領主屋敷の隣、豪族の屋敷を造る予定の、ならされた広い土地に、大勢の人間が集まっていた。四方の柱に縄がかけられ、外側に観衆が群がっている。縄の内側には長イスが設けられ、見届け人である玄晶を中央に、左右に烏有と剛袁が座っていた。烏有から見て右の端に蕪雑。左側には寧叡がいる。ふたりは動きやすく、武器などを隠し持てない簡素な服装をしており、隆々とした筋肉が衆目に瞭然りょうぜんとなっていた。

「これから、決闘をはじめます」

 ほこらしげに、決闘の舞台となる空間の中央に立った袁燕が、観衆に宣言をした。歓声が上がり、すでに興奮した面持ちの者や、不安そうな者などの視線を浴びて、蕪雑と寧叡が歩み寄る。小柄な袁燕を間に挟む形で立つと、偉丈夫なふたりの体躯は、さらに大きく感じられた。

「勝っても負けても、恨みっこなしだぜ」

 蕪雑がニヤリとすると、寧叡が鼻で笑った。

「油断していると、無様な姿をさらすことになるぞ」

「決闘の規則は、わかっているよな」

 袁燕が確認をすると、ふたりは対する相手を見たまま、うなずいた。

「そんなら、俺っちの両腕の端までちょっと離れて」

 袁燕が両腕を伸ばすと、ふたりはそれに従う。

「そいじゃあ、俺っちが飛びのいたら決闘のはじまりだ。いくぞ」

 緊張をにじませて、袁燕が大きな声で数える。

「3、2、1……よっとぉ!」

 袁燕が飛びすさる。その足が土に着くか着かないかのうちに、蕪雑と寧叡は拳を繰り出していた。

「おおぉおっ」

「はぁあっ」

 足を前後に大きく開き、腰のひねりを加えた拳が相手に迫る。互いに首を横に倒し、すれすれで交わし合い、力量を認める笑みを浮かべた。

「さすが、もと警兵官だな。いい拳じゃねぇか」

「そっちも、悪くはないようだ」

 腕を引き、間合いを広げる。腰を落として相手の出方を探るふたりの姿を、烏有はハラハラと見ていた。

 部屋に蕪雑が訪れた一昨日の夜から、あいさつすらも交わさずに、この日を迎えた。烏有の胸には、言いようのないさびしさが渦巻いている。それを苛立ちに変えて、蕪雑にぶつけてしまった悔恨と、どうしようもないほどの無力感が烏有を包んでいた。

「蕪雑」

 つぶやいた烏有を、玄晶がチラリと見る。烏有は目の前の決闘の様子と、自己の気持ちに引きずられ、それにすこしも気がつかなかった。

 蕪雑が土を蹴り、前へ出る。寧叡は体を反転させ、蕪雑を避けながら肘を繰り出した。蕪雑は蹴りを相手の肘に合わせる。

「くっ」

「ぬぅうっ」

 食いしばった歯の隙間から、気合いの息が漏れる。ふたりの体は弾かれたように離れた。

 興奮した人々の叫びが、彼等の耳を打つ。不敵な笑みを浮かべたふたりに、烏有は目を見開いた。

「……ケンカをして、理解しあう」

「うん?」

 烏有の声に、玄晶が反応をした。

「ああ、いや……、そんなことを言っていたなと、思い出したんだ」

「蕪雑がか?」

「はっきりと、そう言ったわけじゃないんだ。袁燕からも以前、似たようなことを言われてね。ふたりを見ていると、そういうことなのかと、納得ができそうな気がするんだよ」

「へぇ。それは、どうして」

「なんだか、楽しそうに見えないかい。あのふたり」

 蕪雑と寧叡は、筋肉の軋む音が聞こえそうなほど激しく、互いの力をぶつけている。彼等の声はとどろく人々の声に呑まれて、烏有の耳には届かない。しかし烏有は全身で、彼等の発する息遣いを聞いていた。

