真実
その日は台風が日本列島を通過するというニュースが朝から流れていた。
今朝、いつもバス停で待っているはずのミヅキの姿が今日は見られなかった。強風が吹き雨がぱらつき始めていた。バスは過ぎ去っていく。遼太郎はそのバスの後ろ姿を、見送りながらバス停でミヅキが来るのを待った。しかし、ミヅキはいつまでたってもその姿を現すことはなかった。次のバスが停車した。仕方なくそのバスに乗り学校へと向かう。教室に入ると道影零の姿も見られない。云い知れぬ不安と焦燥感が遼太郎を襲う。
朝のショートホームルームの時間になっても、やはり道影零は姿を現さなかった。不安は増幅され、居ても立っても居られなくなった遼太郎はトイレに行くと云い訳をして教室を抜け出し、階段の踊り場でミヅキに連絡をとった。が、ミヅキは電話には出ず、留守番のメッセージへと変わった。焦燥する気持ちを抑えながら何度も連絡を試みたが結局ミヅキと話すことは出来なかった。
思考がどんどんと嫌な方へと流れていく。抑えきれない衝動にかられ遼太郎は嵐の中をがむしゃらに駆け出していた。そしてミヅキの家の前に立ち、チャイムを押そうと人差し指を伸ばした。雨で身体が冷えたせいなのか、云い知れぬ不安のせいなのか、手の震えが止まらない。それでも意を決しチャイムを押すとミヅキの母親がインターフォン越しに対応してくれた。
「あら、どちら様?」
「ミヅキさんの友達です」
「待って、今、玄関のドアを開けるから」
ミヅキの母親は気さくそうで、明るい声をしていた。
玄関のドアが開かれた。遼太郎は身を震わせていた。
「あなたびしょ濡れじゃない」
そう云ってミヅキの母親は、びしょ濡れになった遼太郎を心配し、玄関の中に通すとバスタオルを持って来てくれた。
「お父さんの服を持ってくるから着替えなさい」
「あっ、いや」
そう云うやいなやミヅキの母親は新品のTシャツとトランクス、黒のトレーナー上下を持ってきて、ここで着替えるよう茶の間に案内した。
一連の流れを云われるままに遼太郎はそこで着替えていると、ミヅキの母親は意味ありげな一言を告げた。
「今、お友達が見舞いに来てくれているの。一緒にお茶どうぞ」
遼太郎はすぐに友永菜実の姿を思い浮かべた。
「お母さん。遼太郎さんが来ているの?」
それはミヅキの声であった。彼女の声はどことなしか弱々しく、か細い声をしていた。
「あの、遼太郎さん。聴いてほしいことがあるんだけど……」
遼太郎はドアを開けた。そして衝撃的な光景を目にする。具合悪そうなミヅキの後ろから階段から降りてくる一人の人物の姿が目に入った。
それは道影零であった。
(なんでおまえがここに)
道影零は「ボクはこれで失礼します。ミヅキさん。おだいじに」と云って遼太郎には目もくれず玄関を出て行ってしまった。
「お茶いれたから飲んでいって」
ミヅキの母親が声を掛けたが、道影零の姿は視界から消えていた。
遼太郎はこの場から消え去りたいという思いにかられ、濡れた服を持って玄関を飛び出していた。
「待ってー!」
ミヅキの息切れになった叫び声が背後から聞こえた。その声を振り切るかのように遼太郎は嵐の中を思いっきり
家に着くとびしょ濡れになった身体をシャワーで温め、ルームウエアに着替えた。濡れた衣服を洗濯機に放り込むと、涙があとからあとから溢れ出てきてどうしようもなかった。
遼太郎は二日、学校を無断欠席したが、心配になって訪れた母にどうして学校に行かないのかとしつこく聞かれ、遼太郎は渋々学校に行くことにした。
ミヅキから電話とメールの着信が届いていたが現実の蓋を閉じたまま連絡は絶っていた。
バス停まで歩いている間、色々な思考が気持ちを鬱にしていた。バス停に着いたがやはりミヅキの姿はなく、学校にも来てはいなかった。
教室の風景は相変わらず同じに見えたが自分の存在は消してしまいたいほど惨めであった。
道影零は相変わらずその存在さえも消し去るほどに教室の片隅で鎮座している。
遼太郎は意を決し道影零の席に向かい、なぜミヅキの家に居たのかと問いただした。すると彼は、「彼女のことが心配だったからさ」とさらりと答える。あまりにも拍子抜けな態度に怒りと焦燥感が入り混じりイライラが爆発した。
「なぜそんなに彼女のことにこだわるんだ!」
クラスメイトの視線が一気にこっちに集まる。それさえ気にならないほど遼太郎は気持ちが昂ぶっていた。
「ボクという存在を証明したいからかな」
