5
手を伸ばせばいくらでも
「眠れないんですか」
顔を向ければ、剛袁が立っていた。烏有は無言で体を横にずらす。剛袁は烏有の隣に座り、おなじ言葉を問いではなく断定として発した。
「眠れないのですね」
烏有はしらじらと星明かりに浮かぶ、端麗な顔を剛袁に向けた。
「なにか、用でもあるのかな」
「貴方は何者だろうと、考えていたんですよ。地図なんて、庶民が手にするものじゃない」
「旅をする者にとっては、必須の道具だよ」
「山の中で我等に遭遇した貴方は、落ち着き払っていました。まるで襲われることを、予見していたかのように」
「いつ、いかなることがあっても動じないほど、各地でいろいろな体験をしてきたからね」
「それでも人はああいう場合、すくなからず恐怖を覚えるものです。……貴方は、死を恐れていないのですか」
ふっと烏有の目じりが、やわらかくなった。
「そんな人間が、いるとは思えないな」
「そんなふうに見えたんですよ。あのときの貴方は」
烏有はわずかに首をかたむけ、剛袁の精悍な顔をながめた。
「剛袁は生真面目で、良識のある人なんだね」
「ごまかさないでください」
「ごまかしてなど、いないよ」
「それなら、答えていただきたい。貴方は何者なんですか。どうして蕪雑兄ぃに、あんな提案をしたんです。国を造るだなんて、壮大すぎる計画を持ちかけた理由はなんですか」
烏有はほほえんだ。いまにも崩れ落ちそうなほど、繊細な危うさを有するその笑みに、剛袁は息を呑む。
「剛袁は、反対なのかい」
平坦な烏有の声は、絶えることなく続く川音のようだった。
「……貴方が魔の使いだったとしても、驚きませんよ」
烏有から目を
「僕が、魔の使い?」
「大きな夢を人に見せ、動かし、やがて望みを失う姿を楽しみにするという、魔の使いですよ。恐怖や疑心、挫折を最上の糧としているのなら、突拍子もない提案も、中枢にツテがあるという言葉も、納得ができますからね」
川面に映る星々に向けて、剛袁はつぶやいた。
「現実主義者かと思っていたけれど、そうでもないんだね」
烏有は自分を拒絶する、硬い剛袁の横顔に言った。
「自分でも、妙なことを言っていると思っているんです」
烏有の視線から逃れるように、剛袁は横を向いた。
「蕪雑はどうして、僕を信用してくれたのか、わかるかい」
「あの人は、いつもああですから」
「ああ、とは?」
「真っ直ぐなんですよ。誰でも簡単に受け入れる。だから甲柄では、身に覚えのない罪状や、豪族などの不興を買ったがために、入牢させられた場合は、あの山に逃げるようにと言われているんです」
「それが広まっているのなら、討ち手が山に入りそうなものだけれど」
「そこですよ」
剛袁は体ごと烏有に向きなおった。
「牢に入れれば、罪人の世話をするのにお金がかかる。処刑をするほどの罪でもないし、いつ釈放をすればいいのかもわからない。なんせ、実情のない罪や、豪族の不興が理由ですからね。そんな連中の面倒を、いつまでも見るよりは、出て行かれたほうが、役人たちにとって都合がいいんです」
「だから、放置されている?」
「ええ。蕪雑兄ぃは山賊だと言っていますが、手荒なまねは一切、していませんから。むしろ、そうしようとする者を叱り
「なるほど」
クックッと烏有が喉を鳴らす。
「何を笑っているんです」
「いや。思う以上に好漢すぎて、困っているんだ」
「困る? だましやすすぎて手ごたえがないとでも、考えているんですか」
剛袁の声が尖る。
「そうじゃないよ。……うれしいんだ。そんな人間が治める国は、きっとすばらしいものとなるだろうからね」
よくわからないと、剛袁は表情で示した。
「困っているのに、うれしいんですか」
「剛袁」
烏有は真剣な眼差しで、まっすぐに剛袁と向き合った。
「僕こそ、困惑しているんだよ。このまま蕪雑を信用しきって、すべてをゆだねていいものか、とね」
「どういう意味ですか」
「そのまんまだよ。僕は、僕の持ちうるすべてを、蕪雑に賭けたいと考えている。それだけのものを、はじめて彼と会話したときに感じたんだ。蕪雑が昼間、言っていたろう? 誰かを信用するのに、理由がいるのかと。僕はハッとしたよ。剛袁は、どうだった」
「俺は……。蕪雑兄ぃは、ああいう方ですから」
「慣れている? あるいは、考えたこともない、かな」
「どちらもです」
剛袁は膝に視線を落とした。烏有がなにを言わんとしているのか、わからない。しかし彼が蕪雑をひどく信頼し、心の底から役に立とうとしていることは、伝わってくる。そして蕪雑は、そんな烏有の気持ちを察し、受け止めているからこそ信用をしているのだろう。
剛袁は拳を握った。
「いきなり現れた僕に、蕪雑が好意を寄せていることが、くやしいのかい」
烏有は深い息を吐いた。
「それだけ君は、蕪雑を敬愛しているんだね」
「貴方に、何がわかると言うのです」
烏有はゆるく首を振ると、ひとりごちるように言った。
「急激に生活が変わるというのは、なんともいえない心地になるものさ」
やるせない顔つきの烏有に、剛袁は眉をひそめる。
「そんな経験があるんですね」
「旅をしていれば、いろいろあるよ」
「その、いろいろの中に、蕪雑兄ぃに大それた提案ができるほどの、知識や人脈があると言いたいんですか」
烏有は、かなしげに目を細めた。