「笑っている」

 蕪雑と寧叡は、笑っていた。獰猛な肉食獣を思わせる笑みを浮かべて、拳を繰り出し、足を振り上げ、相手を狙う。

「おぉうりゃああっ」

「ふぅううぬぅああっ」

 渾身の拳を、蹴りを、相手に向ける。それを受け、あるいは避けて、近づいては離れてを繰り返し、筋肉を躍動やくどうさせている。

 それは決闘の理由など、どうでもいいと言っているようだった。

 ふたりはただ、全力で、全身で語り合う剣呑な対話を、楽しんでいるように見えた。

「……すごいな」

 玄晶のつぶやきに、烏有はうなずいた。横目で烏有の表情を確認した玄晶は、ほほえんだ。

「すっかり、心酔しているらしいな」

 その声はあまりにもちいさすぎて、玄晶の唇からこぼれた瞬間、霧消した。烏有の意識はすべて、肉体をぶつけて語り合う蕪雑と寧叡の姿に向けられている。その顔は羨望に彩られていた。

 誰もが蕪雑と寧叡の決闘に、興奮している。彼等の楽しげな拳の語らいに感化されたのか、明江で警兵官として迎えられたいがために、蕪雑の勝利を願っているはずの寧叡の部下たちが、声も枯れよと言わんばかりに、寧叡を応援していた。

「勝敗の結果なんて、関係がなくなってしまっているな」

 玄晶が楽しげに、観衆の様子を確認する。袁燕がヒョッコリ現れ、ソワソワしながら玄晶と剛袁の間に入った。

「終わったら、スッキリしてるだろうぜ。見ているだけでも、スカッとするぐれぇ、すごいもん」

「混ざりたいのかな」

「俺っちが混ざったって、一撃で終わりだよ。あんなの、ぜってぇ避けきれねぇもん」

「袁燕ほど、身軽でも?」

「踏み込みを見りゃあ、対戦したらヤベェなってのは、すぐにわかるぜ」

 フフンと袁燕が鼻を鳴らす。

「踏み込み?」

「避けたと思っても、予測よりもずっと、拳や蹴りが伸びてくるのさ」

「よく、わからないな」

「ケンカしたことねぇ奴にゃ、むずかしいだろうな」

「袁燕」

 剛袁が軽くたしなめると、袁燕はペロリと舌を出して肩をすくめた。

「簡単に言えば、相手の予測よりも深く、体を近づけている、ということですよ」

「ちっとも簡単ではないなぁ」

 剛袁の説明に、玄晶が苦い顔になる。

「体勢の問題です。踏み込んだ後、体の伸びを利用して、さらに深く迫れるようにしているんです。あとで、どういうことか体現して、お見せしましょうか」

「ああ、そうだね。……ゆっくりと、説明を受けながら見なければ、わからなさそうだな。いまはただ、すさまじいというだけで精一杯だよ」

「そうですね。あんな蕪雑兄ぃは、はじめて見ました」

「どちらが優位に立っているのかな」

「わかんねぇよ。すごすぎて」

「俺も、わかりかねます。ああ、しかし本当に、楽しそうですね」

 この場にいる誰もが、惹き込まれている。観衆の存在など忘れ去り、蕪雑と寧叡は互いのみを意識に捉え、全身を躍動させていた。

「ふぬぅうっ」

「おぉおおっ」

 豪腕がうなりをあげる。上気した肌に浮かぶ汗が飛び散り、肌を掠めた相手の拳に砕かれた。

 烏有は膝の上で拳を握り、ふたりの攻防に呑まれたように身を硬くして、呼吸を忘れるほどに魅入みいっていた。腹の底から得体の知れない情動が湧き起こり、わけもわからず叫びながら走りたくなる。けれど体は石のように、ピクリとも動かない。

 烏有は肌を粟立たせ、ふたりの“体話たいわ”を見つめていた。

「ふっ」

「っ、く」

 身を沈めた蕪雑の足が、寧叡の足を弾き上げる。均衡を崩した寧叡の足を抱えた蕪雑が、飛び上がるように立ち上がった。ドウッと倒れた寧叡の腹に、蕪雑の拳が深くめりこむのと、寧叡が腰をひねり繰り出した足が、蕪雑の頬を穿ったのは、同時だった。

「ぐっ」

「がっ」

 短いうめきを発して折り重なったふたりは、動きを止めた。すべての音がピタリと止まる。おそるおそる近づいた袁燕が、双方ともに気を失っていることを告げた瞬間、地鳴りのような雄たけびが空気を震わせた。

「……は」

 詰めていた息を吐いた烏有は、立ち上がる気力もなく、ふたりに駆け寄る群集を呆然と瞳に映した。

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