4
そろそろ眠ろうかと書面を閉じた烏有が、ろうそくを拭き消そうと顔を近づけると、扉が叩かれた。
「はい」
「俺だ」
蕪雑の声に、いぶかりながら扉を開けると、ぎこちない笑みが現れた。
「ちっと、かまわねぇか」
烏有は無言で蕪雑を通した。彼の手には、革の水筒と干し肉がぶらさがっている。蕪雑は目顔で寝台に座っていいかと問い、烏有は無言で許可をした。
「ちっと、話があってよ」
「そうでなければ、こんな夜更けに訊ねてはこないだろうね」
機嫌の悪い烏有の声に、蕪雑は苦笑する。
「邪魔しちまったか」
「かまわないよ。僕も、聞きたいことがあったから」
「そっか」
蕪雑は懐から杯を取り出し、水筒をかたむけた。濁った酒が、甘い香りを放つ。ほらと杯を差し出され、烏有は受け取りながら蕪雑の隣に落ち着いた。
「昼間は、悪かったな」
「それを言いにきたのかい」
「うーん。まあ、そうっちゃあ、そうなんだけどよぉ。なんつうか、心配かけちまったなと思ってさ」
「心配なんて、していないさ」
「心配だから、あんなに不機嫌だったんだって、玄晶が言っていたぜ」
烏有は酒を一気にあおった。果実の香りが鼻孔に抜ける。
「勘違いだよ。僕は寧叡という人間が、明江にふさわしいとは思えない。だから、それを受け入れようとする態度に、不満があった。それだけだよ」
「あった、ってこたぁ、今はそうじゃねぇってことか」
烏有は無言で杯を差し出した。蕪雑はやさしい目をして、酒を注ぐ。注がれたものを、今度はゆっくりと味わい、烏有は胸のつかえを吐き出すように、細く長く息を吐いた。
「あれから、寧叡の部下たちの様子を見たよ」
「へえ?」
「……ほっとしたようにも、不安そうにも見えた」
「ひとりひとりが、違う顔をしていたってぇことか」
烏有は首を振り、杯に残る酒を見ながら口を開く。
「ひとりが、ふたつの顔を持っていたんだよ」
「なるほどなぁ。まあ、でも仕方ねぇんじゃねぇか。負けりゃあ、こっちに住める。勝ちゃあ、やっかいごとを抱えて戻らなきゃなんねぇってんだからよ」
言いたいことはそうじゃない、と烏有はまた、首を振った。
「どうしたんだよ」
「声を、かけられたんだ」
「誰に」
「寧叡の部下さ」
「へえ?」
蕪雑が干し肉をかじる。それを横目で見た烏有は、杯をかたむけた。
「必ず蕪雑が勝つような決闘の方法をたのむと、言われたよ」
「ふうん。頭目の負けを望んだのかぁ。――で? それを薄情だとでも思ったのか」
「その逆さ」
烏有は蕪雑に手を伸ばし、干し肉をひとかけ奪った。
「寧叡のために、蕪雑に勝ってほしいと言われたよ」
やつあたりのように干し肉を噛みちぎった烏有は、眉間にシワを寄せて、かぶりをふった。
「そうでもしなければ、寧叡の居場所は、どこにもないままだと」
「それで? 烏有はなんて答えたんだよ」
「何も。勝負は時の運だから、とだけ」
「ははぁ。まあ、そう答えるしかねぇわなぁ」
蕪雑が楽しげに干し肉を差し出す。烏有は不機嫌に、もぎとるように受け取った。
「蕪雑の選択は、正しかったんだと思ったよ」
「正しいってなぁ、なんだよ」
「彼等のために、決闘を申し込んだことさ」
蕪雑が烏有の杯に酒を注ぎ足す。烏有はうつむき、杯をゆらした。
「俺ぁ、正しいとかそんな考えで、決闘を申し込んだわけじゃねぇよ。それに、俺が言い出さなくっても、玄晶はアイツ等をまるっと明江の警兵官にするよう、話を持っていっただろうぜ」
「けれどきっと、それは彼等にとって、スッキリとしたものにはならなかっただろうね」
烏有はぽつりと、杯に言葉を落とした。蕪雑は無言で干し肉を噛み潰している。
