そろそろ眠ろうかと書面を閉じた烏有が、ろうそくを拭き消そうと顔を近づけると、扉が叩かれた。

「はい」

「俺だ」

 蕪雑の声に、いぶかりながら扉を開けると、ぎこちない笑みが現れた。

「ちっと、かまわねぇか」

 烏有は無言で蕪雑を通した。彼の手には、革の水筒と干し肉がぶらさがっている。蕪雑は目顔で寝台に座っていいかと問い、烏有は無言で許可をした。

「ちっと、話があってよ」

「そうでなければ、こんな夜更けに訊ねてはこないだろうね」

 機嫌の悪い烏有の声に、蕪雑は苦笑する。

「邪魔しちまったか」

「かまわないよ。僕も、聞きたいことがあったから」

「そっか」

 蕪雑は懐から杯を取り出し、水筒をかたむけた。濁った酒が、甘い香りを放つ。ほらと杯を差し出され、烏有は受け取りながら蕪雑の隣に落ち着いた。

「昼間は、悪かったな」

「それを言いにきたのかい」

「うーん。まあ、そうっちゃあ、そうなんだけどよぉ。なんつうか、心配かけちまったなと思ってさ」

「心配なんて、していないさ」

「心配だから、あんなに不機嫌だったんだって、玄晶が言っていたぜ」

 烏有は酒を一気にあおった。果実の香りが鼻孔に抜ける。

「勘違いだよ。僕は寧叡という人間が、明江にふさわしいとは思えない。だから、それを受け入れようとする態度に、不満があった。それだけだよ」

「あった、ってこたぁ、今はそうじゃねぇってことか」

 烏有は無言で杯を差し出した。蕪雑はやさしい目をして、酒を注ぐ。注がれたものを、今度はゆっくりと味わい、烏有は胸のつかえを吐き出すように、細く長く息を吐いた。

「あれから、寧叡の部下たちの様子を見たよ」

「へえ?」

「……ほっとしたようにも、不安そうにも見えた」

「ひとりひとりが、違う顔をしていたってぇことか」

 烏有は首を振り、杯に残る酒を見ながら口を開く。

「ひとりが、ふたつの顔を持っていたんだよ」

「なるほどなぁ。まあ、でも仕方ねぇんじゃねぇか。負けりゃあ、こっちに住める。勝ちゃあ、やっかいごとを抱えて戻らなきゃなんねぇってんだからよ」

 言いたいことはそうじゃない、と烏有はまた、首を振った。

「どうしたんだよ」

「声を、かけられたんだ」

「誰に」

「寧叡の部下さ」

「へえ?」

 蕪雑が干し肉をかじる。それを横目で見た烏有は、杯をかたむけた。

「必ず蕪雑が勝つような決闘の方法をたのむと、言われたよ」

「ふうん。頭目の負けを望んだのかぁ。――で? それを薄情だとでも思ったのか」

「その逆さ」

 烏有は蕪雑に手を伸ばし、干し肉をひとかけ奪った。

「寧叡のために、蕪雑に勝ってほしいと言われたよ」

 やつあたりのように干し肉を噛みちぎった烏有は、眉間にシワを寄せて、かぶりをふった。

「そうでもしなければ、寧叡の居場所は、どこにもないままだと」

「それで? 烏有はなんて答えたんだよ」

「何も。勝負は時の運だから、とだけ」

「ははぁ。まあ、そう答えるしかねぇわなぁ」

 蕪雑が楽しげに干し肉を差し出す。烏有は不機嫌に、もぎとるように受け取った。

「蕪雑の選択は、正しかったんだと思ったよ」

「正しいってなぁ、なんだよ」

「彼等のために、決闘を申し込んだことさ」

 蕪雑が烏有の杯に酒を注ぎ足す。烏有はうつむき、杯をゆらした。

「俺ぁ、正しいとかそんな考えで、決闘を申し込んだわけじゃねぇよ。それに、俺が言い出さなくっても、玄晶はアイツ等をまるっと明江の警兵官にするよう、話を持っていっただろうぜ」