「証明? どういうことだ」
「わかりやすく云うと自分の存在意義を知りたい。それは君だって同じだろ」
道影零の言葉に遼太郎は夢見のあの影の存在を思い浮かべた。
「ミヅキと君の存在意義が何の関係があるんだ」
「彼女の夢がボクに生きる意味を与えてくれる」
「夢だと」
「ああ」
「おまえが彼女の夢を盗んだのか!」
「だとしたら君はどうする」
「質問しているのはぼくだ!」
「ボクは君の影だよ」
道影零は地面を這い回る蛇のように睨めつけて云った。
「また訳のわからない言葉で話を濁すな!」
まったく関心がないクラスメイトもさすがに二人の喧騒にざわつき始めた。それに気づいた遼太郎は「もう、彼女に関わるな」と云ってその場を立ち去った。
心に溜まった
『あんたミヅキに何したん? あんな顔したミヅキ初めて見た』
遼太郎は沈痛な顔つきをする。
「たぶん君が亡くなったときほどじゃないと思うけどね」
投げやりな言葉を吐く。
『違う。そうやない。ミヅキにはあんたが必要なんよ』
その言葉は確かに遼太郎の心を揺れ動かした。しかし鉛のような心が気持ちを深く沈ませていた。
『このままでは真っ黒な影にミヅキが呑み込でしまう』
「それは、いったいそれはどういうことだよ」
『きっとうちを同じようになるかもしれへん』
「死ぬってことなのか」
『そ、それはわからへんけど。何かあったら、うち絶対許さへん。許さへんから……』
ミコトは感情を
遼太郎はどうしようもない胸の苦しみに襲われ、ミヅキに連絡を取ろうとスマホを手にすると意を決して電話をかけた。しかし彼女は電話には出ず留守番電話へと切り替わった。遼太郎はミヅキが風邪を引いているのだから電話に出ないのだろうと自身に言い聞かせ、布団を頭から被り、葛藤の中、自分を責めた。どのくらい時が経ったのだろう。布団から頭を出した遼太郎はミコトがいないことに気づいた。ミレイは何か云いたそうな雰囲気でこちらを見ている。
(ミレイもまた道影零によって夢を盗また一人なんじゃないだろうか)
全ての答えを自分が拒絶する影が知っている。そんな気がしてならなかった。
またも学校を無断で休んでしまった。母親からの連絡も「風邪で具合がわるいから」と嘘をつき、その場を誤魔化すしかなかった。気がつけばミレイの姿がどこにも見られず、その代わりに、ベランダの方から強い視線を感じた。そして、その視線が何なのかすぐに理解ができた。遼太郎はカーテンを勢いよく開けると、そこにはやはりあの黒猫がいた。黒猫はベランダの縁に立ち、こちらの心を射抜くような視線を送ってくる。
遼太郎は前ほどこの黒猫に警戒感を抱くでもなく、部屋へ向かい入れるジェスチャーをした。黒猫はその意味が理解できたのかすんなりと部屋へ入ってきた。
黒猫は遼太郎の双眸を覗き込むように見つめてくる。まるでそれは何かを訴えかけるかのようであった。
黒猫は何か大事なメッセージを伝えようとしているのかもしれない。直感的にそう思えた。そして黒猫は遼太郎を誘うかのように尻尾を振り玄関先へと歩いていく。
黒猫はそこに物体が存在しないかのように玄関の扉をすり抜け外へ抜ける。遼太郎はしばしその光景に目を奪われたが、慌てて靴を履き、黒猫を追いかける。黒猫は遼太郎がちゃんと自分のあとを付いてきているかを確認しながら、何度か背後を振り向き小走りに歩いていく。マンションの階段を下りきってマンションの通りの道路に出た。すると黒猫は遼太郎がいつも学校へと通う道順を通りバス停まで辿り着いた。そこからさらに駅の脇の踏切を渡り南へと進んで行く。
(この道は確かミヅキの家の方角だ)
そんなことを思いながら、黒猫のあとを追いかけていく。と、その時だった。交差点(十字路)に差し掛かり黒猫の足が止まった。そのときである遼太郎の目の前で永遠とも思える刹那の事象が繰り広げられた。ミヅキの姿が交差点の向こう側に見えた。ミヅキは遼太郎の視線に気づいたのか、今でも駆け出しそうな勢いでこちらを見ていた。横断歩道の信号が赤から青に変ろうとしている。ミヅキの手前には小さな女の子が立っていた。女の子は信号が青になったのを見て少し前へ進んだ。そして躓き転んでしまったのである。そのときである。そこへ信号を無視したトラックが突っ込んできた。その刹那、ミヅキは転んだ女の子を抱きかかえて助けようとし、女の子を抱えたまま走り出し勢い余って転んでしまう。トラックは慌てて右へハンドルを切り、ミヅキが信号待ちしていた場所に突っ込んでいた。一歩遅れるとミヅキの命はどうなっていたかわからない。
