8
星明かりが
烏有はそっと唇をあてて、音を紡いだ。
たなびく音が太く細く形を変えて旋律を編み、夜気に絡む。
しばらくそうしていると、笛の音に砂利の動く音が混じった。唇を横笛から外した烏有は、薄明かりに浮かぶ大柄な男に気づく。
「蕪雑」
「邪魔して悪ぃな」
「いや」
どうして、と目顔で烏有が問えば、蕪雑は軽く革の水筒を持ち上げ、積み上げられた木材へ顎をしゃくった。そちらに行く蕪雑の背に、烏有は続く。腰かければ、蕪雑が杯をふたつ取り出し、片方を烏有に差し出した。
「歩いていくのが見えたからよ」
烏有は無言で酌を受けた。蕪雑は手酌で杯を満たし、なつかしそうな顔をする。
「こうやって、烏有と酒を酌み交わしていたら、国を造ろうって話になったんだよな」
烏有は杯に目を落とした。淡い光りが滲み、揺れている。
「あれから、どんぐらい経ったんだっけ。とんとん拍子に進んじまって、時間の感覚がわかんなくなりそうだぜ。なぁんもなかった広い土地に工夫がわんさとやってきて、船着場ができて、宿ができて。そしたら、どっから聞きつけたのか、行商人が来るようになった。宿の食堂は大賑わいだ。甲柄からくる連中も加われば、食堂に入りきらねぇんじゃねぇか」
酒をあおった蕪雑は、ふたたび杯を手酌で満たした。
「玄晶が明日、交渉に
「……後悔、しているのかい」
「後悔? ははっ。なんでぇ、そりゃあ。悔やむようなこたぁ、どっこにもねぇじゃねぇか。まっとうに暮らしていけるだけじゃねぇ。工夫ン中にゃあ、仕事が終わればここに住みてぇって、言っている奴がいる。行商人だって、商人の区画に住まいを持てるんなら、腰を落ち着けてぇって言っている奴もいたぜ。俺がここの豪族ってことになってっからよぉ、そういう声が集まるんだ。けど、なんでもかんでも、かまわねぇぜとは答えられねぇ。資金源の官僚様と相談しねぇとどうにもならねぇが、優遇はしてもらえるだろうとは答えてる。安請け合いをしすぎて、烏有が困っちゃいけねぇからな。なんせ明江は、烏有の国なんだからよぉ」
「僕の、国?」
「おうよ。烏有がずうっと旅の間、探して探して見つけらんなかった夢の国を、自分の手で出現させようってんだろう? 烏有の国じゃねぇか」
歯をむきだして子どものように笑う蕪雑がまぶしくて、烏有は目を細めた。
「蕪雑のおかげだよ」
「あん?」
「蕪雑に会っていなければ、僕はこんなこと、思いつきもしなかったよ。蕪雑なら……と、思ったんだ。蕪雑が豪族で、僕が領主になれたらきっと、理想の国を造れるはずだって。民のための国を、この世に出現させられるだろうって、ね」
烏有は杯に目を落としたまま、さみしげに、照れを交えた笑みを浮かべた。
「どうした? 元気ねぇな」
「そうかな」
「おう。昼間もなんか、様子がおかしかったしよぉ」
「それを気にして、出てきてくれたのかい」
「んー、まあ。それもあるっちゃあ、あるけどな。なんかいろいろ、詰め込みすぎに見えたしよ。ちかごろは烏有とこうして、ゆったり過ごしてなかったなとも思ってな」
烏有はふわりと笑みを浮かべて、顔を上げた。
「ありがとう、蕪雑」
照れくさそうに、蕪雑が頬を掻く。烏有は酒に口をつけ、空を見上げた。満天の星空に、ほうっと息をふきかける。
「怖いんだ」
「怖い?」
「夢が現実になっていくことが……。追い求めていたものを手にした僕は、どうなってしまうんだろう。それ以前に、明江は理想の国になってくれるんだろうか。申皇からの許可状は、まだ出ていない。村にもなれていないのだから、当然だろうけど。それに――」
烏有は天を仰いだまま、目を閉じた。頬に蕪雑の視線を感じる。
「蕪雑にウソをついている」
烏有の吐いたつぶやきは、空に向かって放り投げられ、夜気にひろがり顔を覆った。しばらく待っても、蕪雑の反応はない。烏有は首をかたむけて目を開けた。蕪雑は静かな笑みを湛えている。そんな彼を見たのは、はじめてだった。
「なんとなく、そんな気はしていたぜ」
「……」
「けど、悪さをするためのウソじゃねぇ。そうだろう?」
「……」
「飲もうぜ、烏有。そんで、言えるときがくりゃあ、教えてくれ。言いたくねぇってんなら、黙っておいたまんまでいい」
「……気に、ならないのかい」
「なるぜ。なるけどよぉ、なんつうか、こう、ここんとこの深い部分に、関わってんじゃねぇのか?」
とん、と蕪雑が自分の胸を叩いた。
「それを見せろって、強引に迫るなんざぁ、できねぇよ」
「蕪雑」
「ほら、飲もうぜ。俺ぁ、烏有の夢に乗っかった。烏有は俺に夢を賭けた。そんでその夢は、俺等だけのモンじゃなく、ここに関わっている連中の夢にもなっちまってる。知らねぇうちに、他人の夢までしょいこんじまったんだ。怖くなったり、不安になったりすんのは、当然だろう。けどよ、根っこの部分さえしっかりしてりゃあ、なんとかなる。嵐がきたって、根っこがしっかりしている木は、どんだけ枝が揺らされても、堪えぬいて、どっしりと立ってんだぜ」
烏有は吸い込まれるように、わずかな曇りも陰りも見えない、希望に満ち溢れた蕪雑の瞳を見つめた。
「長年、追い続けていた夢なんだろう。だったら烏有のここんとこに、どっしりと根を張っているはずだ」
蕪雑は大きな拳を、烏有の胸に軽く当てた。
「ひとりじゃねぇ。俺も剛袁も袁燕も、玄晶だっている。ここで働いている奴等も、山の連中も、甲柄にいる奴等だって、自分の住処を作っているって気持ちで、やってんだ。そいつらが全部、理想の国ってやつを目指して、がんばってんだ。烏有の夢は、皆の夢になっちまってんだよ。そいつらを裏切るウソじゃあ、ねぇんだろ。夢を見せるために必要な、ウソなんだろ」
烏有はためらいつつも、うなずいた。蕪雑の腕が、烏有の肩に回る。
「どんなウソかは知んねぇが、俺ぁ信じているからよ。根っこの部分でウソつかれてねぇんなら、なんとも思わねぇから。だから、心配すんな」
「……ありがとう、蕪雑」
烏有の声は湿り気を帯びていた。それを吹き飛ばすように、蕪雑は明るく杯を持ち上げる。
「飲もうぜ。はじめて会った夜みてぇによ。聞かせてくれよ、もっかいさぁ。烏有の、国造りの夢をよぉ。そんでまた、あの夜みてぇに誓おうぜ。――なあ、相棒」
「ああ」
蕪雑が差し出した杯に、軽く杯を合わせた烏有の目じりには、星がひとつぶ輝いていた。
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