「けれどきっと、それは彼等にとって、スッキリとしたものにはならなかっただろうね」

 烏有はぽつりと、杯に言葉を落とした。蕪雑は無言で干し肉を噛み潰している。

 杯の中の酒に体温が移るほど長く、烏有は黙考した。

 ややあって。

「目算はあるのかい」

「ん?」

「勝てる見込みは、あるのかい」

 蕪雑は天上を見て、しばらくうなった。

「わかんねぇなぁ」

「わからない?」

「勝負は時の運って、答えたんだろ。寧叡の部下にさ」

「……」

「だから、昼間は悪かったなって言ったんだよ」

「っ! 負けるかもしれないから、という意味の謝罪だったのかい」

 立ち上がった烏有の杯から酒がこぼれる。もったいねぇと濡れた床を見る蕪雑を、烏有は真正面から見下ろした。

「心配をかけたと言ったよね。そのための謝罪なのかと思っていたよ」

「それもあるさ」

 蕪雑はふところから手巾を取り出し、烏有の杯を握る手に当てた。

「なあ、烏有」

 烏有はおとなしく杯から指を離し、蕪雑に手を拭かれた。

「腕っ節にたよってた男ってぇのは、妙な自意識みたいなもんが、あるんだよ」

 烏有の手を拭き終えた蕪雑は、杯もきれいにぬぐうと、烏有に返した。烏有が杯を受け取ると、酒を注ぐ。

「理屈とか、損得勘定とか、そんなん関係なしによぉ。……なんつったらいいのか、わかんねぇんだけど」

 困ったように眉を下げ、蕪雑は笑った。

「烏有は、ケンカしたことがないんだってな。袁燕から聞いた」

「……」

「だから、わからねぇんだろう、なんて言うつもりはねぇけど、そう言っているように聞こえるかもしれねぇ。気を悪くしないでくれよ」

 烏有は身じろぎもせず、蕪雑の表情のわずかな変化も見逃さぬよう、集中した。

「なんつうのかなぁ。言葉じゃ通じねぇ部分が、あるんだよ。そういう、言葉にできねぇ部分のモヤモヤをどうにかしたくて、寧叡は威張り散らしていたんじゃねぇのかなって、思ったんだ。バカだと言われるだろうけどさ、アイツは自分の部下がいるわけだ。自分が失脚すりゃあ、そいつらの食い扶持がなくなっちまう。それもあって、アイツなりにあがいた結果が、上に媚びて下に偉ぶるってぇ形になっちまったんじゃねぇかな。……烏有の説明を聞きながら、アイツと玄晶のやりとりを見ていたら、そう思えてきちまったんだよ」

「それで、寧叡を助けようと思って、決闘を申し込んだと言いたいのか」

 蕪雑が笑みを深めて肯定を示す。烏有は不機嫌に酒をあおった。苛立ちのまま、杯を叩きつけるように卓に置く。

「理解ができないな」

 ヘラッと軽薄な笑みを浮かべた蕪雑が、隣に座れと仕草で示す。烏有は怒りを眉のあたりに漂わせたまま、深呼吸をして座りなおした。

「ほら」

 蕪雑は卓の杯を烏有の手に戻した。烏有は渋々と受け取る。それに酒を注ぎながら、蕪雑は「悪ぃな」と、まったく悪びれた様子もなく言った。

「うまく説明できねぇんだけどよ。そういう、なんつうか、思いっきり殴り合いをして、自分の中にあるモンをそっくりぶつけねぇと、肝のあたりがスッキリしねぇんだよ。だからよぉ、そういうモンなんだなってことで、納得しちゃあくんねぇか」

 烏有は深く重いため息をいた。

「玄晶に、僕を説得するようにとでも言われたのかい」

「えっ……、いやぁ、そのぉ」

 蕪雑の目が泳ぐ。

「ずいぶんと饒舌じょうぜつだと思ったら、そういうことだったんだね」

「いやっ、あれだ。その、俺も烏有が怒ってんなぁって思ったから、どうすりゃいいかって玄晶に聞いたんだよ」

「玄晶は、蕪雑の思惑が理解できたということか」

 思うよりも険しい自分の声に、烏有自身が驚く。

「理解できたっつうか、グダグダと遠まわしに条件を持ちかけるより、わかりやすいし早く解決ができるっつってたな。寧叡の体面も保てるし、その部下の連中も目の前で決闘されて、白黒つけられりゃあ、スッキリとするだろ。見ているほうも、そういう決まりで決闘するんなら、受け入れやすいだろうしな」