その刹那の事象を遼太郎はスローモーションのように見ていた。その瞳に焼きついたのは、トラックが信号を渡ろうとした女の子に気づき急ブレーキを掛けた反動で横滑りをし、車体が、ミヅキの信号待ちをしていた位置に突っ込もうとしていた。その刹那、ミヅキの身体にミレイの姿が重り、そしてミレイが憑依したミヅキは転んだ女の子を抱き抱え、横断歩道の中央付近で女の子を庇い背中から転んでいた。そして、トラックの車体がミヅキのいた場所に一人の命を奪ったであろう凶器として静止していた。
目の前の光景に凍りついていた遼太郎はふと我に帰りミヅキの元へ駆け寄った。遼太郎はすぐさま女の子を抱きかかえると「大丈夫か?」とミヅキに声を掛けた。
ミヅキはあおむけに倒れたまま薄眼を開け、現状を認識しているみたいだった。少しして、「大丈夫。なんともない」と気丈に振る舞い立ち上がった。が、背中に痛みが走るのか作り笑いの中に苦悶の表情を浮かべる。遼太郎が抱きかかえていた女の子の母親が泣きそうな顔で近づいてきて「すみませんでした。本当ありがとうございます」と云い女の子を抱き抱え、深々と何度も
野次馬が囲む中、事の経緯を遼太郎は警察官に話し、ミヅキは怪我の状態から「軽い擦り傷」だと言って病院に行くことを拒んだ。トラックの運転手も幸い軽傷ですみ、事情聴取を受けていた。どれくらい刻が経ったのだろう。ざわついた視線はやがて静かになり事故を物語る壊れたトラックを囲み、警察官による現場検証は続いていた。ミヅキと終始泣きじゃくっていた女の子の代わりに遼太郎が事情聴取を受け、ミヅキと女の子に目立った外傷もないことからその場で帰されることとなった。
遼太郎とミヅキは何度も女の子のお母さんにお礼を云われ、その場を去ったが、なぜかミヅキの表情は虚ろだった。遼太郎はそれがミレイと関係しているのではないかと思った。彼女を家に送ろうとしたそのとき、ミヅキは「大切な話があるの。今から遼太郎さんの部屋に行っていい?」と云ってきた。そして、そのまま二人は遼太郎の部屋へ向かった。
ミレイの姿はやはりどこにも見当たらない。そして自分を事故の現場まで案内した黒猫のことを思い返し、その存在を深く深呼吸するみたいにミレイと重ね合わせた。
ミヅキは体育座りをし、蝉の抜け殻のようにその場に佇んでいる。しばらくし、ミヅキは疲れたのか、そのまま横になってしまった。
静謐な刻がしばらく流れ、遼太郎は横になり眠りについたかのようになったミヅキを見ているうちに自分も自然と横になった。どれくらい刻が経ったのだろうか遼太郎はぱっと目が覚め辺りを見回した。辺りは薄暮の刻を迎えていた。
窓の景色を見ると、晩秋の空は赤く輝き、やがて訪れる夜の世界を刹那の群青色が染めていく。遼太郎は部屋の灯を付けると、カーテンを閉めた。そして振り向くとミヅキが目を覚ましていた。
「あなたにほんとうのことを話さなくてはならない」
突如としてミヅキは意味ありげな言葉を口にした。
「ほんとうのこと?」
ミヅキはコクリと頷いた。
「私を感じて。何も恐れることはないわ」
遼太郎はミヅキが何を口にしているのかさっぱりわからなかった。
「あなたは醒めない夢をずっと見ているの。あの日から……」
「さっきから何を云っているんだ」
「私は永遠の醒めない夢の中で存在し続けている。夢の揺籠で眠り続きていた。でも、私の魂はなんとかあなたに自分の想いを伝えようとあなたの目の前に現れた」
「君は、もしかしてやっぱりミレイなのか? 事故の瞬間、君がミヅキに憑依するのを目にしたんだ」
彼女は静かに頷いた。
「私はあなたを否定しない。あなたはこの世に存在するのだもの。でもほんとうのあなたに気づいて欲しい」
ミヅキに憑依したミレイは、そう告げるとまっすぐ遼太郎の双眸を見つめた。そして突然、遼太郎にくちづけをした。
その瞬間である。遼太郎の魂は真っ白な何もない空間に放り出された。そして目の前には、ミレイが立っていて遼太郎を見据えていた。
ミレイが一歩前に進むと、遼太郎の足元から伸びる影がムクッと起き上がったかと思うとミレイを直視するように向き合った。ミレイは『逢いたかった』という言葉と共にその影に抱擁した。
(どういうことだ)
その影はゆっくりと遼太郎と向かい合った。
(だめだ。夢なら早く覚めてくれ!)
