーに着替え、自分の部屋へと戻った。

 何気ない日常。何もない日常。

 感情というものがあるならそれを喰らい尽くしたいと少年は思った。自分という空虚な入れ物に生きる鼓動を感じ取りたいと思ったからだ。

 しかし、空っぽの自分に入れるモノが欲しいんじゃないことはわかっていた。無くした何かが、なんなのかが知りたかった。その想いはなんとなくではあったが、脳が、魂が、無意識に欲していたのかもしれない。

 また睡魔が襲ってきた。今日はなんでこんなにも眠いのだろう。そう思う思考さえも呑み込むように睡魔は少年の脳の思考を停止させ、少年はベッドへへたり込んでいた。


 漆黒の闇に海月のように浮遊する脳が信号を送信したり受信したりしている。まるでニューロンの活動がコンピューターグラフィックのように見える。少年はそこにいろんな感情が浮遊しているのを肌で感じて寒気がした。

『ここはどこだ?』

 そこは無と云ってもいいほどの静謐せいひつな場所である。少年は一歩一歩前に進む。しかし歩いたという行為はあっても足跡は残せていない。少年の存在は何もない空間にただ取り残されているかのようであった。五感すべてが感じられず、虚無の空間に己の自我が転がっているようにしか思えなかった。

 突如、真っ黒な空間に亀裂みたいなものが現れたかと思うと、いつの間にか前に感じたことのある影の気配がした。

 どこからともなく影の声が聞こえる。

『君は、君の現実を望んでいるね。ならば現実の世界に馴染む影をあげよう』

 そしてその影の指す方向に漆黒の闇が揺らめいた。その揺らめきは少年とそっくりな形に変貌し、少年と重なりあった。

『この感覚はいったい何なんだ?』

 少年が戸惑っていると影はこう云った。

『これで君が欲する現実の世界で馴染むことができる』

『ぼくには、もともと影があったはずだ』

『いや、それは君がそう認識していたに過ぎない』

『認識?』

『そうだ。影も君をすぐに受け入れた。心が欲しかったからに違いない』

『心? 影も心を欲するのか?』

『ああ。君が思う現実の世界を生きたいと願ったからだろう。その願いはいわば君の願いでもあるのさ』

 少年は旅人のように風に流され、自身の影の気配を感じ、こう云った。

『心‥‥。ぼくは何者なんだ?』

『生きてみりゃわかるさ』

 そう云って影は揺らめいたと思った瞬間、影の気配は感じられなくなっていた。

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