「そう受け取ってはもらえないようだね」
「俺は蕪雑兄ぃのように、理由なく相手を信頼できませんから」
「蕪雑は蕪雑なりの理由で、僕を信頼してくれているように感じているんだけれどね」
「その理由は、俺にとっての理由には、なり得ないんです。貴方は何者ですか。どうして府の在り方に詳しいんです」
烏有が唇をためらわせ、瞳を揺らすのを見て、剛袁は肺にたっぷりと息を吸い込み、川に向けて吐き出した。烏有もつられて、川面に視線を投げる。
「俺は、ある豪族の使用人をしていました。そしてそこの娘に、どういうわけか気に入られてしまった。しかし、それを受けるわけにもいきませんからね。気づかぬふりをしていたら、娘が
烏有は剛袁の苦笑に、返答をしなかった。
「結果は、想像できるでしょう。俺は牢に入れられた。そして弟たちの手引きによって、蕪雑兄ぃの元へ身を寄せたんです」
剛袁が口をつぐむと、水音を含んだ夜風がふたりの間を通りぬけた。川の音が沈黙を深くして、夜の闇に横たわっている。
ふたりは無言のまま、流れる水の上で、変わらぬ場所にまたたいている星を見ていた。どちらかが沈黙に耐えかねるのを待っているふうに、身じろぎすらもしない。満天の星が、さわがしいと感じるほどに、ふたりは岩の一部のように沈黙していた。
ややあって。
「僕はもともと、岐に住んでいたんだ」
細い声で烏有が言った。鳥が逃げてしまうのを恐れる者のように、舞い降りた言葉が飛んで消えぬよう、蕪雑は岩と化したまま、耳をそばだてた。
「中枢の方々の宴に出ていたという、証拠もあるよ」
烏有は横笛を取り出して、剛袁に見せた。
「口元の細工を見てごらん。梅と鳥の図があるだろう。それを見せれば、郵亭の2階に上がることができる。……豪族の使用人をしていたのなら、その意味はわかるよね」
剛袁は星明かりに浮かぶ、烏有の示した模様を見た。それは星の明かりを含んで、淡く輝いている。
「
「ああ」
図の意味よりも、細工の妙に剛袁は感心した。こんなものを並の楽士が持てるはずもない。
「ここに来る前、岐に文を書いたんだ。もうそろそろ、相手の手元に届いているだろう。相手がすぐに動いてくれたなら、山に戻ったあたりで、返書が郵亭に届く計算になる。そうでなくとも、返書は必ず来る」
確信を持った声に、剛袁は片目をすがめた。
「それほどの信頼を得ている相手が、いるというのですか。……そんな相手がいるというのに、こんなところで豪族や官僚から見れば底辺と言われる身分の者のため、真剣に行動をしようと? 酔狂としか言いようがありませんよ」
剛袁が岩から降りて、烏有をにらみつける。
「裏があるとしか考えられませんね。そんなことをして、貴方になんの
「中途半端な説明は、かえって疑いを深くしてしまったようだね」
「当然です。貴方がもし、俺の立場だったとして、その説明で納得ができますか?」
「いや」
烏有も岩から降りた。自分より、ひとまわり以上も大きな体躯の剛袁に、挑むような目を向ける。
「僕が君なら、より怪しいと考えるね」
「それなら、きちんと教えてください」
「君が僕に身の上を語ったのは、僕が君を信用していないと考えてのことなのか、相手に問う前に自分が語るべきだと思ったのかは知らないけれど、言われたままを信じるほど、僕は純粋な人間ではないよ」
剛袁が下唇を噛む。烏有はそれに、好意的な視線を向けた。
「君の話は真実だろう。僕はそう感じたよ。そこまで、ひねくれてもいないからね。……ねえ、剛袁。君はどうして、蕪雑を兄と慕っているのかな」
「話を逸らさないでいただきたい」
「逸らしていないよ。答えてくれ、剛袁。君が、どうして蕪雑を兄と呼んでいるのかを」
剛袁は射抜くほどに鋭い目で烏有をにらみつつ、唇を開き、迷わせた。
「俺が、蕪雑兄ぃを支持しているのは……」
言葉を探す剛袁の目を、烏有の視線が絡め取る。わずかな揺らぎすらも読み取ろうとする烏有に、蕪雑は悔しげに顔をゆがめた。
「そういうことだよ。それとおなじものを、僕も感じた。だから蕪雑を信じている。僕の夢を、彼に託したいと思ったんだ」
言葉を選べぬ剛袁に、烏有は艶やかにほほえんだ。夢に酔う烏有の笑みに、剛袁が舌打ちをする。
「その顔が演技だとしたら、相当な腕前ですね。最上の詐欺師になれる」
吐き捨てるように言って背をむけた剛袁に、烏有は「そこまで器用じゃないよ」とつぶやいた。
「貴方自身は信用できませんが、蕪雑兄ぃへの信頼を疑う必要はなさそうです。……貴方の夢が、我等の不利益にならぬよう、俺がしっかりと監視をさせていただきます。いいですね」
「もちろんだ。君のような人が、蕪雑のそばにいると知れて、安心した」
「新参者に言われたくはありませんね」
剛袁が簡易にこしらえた寝床へと戻って行くのを、烏有は見送った。
「新参者だからこそ、できる提案もある。いろいろな地域を旅してきた僕だからこそ、蕪雑という人間に夢を託そうと思えたんだよ」
それは剛袁への言い訳のようにも、ざわめく自分をなだめようとしているようにも聞こえた。
握ったままの横笛を口元に当て、烏有は静かに音を奏でる。それは川音とたわむれるように、風に流され夜気に沈んだ。
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