遼太郎は影との接触を深く拒んだ。自分が何者であるか知りたいはずなのに心胆の奥では真実を受け入れるのがとても恐ろしく感じ、そして切ない感情が入り混じった感覚に陥っていた。
『美玲の魂に触れ、僕は目醒めた。そう、自分の意識として』
遼太郎はとっさに耳を塞いだのだが、その声は脳内に直接語りかけてきた。その声はまるで深淵の底から響いてくるようでいて、すぐ隣で囁いているようにも聞こえる。
『名もなき兄弟よ。君は僕の影だ』
脳内に響く、その言葉が遼太郎の心に亀裂を生む。
(彼を受け入れたら、ぼくは、ぼくでなくなる)
『自分という存在を肯定し、僕という存在に憧れ、そして僕を否定した』
影の言葉には重みがあった。
遼太郎の頭の中に欠けていた記憶が逆流するかのように脳に流れ込んできた。
不確かな、それでいて懐かしく、温かいものだった。しかし、それは触れてはいけない魂の記憶であった。
『夢か現の狭間でいったいなにを求め続けている』
『ぼくは、ただ生きたかった。ぼくとして……』
遼太郎の双眸に涙が滲んでいる。
『そう、ぼくは、ぼく自身として生を掴みたかった』
周りの空間は無限回廊の合わせ鏡が自分という存在を無限に映し出していた。その無限回廊の合わせ鏡にあの黒猫がひょいと現れ遼太郎をじっと凝視している。そして黒猫はミレイの姿に変わった。無限回廊に浮かび上がる複数のミレイの姿が遼太郎を哀憐に満ちた双眸で見つめていた。
『あなたはずっと夢に囚われていた。だから本来の生に憧れた』
脳の中でその言霊が共鳴する。
『思い出した。ミレイ……。君の名は、如月美玲。そうだ、ぼくは君という存在にずっと憧れていた』
美玲(ミレイ)の心と遼太郎の魂が共鳴し、彼女の記憶が流れ込んできた。
美玲の家庭環境は複雑だった。
美玲の母は彼女が物心がつかないうちに病気でこの世を去り。その後、何年かして父は別の女性と再婚した。そして、その二人の間に子ができると、義母はあからさまに血の繋がりのある妹の方にばかり目をかけるようになっていく。
父は優しかったが、酒癖が悪く、酔うと自制が効かないほど酒を飲むことがあった。普段の優しい父からは想像出来ないほど人柄が豹変した。酔ったときの父は美玲に対して普段とは明らかに違う接し方をしてきた。それは娘を溺愛しするが故にまるで亡き妻にすがるかのように性的対象として捉えている節さえ感じられた。
そんな家庭環境の為、美玲はしばしば空想の世界に閉じこもるようになり、現実逃避を図るようになっていった。
唯一の救いは幼馴染みの遼太郎という存在だった。
小学校でクラスも一緒だった為、美玲は遼太郎の側を片時も離れることがなかった。席替えのときも、常に遼太郎が隣になるよう神様に祈った。その祈りが通じたのか二人の席は隣同士になることが多かった。
家庭環境で美玲が落ち込んでいるときも遼太郎は教科書の端っこにパラパラ漫画を描いて美玲にそっと見せた。そのパラパラ漫画は、人が障害物を乗り越えながら、時には川を泳いだりして走り続けるだけの単調なもので絵もうまくはなかったが一生懸命さが伝わってきた。それを見て美玲は曇りのない無邪気な微笑みを見せた。
中学校に上がると美玲はますます家庭において居場所がなくなっていた。美玲が成長するに従い、母親の面影が一層濃くなっていき、その頃から父の美玲に対する愛情はさらに深まり、彼女を呪縛させていく。酔った父は性的虐待寸前まで彼女を追い込んでいた。義母は知ってかしらずか、美玲を助けようともせず、夫の愛情が美玲に向かうことで嫉妬し、義母はよりいっそう、自分の実子である妹を可愛がり、そのぶん美玲に冷たくあたるのであった。
そんなある日のこと。
「大きくなったら私、りょうちゃんのお嫁さんになりたいな」
何気ない一言であった。
「うん。いいよ」
美玲は破顔しながらも涙を浮かべて、しまいには泣き崩れてしまった。
「泣くなよ。僕が一生、美玲ちゃんの側にいるからさ」
このときの想いは美玲にとって生涯忘れないものになった。