杯の中の酒に体温が移るほど長く、烏有は黙考した。
ややあって。
「目算はあるのかい」
「ん?」
「勝てる見込みは、あるのかい」
蕪雑は天上を見て、しばらくうなった。
「わかんねぇなぁ」
「わからない?」
「勝負は時の運って、答えたんだろ。寧叡の部下にさ」
「……」
「だから、昼間は悪かったなって言ったんだよ」
「っ! 負けるかもしれないから、という意味の謝罪だったのかい」
立ち上がった烏有の杯から酒がこぼれる。もったいねぇと濡れた床を見る蕪雑を、烏有は真正面から見下ろした。
「心配をかけたと言ったよね。そのための謝罪なのかと思っていたよ」
「それもあるさ」
蕪雑はふところから手巾を取り出し、烏有の杯を握る手に当てた。
「なあ、烏有」
烏有はおとなしく杯から指を離し、蕪雑に手を拭かれた。
「腕っ節にたよってた男ってぇのは、妙な自意識みたいなもんが、あるんだよ」
烏有の手を拭き終えた蕪雑は、杯もきれいに
「理屈とか、損得勘定とか、そんなん関係なしによぉ。……なんつったらいいのか、わかんねぇんだけど」
困ったように眉を下げ、蕪雑は笑った。
「烏有は、ケンカしたことがないんだってな。袁燕から聞いた」
「……」
「だから、わからねぇんだろう、なんて言うつもりはねぇけど、そう言っているように聞こえるかもしれねぇ。気を悪くしないでくれよ」
烏有は身じろぎもせず、蕪雑の表情のわずかな変化も見逃さぬよう、集中した。
「なんつうのかなぁ。言葉じゃ通じねぇ部分が、あるんだよ。そういう、言葉にできねぇ部分のモヤモヤをどうにかしたくて、寧叡は威張り散らしていたんじゃねぇのかなって、思ったんだ。バカだと言われるだろうけどさ、アイツは自分の部下がいるわけだ。自分が失脚すりゃあ、そいつらの食い扶持がなくなっちまう。それもあって、アイツなりにあがいた結果が、上に媚びて下に偉ぶるってぇ形になっちまったんじゃねぇかな。……烏有の説明を聞きながら、アイツと玄晶のやりとりを見ていたら、そう思えてきちまったんだよ」
「それで、寧叡を助けようと思って、決闘を申し込んだと言いたいのか」
蕪雑が笑みを深めて肯定を示す。烏有は不機嫌に酒をあおった。苛立ちのまま、杯を叩きつけるように卓に置く。
「理解ができないな」
ヘラッと軽薄な笑みを浮かべた蕪雑が、隣に座れと仕草で示す。烏有は怒りを眉のあたりに漂わせたまま、深呼吸をして座りなおした。
「ほら」
蕪雑は卓の杯を烏有の手に戻した。烏有は渋々と受け取る。それに酒を注ぎながら、蕪雑は「悪ぃな」と、まったく悪びれた様子もなく言った。
「うまく説明できねぇんだけどよ。そういう、なんつうか、思いっきり殴り合いをして、自分の中にあるモンをそっくりぶつけねぇと、肝のあたりがスッキリしねぇんだよ。だからよぉ、そういうモンなんだなってことで、納得しちゃあくんねぇか」
烏有は深く重いため息を
「玄晶に、僕を説得するようにとでも言われたのかい」
「えっ……、いやぁ、そのぉ」
蕪雑の目が泳ぐ。
「ずいぶんと
「いやっ、あれだ。その、俺も烏有が怒ってんなぁって思ったから、どうすりゃいいかって玄晶に聞いたんだよ」
「玄晶は、蕪雑の思惑が理解できたということか」
思うよりも険しい自分の声に、烏有自身が驚く。
「理解できたっつうか、グダグダと遠まわしに条件を持ちかけるより、わかりやすいし早く解決ができるっつってたな。寧叡の体面も保てるし、その部下の連中も目の前で決闘されて、白黒つけられりゃあ、スッキリとするだろ。見ているほうも、そういう決まりで決闘するんなら、受け入れやすいだろうしな」