 ふ、と烏有は自嘲めいたものを唇に乗せた。

「烏有?」

「蕪雑の言うとおりだよ。玄晶は寧叡を受け入れるつもりでいた。僕がどれほど反対をしても、玄晶は理路整然と彼を受け入れる利得を述べて、僕を説得していただろうね。けれど、蕪雑が決闘を申し込み、相手がそれを受け入れたことで、その手間が省けた。玄晶は僕を説得する手間と労力を省ける。そして明江の民も、蕪雑が決闘を申し込んだと言われれば、納得をするだろう」

「烏有」

「玄晶のほうが、僕よりも上手うわてだった。蕪雑の洞察力は、とても優れている。そういうことだろう。だから、決闘のことも、寧叡を受け入れるという提案も、納得をしろと言いたいんだね」

「烏有」

「わかったよ。玄晶には、そう伝えておいてくれ」

「なあ、おい」

「さあ。もう用は済んだだろう。寝ようとしていたところに、酒を飲んでしまったから、とても眠たいんだ。悪いけど、帰ってくれないか」

「烏有」

「そっちも疲れているだろう。部屋に戻って、休んだほうがいい」

「烏有ッ!」

 ビクリと烏有はこわばった。

「なんだよ。どうしたんだよ、烏有」

 蕪雑の手が、烏有の肩に乗る。

「蕪雑の手は、大きいな」

「へ?」

「僕の手なんかとは、比べ物にならないくらいに、大きいし力強い」

 どうして烏有がそんなことを言い出したのか、蕪雑にはわからなかった。

「そりゃあ、ナリからして違うんだから、当然だろうよ。俺ぁ烏有みてぇに、器用に指を動かして、笛を鳴らすなんざあ、できねぇぜ」

「玄晶は頭脳と経験で最良の選択を導き出せる。明江がこんなに早く、形を成していくのは、玄晶の交渉術や立場があってこそだ」

「どうしたんだよ。なあ、烏有」

「僕は……」

 烏有は首を振った。そこから先の言葉を飲み込み、笑顔を作る。

「さあ、蕪雑。決闘のために、体の準備がいるだろう? 休養が必要なのか、体を慣らすのかは、わからないけど」

「烏有、あのよ」

「寧叡は警兵官だったんだろう。あの体躯からして、相当に強いんじゃないのかい。そんな相手と戦うんだ。今夜はしっかりと体を休めて、準備をしたほうがいい。決闘の方法は決まっていないんだから、そのあたりの打合せも必要だろう」

「なあ、烏有」

「出ていってくれ!」

 荒らげた声に自身で驚きながら、烏有は唇を噛んだ。かける言葉を見つけられぬ蕪雑が、痛々しげに顔をゆがめる。

「……すまない。疲れているんだ」

「わかった。悪かったな。おやすみ、烏有」

「ああ。おやすみ、蕪雑」

 扉が閉まり、烏有は体の力を抜いた。

「僕は……」

 両手で顔を被う。

「…………明江はもう、僕の手を離れた。蕪雑と玄晶がいれば、間違いなく夢に見た国になるだろうね」

 自分に向けて、烏有は語る。

「僕はもう」

 顔を被っていた手を離し、手のひらを見つめる。楽士として生きてきた年月が、そこに映し出された。自分が流浪している間に、玄晶は官僚としての知識や処世術などを身につけてきたのだなと、烏有は物憂げな笑みを浮かべる。

「ここにいなくとも、いいんじゃないかな」

 蕪雑に向けて放ちかけた言葉を、音にした。するとそれは、ストンと胸の奥におとなしく収まった。

「僕ができることはもう、終わったんだね。きっと」

 夢は託した。蕪雑という男に。そして、彼を理解し支えつつ、この明江を立派なものへと成長させる技量を有しているのは、自分ではなく玄晶だと、思い知らされた。

「ああ――」

 烏有はろうそくの火を吹き消して、横になった。床に零した酒の香りと、寝台に移った蕪雑の温もりが感じられる。

「僕はこれから……」

 どうすればいいのだろう。

 体から、何かがゴッソリと抜け落ちた感覚がする。

 烏有は目を閉じ、空っぽの夢の中へと落下した。

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