そして悲劇が訪れる。中学の卒業式を終え、美玲が帰宅したあと卒業証書など家に置いて着替えて出かけようとしたとき義母に買い物を頼まれた。ほんとうは遼太郎に会いに行くはずだったが仕方なく買い物に行くことにした。自転車で食料品と缶ビール一パックを自転車の買い物籠に入れ、家に運び入れた。キッチンには義母は見当たらなかった。最近は特に忙しくもないのに用事を云いつける。美玲の心は焦燥感と怒りに満ちていた。そのとき美玲は買ってきたビールを押し入れに隠してしまった。なによりも酔っ払った父の姿を見るのも嫌だったし、義母を困らせてやろうと思ったのだ。父は風呂上がりのビールがなにより楽しみにしていた。だがその晩、買っておいてと頼んでおいたビールが冷蔵庫になかった。父は不機嫌になり義母にどうして買って来なかったんだと追求した。すぐさま義母は美玲を問い詰めた。美玲はビールのことなんて知らないと云い放って自分の部屋へ引きこもってしまった。
その次の日、押し入れに隠しておいたビールがテーブルの上に置かれていた。義母は美玲を攻めた。夕食のときに父になぜあんなことをしたのかと問い詰められえた美玲は今までの不満を全部吐き出し、部屋に篭ってしまう。
その夜のことだった。美玲はいつの間にか寝入ってしまっていた。ふと気がつくと黒い人影がこちらに向かって立っていた。美玲はそら恐ろしくなり布団を頭からかぶり、遼太郎の名前を何度も心の中で呪文のように唱えた。その黒い影は布団をひっぺがした。恐怖に怯え丸まっていた美玲の臭覚に酒臭い息が刻まれる。そして泥酔した父が美玲を襲った。美玲は必死に助けを呼んだ。しかしその声は虚しくも部屋に響くだけだった。美玲の必死の抵抗で頭を蹴られた父は我に帰り「おまえは誰にもやらん」と云い残し部屋を出て行った。
「助けて、助けて、助けてー。りょうちゃーん!」
次の朝、美玲は焦燥しきっていた。何もかもが嫌になっていた。汚された自分がなによりも疎ましかった。
遼太郎に電話をしたが、その電話は答えることがなかった。しばらくして憔悴しきっていた美玲の元に電話の返信があった。美玲はスマホを手に取り電話に出た。
「もしもし。りょうちゃん」
「うん。どうしたの?」
「よかった。りょうちゃんの声が聞けて……」
美玲は溢れ出す涙を堪える事が出来なかった。
「泣いているの? いったい何があったんだよ。教えてくれないか」
「ごめんね……」
そう云って美玲は一方的に通話を切った。
美玲の目の前に白いアゲハチョウが光の鱗粉を撒き散らしながら飛んでいく。美玲はその白いアゲハチョウを追いかけた。
『自由になりたい。空を飛びたい。空になりたい』
その想いだけが彼女を突き動かしていた。
(りょうちゃん)
自室があるマンションの四階のベランダに美玲は出た。そして彼女は白いアゲハチョウに手を伸ばすかのように、そこから飛び降りた。
一瞬、目の前の光景に映ったのは遼太郎の姿だった。
空へ。それは永遠の刻にさえ思えた。
彼女は壊れた人形のように横たわっている。
遼太郎は彼女の前に跪くと息を殺したように呻き声を上げた。
頭の中に彼女との思い出が走馬灯のように蘇っていく。
「美玲!」
その叫びはもう彼女には届かなかった。
そして遼太郎はその場に昏倒して意識を失った。
流れ込んできた記憶に言葉を失っていると、いくつものミレイの残像はひと塊りになり黒猫の姿になった。そして影が語りかける。
『彼女を失ったとき、僕もまた自分を失った』
光と闇が邂逅するが如く表裏一体の影は真実を語り始める。
『名もなきぼく。君はずっと僕の中で眠っていたね。これから見せる記憶はアイデンティティーを巡る僕たちの記憶だ』
そういうと今度は影の記憶が脳に流れ込んできた。そして、その記憶は支流が本流に流れ込むかのように二つの記憶が混じり合った。
初めて見た景色は病室の白い天井だった。
深淵の底に光が射し、永い眠りから覚めたような気分だった。
(ぼくはここでなにをしてるんだろう?)