ふ、と烏有は自嘲めいたものを唇に乗せた。
「烏有?」
「蕪雑の言うとおりだよ。玄晶は寧叡を受け入れるつもりでいた。僕がどれほど反対をしても、玄晶は理路整然と彼を受け入れる利得を述べて、僕を説得していただろうね。けれど、蕪雑が決闘を申し込み、相手がそれを受け入れたことで、その手間が省けた。玄晶は僕を説得する手間と労力を省ける。そして明江の民も、蕪雑が決闘を申し込んだと言われれば、納得をするだろう」
「烏有」
「玄晶のほうが、僕よりも
「烏有」
「わかったよ。玄晶には、そう伝えておいてくれ」
「なあ、おい」
「さあ。もう用は済んだだろう。寝ようとしていたところに、酒を飲んでしまったから、とても眠たいんだ。悪いけど、帰ってくれないか」
「烏有」
「そっちも疲れているだろう。部屋に戻って、休んだほうがいい」
「烏有ッ!」
ビクリと烏有はこわばった。
「なんだよ。どうしたんだよ、烏有」
蕪雑の手が、烏有の肩に乗る。
「蕪雑の手は、大きいな」
「へ?」
「僕の手なんかとは、比べ物にならないくらいに、大きいし力強い」
どうして烏有がそんなことを言い出したのか、蕪雑にはわからなかった。
「そりゃあ、ナリからして違うんだから、当然だろうよ。俺ぁ烏有みてぇに、器用に指を動かして、笛を鳴らすなんざあ、できねぇぜ」
「玄晶は頭脳と経験で最良の選択を導き出せる。明江がこんなに早く、形を成していくのは、玄晶の交渉術や立場があってこそだ」
「どうしたんだよ。なあ、烏有」
「僕は……」
烏有は首を振った。そこから先の言葉を飲み込み、笑顔を作る。
「さあ、蕪雑。決闘のために、体の準備がいるだろう? 休養が必要なのか、体を慣らすのかは、わからないけど」
「烏有、あのよ」
「寧叡は警兵官だったんだろう。あの体躯からして、相当に強いんじゃないのかい。そんな相手と戦うんだ。今夜はしっかりと体を休めて、準備をしたほうがいい。決闘の方法は決まっていないんだから、そのあたりの打合せも必要だろう」
「なあ、烏有」
「出ていってくれ!」
荒らげた声に自身で驚きながら、烏有は唇を噛んだ。かける言葉を見つけられぬ蕪雑が、痛々しげに顔をゆがめる。
「……すまない。疲れているんだ」
「わかった。悪かったな。おやすみ、烏有」
「ああ。おやすみ、蕪雑」
扉が閉まり、烏有は体の力を抜いた。
「僕は……」
両手で顔を被う。
「…………明江はもう、僕の手を離れた。蕪雑と玄晶がいれば、間違いなく夢に見た国になるだろうね」
自分に向けて、烏有は語る。
「僕はもう」
顔を被っていた手を離し、手のひらを見つめる。楽士として生きてきた年月が、そこに映し出された。自分が流浪している間に、玄晶は官僚としての知識や処世術などを身につけてきたのだなと、烏有は物憂げな笑みを浮かべる。
「ここにいなくとも、いいんじゃないかな」
蕪雑に向けて放ちかけた言葉を、音にした。するとそれは、ストンと胸の奥におとなしく収まった。
「僕ができることはもう、終わったんだね。きっと」
夢は託した。蕪雑という男に。そして、彼を理解し支えつつ、この明江を立派なものへと成長させる技量を有しているのは、自分ではなく玄晶だと、思い知らされた。
「ああ――」
烏有はろうそくの火を吹き消して、横になった。床に零した酒の香りと、寝台に移った蕪雑の温もりが感じられる。
「僕はこれから……」
どうすればいいのだろう。
体から、何かがゴッソリと抜け落ちた感覚がする。
烏有は目を閉じ、空っぽの夢の中へと落下した。
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