烏有はぼんやりと窓の外に目を向けて、暮れゆく空をながめていた。遠くかすかに、人々のさわぐ声が流れてくる。窓と烏有の間には、寝台があった。そこに蕪雑が寝かされている。体中アザだらけの蕪雑に塗られた薬草の匂いが、鼻をツンと刺激する。それを意に介する様子もなく、烏有は虚空を見るように、焦点の合わぬ目で茜と藍に染まった空を、視界に入れていた。

「う……」

 うめき声に、烏有は目の焦点を蕪雑に合わせた。まつ毛を震わせ、眉間にシワを寄せた蕪雑が、緩慢かんまんにまぶたを開く。

「蕪雑」

 声をかければ、蕪雑は呆けたように息を吐き、眼球を左右に動かした。

「蕪雑」

 烏有がふたたび呼ぶと、蕪雑の目が止まった。

「う、ゆう」

 唇から音が漏れた。烏有はホッと顔をなごませ、蕪雑の目を覗きこむ。

「おはよう、蕪雑」

「んぁ。おはよう……なのか?」

「朝ではないけれど、眠っていて、目を覚ましたのだから、おはようと言ったんだよ」

「眠って――?」

「正確には、気絶をしていて、かな。意識を失う前のことは、覚えているかい」

「んん、う……寧え……痛っ、うううう」

 身を起こした蕪雑が、顔をゆがめて息を呑んだ。

「とりあえず、水を飲むかい」

 うなりながら、蕪雑がうなずく。烏有は老人をいたわるような仕草で、蕪雑の口元に水の入った杯を当てた。

「んっ……う、うっ」

 蕪雑の口の端から、わずかに水がこぼれる。

「蕪雑」

「うう。口ん中、しみる」

 あごに手を当てた蕪雑が、舌で口内を探り、渋面になる。

「傷の薬でも、舐めておくかい」

「余計に具合が悪くなりそうだから、遠慮しとくぜ」

 顎をさすり、首を動かし、腕をそろそろと持ち上げた蕪雑が、鼻の頭にシワを寄せた。

「すっげぇにおいだな」

「体中に薬を塗っているからね。横になっておいたほうが、いいんじゃないかい」

「いや、いい」

 苦しそうにしながら、蕪雑は壁にもたれかかった。窓の外に目をやり、息を抜く。

「勝負は、どうなった」

「勝敗決さず、というところかな」

「ん?」

「ふたり同時に、気を失ったんだよ」

「……寧叡の腹に、拳を叩き込んだところまでは、覚えてんだよなぁ」

「寧叡の足が、蕪雑の顔を打ち据えたのを見たよ」

「ああ。どうりで」

 蕪雑は片目をすがめて、頬をさすった。

「そんじゃあ、もっかい仕切り直しになんのか」

「どうだろう。もうすっかり、寧叡の部下たちは明江の皆と馴染んでしまったようだけれどね」

「どういうことだ」

「聞こえないかい」

 烏有が耳に手を当てると、蕪雑も真似をし、耳をすませた。かすかに陽気な声が聞こえる。

「宴会してんのか」

「まったく、不思議だよね。ふたり同時に気を失ったと袁燕が宣言をしたら、誰も彼もが縄をくぐって、ふたりを担ぎ上げて大騒ぎさ」

「寧叡は」

「別の部屋で寝かされているよ。もしかしたら、もう目が覚めているかもね。彼の部下が面倒を見ているんだけど……。様子、見てこようか」

 立ち上がりかけた烏有の手を、蕪雑が握る。

「いや、いらねぇ」

「でも、気になるんだろう?」

「こういう場合は、お互い動けるようになってから、顔を合わせるのがいいんだよ」

「そういうものなのか」

「そういうモンなんだ」

 そうか、と烏有は座りなおした。

「なんか、腹ぁ減ったな」

「口の中にも傷があるんだろう。食べたら痛むんじゃないのかい」

「だよなぁ。あーあ」

 ため息を吐いて、蕪雑がふくれる。

「不思議だな」

「ん?」

「あんな戦いを見せた男だとは、思えないよ」

「なんだそりゃ。俺がもっと弱いとでも、思っていたのか」

「そうじゃない。決闘を申し込むくらいだから、多少の勝算はあるのだろうとは思っていたけど……。なんというか、ああいうものを間近で、じっくりと見たのは、はじめてだったから」

「なんだよ。ケンカを見たことねぇのか」

「酔っ払った者同士が、殴り合うのを見たことはあるよ。けれど、なんというか、獣が全力でぶつかりあっているような、こう、身の毛がすべて逆立ってしまいそうなほど、緊張と興奮が伝わってくるものは、はじめてだよ」

「へえ」

 蕪雑がうれしそうに、頬を持ち上げる。

「どうしたのさ」

「なんか、うれしくってよぉ」

「それは、見たらわかるよ。うれしがっている理由が、わからないんだ」

「烏有にも伝わったんだなってさ」

「僕に、伝わった?」

「本気のケンカって奴がよ」

 烏有は目をしばたたかせた。

「うまく言葉にできねぇっつったろ? それを、肌身で感じたわけだ」

「あれが……」

 烏有は身の裡から、あの時の情動を呼び覚ます。ブルリと震えて、蕪雑を見た。蕪雑は心底うれしそうに、烏有を見ている。

「見ていた烏有に伝わったんだ。寧叡はきっと、目ぇ覚めたら負けたって言うだろうぜ」

「えっ」

「自分と部下のためによぉ。ずうっとわだかまってたモン、思いっきり俺にぶつけて、吐き出して、スッキリしただろうからな。もう、意地を張る必要もねぇってわけだ」

「……わからないな」

「うん?」

「さっぱり、わからないよ」

「伝わったって、言ったじゃねぇか」

 烏有は首を振った。

「わけのわからない情動に突き動かされたのは、たしかだよ。だけど、僕は……」

 烏有は苦しそうに下唇を噛み、視線を外した。

「烏有?」

「……当事者じゃない。部外者だ」

「どういう意味だよ」

「僕は、あんなことはできやしない。はたから見ていただけで、余波を感じただけで、本当の意味では伝わってもいないし、理解もできていないんだ」

「烏有」

 蕪雑の無骨な手が、烏有の繊細な手の上に乗せられる。

「ちゃんと、熱いモンが伝わったんだろう? 湧き上がるモンを、感じたんだろう。言ったじゃねぇか。うまく説明できねぇんだって。肝にあるもんを、思いっきりぶつけるモンなんだって。感覚なんだよ。言葉じゃねぇんだ。それを、烏有も感じたんだろう」

 烏有は硬く唇を引き結び、立ち上がった。

「口の中をケガしていても、食べられそうなものを持ってくるよ。皆に、蕪雑が目を覚ましたって、伝えたいしね。お酒も、平気かどうか医師に聞いてみようか。……すぐ、戻ってくるよ」

 烏有は無理に笑顔を作って、蕪雑に背をむけた。

「なあ、烏有」

 烏有の背を、蕪雑の声が追いかける。

「俺と烏有は、相棒だろう? 理屈じゃねぇんだ。心で感じたんなら、それで十分なんだよ。なあ――」

 烏有は逃れるように、扉を閉めた。

「相棒、か」

 扉にもたれて、目を閉じる。

「当初は、僕もそう思っていたんだけどね。……ずいぶんと、遠くなってしまった気がするよ」

 目を開けた烏有の顔には、どんな感情も表れていなかった。

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