まっさらな白い空間に記憶だけを置いてきて、その場所に放り出されたような感じがした。
母親が心配そうに顔を覗き込む。ベッドの横にあるスツールに腰掛けた父親が険しい表情でこっちを見ていた。
「どうしてぼくは病院なんかにいるんだ?」
「なにも覚えていないの?」
母が聞いた。
「覚えていないって、いったいなんのこと?」
両親は顔を見合わせ、しばらく黙り込んだあと、あえてあのことについては触れなかった。そして両親は何げない日常会話を織り交ぜながら、さぐりさぐり話を進めていった。話を続けるうちに普通の日常会話出来るが、思い出というピースを無くしていることに気づいた。
(自分は誰なんだ? 自分であって自分でないような気がする)意識がそう語る。
遼太郎は混沌とした意識の中、自分が何者であるのか心に問い詰めた。
その後、脳の精密検査が行われることになった。
MRIによる検査の結果。信じられないような奇妙な事実が明らかになる。
成熟嚢胞性奇形腫が、遼太郎の前頭葉に癒着していることがわかった。
医師が云うにはとても珍しい症例で、「自分は今までこんな症例は全く知らない」と驚きを交え説明した。
その成熟嚢胞性奇形腫の一部(双子の片割れの脳だけが成熟嚢胞性奇形腫として遼太郎の頭蓋骨の中に包まれてしまった状態)が脳に癒着して、成長の段階で頭蓋骨の容量の関係で、それ以上、成長出来ず、何らかの働きで、本人の脳の一部として結合してしまったのかもしれないとのこと。しかも、その脳細胞は信じられないことに本人の脳とリンクして機能していると云うのだ。
医師は説明する事柄「こんなことはあるはずがない」と何度も口にした。
そして両親はこんなことを語った。遼太郎が小さい頃、頭が痛いということもあって病院に連れて行こうとすると凄く厭がったことがあったという。そのとき病院で看てもらったときにはとくに異常はなかったとのこと。
「それはまだ成長段階で成熟嚢胞性奇形腫が小さかったことと、見分けるのが難しかったからだと思われます。本人が成長する段階で少しずつ大きくなっていったのですが、頭蓋骨の容量が限られていたので、成長する段階で癒着したものだと思われます。一卵双生児なので脳細胞も適合したのかもしれません。これはあくまでわたしの憶測ですが……」
とりあえず検査と脳波の測定などを繰り返し行い成熟嚢胞性奇形腫の副作用的な症状もみられないので、一週間あまり経過したあとに退院する運びとなった。
その後、定期的に病院へ通院していたが、記憶喪失以外他に異常はみられなかった。思い出を失った以外、普段生活する分には何も支障がないので、だんだんと普通に日常生活を送るようになっていった。
中学の先生や、クラスメイトに対して両親は美玲の飛び降り自殺のことはくれぐれも遼太郎には話さないでくれと必死に頼み込んだ。各々のクラスの担任から生徒にもこのことが伝えられた。
このことにより美玲という存在が遼太郎の周りから消え去ったこととなる。
遼太郎の友達は遼太郎を励まそうと積極的に話したり、遊びに誘ったりしたのだが、遼太郎は人が変わったように彼らを寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。そして遼太郎は深淵の森へと足を運ぶように孤独を深めていった。
そして両親は普段と変わらぬ日常生活を努め、遼太郎を高校へ進学することを勧めた。自分が何者であるか考える苦悩より、日常生活を普通に送ることが、今は何より大事だと医師にも勧められ、遼太郎は高校へ通うこととなった。
「一人になって、強く生きてみたい」
突然、遼太郎はそんなことを口走った。
母は反対したが、父は生きる力が養えるかもしれないと思いそれを許した……。
……遼太郎と影の記憶がリンクし、真実が記憶に呼び覚まされていく。
『あのとき、美玲が僕の目の前で死に、僕は意識を失った。代わりに目覚めたのが君だったわけだ。つまりわかるね。その身体は僕のものだ。返して欲しい』
『そんなことって‥‥』
遼太郎はとっさに目の前の影を手で追い払った。しかし影の躰は実体がなく、胡散霧消したが、また目の前に現れた。
『ぼくを現実に戻せー!』
そう叫んだ遼太郎は自身の影を必死で追い払おうとした。そして影の首を絞め「ぼくのほんとうの現実を返せー」と叫んでいた。
「やめて遼太郎さん。く、苦しい……」
その声はミヅキのものであった。
気がついたら、遼太郎はミヅキの首を絞めていた。
『離せー。このヤロー!』
ミコトが遼太郎の身体を叩いている。痛みはないが、その想いが遼太郎に届いたのか、遼太郎は腕の力を緩めた。
『何やってんのさー。あんたはー!』
我に返った遼太郎は辺りを見回した。すると目の前に広がる景色は見慣れた自分の部屋であった。
「ぼくはいったい何を……」
錯乱する頭を抱え、遼太郎はその場に蹲った。蹲っている遼太郎の元へ黒猫がすり寄ってきた。
「君は、やはりミレイなのか?」
何かを訴えかけるような視線を寄越す黒猫に、美玲という存在を確かめたいと思う衝動にかられた。すると突然、黒猫は遼太郎を誘い出すように走り始めた。慌てて遼太郎は黒猫を追いかけようとした。
「まって。どこへ行くの遼太郎さん」
ミヅキの声が轟いた。
「ごめん。あとでほんとうのことを全部話すから、君はここで待っていてくれ」
そう云い残すと遼太郎は黒猫のあとを追った。
街は眠りにつこうとしていた。静寂が闇を包み込み、街灯の明かりですら黒闇を引き立てている。
どこまで来たのだろう。ふと気付いたとき街灯の明かりがチカチカ瞬きをするように付いては消え、不条理の理みたいに不規則な点滅を繰り返していた。
黒猫の姿を追っていた遼太郎はどこか異質な空間に迷い込んだような気がした。そして目を凝らすと黒猫は目の前の影の主の腕の中にいつの間にか収まっていた。
「真実を知りえたようだね。そして、この黒猫がミレイであることを確かめに来た。確かにこのシュレ猫はミレイの魂でもあるのさ」
目の前の影はやはり道影零であった。そして彼は無表情のまま遼太郎の心を覗くかのように云い放った。
「そして君は自分自身を証明する為にここへ来たのかい?」
「ぼくは、ぼくだ。他の何物でもない!」
「確かに君は君さ。でもほんとうの君はボクという存在を肯定することで今の自分として目覚めた」
道影零は語り始めた。
「どういうことだ?」
「君は光を欲した。生を誰よりも強く欲したのだ。自分として。夢を見ることでしか自分は存在しないと思っていた。虚時間の流れの中にあったボクの意識はその想いに答えたのさ」
「おまえがぼくの想いに応えただと?」
「そうさ。そして君の心の奥底では、本来の生を受けた魂の持ち主への憧憬、嫉妬の想いに駆られた。そして君は本来の魂の持ち主の大事な人たちを夢見の揺籠へ誘おうとした。だから君は彼女たちを永遠の眠りと永遠に夢を見続けるようにする為に、自分の理の中で生き続けてもらおうと願ったのさ。もちろん、君には罪はない。そう、君は強く願っただけで、彼女たちは運命に導かれただけに過ぎないのだから」
遼太郎は漆黒の闇を纏った道影レイの言葉に焦燥感と自分への怒り、そして自分の存在意義の虚しさが、ごちゃ混ぜになって脳内に渦巻いた。
「なぜ、ミヅキにまで手を出したんだ。ミヅキはぼくにとってかけがえのない存在になり得たのに」
その質問に漆黒の闇に包まれた道影レイの双眸が遼太郎を射抜いた。そして彼はこう言葉を放った。
「彼女の夢は心地よい。彼女はほんとうの夢を失ってはいない。その夢とは君自身だ。そして君は彼女を守ろうとした」
遼太郎は道影レイの言葉に総毛立った。
(まさか‥‥)
「君はここまで導かれた」
「ウオオオオォー」
遼太郎は低い唸り声を上げて頭を抱えながら身悶えた。
「おまえは、夢魔。このぼくの強い意識に応え、ぼくに存在意義を与えた存在」
「ようやく、思い出してくれたね。嬉しいよ」
「ウッワアアアー」
遼太郎は道影零に拳をぶつけた。
「気が済んだかい。全部君が望んだことだ。ボクは運命を必然へと導いただけ。云ったろ、君には何の罪もないって」
「違う。夢見の揺籠は永遠に夢を閉じ込めておく場所なんだ。結局、ぼくは彼女たちの夢を奪ったにすぎない」
「それは君が望んだことだろ?」
「ミレイは、ぼくに真実を伝えようとした。それはほんとうに大切な思い出を失いたくなかったからなんだ」
そして遼太郎は毅然とした言葉を放った。
「ぼくは、ぼくであることを証明してみせる」
遼太郎は強い意志を示すと、その場をあとにした。黒猫は道影零のたもとを離れ、そのあとを追いかけた。
部屋に帰ると灯はまだ付いていて、ミヅキが部屋で待っていた。
「ごめん。全てはぼくのせいなんだ。君たちをこんな目に合わせてしまって‥‥」
「どういうこと?」
突然の告白にミヅキは聞き返した。
「ミヅキ。感じないか。君の隣にミコトがいる」
「えっ。うそ」
遼太郎はミヅキの双眸を深く見つめ頷いた。
「ミコトちゃん。そんな、今、ここにいるの?」
そのとき黒猫がミヅキに近づいてきて足元に絡みついた。ミヅキは自然と黒猫を抱き寄せた。すると目の前にミコトの姿が飛び込んできた。
「ミコトちゃん!」
ミヅキは動揺するとともに、顔をワナワナ震わせて、やがて涙した。
『うちのことがわかるの?』
ミヅキは深く頷いた。
「私、ずっと寂しかった。ミコトちゃんがいなくなって心にずっと穴が空いたみたいで辛かった」
「うちも同じ」
二人は感傷に浸った。
遼太郎はミコトに対して言葉を掛けた。
「ごめん。ほんとうにごめん」
「なぜそんなに謝るん」
「例え運命だとしても、ぼくは君を夢見の揺籠に誘った。夢魔はわかっていたんだ君が本来の魂の遼太郎という存在に恋をしていたことを」
「ミコトちゃんが遼太郎さんの本来の魂に恋していたってどういうこと? いったいそれはどういう意味なの?」
ミヅキが聞いた。
「それは……」
遼太郎が言葉を詰まらせているとミコトが突然語り始めた。
『あれは、中学一年生の夏休みのとても暑い日だった。うちは自転車で家に帰ろうとしていた。神社の前に着いたとき息を切らした少年がうちの落とした財布届けてくれた。それでうちは「おおきに」と云ったら、少年は「おおきにって初めて聞いた。なんか得した気分だ」そう云って去って行ったんよ。その少年が遼太郎だった。そのときうちの心の中で何かが弾けたんや。そしてうちは遠くから遼太郎を見守るようになった。でも、その隣にはいつも美玲という存在がいた。うちは苦しかった。でも、心の奥底で二人の恋に憧れていた』
ミヅキはミコトの告白に気持ちが揺さぶられた。
『ところで、あんた本来の魂とか云っとたけど、それ、なんなん?』
「それは……」
遼太郎は少し躊躇したあと、ミコトに対して黒猫に手を触れるよう促した。そして自らもミヅキが抱えている黒猫に手を
『そ、んな……。なんなんよこれは……』
ミコトはそれ以上、言葉が出ず、ただ驚愕の表情でそのまま固まってしまった。
「こんな、こんなことって……」
ミヅキは困惑した表情でしばし惚けた顔を浮かべ、焦点の合わない双眸を宙に浮かせたままミコトと同じく固まってしばし動けないでいた。
「こんなことがほんとうにあるの?」
か細い声が、真実の大きさを物語っていた。そしてミヅキの頬に一筋の涙が零れ落ちた。
「それが真実さ。ぼくは生を知った。そして、君に出会ったことで生きる喜びを得た。だから自分が自分である為にやらなきゃいけないことがある」
「やらなくてはいけないことって‥‥?」
ミヅキは不安を抑えきれなかった。
そんなミヅキに遼太郎は肩に手をポンと置きこう云った。
「君はぼくが守る。大丈夫さ。ほんとうのぼくならわかってくれる」
「遼太郎さんの魂はどうなってしまうの?」
思いつめた遼太郎の表情を察し、心配そうにミヅキは聞いた。
「大丈夫。ぼくの魂を本来の僕に託すだけだから。心配しないで」
そう云うと意を決したように遼太郎は瞑目した。
「ふぅー」
深い溜息と共に目を見開いてこう云った。
「さぁー。ミレイ。ぼくを意識の深層の中へ連れて行ってくれ」
遼太郎はミヅキが抱きかかえていた黒猫を自分の手元へ引き寄せ深く抱きしめた。そのまま遼太郎は横たわり、深い眠りについた。
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